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「やはりわたくしは、わたくしの考えが間違っているとは思えませんわ」
それは、迷いのない断言だった。
瞬間、アルベルトの表情が僅かに沈む。
燃えるような赤い目を伏せ、短く呟いた。
「……そうか」
それは明らかに、落胆した者の仕草であった。
糸が切れたかのように先ほどまでの怒りを鎮めたアルベルトに、ルクレツィアは構わず続けた。
「ですので——できるだけ不平等にならない形での支援のあり方を、考えてまいりましたの」
その言葉に、アルベルトが顔を上げる。
「……え?」目を丸くする彼によそに、ルクレツィアは自分の考えを述べた。
一つの施設にだけ王族が支援するなど、他の孤児院や孤児以外の困窮者からも不平の声が漏れるであろうこと。かといって全ての困窮者を王族や貴族の私財だけでで支えるのは現実的ではないこと。
また、単に金銭や食料を与えるだけの“支援”では、いずれ底を尽きること。根本的な解決をするのなら、彼らが自ら生きていく術を得るのが重要であること。自分たち為政者がなすべきなのは、そういう形の支援であること——
「そのために、雇用という形を取るのはどうかしら」
「雇用?」
「ええ。孤児院の子どもたちを——そうですわね、たとえば、炊き出しや清掃といった業務に従事させるのです。その対価として、食事や最低限の報酬を与える」
「なるほど。施しではなく、労働の対価としてか」
「炊き出しは孤児院に限らず、スラムや貧民街でも行えばよいでしょう。そうすれば、治安の維持にも繋がります。王族主導であっても、特定の施設だけを優遇しているという印象は薄れるはずですわ」
そこまで話し終えると、ルクレツィアはまた一つ紅茶を口に運んだ。
淡々と述べられる提案。その声音はどこまでも理路整然として、感情の色はほとんどない。だが、その内容はたしかに現実的で、実行も難しくない。
しばしの沈黙が落ちる。
アルベルトは、言葉を失ったようにルクレツィアを見つめていた。
「……なんですの、その表情は」
ぽかんと目を丸くしたまま固まるアルベルトに、ルクレツィアは眉をひそめ問いかけた。
アルベルトはやや呆然としたまま、「いや……意外で」と呟く。
言葉を探すように視線を彷徨わせつつも、アルベルトは素直に続けた。
「意外?」
「君は……その、孤児や平民を見下しているのかと思っていたから。貧しい者が飢えて死のうが、どうでもいいと思っているのかと」
その言葉に、ルクレツィアは首を傾げる。一瞬だけ沈黙し、そしていつもの調子で言い放った。
「平民と貴族に確固たる差があるのは事実でしょう。我々は為政者であり、彼らは治めるべき民ですもの」
——その言葉には、やはり感情の一つも乗っていなかった。ルクレツィアは、ただ、当然の事実としてそれを述べた。それだけだ。それだけのことに——アルベルトは、ふっと吹き出した。
「……? 何がおかしいのです」
「いや……」
予想外の反応に、ルクレツィアはわずかに眉を顰める。
それでもアルベルトの笑いは止まらない。くくく、と喉を鳴らし、肩を揺らして笑った。その姿を、ルクレツィアは怪訝な顔で見つめる。
やがてアルベルトは、肩の力を抜き、穏やかな表情で言った。
「——私は、君のことを誤解していたのかもしれないな」
「……」
それは、これまで見たことのない表情だった。どこか柔らかく、そして晴れやかな笑み。
その表情に、ルクレツィアはゼノの言葉を思い出した。アルベルトと対立せずにはいられない自分に対し、彼が言ったのは——
『——考えていることを、そのまま話せばいいんですよ』
『ルクレツィア様は、どうして殿下の言う支援が無意味だと思ったのですか? その理由を教えて差し上げてください』
『貴女様はあの王子様が思うより、ずっと思慮深くて、面白いお人ですよ』
あの、軽薄そうな声音と、どこか確信めいた言い回し。その通りにしただけだ。ただそれだけのこと。それなのに。
