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有紀の涙

大学の授業が始まっても、手の震えはずっと続いていた。


いつもの講義室なのに、ひどく冷えているように感じる。


今日は特別冷えるんだよ。手が震えるのは寒いからだ。大丈夫、大丈夫…。


手元を机の下に隠しながら、私は必死に自分にそう言い聞かせた。首筋を冷や汗が流れていくのを感じながら、下を向いて目をつむった。


「じゃあ、せっかくですので質疑応答の時間をとりましょう…では、宮瀬さん。何か質問はありませんか?」


急に先生に名前を呼ばれ、はっとして顔を上げた。しまった、この授業の賀谷先生、下向いてる人をよくあてるの忘れてた…。


私は仕方なく席を立とうとした。


―あれ、足にも力が入らないー


踏ん張ろうとしても、太ももが激しく痙攣してしまう。


けど、一人じゃどうにもできなくて、私は両手を机につきながら、どうにか中腰の体制まで上体を持ち上げた。


えっと、確かいま障害児教育の話をしていたから…


「あの、しょ、障害児の教育に…おいて…教育者は…ど、どこまで援助をするべ…き、なのでしょうか?


ごほ、ごほごほ…先ほどの…せ、先生の説明にも…ごほごほ、あったように…。」


―あれ?息苦しくてうまく話せないー


話している途中に苦しくなって言葉が途切れてしまう。頑張って話そうとして息を吸おうとしても、なぜか心臓がバクバクしてせき込んでしまう。


―おかしいぞ、なにこれ?なにこれ?―


焦れば焦るほど冷や汗も、手足の震えも止まらなくなる。


「ん?宮瀬さん体調悪いのかな?もうすっかり冬ですし、冷え込みますもんね。

無理しなくていいですので、もう座っていただいて結構です。


さて、援助の度合いについての質問でしたよね?まずは…」


私はほっとして席に座った。幸いにも、先生はただの風邪だと思っているらしい。気づかれなくてよかった…。


「ねーゆりあちゃん、さっきちょっとおかしくなかった?」


「だよね。なんか足震えてたよ。後ろからだからよく見えなかったけど。」


後ろの席から、ひそひそ声が聞こえてくる。やっぱ近くの人には気づかれるか…嫌だな…


私はぎゅうっと痛みだす心臓に手を当ててため息をついた。授業はあと10分で終わる。後少しの我慢。


そうしたら次は空きコマだし自習室で一人でゆっくり休もう。うんそうしよう。


私はそう自分に言い聞かせて授業終了のチャイムが鳴るのを待った。そして先生の板書をなんとか書き終えたところで、チャイムが鳴った。


「はい、では今日はここまで。出席票を後ろから集めたら、もう解散して頂いて結構ですよ。」


賀谷先生の指示で、私たちは後ろから出席票を回した。


「ゆりあちゃん、大丈夫?よく見たら顔色もよくないみたいだし…」


真後ろの席のあかりちゃんが、出席票を渡しながら心配そうに尋ねてきた。私は作り笑顔をしながら答えた。


「うん。ありがとうあかりちゃん。次の空きコマでゆっくり休むよ。」


ちゃんと笑えていたか不安になりながらも、私はそのまま前に向き直った。


でも本当にどうしよう、なんでこんなに手足が震えてるの?心臓の動機も激しいし、冷や汗も止まらないしなんで…


「優梨愛!」


名前を呼ばれて顔を上げると、目の前には有紀がいた。


