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9. ワイルドボアのロースステーキ

 エミリアがアークギルドで過ごすことになった日の夕方。

 イネスとエミリアが楽しくカウンターでしゃべっていた時。


「おーい戻ってきたよ!」


 そんな声と共に扉が開いて、満面の笑みのアベルが入ってきた。


「遅かったわね。何か大物でもいたの?」

「ああ、ワイルドボアがいた!」

「確かに珍しいわね」

「隣の空き倉庫に置いたんだけど、エミリアさん、解体をお願いできるかな?」

「はい、大丈夫です」


 エミリアは頷いた。

 ワイルドボアは、猪型のモンスターだ。硬い毛並みと鋭い牙が特徴で、中級の魔石を取ることができる。


「牙はある程度の値段で売ることができるし、ありがたいわ」


 イネスが満面の笑みで言う。


「じゃあ行こうか」


 ♦︎


 隣の空き倉庫に行くと、そこには人の身長ほどもある大きな猪型のモンスターが天井から吊るされていた。

 アベルだけでなく、イネスとゴーギャンもついてきていた。


「血抜きはすでにしてある。牙と皮の解体を頼めるかい?」

「わかりました。やります」


 アベルが満足そうに頷く。


「それにお肉ですね! 楽しみです!」


 エミリアは手を合わせた。

 久しぶりにホーンラビット以外のお肉を食べられる。

 胸が高鳴るのがわかる。


「あれ?」


 あたりを見回す。

 三人とも急に真顔になって黙っていた。


「皆さん、どうしたんですか?」


 エミリアが首を傾げる。


 それを見たイネスがおずおずと口を開く。


「エミリアさん、ホーンラビットもさっき買ってきたばかりだし、食事のストックは大丈夫なのよ」

「そうだよ。あんな獣臭くて硬い肉、冒険者でも緊急時以外は食べないよ……」


 アベルも頷く。


「……無理はよくないぞ」


 ゴーギャンまでもが、可哀想な子を見るような目で見てくる。


 エミリアはぽかんと口を開けた。


「食べ……ない……のですか?」


 イネスたちが次々と頷く。


 エミリアは拳を握りしめた。


 そして、にっこりと笑った。


「では、私だけ楽しみますね」


 エミリアはそう言うと、カバンから刃先が長く、まるで剣のような魔物解体用の包丁を取り出し、ワイルドボアに向き合った。


 久しぶりの本格的な解体だ。


 エプロンをつけ、手袋を装着する。


 いつも故郷でやってきたように、刃先を下ろし、目を閉じて頭を下げる。


「よろしくお願いします」


 小さな声で呟く。


 しばらく頭を下げる。


 静寂。


 顔を上げる。


 解体開始だ。


 まずは皮。体の中心、腹の部分に真っ直ぐに包丁を入れる。


 そしてそのまま下へスッと切り進める。


「すごい。結構硬いのに」

「これにはコツがあるんです。内側から切るようにするとスッと切れるんです。あとは生きている時より皮膚が柔らかくなるので、それもありますね」


 作業しながらアベルに答える。


 内臓などを取り出す。


「これも美味しいのですが、今日は食べきれないので廃棄ですね。うう……もったいない」


 エミリアの呟きに、正気か?という目で見つめるアベルたち。

 エミリアはそんな視線を気にせず、内臓を桶に入れる。


「後で焼却処分をお願いできますか?」

「……わかった」


 ゴーギャンが頷く。


 エミリアは再び肉を見つめた。


 表面の皮をすくいとるように包丁を入れる。そして肉を押さえるように、慎重に剥ぎ取っていく。


 アベルたちはそれを固唾を飲んで見守っていた。


 しばらくして、皮が取れた。


 ワイルドボアは、魔力を帯びて淡い紫色に光る肉の塊になっていた。


「ありがとうね。流石の手際だ」

「ありがとうございます」


 エミリアはにっこり笑った。


 ここから解体だ。


 まずは頭を外す。


 触って、筋繊維の作りを確かめる。


 ここだ。


 首元の一点に包丁を突き立てる。そこから、後頭部と首の境をぐるりと一周させる。


 首元の肉が剥がれ、骨が見える。


 骨に触りながら確かめ、関節の位置を探る。


 そして一気に包丁を突き立てる。


 どしん。床にワイルドボアの頭が落ちた。


「じゃあ後で牙を取るために骨を煮るので、大きな鍋の用意をお願いします」

「わかったわ、必要経費ね。買っておきます」


 イネスが快諾してくれてよかった。

 エミリアはお礼を込めて一礼する。


 一旦頭を置いておき、胴体を見つめた。


「じゃあ、これは冷蔵庫で保存してもらえますか?」

