01306
生殖世帯構成員に与えられる情報は、生活と職務に必要な範囲に限られている。天候、配給、健康管理、業務連絡、人口統計、それから一日の終わりに十五分だけ放送される娯楽番組。外部通信網への接続には許可が必要であり、書籍や映像にも閲覧等級が設定されているため、00821のような構成員が世界大戦以前の記録へ直接触れる機会はほとんどなかった。
国家が情報を制限していること自体は秘密ではない。人間には自分の役割に必要な情報量があり、それを超える知識は判断を迷わせ、実現する必要のない欲求や不満を生み、精神の安定を損なう可能性がある。そのため必要以上の疑問や好奇心を持たないことは、規則正しい睡眠や適切な栄養摂取と同じく健康な生活習慣の一つとして教育されていた。
00821も、その教えに疑問を持ったことはない。
だからこそ、同僚の01306は少し変わった女に見えた。
遺伝評価Cの01306は、評価に反して容姿だけなら邸内でもかなり目立つ女だった。長い黒髪に整った目鼻立ちを持ち、全員に支給される同じ制服を着ていても、不思議と彼女だけ違うものを着ているように見えた。しかし彼女が周囲から変わりものと思われている理由は外見ではなく、とにかく人と話すことを好み、自分には関係のないことまで知りたがる性格にあった。
外部から職員が赴任してくれば以前はどの区域にいたのかと尋ね、別の生殖世帯から構成員が移ってくれば、向こうではどんな食事が出たのか、どんな建物があったのか、管理者はどんな人物だったのかと聞きたがった。そうして集めた話を別の人間へ伝えることも好きで、西部区域では今年ひどい雪が降ったとか、中央都市には旧世紀に建てられた百階以上の建物がまだ残っているとか、第一階級の間では最近になって大戦前の衣服が流行しているとか、00821からすれば知ったところで生活が何一つ変わらない情報を驚くほどたくさん持っていた。
以前、どうしてそんなことを知りたがるのかと尋ねた構成員に、01306は「知っていることが増えると、昨日より世界が少し広くなるでしょう」と答えたことがある。
00821には、その感覚が理解できなかった。世界についてどれほど詳しくなったところで、起床時刻も採卵予定も変わらないのだから、広くなったところで何の意味があるのだろうと思った。
*
ある日の昼休み、食堂にはいくらでも空席があるというのに、01306がわざわざ00821の隣へ座った。
「ねえ、サクラ」
その呼び方を聞いて、00821は食事を運んでいた手を止めた。最近になって自分をそう呼ぶようになった人間は翔子しかおらず、どうして知っているのか尋ねてみると、01306は待っていましたとばかりに笑った。
清掃担当の構成員が翔子との会話を偶然聞き、それを別の構成員へ話し、さらに別の人間を経由して01306まで伝わったらしい。00821にはそんな情報をわざわざ何人もの人間が伝え合う理由が理解できなかったが、01306にとって重要なのは情報の有用性ではなく、自分の知らなかったことを知ることそのものなのだろう。
「いい名前じゃない、サクラ。私、好きだよ」
00821は、翔子がそう呼んでいるだけで自分の正式な識別番号は00821だと訂正した。しかし01306は気にする様子もなく、むしろ少し羨ましそうに00821を眺めてから、周囲に職員がいないことを確かめるように声を落とした。
「昔はね、私たちにも名前があったんだって」
旧世紀には一般女性にも姓名があったことくらい、00821も基礎教育で習っている。しかし01306が面白そうに語り始めたのは、その先だった。
名前は単に国家が人間を識別するための記号ではなく、その人間自身に属するものと考えられていたこと。女性が自分の仕事を選び、労働によって得た財産を所有し、どこに住むのかを決め、自分の好みで衣服を購入することまで認められていたこと。国家や世帯管理者の許可とは関係なく、休日になれば行きたい場所へ出かけ、食べたいものを自分で選んで食べることさえ、一部の支配者にだけ認められた特権ではなかったこと。
そして01306は、「人権」という言葉を口にした。
すべての人間には、生まれながらにして国家にも他人にも侵害されてはならない一定の権利があるという旧世紀の思想で、そこからさらに、女性であることを理由に権利や待遇に差を設ける「女性蔑視」を問題視する考え方まで存在していたのだという。
00821には理解しにくい話だった。男女では生殖における役割が異なり、同じ性別であっても遺伝的価値や能力には差があるのだから、それぞれに異なる役割と待遇を与えることは合理的な区別であると教育されている。実際、能力も適性も無視して全員に同じ仕事を与えれば社会の生産性が低下することは、00821にも理解できた。
そう説明すると、01306は反論するでもなく、少し困ったように笑った。
「そうなんだけどね。でも、もし私たちがその時代に生まれていたら、毎日同じ服じゃなくて、自分で着たい服を選んでいたかもしれないでしょう。食堂で出されたものじゃなくて、今日はこれが食べたいって決めたり、仕事が終わったら海を見に行ったり。今なら第一階級しかできないようなことを、普通の女の人までしてたんだって」
そんな生活を大勢の人間が続け、欲望のままに資源を消費した結果として旧文明は崩壊したのだと00821は習っているし、同じ教育を受けた01306も知っているはずだった。それでも彼女は楽しそうに、自分なら赤い服を着てみたい、一度でいいから海を直接見てみたい、旧世紀には砂糖と乳脂肪を大量に使った菓子があったらしいから食べてみたい、と自分の役割とは関係のない願望を次々に話した。