久しぶりに、有紀の顔をまじまじと見た気がする。


有紀は、険しいような不安そうな、何とも言えないぎこちない表情をしていた。


「お前、立てんのか?立てなかったら肩貸すぞ。」


「有紀…だ、大丈夫。しん…ぱいしなくて…いいからね。あり…がとう。」


私は咄嗟にそう答えた。でも明らかに嘘だとばれてしまっている。なんだか気まずくなって、荷物を整理して席を立とうとした。その途端に…


ガターン!椅子に足を引っかけて転んでしまった。せっかくしまった教科書やノートが床に散らばる。


私は慌ててそれらを拾おうとした。だが、バク、バクバクバク…心臓がまたおかしくなって苦しくなった。


「おい優梨愛!大丈夫か?」


有紀の声が聞こえた。嫌だ。有紀、もう放っておいて、お願いだから。こんな姿見られたくない。


私はその願いを口にすることもできなくなっていた。息をするだけで精一杯だった。


「なんだ?どうしたどうした?」


「宮瀬が派手に転んでたぞ。」


「え?そういえばさっきちょっと様子がおかしかったもんね。」


みんなの声が聞こえてくる。ヤバい、どうしよう。なんとかしなきゃ。早く立ってここから出ないと。どうしよう、どうしよう…


焦れば焦るほど、どんどん苦しくなる。そして、だんだん目の前がぼやけて…


「優梨愛!!」


私は、そのまま床に倒れてしまった。


有紀が私の肩を揺すりながら何か言っている。でも、何て言ってるのか分かんない…私の意識は、そうして暗闇の中へと落ちていった。



 目が覚めると、白い天井がぼんやりと見えた。


ここはどこだろう…あ、そうか、あたし授業のあと倒れちゃったんだっけ…


意識がはっきりするにつれ、胸の中にだんだん嫌な不快感が広がっていった。


気を失っちゃうなんて初めてだ。ほんとにどうしちゃったんだろ、あたし、最近体調悪かったのは自覚してたけど、ここまでひどくなるなんて…


「宮瀬さん?目が覚めた?」


声をかけられて視線を向けると、保健室の藤野先生が立っていた。


ああ、はい。私が上体を起こしながらそう答えると、藤野先生は無理しなくていいから、と慌てた様子で言った。


「先生、宮瀬さんが運ばれてきたときびっくりしちゃった。


顔色も真っ青でぐったりしているんだもの。少し痙攣も起こしているようだったし。


そうだわ、申し訳ないんだけど、脈と血圧だけ図らせて頂戴ね。」


藤野先生はいそいそと私の手首に器具を付け始めた。うわあ、あたし病人みたい…


なんだか自分が情けなくなってきて、思わずため息が出た。


ねえ、宮瀬さん…計測を一通り終えた藤野先生が、静かに話し始めた。


「運ばれてきた時のあなたの様子から確かに言えるのは、あなたには何か精神的な問題があるってこと。


あなたの状態は、そうね、交通事故に遭って精神的にショックを受けた人に近かった。


それくらい、精神に負荷がかかってるってことよ。」


藤野先生にそう言われて、ギクッとしてしまう。図星だったからだ。


でも、私は否定も肯定もできずにただ黙っていた。


「宮瀬さん。先生は、あなたの味方よ。


あなたが秘密にしてほしいことや、他の人に知られたくないことは絶対誰にも言わないし、あなたとの約束だって必ず守る。


だから、あなたが不安に思っていることや、苦しいと感じていることがあるなら、先生に話してくれないかしら?