「……ごめんね。このサイズの肉を保存できる冷蔵庫はないのよ」

「そう……ですか。じゃあ、一番美味しい部分だけ食べて廃棄ですかね」


 イネスの返事に、エミリアは肉を見つめた。


 もったいないが、しょうがなかった。


 アベルに手伝ってもらい、ワイルドボアを下ろす。


 エミリアはしばらく考え込み、そして肩のあたりに包丁を突き立てた。


 そして削ぐように肉を切り取り、一本の塊肉を取り出す。


「これはロースと呼んでいる部位です。とっても美味なんですよ」

「……」


 アベルたちが目を見合わせている。


 魔力で紫色の光を帯びている肉は、美味しくない。

 この世界の常識だった。


 エミリアは、ゆっくりと撫でるように肉に触っていく。


 そして深い切れ目をいくつか筋に沿って入れた。


 しばらくそうしていると、だんだんと紫色の輝きが消え、赤黒くなっていった。


 そうなったのを確認して、エミリアはいくつかのブロックに切り分けた。


 断面もきちんと赤黒くなっていて、先ほどまでと別の意味で輝いていた。


「よし」


 腕で汗を拭う。


「じゃあ、食べましょうか?」


 ♦︎


 アベルはイネスと共に、ギルドの机の前に座って待っていた。


「イネス、本当に大丈夫なのか? ワイルドボアの肉が食べれないのは冒険者の常識だぞ?」

「冒険者だけじゃなく、この世界の常識よ。食べたことなんてないわ」


 イネスはため息をついた。


「でも、せっかくなら試したいじゃない?」

「君は本当に好奇心旺盛だなあ……」


 アベルが半分呆れつつ、にっこりと笑う。


「できましたよ〜!」


 厨房の方から、エミリアとゴーギャンが出てきた。


 それぞれの手には、スライスされた大きなステーキが盛り付けられた皿が乗っていた。


「おいしさを味わってもらうため、塩だけのステーキにしています」


 ごとり。


 二人は皿を机に乗っける。


 赤い肉の中に脂が煌めいていて、良い香りが漂ってきている。


 エミリアとゴーギャンが、向かいの席に座る。


「さて、食べましょう。先にどうぞ」


 エミリアに勧められたアベルとイネスは顔を見合わせた。


 どちらが先に動くか迷っていた。


「……美味しい!!! なんだこれは!!」


 声のする方を見ると、ゴーギャンが目を見開いていた。


 ゴーギャンがハッとする。


「……噛めば噛むほど、上質な脂がどんどん溢れてきます。少し獣の香りがしますが、それも含めて美味しい。王都の高級レストランでも食べられないくらいです!」


 アベルとイネスは皿を見た。湯気が漂っている。


「……お二人が食べないなら、私が全部食べますよ?」


 ゴーギャンがチラチラと皿を見ながら、二人に言う。


 エミリアの方を見ると、ニコニコとしていた。


「ええい! 行ってやる!」


 アベルはステーキをフォークで突き刺し、口に運ぶ。

 そのまま、噛み締める。


 ガタン。立ち上がった。

 そしてエミリアの席の前に行く。


「エミリアさん!」

「は、はい」


 アベルはガシッとエミリアの手を握った。


「ずっと僕といてください!」


 ゴーギャンに頭を叩かれた。


「……何を言っているんだ。エミリアさんも困っているだろう」


 エミリアの方を見ると、顔を真っ赤にしていた。


 アベルは慌てて手を離した。


「ご、ごめん。そんな誤解をさせるつもりじゃなくて。本当にずっとこんなものを食べさせてほしいなって思っただけで」


 しどろもどろになるアベル。


 エミリアはますます真っ赤になる。


「何やってるの……」


 イネスは苦笑する。


 そして、目の前の皿を見る。


 ワイルドボアの肉なんて食べられないのはこの世界の常識だ。

 でも。目の前で真っ赤になっているエミリアをチラリと見る。


 イネスはフォークを持ち、ステーキのひとかけらを突き刺し、口に運んだ。


 ——こんなの食べたことない。


 気がつくと、イネスはすでにステーキを飲み込んでいた。


 あれ、消えた?


 もう一切れ口に運ぶ。


 噛めば噛むほど、肉汁が溢れてくる。全くパサついていないし、あの魔物の肉特有のえぐみもない。

 少しコリコリしているが、簡単に噛み切ることができる。


 こんなのどこも提供していない。売れる。


 イネスも立ち上がった。


「エミリアさん!」

「は、はい。なんでしょう?」


 イネスは笑った。


「ずっと私といてください!」


 エミリアが口をぽかんと開けたのが見えた。

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