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フォックスハウンド

 覚悟を決めて向かった私だけど、強い視線を引きずりながらも無事オフィスに戻ってきた。


 ユイネは先に部長から仕事をもらったようで、戻ってきた私に気付くと、一つ微笑んでから仕事に戻る。部長は安心したように笑みを浮かべ、無言でファイルを渡してくる。


 そして私の後ろの柱に背を張り付かせるサンドラ……。


 部長が車輪付きの椅子でぎょっと横に滑る。サンドラが監視員の印である手帳を見せると、険しい顔で頷いてくるりと仕事に戻った。


 この圧力は確かに嫌な奴を退ける。けど無関係な人も圧力をかけられ続けるのでは。


 ユイネの横に座ると、気にするどころか楽しげにタイピングしている。指使いは軽く、三分の一ほど飲んだキャラメルマキアートをお供にしていた。


「今日はキャラメルマキアートなんだ」


「はい、自動販売機の前でおすすめされて……ヴィクトリックの若者の間でちょっとした流行りですって。ブラック以外も飲まれているんですね」


 今度は笑って、思い出したかのように一口飲んだ。

 あれは口に合うようでよかった。需要があるからこそ自動販売機の飲み物も色々用意されている。ヴィクトリック人全員がブラックを好む訳じゃないんだから。


「自動販売機にも色々あるし、違うのを試してみるのもいいよね。あー私は苦めのやつが飲みたくなってきた」


 とりあえずキリのいいところまで進めてから買いに行こう。中だるみしたときはユイネの紙コップを見ると、コーヒーのためにやる気の火が強くなった。


 そして目標を達成し、大きく伸びをしてから部長に一言告げた。

 その直後視界の隅に黒い何かが滲み出たように見えて驚いたけど、サンドラのことを思い出して納得した。


 元はユイネの周りの監視が役目だから、オフィスを出て一人になれば、視線は感じなくなった。心臓に悪い出来事だった。

 休憩所はそれなりに人が集まっていて、一人だけでテーブルの席に座るのも気が引けるから、壁にもたれて飲むことにする。


 茶色に白い曲線を描いた紙コップで、濃い色の中身が波打つ。コーヒーの匂いが乗った湯気に当てられてすぐ、口に流れ込んできた。


 ほっと一息ついて、人が更に増え出した休憩所を後にする。

 オフィスに戻ると、やっぱりサンドラの視線を気にしないユイネがいた。


「フランカ、ちょうどいいところに。二人で開発部に向かってほしい。ユイネにとっては初めてのところだからサポートよろしくな」


 開発部か……かなり癖のある人が多いところだ。新人はよく質問責めにあったり今度食事に行く約束を取り付けられたりする。


サンドラと同じくらい圧の強い人がいるところだ。

意外と動じない性格なのかなと思って、行く前にサンドラのことに気付いていたか聞いてみた。


「はい、気付いていましたよ。でもヴィクトリックには色々な方が集まりますし、どうも思いませんよ」


「そっか。なら大丈夫かな」


「そうですね……でも私、人に知られるより人のことを知りたいです」


 そんなことを言った後、おもむろに振り返った。ユイネは詰め寄って爪先立ちでサンドラの顔を覗き込む。


「サンドラさん、名前から予想するとスティーバからの方ですか?」


 サンドラは肩を吊り上げて埋まりそうなほど深く頷く。


「スティーバはエスプレッソやピザが美味しいと聞いています。それ以外にももっと知りたいです。留学生ですから、一方的に知られるのではなく他の方の知識を持って帰りたいのです」