目の前の男は、先ほどまでとはまるで違う顔で笑っている。
理解が追いつかないまま、ルクレツィアはただ静かに、その変化を見つめていた。
——それ以降、アルベルトとルクレツィアの関係は目に見えて変わった。
政策の話になれば、やはり意見が食い違うこともある。しかし、言葉を交わせば即座に冷え切り、最後には沈黙だけが残ったかつてとは違い、互い心から拒絶し合うようなことはない。婚約以来ずっと衝突し合っていた彼らにとって、それは初めて訪れた穏やかな時間だった。
そして、その変化に最も戸惑っているのは当のルクレツィアであった。
「……わたくし自身は、前と変わったことをしている自覚はないの。なのにどうして、殿下は以前より打ち解けてくださるのかしら」
公爵邸の自室。ゼノが淹れた紅茶の香りを楽しみながら、ルクレツィアはぽつりと呟いた。
疑問をそのまま言葉にした声音。そこに感情の起伏はほとんどないが、たしかに理解できないものへの引っかかりがあった。
ゼノは向かいに立ったまま、少しだけ目を細める。
「貴女様のお考えが知れて、嬉しいからですよ。アルベルト殿下は、ルクレツィア様の婚約者なのですから」
「なおさらわからないわ。私たちは王命で決められた婚約者よ。お互いの考えを共有する必要なんてないでしょう」
「重要なのは行う施策が正しいかだけよ」納得いかない様子のルクレツィアに、「正しいだけで腹落ちする人間は、思いの外少ないのですよ」と、ゼノは穏やかに答えた。
「逆に、その裏にある感情を知れば相反する意見であっても納得できることはある。人とは、そういうものです。ルクレツィア様が思っているよりも、ずっと感情的な生き物なのですよ」
壁際に侍りながら、淡々とゼノが言う。
それでもまだ腑に落ちないルクレツィアは、小さな口を尖らせたままカップの中へと視線を落とした。
「……貴女は、貴女様自身が思っているよりも、ずっとわかりにくい性格をしている。その瞳の奥で何を考えているのか——殿下は、ずっと知りたかったのでしょう」
そしてその言葉に、もう一度顔を上げる。鈍色が彼女を捉えた。
自分をまっすぐに射抜いてくる瞳に、ルクレツィアは何も答えられなかった。
逸らされることのない視線。真正面から向けられたその言葉に、胸の奥がわずかにざわつく。
ルクレツィアは無意識に視線を逸らした。
「……感情、ね。やはりわからないわ。それを殺して民のために生きるのが、貴族の義務でしょうに」
それはルクレツィアの本音であり、だが、半分は胸のざわめきをかき消すためにわざと紡いだ言葉だった。
ゼノはわずかに口元を緩め、軽い調子で返す。
「おや。『怒り』という感情に振り回されて、処刑までされたのはどなたでしたっけ?」
クスクスと、揶揄うような一言。
それは事実、ルクレツィアを揶揄うために発した言葉だった。「まあ失礼ね」と下から睨み上げ、「誰に口を聞いているのかしら」とそっぽを向かれるのを期待した。
だが、反応はいつまで経っても返ってこない。不思議に思って振り向くと、
「……ああ、そうか」
ルクレツィアはぽかんと、いっそあどけないほどの表情を浮かべ——
「——あれが、『怒り』という感情だったのね」
——そう、ぽつりと呟いた。
思い出すのは、煮えたぎるような昏い感情。胸の奥を激しい衝動が支配して、あの女に——リア・アリアに、手を上げずにはいられなかった時のこと。
身の程知らずにも王子に近寄る平民女など、放っておけばよかったのに。
そんな女に心を寄せるアルベルトのことだって、一時の気の迷いだと切り捨てればよかったのに。
どうしても、それができなかった。衝動のまま傷つけた。当時は気が付かなかったけれど——あのとき自分を支配していたものに、名前があるのだとすれば。
ひとり、静かに得心する。
それは後悔でも懺悔でも、まして悲しみでもなかった。そこにあるのは、ただ純粋な理解だけ。
まるで子どものようなルクレツィアの表情に、ゼノはすぐさまその足元に跪いた。
