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ある日のことだった。
昼下がり、授業の合間のわずかな時間、ルクレツィアはゼノを従えて学園の中庭を歩いていた。破滅の未来を回避するという目的のため、こうしてゼノと二人で過ごす時間は少なくはない。そんな二人の背後に、不意に弾んだ声が飛んできた。
「ルクレツィア様!」
振り向くまでもなく分かる、明るく弾けるような声。
視界の端で水色の髪が揺れる。リアが手を振りながら、こちらへ駆けて来たのだ。
その様子を一瞥し、ルクレツィアは小さく眉をひそめた。
「……制服姿で走り回るなんて、はしたないわね」
「わわっ、ごめんなさい!」
言われた途端、リアは慌てて足を止めた。勢いを殺しきれず、数歩たたらを踏む。
その様子を横目に、ゼノはすっと一歩引いた。従者として距離を取り、気配を薄くする。
「……で? 何か用かしら?」
「用ってわけではないですけど。お姿を見かけたので、つい、声をかけちゃいました!」
「……」
リアが息を整えるのを待ってそう尋ねると、ルクレツィアには理解し難い回答が返ってきた。頭を抱える。なぜこんなにもこの娘に懐かれたのか、皆目見当がつかなかった。
と、リアはきょろきょろと辺りを見回して、また次の爆弾を落とす。
「あれ? アルくんはいらっしゃらないんですか?」
——ぴしり。空気が固まる。
「……あなた。一国の王子に、その呼び名はなんなの」
思い切り圧を込めた声で、ルクレツィアは言った。
いくら国宝『守護の巫女』とはいえ、いくらアルベルトの寵愛を受けているとはいえ。彼は王族だ。超えてはならない一線というものがある。
「そのような口を許される身分ではないでしょう」
「ええ? でも、私は貴族と同等の身分だって聞きましたよ?」
「であるなら尚更、それに相応しい所作を身につけなさい。高位の貴族で、そのような不敬を働く者がいるとでも?」
ぴたりと言い切るルクレツィアに、リアはむうと頬を膨らませる。
それで諦めるかと思ったところ、
「アルくんはいいって言ったのに……」
その一言に、別の苛立ちが芽を出した。
(……許したのは、殿下なのね)
(またこの平民女を付け上がらせるようなことをして……!)
原因が分かれば、矛先は自然とそちらへ向く。誰か一人を優遇するなど、他の生徒からどんな不平を生み出すことか。
アルベルトがリアを憎からず思っていることは理解するが、それとこれとは話が別だ。やはり一度、きちんと話し合わねば——
ルクレツィアは、軽く額を抑え黙り込んだ。大きくため息をつくその様子を見て、リアは「ふふふっ」と機嫌良さげに笑った。
その吐息の音にルクレツィアは顔を上げ、思わず問いかける。
「……なぜ笑うの。あなた今、わたくしに叱られているのよ?」
「だって、ルクレツィア様は面と向かって言ってくれるから」
あっけらかんとした声だった。
「言ってることも全部正しいから、ちゃんとしなきゃって思えます。それに——私をいじめようとしてる人たちを裏で止めてくれてるの、私、知ってますよ」
その言葉に、ルクレツィアは一瞬だけ目を瞠った。
だって、それは、ゼノがそうすべきと言ったから。
ただそれだけのことだ。ただそれだけのことで、こうも向けられる態度が変わるのか。
(こんな顔……今まで向けられたことがあったかしら)
ルクレツィアは考える。
前回、彼女が自らリアに手を下すようになったのは、もっと後のことだった。
この時期にしていたことといえば、淑女らしからぬ作法の矯正と、巫女としての自覚を促す忠告。それだけだ。口調は多少厳しいものだったかもしれないが——内容は今とほとんど変わらない。
それなのに、目の前の少女の態度はまるで別人のように柔らかい。
(ゼノの言う通りにしただけで……こんなにも違うものなの?)
