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かくして公爵令嬢ルクレツィア・アーデは、『巫女殺害未遂』の罪を以て断罪され、投獄されることとなった。
ルクレツィアが投じられたのは、大罪人を幽閉するための石造りの塔だった。人目を憚るような森の奥深く、その監獄で、高位の罪人に与えられるはずの最低限の体裁すらない。粗末な囚人服を着せられた己の姿を見下ろし、ルクレツィアは怒りに震えた。
——公爵令嬢たるこのわたくしを、こんな場所に。
怒りは当然のものだった。己の身分を思えば、仮に罪を問われたとしても、ここまでの扱いを受ける理由はない。いずれ父が、あるいは兄が王へ掛け合い、然るべき処遇に改められるはずだと信じていた。
だが、待てど暮らせど、誰も来ない。父も兄も、不本意とはいえ長年婚約していたアルベルトさえも。
重い扉が開くのは、日に数度の見回りの時だけだった。無骨な兵士たちは敬意の欠片も見せず、ただ事務的に食事を置き、そして時折、無造作に告げる。
「処刑日が決まったらしいな」
「もう長くはないぞ」
嘲るでもなく、慰めるでもない。ただの事実として放たれるその言葉が、かえってルクレツィアの神経を逆撫でした。
怒りは日を追うごとに澱のように溜まり、やがて焦燥へと形を変えていく。それでもなお、彼女は信じていた。いずれ誰かが、この状況を正すために現れると。
だがそんな彼女の考えは、あっさりと裏切られた。
「……クラウディオお兄様」
その日。面会があるとの先ぶれの後、通されたのは実の兄クラウディオ・アーデであった。軋む扉の向こうに兄の姿を見て、張り詰めていた胸の奥にわずかな安堵が灯る。
「来てくれたのね。お父様は? まさかわたくしをこのままにしておくはずが——」
「……父上は、来られない」
「え?」
だが、その表情は、彼女の期待とはあまりにもかけ離れていた。
感情を押し殺したような冷え切った目。遮るように告げられた言葉に、ルクレツィアは眉をひそめる。
「アーデ家は、お取り潰しになった」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……は?」
「お前の犯した罪は、それほど重い。父上は責任を取って自害した。借財も残っている。家は、もうない」
淡々とした口調だった。事実を並べるだけの、感情のない声音。
理解が追いつかないまま、ルクレツィアは続く言葉を待つ。
「私は……アルベルト殿下のはからいで、彼の直轄地で働くことになった。だが、もう貴族ではない」
その一言で、すべてが崩れた。
誇りも、家も、未来も。
自分が当然のように持っていたものが、何一つ残っていない。ルクレツィアはようやく絶望を理解した。
やがてクラウディオは短く別れを告げ、塔を去った。
一人になった牢獄の中で、ルクレツィアは悲嘆に暮れた。
——わたくしのしたことは、ここまでの罪だったの?
——減刑の嘆願すらしてもらえないほど、父や兄に嫌われていたの?
