変化
00821が休日になるたび翔子の部屋で過ごすことが日常となってきたころ、周囲の空気が少しだけ変わったように感じた。
00821を心配する者、労う者、羨ましがる者。ごく少数ではあるが、陰で何かを言う者もいた。
「お休みの日まで大変ね。大丈夫?」
ある日、午前の仕事を終えて昼食をとっていると、隣の席に座った00695が声をかけてきた。
「お嬢様のこと? 全然平気。むしろ良くしていただいてるわ」
「それなら良かった。翔子様はお優しいものね」
翔子の部屋で何をしているのかは口止めされているが、幸いなことに、今までそれ以上詳しく詮索してくる者はいなかった。
皆、込み入ったことは聞かない方がいいし、知る必要のないことを知ろうとするべきではないと、幼いころから繰り返し教わっている。00821自身も、それを正しいことだと思っていた。
ただ、それでも気にはなるらしい。
直接は聞かずとも、こうしてそれとなく様子を窺われることが増えた。以前なら気にも留めなかったことだが、翔子の言うところの『娯楽が少ないことによる弊害』とは、こういうことなのかもしれない。
実のところ、00821は翔子と過ごす時間が嫌いではなかった。
余暇に閲覧を許可されているものは、歴史書や教本、道徳について説かれた書物が中心である。物語や写真の多い本などは、自分たちの階級ではほとんど閲覧許可が下りない。
翔子の部屋には、それらがいくらでもあった。
古い時代の物語。見たこともない土地の写真集。動物や植物について記された図鑑。翔子が面白いと言って渡してくる本の中には、何が面白いのか最後まで分からないものもあったが、それも含めて初めて触れるものばかりだった。
菓子についても同じだった。
栄養管理に支障のない範囲ではあるものの、翔子は自分たちに支給されるものよりずっと上等な品を用意してくれる。以前、豆腐と穀物で作られた焼き菓子が好きだと話したことまで覚えていて、ときどき同じようなものを探してきてくれた。
今までの生活に不満があったわけではない。
食事も、衣服も、睡眠も不足したことはない。病気になれば治療を受けられ、仕事が終われば休息も与えられる。それで十分なのだと、今でも思っている。
だからこそ、翔子の側仕えとなってからの自分は、むしろ恵まれすぎているように感じられた。
それを嬉しいと思うより先に、00821は少しだけ後ろめたく思った。
その日の夕方、00821はいつものように翔子の部屋を訪れた。
窓際の椅子に腰掛けて本を読んでいるうちに、昼食時に00695から声をかけられたことを何気なく話した。休日まで働かされているのではないかと心配されているらしい、と伝えたうえで、自分としては今の待遇に何の不満もなく、むしろ恵まれすぎていて申し訳なく感じることすらある、と付け加えた。
「……そう」
向かいに座っていた翔子が、わずかに俯いた。
何かおかしなことを言っただろうかと思ったが、そうではないらしい。頬がほんのりと赤くなっている。
本人は平静を装っているつもりなのだろうが、00821から見ても明らかに嬉しそうだった。
「お嬢様?」
「なに?」
「なぜ嬉しそうなのですか?」
「……分かる?」
「はい」
翔子は困ったように口元を押さえた。それから少しだけ考えて、観念したように息を吐く。
「貴女は、私の命令でここに来ているでしょう」
「はい」
それは当然のことだった。
「だからね。時々、考えていたの。貴女にとっては、私とこうして過ごす時間も業務の一部でしかないんじゃないかって」
00821は首を傾げた。
実際、業務であることに間違いはない。翔子の精神的安定に寄与することも側仕えとして与えられた役割のひとつであり、休日にこの部屋を訪れることについても許可は正式に出されている。
それの何が問題なのかは分からなかった。
「でも、サクラもここで過ごすことを悪く思っていないのでしょう?」
「はい。それは間違いありません」
「だから嬉しいの」
今度は隠すことなく、翔子が笑った。
00821には、やはりよく分からなかった。業務を不快に感じていない構成員がいることは、管理する側にとって望ましいことではあるのだろう。しかし翔子の喜び方は、そうしたものとは少し違って見えた。
「良い兆候だと思うわ」
「兆候、ですか?」
「そう。だから、少しずつでいいから」
翔子はそこで一度言葉を切った。
「この部屋にいるときくらいは、00821ではなくて、サクラとして過ごしてほしいの。私の側仕えだからでも、生殖世帯の構成員だからでもなくて、名前を持った一人の人間として」
何を求められているのか、00821にはすぐには理解できなかった。
サクラと呼ばれれば返事をする。それは以前からそうしている。しかし、サクラとして振る舞うというのが具体的に何を意味するのかとなると、よく分からない。
それでも、翔子が自分にとって悪いことを求めているわけではないことだけは分かった。
「善処します」
「ふふっ。そこは相変わらずなのね」
翔子は立ち上がると、机の引き出しを開けた。
中から小さな箱を取り出す。
「では、お祝いにクッキーを食べましょう」
「ですが、今週の三枚はもういただきました」
「知ってるわ」
翔子は箱を開けながら、当然のように答えた。
「今日は私が貴女と一緒に食べたいの」
「…………」
00821は箱の中のクッキーを見た。
それから翔子を見る。
もう一度クッキーへ視線を戻して、少しだけ眉を寄せた。
「……では一枚だけ、いただきます」
「ふふっ、どうぞ」
その返事を聞いた翔子が、また嬉しそうに笑う。
二人にとって、穏やかで静かな時間が過ぎていった。
だから二人とも気づかなかった。
閉ざされた扉の向こうで、物音ひとつ立てないよう息を殺しながら、その会話に耳を澄ませている者がいたことに。




