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「…………——様。——お嬢様」
「ルクレツィアお嬢様!」
声に引き上げられるように、ルクレツィアははっと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた——そして、先ほどまで見つめていたはずの顔。
「……ゼノ」
反射的に手が伸びた。
寝台に横たわるルクレツィアを覗き込むゼノの頬を、両手で挟み込みまじまじと見つめる。「えっ?」その顔は細い手の中でそう小さく声を漏らし、目を丸くした。
灰色の髪。目立ちはしないが整った顔立ち。どこか不機嫌そうに細められた目。
間違いない、ゼノだ。長年自分に、アーデ家に仕えている、護衛兼従者。
最初に出会ったのはいつだったか、公爵令嬢として護衛が必要だと言われ、幼い自分が適当に見繕ってきたことだけは覚えている。それから長く自分に仕え、そして、先ほど衛兵の矢から自分を庇い、冷たい土の上に斃れた——
なのに、
「……生きているわね」
「は?」
素っ頓狂な声が返る。しばらく無言のまま彼を見つめ続けていると、ぱしりと軽く手を払われ、ようやくその頰から手が離れた。
「寝ぼけてるんですか? うなされているようだったから、起こして差し上げたのに」
ゼノは呆れたようにそう言うと、「まあ、寝ぼける元気があるんならいいですけど」と小さく付け足した。およそ従者とは思えない、軽薄な態度だった。だが、そうだ、たしかにこういう人間だった、ゼノという男は。
ルクレツィアは何かに納得したように頷くと、ゆっくりと上体を起こした。長い赤髪が清潔なシーツに触れる。
見慣れた自室、整えられた調度、身に纏った絹の寝衣、大窓から差し込む光。それら全てを見回して、ルクレツィアは瞠目した。
——あの冷たい石の牢では、ない。
「……今日は、何日?」
問いかけると、ゼノは一瞬だけ怪訝そうな顔をした。
「はあ? 急にどうしたんです」
「いいから答えなさい」
「……わかりましたよ。今日は——」
有無を言わせぬ声音に、ゼノは小さく肩をすくめ答えた。告げられた答えに、ルクレツィアは息を呑む。
それは、自分が記憶している日付よりも一年以上前のものだったからだ。
ゼノが助けに来たあの処刑の日より、いや、なんなら、あの腹の立つ平民女と出会うよりもずっと——
——どういうこと?
ルクレツィアは困惑した。
あれは、夢だったのか。夢というには、あまりにも鮮明だった。矢に貫かれた痛みさえ、今も身体に残っている気がするほどに。
冷たい石の独房、夜露に濡れた草の上を駆けた感触。憤りも失望も、最期に目を閉じたあの感覚さえ、実感を持って残っている。
あれが、夢だというの? 本当に……
「……ルクレツィア様?」
怪訝そうな声に、ルクレツィアははっと我に返る。
黙り込んでしまった自分を訝しんだのだろう、はぐらかすようにルクレツィアは言った。
「そういえば、わたくし、どうしてここに?」
「覚えていないのですか? 階段から落ちたんですよ。それで気を失って」
「落ちた……?」
ゼノはあっさりと答えた。曰く、公爵邸の大階段から足を滑らせたところを、近くにいたゼノが支えてくれたらしい。頭は打っていないはずなのに意識が戻らず、こうして自室で休ませていたという。
ルクレツィアは部屋の中を改めて見渡す。水桶など看病の形跡はあるが、侍女の姿はない。定期的に様子は見に来ていたのだろうが——ずっと付き添っていた、というわけではないらしい。それは、自分のこれまでを思えば当然のことだったが。誰も、そこまで自分を気にかけはしない。
けれど。
「……ずっと、見てくれていたの? わたくしのこと」
ぽつりと問いかける。
ゼノは一瞬だけ視線を逸らし、そっけなく答えた。
「それが俺の仕事なんでね」
淡々とした言い方だった。
その物言いがむしろ、ルクレツィアにかつてのゼノの姿を思い出させた。
いや、かつてと言う表現はおかしいか。それはルクレツィアにとって、つい先ほど起こったことだった。そしてこの世界では、まだ起こっていないはずの出来事。
頭の奥がぐらりと揺れる。ルクレツィアはゆっくりと息を吸い、意を決して声を放った。
「……ゼノ」
「はい」
「わたくし、どうやら未来から来たみたいなの」
「……は?」
それは、あまりにも突飛な言葉だった。
ゼノは一瞬、完全に動きを止めた。当然の反応だろう。
だが、ルクレツィアは構わず語り始めた。
リアのこと。婚約破棄のこと。断罪され、投獄されたこと。そして——彼が助けに来て、共に死んだこと。
言葉にするたび、記憶が鮮明によみがえる。冷たい牢、走る足音、血の温もり。目を閉じて、目を開けたら、この寝台に横たわっていたこと。
ゼノは最初、明らかに訝しんでいた。眉を顰め、半信半疑といった様子でルクレツィアの話を聞いた。
だが、話が進むにつれ、その表情は徐々変わっていく。やがてすべてを聞き終えたとき、ゼノはしばらく黙り込んだ後、静かに口を開いた。
「……それでは、そのような未来は回避しなければなりませんね」
あまりにもあっさりとした結論だった。
ルクレツィアは目を瞬かせる。
「信じるの?」
問いかけると、ゼノは迷いなく頷いた。
「貴女様は、こんな冗談を言う御方じゃないでしょう」
まっすぐに見つめられる。
僅かに光を湛えた鈍色の瞳。その視線に、ルクレツィアは一瞬言葉を失った。
——ゼノって、こんな顔をしていたかしら。
場違いにも、そんなことを考える。
こんな瞳でわたくしを見つめるような人だったかしら。こんなはっきりとした物言いをする人だったかしら。
——知らなかった、と思う。
長年そばにいたはずなのに、こんなふうに正面から彼の顔を見たことがあっただろうか。
「要するに、」
ゼノは淡々と続けた。
「その『守護の巫女』とやらに手をかけた上に、王子殿下やご家族の信頼も得られていなかった。だから誰も助けてくれなかった、ということでしょう?」
「……ええ」
「なら話は簡単です。彼らと信頼関係を築けばいい。その巫女さんとやらにも優しくしてやれば、間違っても罪になんて問われないでしょう。協力しますから——同じ道を辿らぬよう、手を打ちましょう」
あまりにも単純で、あまりにも正しい答え。
ルクレツィアはしばし呆然として、言った。
「……協力、してくれるの?」
「そりゃあ。俺は、あなたの従者ですから」
ゼノは肩をすくめて言った。口の端だけ緩めるような、僅かな笑みを浮かべて。
その瞬間。
鮮明に、あの光景がよみがえった。月明かりの下、自分に差し伸べられた手を。
「……どうして、」
気づけば、口にしていた。
「どうしてあなたは、わたくしを助けに来てくれたの?」
ゼノは一瞬だけ、言葉に詰まったように見えた。
だがすぐに、僅かに視線を逸らして答える。
「……さあ。未来の自分の考えなんて、知りませんよ」
「……」
はぐらかすような言い方だった。ルクレツィアは何も言えず、ただ彼を見つめる。
「そうと決まれば、早速行動に移しましょう。起きられますか?」
誤魔化すようにゼノはそう言い、まだ寝台に腰掛けたままのルクレツィアに手を差し伸べた。
ルクレツィアは、少し惑いながらも、静かにその手をとる。
こうして、ルクレツィアとゼノの——破滅の未来を回避するための、二度目の人生が始まったのであった。




