第9話 ……料理もできるよ!
翌日の夕方。
学校から帰ってくると、うちのマンションの前に大きなトラックが止まっているのが見えた。
トラックに描かれてるマークは、誰もが知ってる引っ越し会社の物。
「ん? ……そういえば」
昨日、隣の部屋番号の郵便受けが開いていたことを思い出す。
「もしかして、お隣さんかな」
それならこの機会だし、一応簡単に挨拶だけでもしようと思ってちらりと荷物を運んでいる人を覗いた。
「えっ?」
するとそこになぜか――紗夜さんがいた。
「紗夜さん? なんで……?」
「あ。浅海くん!」
俺の顔を認めると、ぱっと表情を安堵の物に変える。
しかしこっちは首を傾げざるをえない。
なんでここに紗夜さんが?
「こんなところでどうしたんですか?」
「えっとぉ、実は……」
おずおずと持っていた鍵を見せてくる。
あれ。鍵の形式がうちと一緒だ……。
部屋番号……うちの、隣?
紗夜さんが誤魔化すように。
「……引っ越してきててぇ」
「ええええ!?」
流石に驚いて叫んでしまった。
すぐさま湧き上がってくる昨日の記憶。
まさか紗夜さんが昨日言っていた内容は本当に?
「ね、ネガティブな小説家……さん?」
「……料理もできるよ!」
いや、そこは重要ではなくて。
料理ができるのは素敵なことだけど、ひとまずいきなり引っ越してきたことの動揺がすごい。本当に? 引っ越しってそんな簡単にするものだっけ?
なんて頭を真っ白にしていたら急に紗夜さんが真顔になって言った。
「あっごめんね嫌だったら退去するけど」
「いやいやいや」
慌てて手を振った。
退去なんてそんな簡単に言う事じゃないです。
引っ越しもそんな簡単にするものではないけど。
「……ど、どうして急に引っ越しなんて?」
問いかけると、紗夜さんは胸を抑えて口を開いた。
「ええと……実はその、住んでた家も姉に特定されちゃってて!」
「ああ……」
昨日、少し懸念していたことでもある。
紗夜さんのお姉さんは妹を探してバイト先に突入してくるような人だ。家ぐらいは見つけ出せるのだろう。
「だから家に来ないうちに引っ越そうと思って。家だと逃げ場も無いから」
「それはずいぶん……思い切りがいいですね」
「うん。不動産の方にもけっこう無理を言って引っ越させてもらったんだ。父親が有名で、ある程度融通が利くから……」
「有名? そうなんですか?」
紗夜さんが申し訳なさそうに言う。父親が有名なんて聞いてないけど。
「……浅海くん、九条エージェンシーって知ってる?」
その会社名は世間知らずの俺でも聞いたことがある。
「えっ……もしかして紗夜さんの苗字って、その九条だったんですか!?」
九条エージェンシー。
色々な有名芸能人を抱えている大型の事務所だ。
紗夜さんがそんな大きな会社のご令嬢だったなんて。
「そうなの。だから懇意の会社はちょっとだけ優遇してくれるの。いろいろ契約も複雑にしてるから、今度は姉も気づくのに時間がかかるはず」
驚いたけどなんとか頷く。それなら理解はできる、けど。
「……なんでこのマンションなんですか?」
ご令嬢だというなら、もっと大きなマンションでもよかったはずだ。
それを尋ねたら紗夜さんが不安げに言う。
「お隣が信頼できる人の方が安心かなって……」
「……そ、そうなんですか?」
信頼と言ってくれるのはとてもありがたい。
けれど、俺がその信頼に足る人なのだろうか? というのは疑問だ。
困惑していると、紗夜さんの表情がだんだん沈んでいく。
「や、やっぱり退去した方がいい?」
「い、いえ! そんなことは絶対ありません!」
びっくりはしたけど、迷惑だなんてことはありえない。
「昨日も言った通り――俺は紗夜さんがお隣なら、嬉しいですよ」
だんだん、鼓動も落ち着いてくる。
紗夜さんが急に来たのは驚きだけど、来てしまったものは仕方がない。
それに俺は、お隣が紗夜さんなら大歓迎だ。
「よかった……そう言ってくれて、嬉しい」
紗夜さんがほっとしたように息を吐く。
「浅海くんって、今帰ってきたところ?」
「あ、はい」
「荷物がそろそろ運び終わるんだけど……おうちにどなたかいるかな?」
「えーっと……この時間なら妹がいます」
たしか今日は部活も無かったはず……と思いながら答える。
「妹さんか……そっかぁ。ちょうどいいかも……」
「ちょうどいい?」
「あ、なんでもないよ。よかったら後でご挨拶に伺ってもいい?」
ご挨拶。そうか。紗夜さんは引っ越しの挨拶をちゃんとする人なのだな。
「それはもちろん大丈夫ですけど……」
「ありがと。じゃあ……後でお邪魔させてもらうね」
小さく手を振って、紗夜さんが去っていく。
俺は何気なくその後ろ姿を見送ったけど、はっと気づいて早足で部屋に戻った。
(……和希に話さないと)
しかしなんて話そう。
今から俺の知り合いが挨拶に来るから……という内容だけで平気だろうか。
ちょっとそれだけでは済まないような気もするけれど。
紗夜さんの思い切りが良すぎて納得してもらえるか非常に怪しい。
頭を整理しながら、急いで家へと向かうのだった。