ひとしきり話したところで、01306は00821の胸に記された番号を見て、それから顔を見た。
「だから、サクラって呼んでくれる人がいるのは、とても幸運なことだと思うよ。私だったら、きっと嬉しい」
そう言って01306は笑い、午後の仕事へ戻っていった。
*
その日の午後、00821はいつものように仕事をしていたが、どういうわけか01306の話したことが何度も頭へ浮かんだ。
清掃用具を運んでいる途中、もし自分で衣服を選ぶように言われたら何を選ぶだろうと考え、食事の時間には、支給されたものとは別に何かを食べたいと思った経験があっただろうかと記憶を探した。どちらにも答えは見つからなかったが、それまで考えようとしたことすらなかった問題を考えている自分に気づくと、胸の奥に小さな不安が生まれた。
消灯後になっても、それは消えなかった。
自分には必要のないはずの赤い服や海の景色を想像し、その合間に翔子から与えられた「サクラ」という呼び名まで浮かんでくる。昨日までは何の意味も持たなかったものが、01306の話を聞いただけで妙に気になるものへ変わってしまったことが、00821には恐ろしかった。
必要以上の好奇心や、現在の生活に存在しないものへの執着は、精神状態の悪化によって現れることがある。
そう教育されている。
00821は自分の状態をしばらく考えた末、枕元の管理端末を起動して健康相談を申請した。応答したAIに今日の出来事を説明し、01306が日常的に外部から来た人間へ話しかけて情報を集めていること、旧世紀の制度について頻繁に話していること、現在では認められていない生活を望むような発言をしていたことを、覚えている限り正確に伝えた。
AIからいくつかの確認を受け、それにも答えたあと、00821は少し迷ってから、自分なりの結論を付け加えた。
「01306は、精神疾患に侵されているのかもしれません」
管理AIは報告を受理し、適切に対処すると答えた。
その言葉を聞いた00821はようやく安心した。もし本当に病気なのであれば、早く発見されたほうが01306のためにも良い。明日になれば専門の職員が診察し、必要なら治療してくれるのだろう。
胸のざわつきが少し収まった。
00821は端末を閉じ、そのまま眠った。
*
翌朝、01306は食堂に来なかった。
採取室にも姿がなく、午後になっても見かけなかったため、00821は管理AIに所在を尋ねてみたが、返ってきたのは「当該個体に関する情報へのアクセス権限がありません」という回答だけだった。
おそらく治療を受けているのだろう。
そう考えることにした。
翌日も01306は戻らなかったが、00821には自分の仕事があり、採卵があり、健康管理があり、毎日決められた予定がある。三日も経つころには彼女のことを考える時間は少なくなり、五日目には食堂に空いた一席を見ても何も感じなくなった。
一週間が過ぎるころには、01306がそこにいたことさえ日常から薄れ始めていた。
*
一週間ほど経った朝、別の区域から新しい生殖世帯構成員が一人配属された。
番号はK-SM-11306。
長い黒髪に整った目鼻立ちをした女で、初めてその顔を見たとき、00821は以前にもどこかで会ったことがあるような気がした。けれど、それがいつ、どこであったのかは思い出せなかったし、そもそも別の区域で生活していた構成員なのだから、実際に会ったことがあるはずもない。遺伝的に近い個体であれば容姿が似ることも珍しくないため、00821はそういうことなのだろうと納得した。
11306は温厚で物静かな女だった。必要なことだけを話し、外部から来た職員に以前の生活を尋ねることもなければ、自分には関係のない噂を集めることもない。支給された衣服を着て、用意された食事を美味しいと言って食べ、仕事を終えれば指定された居室へ戻る、ごく普通の構成員だった。
何日かして食堂で隣り合わせになったとき、11306は今日の培養肉は柔らかくて美味しいですね、と穏やかに笑った。
その笑顔を見た瞬間、00821は胸の奥にごく小さな違和感を覚えた。
同じ顔で、もっと楽しそうに笑う人を知っていたような気がした。
しかし、思い出せなかった。
考えているうちに頭が少し重くなったので、00821は食事へ意識を戻した。昨夜は十分な睡眠を取ったはずだが、採卵後には一時的な倦怠感が出ることもあると健康教育で習っている。きっとそのせいだろう。
その日の健康状態は良好で、社会貢献評価にも異常はなかった。夕食後には十五分間の娯楽番組を見て、明日の予定を確認してからベッドへ入った。
消灯すると、また何かを忘れているような感覚がした。
女の声だったように思う。
赤い何かについて話していた気もするし、海だったような気もする。もう少し考えれば思い出せそうだったが、そのたびに意識の表面を滑るように記憶が遠ざかり、代わりに説明のつかない不安だけが残った。
00821はしばらく天井を見ていたが、やがて考えることをやめた。必要のないことを考え続けるのは精神衛生上好ましくないし、明日は十三個の採卵が予定されている。十分な睡眠を取ることのほうが大切だった。
隣の居室では、新しく来た11306が眠っている。
穏やかで、従順で、健康で、余計なことを知りたがらない、ごく普通の女だった。
そのことに安心しながら目を閉じたとき、00821の頭に、なぜか一つだけ言葉が浮かんだ。
サクラ。
何のことだったか考えるより先に眠気が訪れ、その言葉もすぐに消えた。




