9
狩猟祭当日。
本来なら簡単な演習のみであるはずのその場に、ルクレツィアは入念な準備で挑んだ。
その傍らには当然のようにゼノが控える。いつも以上に鋭い眼光で警戒するゼノに、ルクレツィアは小さく不満を漏らした。
「……そんなに張り付かなくてもよろしいのではなくて? わたくし、守られるほど弱くはないわよ」
事実、ルクレツィアは強かった。幼少期から完璧であることを強いられた彼女は、勉学・作法・魔法、全てにおいて学園でも上位の成績を収めている。初動の混乱やリアの暴走というトラブルさえなければ、前回の狩猟祭でもあっさりと火竜を討ち取ることができただろう。
しかし、
「存じておりますよ」
ゼノはそう即答しつつも、ルクレツィアのそばから離れることも、周囲への警戒を怠ることもしなかった。
揺るぎないその態度に、ルクレツィアは「自分を信用していないのか」とまだ不満げな表情を浮かべながらも、どこかくすぐったい気持ちを自覚せずにはいられなかった。
——昼を少し過ぎた頃だった。
演習を終え、休憩に入ろうと誰もが油断しかけた時——それは現れた。
赤黒い外皮、見上げるほどの巨躯、灼熱を孕んだ吐息。
火竜である。
耳をつんざくような咆哮と共に、生い茂る森の奥から、火竜が現れた。
場が一瞬で凍りつく。悲鳴が上がった。
生徒たちは一斉に混乱に陥る。弱い魔物から貴族を守るだけの楽な仕事と油断し切っていた騎士団もまた、慌てて隊列を崩した。
「皆、落ち着きなさい! 騎士団は生徒の避難を最優先に、森の外縁へ誘導なさい!」
その中で、ルクレツィアだけが冷静だった。炎のブレスを魔法で弾き返すと、鋭く声を張り上げ、即座に指示を飛ばす。
また、逃げ惑う人々の中、恐怖で立ち尽くすリアに「あなたの能力はなんのためにあるの」と檄を飛ばした。冷ややかな、だがはっきりと信頼の籠もったその口調に、リアもまた奮起する。同時に駆けつけたアルベルトと共に、火竜はあっさりと倒された。
それはいっそ、あっけないほどの幕引きだった。
リアの結界によって足止めされたところに、ルクレツィアの魔法とアルベルトの剣が降る。程なくして、火竜はその場に崩れ落ちた。ルクレツィアの進言に従って鍛錬を積んだのであろう、リアの結界能力は驚くほど安定し、そして絶大な力を誇っていた。
「……まあまあね」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
努力の色が見えるそれに、ルクレツィアは淡々と評した。己にも他人にも厳しい彼女にとって、それは最上の評価だ。リアはぱっと顔を輝かせる。
「……これで、一件落着——ですかね」
無邪気な笑顔で「私、頑張ったんですよ!」と語り始めたリアに半分うんざりした気持ちで耳を傾けていると、隣でゼノが小さくそう囁いた。
傍には沈黙した火竜。学園の生徒にも、騎士団にも被害はない。
たしかに、収集はついたと思っていいだろう。「そうね」ルクレツィアは軽く返事をし、「後処理は騎士団に任せて、わたくしたちも戻りましょう」とリアに声をかけた。
そのときだった。
『…………——ブルヴァアァア゙ア゙ア゙!!!』
咆哮が地を裂いた。
振り返ると、倒れたはずの火竜が最後の力を振り絞るように首をもたげている。
(……!? まだ息があったの!?)
驚き再び杖を構える間もなく、炎のブレスがリアとルクレツィアの元へと吐き出された。
「ッ危ない!」
背後から鋭い声が飛んだ。誰の声か判断する余裕もない。
目の前には。炎。隣には。リア。魔法は。間に合わない。
ルクレツィアは焦った。思考が止まる。体が動かない。そんな彼女の視界を、黒髪が横切った。
「——リア!」
叫びとともに視界に飛び込んできたのは、炎の前に身を投げ出すアルベルトの姿だった。
火竜の攻撃から庇うようにリアを抱きしめ、そのまま地面を転がり炎を避ける。
その一瞬——
腕に抱き抱えたリアの頭越しに、ルクレツィアとアルベルトの目が合った。
燃えるような赤い瞳が立ち尽くすルクレツィアを捉えた瞬間——その瞳が、僅かにゆらめくのをルクレツィアは見た。
まるで、今初めてルクレツィアの存在に気付いたかのような。明らかな狼狽が、その瞳には映っていた。
「——ルクレツィア様!」
ルクレツィアもまた、ゼノによって抱き上げられ、後方へ跳ぶ。
火竜のブレスが誰もいなくなった地面を焼いた。誰も傷つけられなかったことに怒ったのか、火竜はもう一度大きく吠えた。ルクレツィアは今度こそ杖を構える。
「——『光よ』!」
アルベルトの腕の中、リアがもう一度結界を展開した。
動きを止めた火竜に、ルクレツィアは即座に魔法を放つ。
「しつこいわね——死になさい」
氷の刃が巨躯を貫く。
火竜は、一際大きい咆哮を発すると、今度こそ完全に沈黙した。
静寂。
「……ルクレツィア様、大丈夫ですか!?」
やっとゼノの腕から降ろされたルクレツィアに、リアがそう声をかける。地面を滑った時に怪我でもしたのか、アルベルトとリアはまだ座り込んだまま立ち上がれていなかった。「ええ。あなたこそ、怪我は?」と手を貸してやる。
「殿下も、お怪我はありませんか?」
「……ああ」
アルベルトにも声をかけるが、返ってきた声はどこか上の空だった。顔色も悪い。
まさか、どこか怪我を?