 目をぎょっと開いて固まるサンドラ。素早くメモ帳をポケットにしまうと、監視していたことに気付いていたのですか……と弱々しい声で言った。


「それはね……視線の圧が強いから。メモを取っていたことには気付かなかったけど」


「私の視線が向いていない時を見計らってメモを取っていたみたいですが、音でわかりました。それにしても、メモではなくスマホで写真は撮らないんですか? 楽ですよ?」


「写真は肖像権が……メモはグレーゾーンですがOKなんです」


 昔は監視員が無断で写真を撮ることは、時と場合によるけれど許されていた。今はプライバシーの侵害と厳しく制限されている。


「そうですか、疲れますね。サンドラさんは留学生が問題なく働いているか見にきたのですか?」


 サンドラはぐっと息を呑んで、そんな感じです、とパチパチ瞬きした。動揺しているのがわかりやすすぎる。

 そんな風に眺めていると、サンドラの右手に違和感を覚えた。よく見ると、右手の薬指の爪が異様に盛り上がっていた。


 ネイルチップ? つけていること自体はおかしくないけど、そこだけにつけているというのは不自然だ。


「サンドラ、珍しい付け方ね。薬指の……左手もそうなの?」


「え!? こっこれは……」


 サンドラはとっさに指を左手で掴み隠した。


「焦らなくてもいいですよ。ヴィクトリックには色々な人がいるんです。ネイルチップの付け方なんて些細なこと、気にしませんよー」


 ユイネは顔の前で手を振ってサンドラを落ち着かせた。しかし突然自分を指差し恐る恐る聞く。


「些細なこととか言ってしまいましたが、もしかしてスティーバの大事な儀式とか、重要なことだったりしますか?」


「いえ、そんな大したことではありません……」


「よかった……誇りに思う文化を些細だなんて言っていたどうしようかと……」


 ユイネは胸を撫で下ろし、サンドラの方も安堵しているように見えた。


 ここだよ、とエレベーターの前で指し示し、そのままボタンを押す。

 中に乗り込むと壁を切り取ったかのような小窓があった。

 ほとんどガラス張りのエレベーターもあるけど、下の方が見えすぎるのも少し怖いのでこれくらいがちょうどいいと思う。


「すごいです、外が見えます!」


 ユイネは予想通り小窓にはしゃぐ。その時間もあっというまで、開発部の階層に着いた。


 私が前に出て要件を伝え、後ろに控えていたユイネは真剣に話を聞いていた。そんな様子でも、動いていないと手持ち無沙汰だと思われて話しかけてくるのだった。


「あら、留学生?」


「え、あ、はい。ユイネ・シュナンです!」


「へぇ〜サイファから?」


「えっと、ヒナタノクニです」


 初めは勢いよく振り返って答えたユイネも、まわすように眺められると縮こまり、困惑している。


「ヒナタノクニか〜道理でサイファとはちょっと雰囲気違うと……ねぇ、ヒナタノクニってどんなものを食べているの? 野菜中心っていうのは聞いたことがあるんだけど、調味料は? どんな野菜があるの?」


「えっと、そんな話すほど立派なものではないのですが……ただの煮物ですよ……」


 サンドラに迫ったユイネもこの上司には勝てなかった。

 開発部のアシュリー・ウィルソンさん。新人を見つけたら真っ先に話しかけてくる。そしてすぐ自分の奢りで食事に誘う。

 ユイネはまだ誘われたことがないらしく、そうなる前に早く要件を済ませて撤収したい。


「ありがとうございます。ユイネ」


 後ろにいたはずのユイネをを呼び寄せる。ウィルソンさんに徐々に引き寄せられ、二歩分くらい離れていた。


「ちぇー、またねユイネ」


「はい、またお時間があれば……」


 なんとか約束を取り付ける前に撤収できた。奢りなんだからいいじゃないと思うかもしれないけど、帰りにはぐったり疲れることになるのだ。もう返答に困る話を延々と続けられるから。


 帰ったらウィルソンさんについて説明しなければと出口へ向かう。そのすれ違いざまに、私は足をかけられていた。


「うわっ!」


 気付いたら膝から落ち、あまりの痛さに足を抱え込んだ。

 だから顔を上げるまでに少し時間がかかった。


「どんくさいな」


 歯の間から息をもらしている間、そんな声が聞こえた気がする。

 あいつらの仕業と気付いた頃には、ユイネが前を塞がれていた。


 明るい声で話しかけているように見せかけ、ユイネをなんとかして不快にさせようという魂胆が滲み出ていた。


「さっきは先輩の後ろでゆっくり休めたみたいだね」


「先輩の方も楽だろうな。静かに待っていてくれるから。いや、君にとっては当たり前のことだからわざわざ言う必要もなかったね」


「ええ、デスクワークから離れて楽になりましたし、開発部の方との交流もできました。先輩が仕事をスムーズに進めてくださったので、安心して開発部の方のお話に聞き入ることができたのです」


ユイネはにこにこと返してから、人が多い方向へ迂回した。


「口無し、逃げるんじゃねぇ」


 人の少ないエリアで、汚い小声を落とした。


「すみません、どうしても急に話しかけられると逃げたくなるのです」


 足への力の入れ方を考えながら、そろりとユイネたちに近付く。

 私がまだ三歩しか進んでいないのに、ユイネは笑ってくるりと向き直る。筋の通った立ち姿だった。


「だって私、あなた方の言う通り口無しですから」


 よく通る声だった。間違いなく目の前の嫌な奴にも届いただろう。そして、周囲の人にも……。


「口無しって、差別用語よね?」


「教えて下さらなかったので、他の方から聞いてやっとわかりました。先輩方、留学生にはもっとわかりやすい言葉を選ばなければ。例えば……卑怯者とか、間抜けとか、バカとか」


