サクラ
岩屋翔子は九歳になった。
誕生日には父から最新型の携帯端末を、十八歳の兄からは世界大戦以前に出版された紙の図鑑をもらったが、翔子が一番喜んだのは、海外で暮らしている姉から届いた映像だった。
今年二十歳になる姉とは十一も歳が離れている。幼い頃から海外の教育機関で暮らしているため、直接会えるのは年に一度あるかどうかだったが、翔子は姉が好きだった。父や兄たちが翔子の成績を褒めるときは、決まって「さすが岩屋の子だ」と言うのに対し、姉だけは翔子が覚えた歌や、庭で見つけた虫や、読み終えた本の話を聞いてくれた。
だから庭で初めてK-SM-00821を見たとき、姉に似ていると思った。
顔そのものはそれほど似ていない。それでも黒い髪と細い身体、少し伏し目がちに歩くところや、笑うときに口元をわずかに緩める癖が姉を思わせた。
名前を尋ねると、女はK-SM-00821と答えた。
翔子はそれが名前ではないことを知っていた。学校では識別番号の構造についてすでに習っている。Kは出生時期、SMは所属区域、その後に続く数字が個体を識別するための番号であり、そこに本人の意思が介在する余地は一つもない。
だから名前をつけた。
サクラ。
姉が海外へ行く前、二人で眺めた旧庭園の花の名前だった。
*
それから翔子は、屋敷で00821を見かけるたびに「サクラ」と呼んだ。
00821は必ず振り返り、「おはようございます、翔子様」と穏やかに応じてくれるので、最初は名前を気に入ってくれたのだと思った。しかし何度会っても、自分からサクラと名乗ることはなく、翔子がその名前について尋ねても「良い響きだと思います」と曖昧に微笑むだけだった。
その笑顔が、だんだん嫌いになった。
嫌われているわけではない。むしろ00821はいつも親切だった。翔子が落とした本を拾ってくれたこともあるし、庭で転んだときには膝の傷を確認して医療室まで連れていこうとしてくれた。
けれど、何を話しても彼女自身のことだけが返ってこない。
好きな食べ物を聞けば、支給されるものはどれも栄養基準を満たしているから不満はないと言う。好きな色を聞けば、衣服は指定品なので考えたことがないと言う。行きたい場所を聞けば、移動許可があればどこへでも行くと言った。
そこで翔子は質問の仕方を変えた。
「許可とか仕事とか関係なくて、サクラ自身はどこに行きたいの?」
00821はしばらく考えた。
質問の意味が分からないのではない。翔子にはそう見えた。
意味は理解している。
理解したうえで、自分の中から答えを探している。
それなのに、何も見つからない。
「特にありません」
やがて00821はそう答えて、また微笑んだ。
翔子はそれ以上聞かなかった。
*
十八歳の兄は、岩屋家の中では翔子が最も話しやすい相手だった。
兄弟姉妹が何人いるのか、翔子自身も正確には把握していない。父の遺伝情報から生まれた者まで含めれば数千人になると聞いているが、その中で同じ屋敷に暮らし、なおかつ翔子を妹として扱ってくれる兄は多くなかった。
その日、兄は翌年から入る高等教育課程の教材を読んでいた。
翔子は向かいに座り、しばらく兄が勉強するところを眺めてから00821の話をした。
名前をつけたこと。
何を聞いても自分の希望を言わないこと。
遊びたいことも、行きたい場所も、好きなものもないこと。
話しているうちに兄の表情が少し困ったものに変わった。
「あれらは僕たちとは違うんだよ」
兄はそれ以上詳しく説明しようとせず、翔子が何が違うのかと尋ねても、まだ九歳のお前には難しい、と笑った。
翔子は納得しなかった。
兄は昔から、説明できないことを「難しい」と言って誤魔化す癖がある。
それでも食い下がろうとすると、兄は話を終わらせるように翔子の頭を二度軽く叩いた。
「お前は優秀で良かったな」
兄に悪意がないことは分かっていた。
だから余計に、その言葉が気になった。
*
翔子は自分が優秀であることを知っている。