そう思うが、目立った外傷は見当たらない。救護班を呼ぶべきか迷っていると、
「……君は、いつだって冷静だな。あの竜が現れた時、私は咄嗟に動けなかった」
アルベルトが、じっと目を伏せたままそう言った。
ルクレツィアに対しての賞賛の言葉であるそれは、だけども彼女に向けられたものというよりは、どこか独り言のような響きだった。
ルクレツィアは一瞬、どう答えたものか迷った。咄嗟に動けたのは、自分に過去の記憶があったからだ。
「……合理的な判断をしたまでですわ」
しばし逡巡したのち、ルクレツィアはそう返した。そんな彼女に、アルベルトは少々自嘲めいて笑う。
「合理的か……私にはきっと、一番足りないものなのだろうな」
——そうしてアルベルトは立ち上がると、
「——すまなかった」
ルクレツィアに深く、深く頭を下げた。
「……? 何がです?」
突然の謝罪に意味がわからず、ルクレツィアは首を傾げる。
しかし、その疑問に答えることはなく、アルベルトはそのまま踵を返した。「騎士団に報告してくる」とだけ告げ、その場を後にする。「あ、待ってよアルくん!」リアも慌ててその後を追った。
「……今の。何に対しての謝罪なの?」
残されたルクレツィアはしばし沈黙し——隣のゼノへ問うた。
ゼノはあからさまに顔を顰め、そして大きなため息をつく。
「おそらくアルベルト殿下は、貴女様ではなくリア嬢を守ったことを気にされているのですよ」
「それは……当然の行動ではなくて? あんな女でも、肩書きは国宝ですもの。わたくしにはあなたがいたし、そもそも守られるほど弱くはないわ」
「そういうことじゃなくて……」
尚理解しないルクレツィアに、ゼノはがしがしと頭を掻いた。
どう言ったものかと頭を抱えるゼノに、ルクレツィアはさらに首を傾げる。
そんな彼女の様子を見て、ゼノはふっと笑った。
「——貴女様は本当に、人の心がわからないお人ですね」
それは、どこかで聞いた言葉だった。
どこか困ったような笑い顔。穏やかな声色すらも、ルクレツィアにその記憶を思い起こさせる。
「俺はいつだってルクレツィア様の味方ですが……それは流石に、貴女様自身で考えるべきことでしょうね」
返す言葉が見つからないでいるルクレツィアに、ゼノは優しくそう言った。
まるで子どもに教え諭すような声色のまま、「俺たちもそろそろ参りましょうか」と手を差し出す。
見慣れた仕草だ。いつもの距離。従者と主人として、何度も繰り返した行為。
それなのにルクレツィアは、その手を取ることになぜか一瞬だけ躊躇した。
月の光が脳裏をよぎる。
手と手が触れる一瞬、胸に大きくざわめきが走ったのに、ルクレツィアは気づかずにはいられなかった。
——その後。
騒動が落ち着いた後、アルベルトは討ち取った火竜をルクレツィアへ贈ると宣言した。
王子から婚約者へ、最上位の魔物の贈与。それはこの上なく象徴的な行為であった。
「……リアではなくて、よろしいの?」
その行為に沸き立つ生徒たちを尻目に、ルクレツィアは静かに問いかけた。
アルベルトはわずかに言葉を詰まらせながらも、「討ち取ったのは、君だろう」と答えた。そして、意を決したように続ける。
「それに……私の婚約者は、君だ」
振り絞るように紡がれたその言葉は、全て当然の事実だった。
狩猟祭の暗黙の風習に倣っても、そうではなかったとしても、戦果として火竜を受け取る権利はルクレツィアにはある。
——そのはずなのに。
胸の奥に靄がかかって晴れない。受け取った戦果を、盛り上がる生徒たちを眺めながら、ルクレツィアは名状し難い感情に襲われた。
「……ルクレツィア様、アルベルト殿下」
揃ってどこか浮かない顔をする二人に声がかかった。
リアであった。
その呼び名に違和感を覚える前に、リアはその愛らしい相貌に小さく微笑みを浮かべ、「おめでとうございます」と口にした。
そしてそれだけ言うと、二人の元から足早に走り去ってしまう。
いつもなら、もっと言葉を重ねてくるはずなのに。用もないのに声をかけて、取るに足らない話を続けるのに。
いつもと違うリアの行動に、ルクレツィアは戸惑う。
彼女が踵を返すその一瞬、その透き通った瞳に涙が浮かんでいたことに、ルクレツィアは気づかずにはいられなかった。
「……これで、本当に一件落着ですね」
リアの背を見送りながら、ゼノが呟く。
「え? ええ……」
ルクレツィアは曖昧に頷いた。
たしかに前回の狩猟祭では、戦果はリアに贈られ、自分とアルベルトは隣り合うどころかリアの処遇について激しく言い合いをしていた。それが今はどうだ。あの時とはまるきり、何もかもが違っている。火竜は自分のものに。アルベルトは自分の隣に。
なのに、靄が晴れない。
去っていくリアの後ろ姿を、アルベルトはただ見つめる。
その横顔から、握りしめた拳から——ルクレツィアは、瞳を逸せないでいた。