「は、俺がそんなこと言った証拠がどこにあるんだよ!? 俺よりお前みたいな留学生を信じると思うか!?」


 にこやかに、一層声のボリュームを上げるから、あっという間に顔から余裕が逃げていく。

 上部を取り繕うのも忘れて、微笑むユイネに突っかかる。

 いるだけで他の社員を怯えさせる監視員は、遠巻きに硬直していた。


 GOサインを出すと、つかつかとユイネたちに歩み寄る。印が見えると野次馬たちは無言で道を作り、通した。


「問題発言が聞こえました」


「聞こえた……? ああ、間抜けとかバカとか、遠くからでも聞こえたよな!?」


 ユイネの声は聞こえても、あの二人の声は聞こえていなかったと思う。

 今にも摑みかかりそうな手をしたサンドラがユイネに近付く。


「思ったことを言うだけでこんなことになってしまうなんて、自由なところだと思ったのに、期待外れです」


 ユイネが残念そうに力なく両手を上げると、片方が鼻を鳴らす。


「さっさと帰ればいいんだ。お前みたいな能も口もないやつなんか要らねーんだよ」


 この期に及んでもぼそっとそう言ったのを聞き逃さなかった。私はサンドラに言ってやろうと一歩踏み込む。


 するとサンドラはユイネを無視して、おもむろに右手を突き出した。


 再生される、さっきの暴言。音声の元はサンドラの右手。おそらく、あの不自然に分厚いネイルチップだ。


「は、なんだよこれ……」


 あのサイズからは想像できないくらい綺麗に声を拾っていた。他の音はあまり聞こえないことから魔法式のものと思われる。

 あまりにも聞き取りやすい音声に動揺する二人。サンドラはユイネの横を抜け、飛びかかった。


 その素早さは意識を一瞬抜き取られたかのようだった。足元をひゅっと風が吹き抜け、気付いたら二人まとめて床に押さえつけられていた。野次馬も後退りする。


「逃がしません……! あの、ヤケになって暴れるのはやめてくださいね?」


 抜け殻のようになった二人の腕を引き上げ、サンドラはエレベーターに向かった。しばらくして点灯したのは監視員たちが集まる階だ。連れていかれた末に詰問されると、社員からは恐れられていた。


「何これ、どういうことなの?」


 サンドラたちがエレベーターの中に消えていった頃、愛用のシェイカー片手にウィルソンさんが来た。野次馬はサンドラ同様に道を作る。


 すぐ横にいた女性社員が耳打ちして伝える。するとウィルソンさんは顔を真っ赤にして怒り始めた。


「前から腹立つやつとは思っていたけど、それほどのクズだったなんて……やっと天罰が下ったのね! あのハイエナどもは解雇よ解雇! あいつと同じ職場なんてもう我慢できないわ!」


 この部署で、いやこの会社で一二を争うほど声が大きいウィルソンさんは、思ったことを振りまいた後シェイカーの中身を一気飲みした。


 ウィルソンさんの撤収を境に野次馬も散っていく。


「ああ、あそこまで懲らしめることになるとは思いませんでした」


 ユイネが私の後ろからぬっと現れた。当事者なのに、今まで見えない壁を隔てたかのように立っていた。


「解雇なんて、そんな一方的に人生を狂わせるのは心苦しいです……」


「心苦しいなんて、あっちがひどいことをしてきたんだから当然。罪悪感は持たなくていいよ……」


 俯くユイネの肩を叩こうとすると、その前に顔を上げられた。


「私だけ働き続けるのも気まずいので、謹慎ということで今日は帰宅します。いいですよね、ここはヴィクトリックですから」


 くるりと身を翻すと、嘘みたいに笑って手を振っていた。そして我先にとエレベーターに乗り込んで本当に帰ってしまった。午前十一時時三十五分頃のことだった。


 ユイネの帰宅後、二人の父親が謝罪に来た。人の少ない部署に滅多にお目にかかれないような重役が並んでいて部長の顔も強張る。


 当事者のユイネがいないのでひとまず帰ってもらってから、電話でそのことを伝える。すると、二人だっていい歳だし責任は自分たちで取るべき。私も結果的にやりすぎたかなと思っているのでもういい、と父親の謝罪を断った。


 ユイネは次の日も休んだ。するといつのまにかショックで面会謝絶という噂に変わり、二人の評判はますます悪くなった。


 それからあの二人は遠い支社に飛ばされたという。

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