13
「————ゼノ!」
砕け散った鉄格子の向こうへ、ルクレツィアは迷いなく手を伸ばした。差し出された手を掴む。その瞬間、全身を満たしていた空虚が一気に埋まっていく心地がした。
ゼノはルクレツィアの手を引き、そのまま迷いなく牢塔の外へ降り立つ。白い月がふたりを照らした。まるであの夜の再演だった。
「こっちです。見張りの少ない抜け道があります」
ゼノは振り返らず、暗い夜道を迷いなく進んだ。
息を切らしながらその背を追っていたルクレツィアへ、やがて苦しげな声が投げかけられる。
「……どうして、こんなことをしたんですか。せっかく殿下とも、リア嬢とも上手くやっていたのに。このままなら貴女は、王子妃として何不自由ない未来を歩めたでしょう。なのにどうして、自分から全部壊すような真似を——」
そこには、押し殺しきれない感情が滲んでいた。ゼノは、ルクレツィアが処刑される未来を回避するため尽力していた。納得しきれない思いがあるのだろう。
ルクレツィアは静かに目を細めた。
「……そうね。リアを害したりしなければ、わたくしは今頃殿下と婚姻を結び、いずれ国母となっていたのでしょうね。それが幼い頃から定められた運命で、果たすべき義務だと……そう信じていたわ」
「だったら、どうして——」
ゼノは、理解できないとでも言うように問いを重ねた。その声には、純粋な困惑が滲んでいた。
だからルクレツィアは、はっきりと言い放った。
「——でも、そこにはあなたがいないじゃない」
ゼノの足が止まった。
「……え?」ようやく振り返ったその顔を見て、ルクレツィアは小さく笑う。
場違いにも、きょとんと丸くなった鈍色が可愛らしいと思った。
「こうでもしなければ、あなたはきっと、もう二度とわたくしに逢いに来なかったでしょう? ねえ、どうしてだなんて、そんなの——」
呆然としたままのゼノに、ルクレツィアは微笑んで続けた。月光が金の瞳の中で揺れる。
「そんなの——あなたが好きだからよ」
息を呑んだ。
「な、にを……」告げられた言葉が理解できず、ゼノは喉を鳴らす。
ゼノのその表情に、冷たい土の感触に、ルクレツィアは一つの記憶を思い出していた。
月を背に現れた救済者。抱きしめられた腕の温もり。血を吐きながらも自分を離さなかったその力も。そして——
「……ずっとわからなかった。知りたかった。誰かを愛するという気持ちだけで、どうして命を投げ出せるのか。どうして道理にかなわぬことをしてしまうのか。そしてわかったわ。わたくしは、たとえ今ここで死ぬとしても——ゼノ、あなたにもう一度、出逢いたかったの」
そう言って目を細めるルクレツィアに、ゼノは僅かに頰を引き攣らせた。「まさか、俺は——」愕然とするゼノに、ルクレツィアはひとつ小さく頷く。
思い出す。
一度目の人生、その最期。彼女を助けに現れたゼノは、衛兵からルクレツィアを庇い、死んだ。
『どうして庇ったりしたの』叫ぶルクレツィアに、ゼノは血を吐きながらも答えたのだ。『貴女様は本当に、人の心がわからないお人ですね』と。そして——
『そんなの——貴女のことが、好きだからですよ』
思いもよらない言葉に、ルクレツィアは思わず聞き返した。
『……え?』
『好きです……ルクレツィア、さま。貴女が、初めて……俺を、見つけてくれた時から……。たとえ、今ここで死んでも……貴女を、護れるの、な、ら——……』
——続く言葉は、最後まで紡がれることはなかった。力が抜ける。抱きしめていた腕が、するりと滑り落ちた。
それきり事切れたゼノの名を呼びながら、ルクレツィアは不思議で仕方なかった。
どうして、自分などが好きだと言うのか。どうして、好きという気持ちだけで自分の命をかけられるのか。
そんな疑問に苛まれたまま、ルクレツィアもまた矢に斃れた。
そして目が覚めて——目の前に、ゼノがいた。
ルクレツィアはこの二度目の人生、ただ、その疑問の答えが知りたくて生きてきた。
アルベルトも、リアも、破滅に向かう自分の未来も。そんなもの全て、どうでもよかった。
知りたかったのは、ただ、目の前のこの男。
ゼノが自分に向ける、その気持ちの正体だけだった。
没落する未来を知れば、アーデ家ごと見捨てることだってできたはずなのに。
自分まで死ぬ運命だと知れば、ルクレツィアから離れる判断だってできたはずなのに。
それでもゼノは、ずっと自分の隣にいてくれた。そして今も、命を懸けてここにいる。
その事実に歓喜するこの感情を、この月光の下、もう一度この男と出逢えた感動を。
恋でなければなんと呼ぶの。
「あなたが好きよ、ゼノ。だから——」
驚愕に固まるゼノの両頬を、ルクレツィアは自分の両手で包み込む。
僅かに震えるその視線に、ああ、生きている、とルクレツィアは思った。
「——わたくしと一緒に、死になさい」
ゼノの喉が小さく震えた。月に照らされた肌がどこか熱を持っているように見えた。そんなことがたまらなく嬉しかった。
誰かとともに生きるなら、この男の腕の中がいい。
この男の命が尽きるなら——自分の腕の中がいい。