言ったらきっと、あなたも楽になると思うの」


先生に優しくそう言われ、私は何故か動揺してしまった。


夏休みからずっと、この精神的な苦しさを他の人に触れられたことがなかったからだ。


でも、だからこそこの苦しさについてじっくり考えたことがなかった。


ただ我慢するだけで、耐えるだけで、この苦しさを解消しようなんて思えなかった。


そのために最も必要なことをするのが怖かったからだ。


だってそれは、この苦しさの原因になった出来事と、真剣に向き合ったことだから。


そんなことできるわけないじゃん。だって、だって…


「宮瀬さん!?大丈夫ですか?」


藤野先生に言われて、自分の手がまた震えているのに気づいた。また冷や汗が流れてくる。


不安そうな目をした先生と目が合って、なんだか気まずくなって私はすみませんと小声で言った。


「ごめんなさい、急にそんなこと言われても動揺してしまいますよね、


ごめんなさいね…。」


いや、謝られたら逆に辛いです先生、先生は何も悪くないですよ、そんな顔しなくてもいいから…


「先生、心配して下さってありがとうございます。ただ、やっぱり今はその、あの、やっぱり…。」


うわあ自滅した。言っている途中でどんどん心臓の動機が激しくなる。


うー苦しい…もう辛いよこんなの、もう嫌だ…


「優梨愛、起きたか?」


名前を呼ばれて顔を上げると、目の前に有紀がいた。有紀…来てくれたんだ。


「中宮さん!よかったあなたが来てくれて。


そういえば保健室に宮瀬さんのことを知らせに来てくれたのも彼女だったのよ。


本当にありがとう中宮さん。」


え、そうだったんだ…。有紀を見ると、ばつが悪そうに下を向いていた。


別に言わなくていいよ、と有紀の目が言っていて、少し微笑ましくなった。


「あら、もう1時になるのね!私事務室に用事がありますので行ってきます。


2人ともここにいてもらっていいですよ。」


藤野先生はそう言いながら保健室を出て行った。


保健室に2人きりになる。若干の気まずさが流れて、私は咄嗟に口を開いた。


「そ、そういえば、3限もうすぐはじまるんじゃないの?行かなくて大丈夫?」


「お前、今日の3限は休講だって先週言われたの覚えてな…まあいいけど。」


有紀は途中で口をつむいだ。そっか、そんなこと言われてたんだ。全然聞けてなかったんだなあたし…


また沈黙が流れて、不安になる。どうしよなんかしゃべんないと、せっかく有紀が来てくれたのに。


「有紀、その…なんかごめんね、でも、来てくれて嬉しかった。


しかも保健室にあたしのこと知らせに行ってくれもしたんだよね?ほんとにありが…」


「あーーーとおおお!」


有紀はいきなり私の言葉を遮って叫んだ。しかもすごい変顔で。


有紀の変顔なんていつぶりに見たんだろ、やっぱり面白い…私は思わず笑ってしまった。


「うわこいつひど!人の顔見て笑うなよ!」


有紀に突っ込まれたが、いったんツボに入ったらなかなか笑いが止まらなくなってしまった。


ごめんごめんと言いながら、私はあははははと笑い続けた。


そしてふと我に返る。


あれあたし、有紀といま一緒にいるんだ。有紀に笑わせてもらってるんだ…


「有紀、あたし、ここにいていいの?有紀の傍にいていいの?


有紀の隣で笑ってて、ほんとにいいのかな…」


私はつぶやくようにそう問いかけた。有紀はふんっと鼻で笑ってから答えた。


「当たり前だろ、そんなの。うちはお前と半年ずっと一緒にいたんだぞ。


うちらはそう簡単に離れたりしねえよ。」


有紀の言葉が、私の胸に響く。


簡単に離れたりしない、簡単にはなれたりしない…


頭の中でその言葉が繰り返される。そして私の目には涙がたまっていった。


涙は、どんどん目の中にたまっていく。こんなにも、自然に涙が溢れてくるのは初めてだった。


そして目から零れ落ちた涙が頬を伝う。たくさんの涙が、私の頬をすうっと撫でていった。


おい、泣いてんじゃねーよばか。有紀は笑いながら私の頭をはたいた。


でも、その後で優しくなでてくれた。


だってさー…私は泣き笑いしながら有紀にそう言った。


だってってなんだよ。有紀はおどけた口調で尋ねた。うるさいなもう!私が笑顔で怒ってみせると、有紀はまたふんっと鼻で笑った。


「やっぱり優梨愛は優梨愛だよ。


ほんとは夏休み前から、何も変わらないんだよな。」


有紀からふと呟くように言われて、私はまじまじと有紀を見つめた。そして有紀は、けど、と言ってから言葉を続けた。


「お前がうちらから離れて行ったときに、うちはお前に何もしてやれなかった。


なんて声をかければいいのかも、何をしてやればいいのかも分からなくて…。」


有紀が目を伏せながらそう言う。私は、その言葉をただじっと聞いた。


「でもな、今日お前の様子が変だって気づいたとき、なんかすげー怖くなったんだ。


このまま優梨愛に何もできずにいたら、ほんとに遠くにいってしまいそうで、ほんとに離れてしまいそうで、怖かった。


だから、咄嗟にお前のところに来ちまったんだ。最近喋ってなかったこととか、気まずさとか何も考えずに。」


だからさ、有紀はぽん、と私の肩に手を置いた。


「やっぱりうちはお前の傍にいたいってことだよ。


うまくまとめらんないけど、そういうことだ。」


有紀は少し、緊張した顔をしていた。


けど、真っ直ぐな目をして私にそう言ってくれた。


それだけですごく嬉しくて、安心できて、また私の頬を涙のしずくが流れて行った。


「有紀…ありがとう、ほんとにありがとう。


ごめんね今まで、そんな風に思ってくれてたのに、あたし、あんなふうに…。」


「あーもう!うちは謝られるのは嫌いなんだよ!