アルベルトにしろ、クラウディオにしろ、リアにしろ——ルクレツィア自身は特段変わったことをしている自覚はないのに、周りの態度が自然に変わっていく。不思議な感覚だった。
屈託のない笑顔で、リアは続けた。
「それにもう、私たちお友達じゃないですか。お友達とは、お話してるだけで楽しいですよ!」
——それに対しては、「そんなものになった覚えはないけれど?」と、即座に否定したが。
そんなルクレツィアの態度にも、リアはニコニコと笑いながら応じる。
他意のない笑みだ。およそ貴族らしからぬ、含みのない純粋な笑み。
それがなんだか気に食わなくて、ルクレツィアは僅かに顎を上げ、言った。
「……ずいぶん余裕な態度ね。わたくしはあなたにとって、恋のライバルなのではなくて?」
挑発するような声だった。事実、挑発のために発した言葉だった。
リアがアルベルトに想いを寄せていることは、その態度から明白だった。
誰より先に彼の姿を見つけては声をかけ、誰よりもそばにいる。公務に疲れた彼を労り、時には差し入れをし、時には静かにその悩みに耳を傾ける。
絶大な人気を誇る彼女は、性別問わず友人も多いが、そこまでするのはアルベルト相手の時だけだ。それを恋と呼ぶことは、ルクレツィアだって知っていた。
その問いに、リアはきょとんとした。
怒るかと思った。あるいは、「なんてひどいことを」と泣くのかと。
だが、リアはそのどちらもしなかった。ふっと息を漏らすと、「あはは!」と声を上げて笑う。
「な、何よ」
「いえ、ごめんなさい。ルクレツィア様もそういうこと言うんだなって。恋のライバルって、なんだか可愛らしい響きですね」
「なっ……!?」
軽やかに答えられ、ルクレツィアは玉砕した。耐えられず言い返す。
「平民が一国の王子に近づくなんて、身の程知らずもいいところだわ」
「そうですね」
「国王陛下の決めた政略結婚に抗うつもり? ただの横恋慕とは訳が違うのよ」
「その通りだと思います」
突き放すようなルクレツィアの言葉に、リアは拍子抜けするほど素直に肯定した。
「でも——」
リアの笑顔の、色が変わる。
「好きになってしまったんです。アルくんのこと」
言葉と共に、風が吹き抜けた。
透き通った瞳が、真っ直ぐにルクレツィアを射抜く。
「貴族なんてみんな、私たち平民のことを見下していると思っていました。だからこの学園に編入が決まった時、本当に怖かったし、とても緊張したの。実際、私が頑張って話しかけても、無視されたり、変な目で見られることもあった」
「でも、アルくんだけは違いました。最初からずっと、私のことを気にかけてくれていた。突然世界が変わった私に寄り添って、私は私のままでいいって言ってくれた。……うれしかった」
「純粋で、優しくて、今目の前にいる人のことを誰よりも考えてくれる——素敵な人です。好きになってしまいました。この想い、簡単には止められません」
そう言ってリアはまた、花が咲くように笑った。
迷いも躊躇もなく言い切る。
その言葉に、笑顔に、ルクレツィアは言葉を失った。
そして、理解した。なぜ人々が彼女に惹かれるのか。
貴族なら誰しも、大なり小なり胸に隠しているものがある。
それは家督の秘密かもしれない。政治的思惑かもしれない。あるいは、秘めるしかなかった恋かもしれない。
それを押し殺し生きること。それが生まれながらに彼らに課せられた義務であり、役割だ。少なくともルクレツィアはそう教わった。そうやって生きてきた。
彼女はそれを、平然と超えていく。
心のままに笑い、感動し、それを表に出すことを厭わない。
それは、ルクレツィアとは正反対の生き方だった。彼女には決してできない在り方であった。
(……どうして、)
途端、リアの笑顔が眩しいものに思えた。
そして同時に、胸の奥に一つの感情が広がる。
(——『羨ましい』、なんて)
胸の中を支配したその感情に、ルクレツィアは戸惑う。
理解できなかった。自分の心の内が。
心のままに振る舞うなど、貴族として恥ずべき行為だ。淑女としてはしたない行いだ。——そう思うのに。
腹の奥から溢れ出る羨望に、身体中が埋め尽くされていく。
知らず、掌を握り込んだ。誤魔化すように言葉を紡ぐ。
「……だから、あなたは、貴族として未熟だと言っているのよ。殿下の婚約者は……わたくしよ」
だけどそれは、隠しようがなく、弱々しいものだった。
いつも毅然としているルクレツィアからは、想像もつかないほど。
「……知ってますよ」
リアはそれを見て、ふっと笑った。
「でも、私、嫌いじゃないんです。ルクレツィア様のこと」
「は?」
「だってあなたは、私と『同じ』だと思うから」
そうして、またリアは微笑む。
意味ありげなその言葉に、だけどもルクレツィアは理解できず、眉を顰めて返した。
そのとき。
「あ、リア!」
別方向から声が飛んできた。
振り向けば、アルベルトがこちらへ歩いてくる。
「——と、ル、ルクレツィア」
木陰に隠れて、ルクレツィアの姿が見えていなかったのだろう、彼女が顔を出すと、アルベルトは僅かに言葉を詰まらせた。そしてどこか気まずげに視線を行き来させ、「な、何を話していたんだ……?」とまごつく。
その反応にリアは笑い、ルクレツィアは呆れたようにため息をついた。
「……なんでもありませんわ。行くわよ、ゼノ」
本命の登場にその場を離れようと、ルクレツィアは短く言い切り踵を返した。
その言葉にゼノがスッと気配を表す。背後からリアの引き止める声が聞こえたが、振り払うように歩みを進めた。
それでも、説明のつかないもやつきはまだ胸の中に残ったままだった。
それがどうにも気持ち悪くて——ルクレツィアは、数歩進んだところで足が止め、振り返ることなくただ名前を呼んだ。
「——リア」
その声に、リアが驚いて顔を上げる。
「来月の狩猟祭——それまでに、結界魔法をきちんと鍛えておきなさい」
それだけ言い残し、今度こそ歩き出す。
振り返ることのないルクレツィアに対し、リアはそれでも目を輝かせ、「はいっ!」と勢いよく返事をした。