それだけが、ルクレツィアの望んだ未来だ。
「——おい! 罪人が脱獄しているぞ!」
その時だった。二人の背後に、鋭い怒声が投げられた。
衛兵だった。一度目と同様に、二人は見張りの衛兵に見つかったのだ。
「こっちだ、逃すな!」
「死刑囚だ、殺しても構わん!」
声と共に、そのうちの一人が光の矢を構えた。振り返る間もなく放たれる。
「——ルクレツィア様っ!」
身構えた瞬間、強く引き寄せられる。温かい何かが背に触れた。抱きしめられていることに気づいた瞬間、ルクレツィアは自分の心が震えるのを感じた。
ああ、これだ。これが欲しかった。
何を差し置いても、ここで命尽きても——この腕の中に、還ってきたかった。
父も恋に生きた人だというのなら、きっとわかってくれるだろう。クラウディオには迷惑をかけるが、真面目な男だ、またアルベルトが取り計らってくれる。アルベルトもリアも、最初は悲しむだろうが、互いがそばにいるなら大丈夫だ。ただ隣にいるだけで大丈夫だと思える存在があることを、ルクレツィアはすでに知っていた。
後悔なんてないわ。これがわたくしの選んだ道。
『好きになってしまいました。この想い、簡単には止められません』
いつかそう言った誰かの笑顔が思い出される。
ええそうね、リア。好きになってしまったんだもの。簡単には止められないわ。
衛兵が光の矢を放つ。自分を抱き込む胸にぎゅうとしがみついた。草の香り。次に来るであろう衝撃を、胸を貫く死を覚悟し、
——ルクレツィアは静かに、瞼を閉ざした。
「——『光よ』!」
瞬間。
声が響いた。いつまでも降らない矢、代わりに空気を震わせた衝撃に、ルクレツィアは目を開ける。
そこに立っていたのは、
「——ルクレツィア様、ご無事ですか!?」
「……リア!?」
ゼノとルクレツィア、ふたりを矢から守るように展開された結界と、リアの姿だった。
思わず目を見開く。呼ばれた名前に、結界に砕かれた矢に、衛兵が狼狽した声を上げる。
「み、巫女様!? なぜ——うぐっ!」
が、鈍い音と共に身体が崩れ落ちる。その背後から、今度は杖を構えたクラウディオが現れた。
「お兄様!? あなたまで何を……!」
「安心しろ、一時的に昏倒させただけだ。それより、早くここを出るぞ」
クラウディオは苦々しい顔で周囲を見回しながらそう促す。
それでもルクレツィアはすぐには動けなかった。座り込んだまま反論する。
「な……にを言っているの。ここには看守も衛兵もいるのよ? そんな簡単に逃げられるわけ——」
「追手ならもう来ない。アルベルト殿下が手を回してくださっている。今なら、君を逃がせる」
「殿下まで……!?」
クラウディオの説明に、ルクレツィアは言葉を失う。
こんな未来、自分は知らない。あの矢に撃たれ、ゼノとともにここで朽ち果てると思っていたのに——
「こっちです! 見張りのいない道まで案内します!」
と、リアがそう言い駆け出した。
同じように困惑した表情のゼノと目が合う。だが彼はすぐに瞳の色を変え、ルクレツィアの手を引きそのあとを追った。
冷たい土を蹴り、暗い通路を走る。息を切らしながら、ルクレツィアは叫ぶ。
「あなた、わかっているの!? 大罪人を逃がすなんて、発覚すればあなたたちの立場だって危うくなるのよ!」
「わかってますよ、そんなこと」
「それじゃあ、どうして——」
問い詰めるルクレツィアへ、リアはふと足を緩め、振り返った。そして、
「言ったじゃないですか。私、ルクレツィア様のこと、嫌いじゃないんです。だって——
私たち、同じ恋する乙女仲間でしょう?」
——それはまるで、全てを包み込む太陽のような笑顔だった。
満面に笑みを湛えた、どこまでのも屈託ないその表情。ずっと心のどこかで苛立ちを感じていた、その笑顔が今はどうしようもなく輝いて見えた。
「……言っておくが、私は最後まで反対だったからな。こんな強行突破、私たちどころか殿下のお立場まで悪くなる」
今度はクラウディオが不機嫌そうに口を挟む。
そして、見張りのいない裏口を指し示した。
「——だからせめて、誰にも見つからず逃げ切ってくれよ」
「お兄様……」
クラウディオはそれ以上何も言わず、ただ妹の背を押した。
「……ルクレツィア様」
それを見て、ゼノが静かに手を差し出す。
示された裏口の向こうは昏く、どこに続いているのかルクレツィアは知らない。それでも迷うことなく、ルクレツィアはゼノの手を取った。
駆け出す。
鬱蒼と生い茂る森は、月光からすら彼らを隠した。素足に夜露が冷たい。振り返らず駆けていく二人の背に、よく通る声が投げかけられた。
「ルクレツィア様——幸せになってくださいね!」
リアの声だった。ルクレツィアは一度だけ俯き、小さく笑う。
——幸せに、なんて。なんてつまらない願いなのかしら。
振り返る。リアの姿はもう遠く、表情も見えなかった。
ルクレツィアは再び前を向く。視界の先には、自分の手を引いて走る男の背中があった。
幸せなんてもうとっくに、この繋いだ手から全身へ満ち溢れていた。




