二人の休息
岩屋の敷地内で暮らす00821ら第三階級の構成員には、毎日九時間の睡眠と週三日の休養が義務付けられている。
もちろん、休日だからといって何をしてもよいわけではない。食事は平日と同じく管理され、規定された時間と量の運動をこなし、健康診断や投薬の予定が入っていればそちらが優先される。そのうえで残った時間については、自己研鑽や読書、映像作品の鑑賞、許可された嗜好品など、あらかじめ用意された選択肢の中から各々が好きなものを選ぶことができた。
心身の健康を維持することも、より質の高い卵子を安定して製造するために必要な工程である、というのが岩屋宗一郎の方針だった。
00821は休日の読書を好んでいた。
嗜好品では、豆腐や穀物を主原料として作られたクッキーが好きだった。栄養管理上、許可されているのは一週間に三枚までである。翔子はそれを知ると、望むなら毎日食べられるようにしてやると言ったが、00821には週三枚以上を欲しがる理由がなかったので、礼を述べて丁寧に断った。
翔子も、それ以上は何も言わなかった。
ただ、それだけでは自分の友人に対する待遇として気が済まなかったらしい。
00821が翔子付きになって三ヶ月ほど経ったある日、翔子は自室の中でも特に日当たりのよい一画を指して、そこをサクラの読書スペースにすると言った。大きな窓のそばには一人掛けの椅子と小さな机が置かれ、午後になると柔らかな陽光が長く差し込む場所だった。
「貴女が嫌じゃなければ、休みの日はここに来て過ごしてほしいのだけれど」
何事もはっきり言う翔子にしては珍しく、こちらの様子を窺うような言い方だったことを00821は覚えている。
もっとも、第一階級であり現在の管理者でもある翔子から「来てほしい」と言われれば、00821にとっては命令とそれほど違わない。なぜわざわざそのような迂遠な言い方をしたのか不思議ではあったが、拒否する理由もなかったため承諾した。
それから休日になると、そこが00821の居場所になった。
初めのうちは本を読むだけだったが、やがて翔子の話を聞く時間が増え、ときには00821のほうから物語を読み聞かせることもあった。ゲームの相手を求められることもある。翔子はチェスやリバーシといった旧時代の盤上遊戯を好み、岩屋家が所有するコレクションの中には、00821には価値の見当もつかない骨董品級の盤や駒まで含まれていた。
初めてその一つを使うよう言われたとき、00821のバイタル値には明確な異常が記録された。
翔子はそれを見て、嬉しそうに笑った。
「壊しても貴女の査定には影響しないから大丈夫よ」
そう言われても最初のうちは駒を持ち上げるたびに緊張したが、何度使っても叱責されることはなく、盤上で駒を倒しても翔子は気にしなかった。やがて00821のバイタル値にも変化が現れなくなり、いつからか、それが非常に高価な品物であること自体を意識せずに触れられるようになった。
翔子に勝ったことは、一度もない。
何度対局しても、終盤になるころには逃げ道を塞がれている。もう少し手加減をしてくれてもよいのではないかと思ったこともあったが、そのような要求をする理由もなかったので口にはしなかった。
ある日、いつものように負けた00821が盤上の駒を片付けていると、翔子は勝敗などそれほど重要ではないのだと言った。
「こうして二人で向かい合っていることのほうが大切なの」
00821には、その意味がよく分からなかった。
ただ、第一階級には第一階級なりの、自分には理解できない苦労があるのだろうと思った。これだけ広い屋敷に住み、欲しいものの大半を手に入れられる翔子にも、誰かと向かい合っている時間を必要とする理由があるらしい。
だから00821は、それ以上尋ねることなく静かに相槌を打った。
*
その頷きを見るたび翔子の心はほんの少しだけ軋む。
自分は人に恵まれた方だと自覚している。いや、違う。人だけではない。おそらく全てだ。
屋敷の中でも外でも、自分が望む限りは常に誰かしらが側にいる。欲しいものの大半は手に入り、行きたい場所へ行くことができ、学びたいものを学ぶこともできる。今だって盤を挟んだ向かい側では、サクラがいつもの曖昧な笑みを浮かべている。
対等な人間関係ではないにしろ、これは自分が望んで手に入れたものだ。だから、それ以上のものまで望むのは自分の傲慢である。
そして何より厄介なのは、自分にはその傲慢が許されてしまうということだった。
許される立場にいると理解したうえで、それでも望むことの是非については、翔子にもまだ答えが出ていない。
「ねえ、サクラ」
「何でしょう、お嬢様」
お嬢様、と呼ばれることも好きではなかったが、これについてはもう諦めていた。自分がサクラという呼び名を彼女に与えたのなら、サクラが自分をどう呼ぶかについても、同じように彼女の選択を認めるべきなのだろう。それも友人としての責務の一つだと翔子は考えている。
翔子はテーブルを離れて自分のベッドに腰掛けると、隣を二度ほど軽く叩いた。
「少し遊び疲れたわ。サクラ、また『アレ』をお願いできるかしら?」
「承知しました」
サクラは席を立つと、言われるがまま翔子の隣に腰を下ろした。本来なら岩屋の人間の寝台に自分のような立場の者が腰掛けるなど、あってはならないことだった。しかしこれは翔子から正式に求められた行為であり、『サクラ』として与えられている職務の一つでもある。
「お姉ちゃん」
翔子はサクラの腰に腕を回し、ぎゅっと優しく抱きしめた。そのまま身体を預けるように横になり、膝の上に頭を乗せて腹に顔を埋める。
サクラのメイド服からは、微かにラベンダーのような香りがした。
もちろん本物の花の香りではなく、洗浄工程で付着した合成香料であることくらい翔子にも分かっている。それでも目を閉じていると、幼いころに姉と一緒に見た花畑の光景が、記憶の底からゆっくりと浮かび上がってきた。
悲しくはなかった。
「お姉ちゃん、大好きだよ」
これは悲しみとは違う。
私にとってこの感情はもっと大切で、もっと尊いものなのだ。
姉が正しかったのか、現在の社会が間違っているのか、今サクラにしていることが善なのか悪なのか。十二歳の自分には、まだ分からないことの方がずっと多い。
それでも、この感情だけは間違っていない。
この歪な世界の中で、唯一自分の指針として信じてもよいものなのだと、翔子はそう思っていた。
サクラは何も答えず、ただ翔子の頭をゆっくりと撫でた。
名前を呼んで。
私も大好きだよ、と言って。
そう言えばサクラはきっとその通りにしてくれる。
だから翔子は何も言わなかった。