「……申し訳ありません。出過ぎたことを言いました」
深い謝罪だった。
ルクレツィアはこのような軽口で怒るような人間ではない。彼女が重要視するのは己の役割を全うしているかどうかだけだからだ。ゼノの軽薄な態度も、軽口も、全て護衛として有能だからこそ許されている。
だが、アーデ家に仕える身として、ゼノはルクレツィアが父公爵から受けていたほとんど虐待のような教育を知っていた。そしてそのたび、彼女の表情から感情が奪われていったことも。
彼女が他人の、そして誰より自分の感情に、疎い理由を知っていた。言っていい冗談ではなかった。ゼノは後悔した。
しかし、
「? どうして謝るの?」
対するルクレツィアは、あっけなくそう答える。
心の底から不思議そうな声だった。責める気配など欠片もない。その必要性がそもそもわからないとでも言うように。
咎めがないのはゼノにとってはありがたいことだ。が、今はそれがゼノを切ない気持ちにさせた。
「……いえ」
ゼノは一瞬だけ言葉を失い、そして小さく息を吐いた。
顔を上げ、かすかに微笑む。
「貴女は、他人だけでなく——貴女様自身のお心にも、気を配った方がいいのかもしれませんね」
どこか悲しげな笑みに、ルクレツィアは首を傾げる。
自分の、こころ?
そんなものに何の意味があるのか、理解できない。だが——
ゼノがそう言うのは、自分を案じてのことだということはルクレツィアにもわかった。
その事実に、胸の奥がわずかにあたたかくなる。
そのあたたかさに名前をつけようとして、ルクレツィアは小さく首を振った。
「しかし、これで殿下の方は大丈夫そうですね」
「ええ。一度は失敗したけれど、こんなことでいいのなら簡単だわ」
「……簡単、でございますか」
「何よ。何か文句があって?」
ゼノの声色にまた揶揄いが混じるを感じ取り、ルクレツィアはティーカップを置いて小さく睨み上げた。
「いえいえ」
するとゼノは、わずかに目を細め、
「そんな『簡単なこと』で貴女様がご無事なら、俺は、充分嬉しいですよ」
「——……」
そう言って、飲み終わったカップを下げる。
その後ろ姿を目で追いながら、ルクレツィアは自分の胸にじわじわと広がる感情に戸惑った。
(……わたくしが理解できないのは、あなたもよ、ゼノ)
心の中で、そう呟く。
人とは感情的な生き物だと、ゼノは言った。それではあの月の夜、自分を助けに来たゼノは一体どんな感情だったのだろう。あの光の矢から、自分を庇ったあの感情は——
(自分を犠牲にしてまで、誰かを守りたいなんて感情……)
(やっぱり、わたくしには理解できないわ)
ひとりになった自室。大窓から吹き抜ける風を浴びながら、
ルクレツィアは、静かに目を伏せた。
*
アルベルトとの関係が落ち着いたことで、ルクレツィアはゼノの進言に従い、今度は兄クラウディオとも交流を深めるようになった。没交渉だった妹からの突然の接触に最初はどこか訝しんでいたクラウディオも、そこは血縁ゆえの情か、すぐに打ち解けるようになった。
どうやら彼は、幼少期、ルクレツィアに対する虐待を見て見ぬふりしていたことをずっと思い悩んでいたらしい。そのうち年頃になってしまった妹にどう関わっていいかわからず、そのまま疎遠になってしまったと深く謝罪された。
深く頭を垂れるクラウディオの姿に、やはりルクレツィアは首を傾げる。互いに役割に準じて生きていただけのことに、なぜ謝ることがあるのだろうと。
投獄された自分の元に面会にやってきた彼のことを思い出す。あの時クラウディオは、どんな顔をしていただろう。どんな想いで、そこに立っていたのだろう。静かに想いを馳せるルクレツィアを、ゼノはやはり穏やかな表情で見守っていた。
その後もルクレツィアは、アルベルトや兄クラウディオと交流を深める。たまに衝突することはあれど、それは過去のような冷たい関係ではなくなっていた。
そしてついに、この二度目の人生においてもその時がやってきた。
『守護の巫女』リア・アリアが、彼らの通う学園へと編入してきたのだ。




