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破滅の未来を回避するため、まず手を付けるべき相手は明白だった。
ルクレツィアの婚約者——アルベルト・ルディア第一王子殿下である。
婚約破棄という結末を遠ざけるには、彼との信頼関係を築き直す以外に道はない。そして幸いにも、都合のいい機会が巡ってきていた。王子による孤児院視察。その同行者として、ルクレツィアの名も連ねられていたのだ。
婚約してから数年。だが二人の関係はすでに形だけのものに成り下がっていた。
社交の場で顔を合わせれば、形式的な挨拶は交わす。婚約者としての礼も欠かさない。——だが、それだけだ。
互いに歩み寄ることもなく、言葉を重ねることもなく。気づけばまともに会話をした記憶は、いつのものか思い出せない。
「なるほど。では今回は、きちんと信頼関係を修復してくるんですよ」
淡々とした声音でゼノは告げる。
実務的な助言、だがその言葉の裏に、「今度こそ失敗は許されない」という含みがあることくらい、ルクレツィアにも理解できた。
——そして、視察当日。
屋敷へと帰ってきたルクレツィアの機嫌は、露骨に悪かった。
「……うまくいかなかったようですね」
ルクレツィアの自室へ足を踏み入れた瞬間から漂う空気の硬さに、ゼノは小さく息を吐きながら声をかけた。
「ええ。最悪だったわ」
短く言い捨てる声音には、隠そうともしない苛立ちが滲んでいる。
ルクレツィアは不機嫌を隠さないまま続けた。
アルベルトと共に視察に向かった孤児院は、とても荒れた場所だったという。建物は老朽化し、孤児たちは満足な衣食も与えられていない。先の戦争により増えた孤児と孤児院の経営については長年言われ続けている社会問題で、この視察もその一環であった。ここまでは事実。問題はそこからだ。
アルベルトは孤児院の惨状を見て、「自分の私財を投じてでも立て直すべきだ」と言った。さらには「貴族たちに寄付を募るべきだ」と。
そのまま侍従に指示して支援を申し出そうな勢いに、ルクレツィアは思わず反論した。
『王族が感情で一つの施設を優遇するなど、公平性を欠きますわ』
『そもそも、こんな孤児院に支援など、国庫の無駄遣いに他なりません』
「……結果は、ご想像の通りよ。見事に口論になったわ。あちらは『目の前で苦しんでいる者を見捨てるのか』と責め立て、こちらは『国全体を見ずして何が王族か』と返した。話にならないわ」
「……」
つんとそっぽを向いたままそう告げるルクレツィアに、ゼノは思わず頭を押さえた。
つまるところ、失敗である。
静かな沈黙が落ちる室内に、ルクレツィアは気に入らなそうに視線を彷徨わせた。
「……あれでは、議論ですらないわ」
その言葉には、わずかに苛立ちとは別の色が混じっていた。理解されないことへの不満か、それとも——
ゼノはしばし黙し、そして静かに口を開く。
「……なるほど、つまり。順調に関係は悪化したようですね」
淡々としたその一言に、ルクレツィアの眉がぴくりと動いた。
「何よ、わたくしが悪いって言うの!? わたくしは、何一つ間違ったことなんて言っていないわ。だいたい、殿下は民のためと言って甘いところがあるのよ。そのせいで、あの女にも簡単に籠絡されて——」
抑えていたものが堰を切ったように、ルクレツィアの口から言葉が溢れ出す。吐き捨てる声音には、明確な怒りと、どこか冷たい悲痛が滲んでいた。
その心ごと遮るように、軽い声色が差し込まれる。
「お嬢様のそういう、役割に従順なところ、俺は嫌いじゃないですけどねえ」
言葉を遮られたことに、ルクレツィアは不快そうに眉を顰める。
「……何が言いたいの」
「いえ。このままだとまた破滅一直線だな、と思いまして」
ゼノは肩をすくめるようにして、あっさりと言葉を放った。
ルクレツィアの視線が鋭くなる。
「ルクレツィア様の言っていることは、間違ってない。むしろ正しいと俺は思います。ですが、人情ってものを蔑ろにしすぎです」
「人情?」
「ええ。一国の王ですら、感情はあります。ましてや、あの王子様は情に厚いことで有名でしょう?」
「貴族たるもの、感情に振り回されている時点で二流だわ」
ルクレツィアは即座に言い返した。それは彼女が叩き込まれてきた価値観そのものだった。
「そうでしょうね」それをゼノはあっさりと肯定しつつ、しかし続ける。
「ですが、お嬢様たち貴族が治めるのは——その“感情的な平民たち”ですよ」
ルクレツィアの視線が、僅かに揺れた。
「今、助けてほしいと願っている孤児たちを、今、救おうとするアルベルト殿下の行動だって、あながち間違いじゃないと俺は思うんです」
静かな声音だった。だが、その中には現実を突きつける確かな重みがあった。
ルクレツィアはムッとして、だけど言い返す言葉もなく、何度か口元をまごつかせた。そしてやっと、不貞腐れたように口を開く。
「では、このわたくしに、殿下の言うことには全て唯々諾々と従えというの?」
「まさか」
ゼノは小さく笑う。そしてわずかに身を屈め、ルクレツィアの視線に合わせた。
まるで子に教え諭すような声色が、何を言うのかを大人しく待つ。
「そうじゃなくて——」
「……?」
告げられた言葉に、ルクレツィアは目を細めた。
——ところかわって、王宮、庭園。
その一角に設えられたテーブルで、ルクレツィアとアルベルトは向かい合っていた。目の前には色とりどりの茶菓子と、香り立つ紅茶のカップ。その日は王子妃教育の一環として呼び出され、婚約者同士の親睦を深めるという名目で二人きりの茶の席が設けられたのだ。
王宮の庭園は、季節ごとに表情を変える。その日柔らかな陽光の下で咲き誇っていたのは、色とりどりの薔薇だった。
「この季節は、薔薇が美しいだろう」
先に口を開いたのはアルベルトだった。黒髪を風に揺らしながら、どこか探るような調子で言葉を選んでいる。
それに対してルクレツィアは、
「それが庭師の仕事でしょう」
——と、すげなく返した。
あまりにも素っ気ない答えに、アルベルトの表情が大きく歪む。
「……君は、どうしていつもそうなんだ。丹精込めて仕事をしてくれた庭師への、労いの気持ちもないのか!?」
堪えきれず、声が強まる。がしゃんとテーブルが大きく揺れるのを、ルクレツィアは咎めるように視線を落とした。
アルベルトは止まらない。
「この前の孤児院だってそうだ。困窮した子ども達を前に、あんな言い方があるか、君は……!」
非難の色を隠そうともしないその声音を、気にも留めないような態度でルクレツィアはカップを口に近づけた。
彼女にとって、こんなやり取りは慣れたものだった。初めて出会った時から婚約破棄に至るまで、二人の意見が相容れたことなど一度もなかった。
致命的に相性が悪いのだと、過去に戻った今なら思う。水と油なのだろう、自分と彼は。そして、それでも、婚約者なのだ。いずれこの国を支える、夫婦となるための。
ルクレツィアは静かにカップを置いた。
小さく触れ合う磁器の音が、場の空気を切り替える。
「——その孤児院の件なのですが」
落ち着いた声だった。
アルベルトが言葉を止め、視線を向ける。
その瞳を真っ直ぐに見つめ返し、ルクレツィアは言った。
「やはりわたくしは、わたくしの考えが間違っているとは思えませんわ」