疑問に答えてくれる声はない。胸に鈍い痛みが広がる。
——わたくしはただ、教えられた通りに生きてきただけなのに。
感情を捨て、理を重んじ、貴族として正しくあろうとした。そう教えられてきた。そうとだけ生きてきた。それなのに。
それらは全て、間違いだったというのか。
怒りは、いつの間にか消えていた。残っているのはどうしようもない空虚と、胸を締め付けるような痛みだけ。クラウディオが訪れて以来、面会に現れる者もいない。ルクレツィアは全てを諦め、ただ処刑を待つだけの身となっていた。
静寂に包まれた牢の中で、できるのは鉄格子越しに空を見上げることだけ。狭く切り取られた月明かりだけがルクレツィアの頼りだった。
処刑前日になっても、状況は何一つ変わらなかった。
誰も来ない。何も起こらない。その全てを受け入れ、ただ静かに終わりを待っていた、その夜。
「……——様。——お嬢様」
かすかな物音が、静寂を破った。
「ルクレツィアお嬢様! 助けに参りました」
聞き覚えのある声に、はっと顔を上げる。
月明かりの下、鉄格子の隙間から、見慣れた顔がこちらを覗き込んでいた。
灰色の髪。目立ちはしないが整った顔立ち。月光に輝く鈍色の瞳。
長年自分に仕えてきた従者の男だった。
「……ゼノ?」
信じられない思いでその名を呼ぶ。目の前の現実が理解できなかった。
目を丸くするルクレツィアに、ゼノは「ちょっと離れててくださいね」と断り、堅牢な鉄格子を壊してみせる。見上げるだけしかできなかったその小窓から、大きな手が差し出された。
「さあ、手を」
ルクレツィアは戸惑った。自分は大罪人だ。国宝とも言える『守護の巫女』を殺そうとした罪人。それを助けるために忍び込むなど、正気の沙汰ではない。
それでも、差し出された手は迷いなく伸びてくる。ルクレツィアは惑った。理屈より先に、体が動いた。
「こっちです。見張りの少ない抜け道があります」
その腕の導くまま、小窓を抜け塔の外へと降り立った。ゼノは迷いなく進み、ルクレツィアの手を引く。その背中を追いながら、息を切らしてルクレツィアは尋ねた。
「どうして……助けに来たの」
「わたくしはもう、あなたの主ではないのに」
ようやく絞り出した問いに、ゼノは答えない。ただ前だけを見て走り続ける。
その後ろ姿に疑問が頭をもたげる。彼とは長年の主従ではあるが、それ以上でも以下でもない。財も身分も失ったルクレツィアを助け出す利点など、彼にはありはしないのに。
疑念が僅かに胸をよぎった、その時。
「おい! 罪人が脱獄しているぞ!」
鋭い声が夜を裂いた。見張りの衛兵だ。緊張が走る。
「こっちだ、逃すな!」
「死刑囚だ、殺しても構わん!」
声と共に、衛兵隊たちがわらわらと集まってくる。そのうちの一人が光の矢を構えた。振り返る間もなく放たれる。
「——ルクレツィア様っ!」
身構えた瞬間、強く引き寄せられる。温かい何かが背に触れた。
抱きしめられていることに気づいた時には、すでに遅かった。
「……ゼノ?」
鈍い音と共に、矢が彼の背を貫く。「かはっ……!」乾いた呼吸音。崩れかけた体からは血が吐き出されていた。
「ゼノ!」
ルクレツィアは叫んだ。落ちかけた体を支える。それでもなお、ゼノはルクレツィアを離そうとはしない。
「どうして庇ったりしたの! こんなことをしたって、今のわたくしには何の見返りも出せはしないのよ!?」
叫ぶように問いかける。その腕の中で、ゼノはかすかに笑った。
「……貴女様は、本当に……人の心がわからないお人ですね……」
「え?」
かすれた声が、耳元で囁く。
「そんなの、————」
続く言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
力が抜ける。抱きしめていた腕が、するりと滑り落ちた。
「ゼノ……?」
応えはない。
「ゼノ! 起きなさい、ゼノ!」
必死に揺さぶる。だが、その身体はもう動かない。
「おい、まだ生きているぞ!」
背後から再び声が上がる。次の瞬間、放たれた矢がまっすぐにルクレツィアの胸を貫いた。
鈍い衝撃と共に世界が傾ぐ。
倒れた先、冷たい土の上で、すでに光を失ったゼノの目と目が合った。鈍色の、美しい瞳だった。
——どうして。
その瞳を見つめながら、まだ温かいその体に折り重なる。
視界が滲み、音が遠ざかる。もはや思考すら虚だった。
——どうして、あなたは……
暗く閉じていく世界。
最期に思い浮かんだのは、そんな小さな問いかけだった。




