異動
岩屋の敷地には、当主である岩屋宗一郎のほか、三十名を超える一族が籍を置いている。敷地内にそれぞれ邸宅を構え、配偶者や子供と家族単位で暮らしている者もいれば、岩屋家に籍だけを残して国外や中央都市で生活している者もいる。敷地そのものが一つの小さな町と呼べるほど広いため、そこで働く職員や生殖世帯構成員も多く、所属先の変更自体は珍しいことではなかった。
00821が宗一郎付きから翔子付きへ変更されたのは、今月の初めのことだった。
「十二歳の誕生日に何が欲しいかと聞かれたから、貴女が欲しいと言ったのよ」
誰に理由を尋ねられたわけでもないのに、初日に翔子はそう言った。
三年前にはまだ幼さの残る九歳の少女だった翔子も、ずいぶん背が伸びていた。顔立ちにも子供らしい丸みが残っているものの、すでに十二歳とは思えないほど整っており、長い髪や細い手足まで含めて、道ですれ違えば思わず振り返ってしまうような美少女へ成長していた。この春、久しぶりに宗一郎の邸宅を訪れた翔子を見かけたときには、普段は他人の容姿にほとんど関心を持たない00821でさえ、仕事の手を動かしながら何度かその姿を目で追ってしまったほどだった。
もっとも、本人は自分の容姿をそれほど特別なものとは思っていないらしい。
異動初日、挨拶のため翔子の居室を訪れた00821を上から下まで眺めると、翔子は満足そうに頷いた。
「あの死に損ないのジジイ……失礼、お祖父様が三年も手元に置いておくんだもの。やはり貴女は優秀なんだわ」
そう言ってケタケタと笑う。
00821は返答に困った。宗一郎に対する今の発言は、岩屋家の構成員が口にするものとして適切ではないように思えたが、翔子はそんな00821の様子を見てさらに楽しそうに笑い、それから思い出したように人差し指を立てた。
「それと、これからこの部屋であったことは外に報告しちゃ駄目よ。私が誰と話したとか、何を読んだとか、何を言ったとか。お祖父様にも管理AIにも内緒」
00821は、その指示には従えないと答えた。第一階級から与えられた命令には原則として従うことになっているが、自身の健康状態や職務上の異常、規則に抵触する行為について管理AIへ虚偽の報告をしたり、必要な情報を意図的に隠したりすることは禁止されている。命令者が翔子であっても、その点だけは例外にはできない。
説明を聞き終えた翔子は、少しも困った様子を見せなかった。
「知ってるわ。でも今のは00821には命令してないもの。サクラに言ったのよ」
00821には、その違いが分からなかった。
自分はK-SM-00821であり、サクラというのは三年前に翔子が勝手につけた呼び名にすぎない。そう説明すると、翔子は椅子から立ち上がり、00821の前まで歩いてきた。九歳のころなら見上げていた顔が、今ではずいぶん近い位置にある。
「今日から貴女の一番大事な仕事は、私の精神状態を安定させること。これは正式に申請してあるし、管理AIにも承認されているわ。だから私が『サクラ』と呼んだときは、構成員としてじゃなくて私の友人になるの。私が友人にしか話したくないことを聞いて、それを誰にも言わない。それで私の精神状態が安定するんだから、ちゃんと業務でしょう?」
00821はすぐには答えられなかった。
翔子の説明には、どこかおかしなところがあるような気がした。しかし自分の主たる業務が翔子の生活補助および心身の安定に寄与することであるのは事実であり、そのために会話相手を務めることも職務内容に含まれている。友人というものが具体的にどのような業務を行うのかについては教育を受けていなかったが、必要であれば学習すればよいのだろう。
「承知しました」
そう答えると、翔子は不満そうに眉を寄せた。
「違うでしょう。今はサクラに話してるの」
00821はしばらく考えた。
業務開始初日から、想定していなかった要求が多い。
それでも、与えられた役割へ適応することは構成員に求められる基本的な能力だった。00821は頭の中でいくつか適切な返答を探したものの、どれが「友人」にふさわしいのか判断できず、結局いつものように曖昧な笑みを浮かべた。
それを見た翔子は、今度こそ満足そうに笑った。
こうして00821には、それまで存在しなかった新しい業務が加わった。
翔子がサクラと呼んだときだけ、彼女の友人になること。
00821にはまだ、その仕事が何のために必要なのかよく分かっていなかった。
その日から、「サクラ」という呼称は他の構成員の間でも黙認されることとなった。
もっとも、構成員を通称で呼ぶこと自体が禁止されているわけではない。個体識別に支障をきたさない範囲であれば、管理者が便宜上別の呼称を用いることは認められているし、第一階級の人間が気に入った構成員に勝手な愛称をつけることも、特別珍しいことではなかった。
朧げながら昔、噂好きの同僚から似たような話を聞いた記憶がある。
構成員を単なる労働力や生殖資源としてではなく、嗜好品や愛玩具のように自分の手元へ置きたがる第一階級の人間は、意外なほど多いのだという。容姿の整った者や従順な者、ときには少し変わった性格を面白がられた者が選ばれ、特定の主人の身の回りだけを世話するようになり、番号とは別の呼び名を与えられることもあるらしい。
ただ、それは構成員にとって必ずしも幸運なことではなく、むしろ一種の末路として語られていた。
通常の構成員であれば、適性や健康状態に応じて所属を変更されながら社会に必要とされる限り役割を与えられる。しかし個人的な所有物のように扱われるようになった構成員については、主人が興味を失ったあとにどこへ送られるのか、年齢を重ねて容姿が衰えたときにどうなるのか、それを知っている者はほとんどいなかった。
誰から聞いた話だっただろう。
よく喋る女だったような気がする。
00821は少しだけ記憶を探ったが、顔も番号も浮かんでこなかった。それ以上考えようとすると、何か大切なものを忘れているような奇妙な不快感があったので、思い出すことをやめた。
いずれにしても、目の前にいる翔子からは無邪気さ以外の悪意を感じなかった。
自分をサクラと呼び、友人として振る舞うよう要求することも、翔子にとっては新しい遊びのようなものなのかもしれない。いずれ飽きるのか、それとも長く続くのかは分からないが、その戯れにどのような意味があるのかを考えることは00821の仕事ではなかった。
「サクラ、この服似合うかしら?」
翔子が姿見の前でくるりと身体を回した。淡い色のセーターを身につけており、いつもより機嫌が良さそうだった。
「化学繊維じゃなくて天然のウールなのよ。触ってみて。手触りが全然違うと思わない?」
そう言って、翔子は袖口を00821の前へ差し出した。
促されるまま指先で触れてみると、確かに自分に支給されている衣服とは感触が違った。柔らかく、わずかに毛羽立っていて、指を滑らせると微かな抵抗がある。
しかし、それが良いものなのかどうかは分からなかった。
衣服は体温を保ち、皮膚を保護し、社会生活に必要な最低限の外見を整えるためにある。支給品はそのすべての条件を満たしているのだから、それ以上の違いに価値を見出すための基準を00821は持っていなかった。
それでも翔子は、自分にも同じ感想を求めているようだった。
00821はしばらく袖口を見つめ、それから翔子の顔を見た。
嬉しそうだった。
だから、いつものように曖昧な笑みを浮かべた。