同年代より記憶力が高く、論理試験ではほとんど間違えない。九歳ではまだ必要ないという理由で閲覧を制限された教材にも興味を持ち、教師へ質問を繰り返した結果、十一歳課程の一部まで履修を許されていた。
その教育の中で、現在の社会制度についても学んでいる。
人間には能力差がある。
資源には限りがある。
文明崩壊以前、人類は感情や欲望を優先して資源を浪費し、人口と生産の均衡を崩した。
だから中央AIが個体ごとの能力を測定し、最も効率的な場所へ配置する。
適性に応じて役割を与えることは差別ではなく合理であり、それによって現在の平和な社会が維持されている。
翔子は試験でその通りに回答した。
満点だった。
けれど、満点を取れる程度に内容を理解していたからこそ、一つだけ分からないことがあった。
00821は生殖適性Aだと言った。
ならば彼女は、その分野において優秀な個体ということになる。
父が優秀な遺伝情報を持っているから多くの子供を作ることを許されているのであれば、同じように優秀な00821も尊重されなければ理屈が合わない。
ところが父には岩屋宗一郎という名前があり、00821には番号しかない。
父は仕事を選べる。
00821は選べない。
父は百人を超える妻を持つことができる。
00821は自分の卵子が誰と組み合わされるのかすら知らされない。
能力に応じて役割が異なることは理解できる。
しかし、役割が違うことと、人間として持っているものまで違うことの間には、説明されていない何かがある。
翔子にはそれが分からなかった。
そして教師に尋ねても、おそらく教科書と同じ答えしか返ってこないだろうということまで、なんとなく分かってしまった。
*
翌朝、廊下で00821を見つけた。
「サクラ」
呼びかけると、00821は足を止め、いつものように穏やかな笑顔を浮かべた。
翔子はその顔を見ながら、昨日ずっと考えていたことを尋ねた。
「サクラって優秀なんだよね?」
「生殖適性はA判定をいただいていますので、その意味では高い評価を受けています」
「だったら、どうして名前がないの?」
00821は黙った。
初めて答えに困らせたと思った。
ところが少しして返ってきたのは、翔子が期待していたものとはまるで違った。
「必要がないからだと思います」
00821は胸元の番号を指先で示した。
医療、配給、就労、移動許可、生殖細胞の管理、そのすべてをこの番号だけで行うことができるので、別の呼称を持つ必要性を感じたことがないのだという。
その説明には矛盾がなかった。
むしろ合理的だった。
だから翔子は困った。
合理的なのに、何かがおかしい。
翔子はその違和感をまだ言葉にできなかった。
*
午後、庭のベンチから00821が働いているところを眺めた。
落ち葉を集め、袋へ入れ、指定された場所まで運び、また戻ってくる。
同じことを何度も繰り返している。
やがて別の作業員から何かを指示されると、00821は頭を下げて屋敷へ戻っていった。
姉だったらどうするだろう、と翔子は考えた。
姉には好きな服がある。
好きな食べ物がある。
嫌いな教師がいる。
将来やりたい仕事について父と喧嘩したこともある。
それらは全部、学校では非合理的な感情に分類されるものなのかもしれない。
けれど姉からそれらを全部取り除いて、言われたことだけをして、何を聞いても「不満はありません」と答えるようになった姿を想像すると、翔子は嫌だった。
庭の向こうを歩く00821を見る。
やっぱり姉に似ている。
なのに00821は、自分に何もないことを不幸だと思っていない。
名前がないことも。
自由がないことも。
自分の卵子から生まれる子供を見ることができないことも。
本人が悲しんでいないのだから、悲しいことではないのかもしれない。
学校で習った合理性に従えば、そういう結論になる。
それでも翔子は、どうしてもそう思えなかった。
やがて00821の姿が屋敷の中へ消えた。
誰もいなくなった庭で、翔子は膝を抱えた。
そして、教科書には一度も書かれていなかった言葉を小さく呟いた。
「……かわいそう」