有紀は私の言葉を遮った。そして、最後にこう付け加えた。


「謝るくらいならありがとうって言ってくれ。」


有紀がにかっと笑ってそう言ったので、私はうんと頷いてありがとうと言った。


有紀は満足そうにおうっと言った。そして、私はやっと有紀が私の手を握ってくれていたことに気づいた。


有紀が握ってくれていたおかげで、私の手は震えずに済んだんだ…そう思うと、なんだか温かい気持ちになった。


そして私の口は、自然と開いていた。


「有紀、あたしね、ほんとはみんなと一緒に居たかったんだ。あたしが居ようと思えば、みんなと一緒に居られたんだよねきっと。


でもね、あたし嫌だったの。このままだとみんながあたしから離れて行ってしまうような気がして。


こんなに迷惑かけて、困らせて、きっともうみんなあたしのこと嫌いになっちゃってるんじゃないかって…。」


私がそこまで言うと、有紀は別に迷惑にも嫌いにも思ってないけどなと言ってくれた。


私は有紀に微笑んでから、また口を開いた。


「だからね、みんなに迷惑かけるくらいなら、それでいつかみんながあたしから離れていっちゃうくらいなら、自分からみんなと離れようとって思ったの。


きっと自分がいちばん傷つかなくて済むようにしたかったんだと思う。


でもね、今日、それがすごく自分勝手なことだったって分かった。バカだねあたし。ほんとバカだった。


ほんとは、逃げ出したりせずに、みんなに相談したほうがよかったのに…。情けない…。」


有紀は、ただずっと黙って私の話を聞いてくれた。


途中で声をかけられたり、慰められるより、ずっとありがたかった。


そのおかげで、自分の気持ちを整理できた。自分の気持ちをそのまま吐き出すことができた。


「でも、だってね、あたし…そんなことできなかった…。


怖かったんだもん。みんなに家のこととか、翔太さんのことを話すのが。


人に知られたくなかった。もしみんなに引かれたらどうしようとか、なんて思われるかなとか、そんなことばっかり考えちゃって…。」


なんだか辛くなって、涙声になった。有紀は背中をとんとんと叩いてくれた。それに後押しされて、私は話を続けた。


「それにね、家のことや翔太さんとのことに向き合うのも怖かった。できれば、もう何も考えたくなかった。


もうそんな元気なかった。もう疲れちゃったんだもん。


けど、だからずっと苦しくて、ただ我慢して耐え続けるしかなくて…。


でもね、そしたらね、いつの間にか一人になってた。


もうあたしの居場所なんてどこにもなくなってた。


それから1人で過ごすようになって、毎日つまらなくて寂しかった。


笹野さんから勧められた曲を心の支えにしてたけど、それでも、やっぱり一人は辛くて…。」


私はなんだかわけがわからなくてわーっと頭をかいた。


「一人でもがいて、苦しんで悩んで、私ってほんとにバカだね。


結局自分のことしか見えてなくて。自分のことしか考えてなくて、ほんと、なにやってたんだろうなーあたし。


だから大切なものから離れて行っちゃったんだ。友達からも、家族からも、翔太さんからも。


なんでちゃんと向き合えなかったんだろ。なんでもっと、なんで…。」


「もういい、もういいよ優梨愛。」


有紀から声をかけられてはっとした。ごめん有紀、変な話しちゃって。迷惑だよね…私は咄嗟に謝った。


「ったく、お前は真面目で優しすぎるんだよ。いい意味でも、悪い意味でも。」


有紀にそう言われて、びっくりした。全くそんなことないと思うけど…私がそう言おうとする前に、有紀は口を開いた。


「うちは、何があってもお前の味方だから。もう離れたりなんかしないから。


だから、無責任かもしれないけど、うちのこと、信じてほしいんだ。


なにも考えずに頼って欲しい。お前に何があったのかとか、何が辛いのかとか、ゆっくりでいいから話してほしいんだ。それに…」


有紀はそこで一旦言葉を止めて、私の目を真っ直ぐに見つめてから言った。


「震えるくらい苦しくて辛いんなら、まずそれを失くすところから始めればいい。


色んなことに向き合うのが怖いんなら、今は自分勝手になってでもいいから自分を労わってやればいい。うちとか、色んな人に頼ればいい。


うちはそれを迷惑だなんて絶対思わないから。


それでいつか向き合えるようになったとき、優梨愛はもう一人じゃないよ。


少なくとも、うちはお前の傍にいるからな。」


有紀の目は、かすかに潤んでいた。


その潤んだ目に真っ直ぐ見つめられて、私はうわーんと声を上げて泣いた。


有紀、ありがとう、ほんとにありがとう…その言葉は、涙に遮られて声にすることができなかった。


有紀は笑いながら私のことを抱きしめてくれた。



このときの私は、どうして有紀の目が潤んでいたのかを、まだ知らなった。



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