00821
午前六時、天井を覆う発光材がゆっくりと白み始めるのと同時に、K-SM-00821は中央管理AIから規定睡眠時間を二分超過したこと、本日の健康状態に異常がないこと、そして卵巣の状態から十四個の採卵が予定されていることを告げられた。
二分の超過は軽微なものだったが、明日も同じことを繰り返せば生活評価に影響するかもしれないので、00821はベッドから起きると洗面台へ向かい、鏡の前で髪を整えた。
黒髪、黒い瞳、二十三歳、身長百五十八センチ。遺伝子評価B+、生殖適性A、慢性疾患なし。
鏡に映っているものについて、それ以上の情報を00821は必要としていなかった。
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岩屋邸には百十二人の妻が暮らしている。
正式には第一種生殖世帯構成員と呼ばれる女たちだが、世界大戦以前の言葉を好む岩屋宗一郎は彼女たちを今でも「妻」と呼び、その古風な習慣を咎める者は誰もいなかった。
百三十一歳になる岩屋は、旧世界では政治家であり、地方一帯の土地と企業を所有していた豪族の出身でもある。戦後の国家再編に参加した功績に加え、S評価を受ける遺伝情報の保有者であることから、何度も高額な再生医療を受け、すでに彼の遺伝情報を用いて二千八百人以上の市民が生産されていた。
朝食へ向かう途中、その岩屋と廊下ですれ違った。
00821が頭を下げると、岩屋は軽く手を上げて応じ、その後ろから首輪をつけた二人の女が静かについていった。
二人とも生殖機能を喪失して市民登録を抹消された廃棄個体であり、岩屋はそのような女を何人か引き取って私的に飼育していた。生殖資源としての価値を失った個体の再利用について法律はほとんど関心を示さず、岩屋が何のために彼女たちを飼っているのかも邸内では公然の事実だったが、00821がそれについて深く考えることはなかった。
一人と目が合った。
すぐに女が視線を落としたので、00821もそのまま食堂へ向かった。
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朝食には豆類から作られた合成パンと、L-184と印字された培養肉が出た。
向かいに座った00904は昨日のものより柔らかくて美味しいと言い、00821も同意したが、二人ともL-184が何の細胞系列から作られたものなのかまでは知らなかったし、知ろうとも思わなかった。
壁面モニターでは朝のニュースが流れ、今年度の人口再生率が前年比3.8パーセント増加し、第三北部育成施設の増設によって年間十八万個体の追加育成が可能になると報じられていた。
その直後には旧都市圏における無許可性交の摘発件数が十二パーセント増加したというニュースが続き、連行される男女の映像を見た00904が露骨に嫌そうな顔をした。
「自分の身体で子供を作るなんて、怖くない?」
00821はパンをちぎりながら少し考え、怖いというより非効率だと思う、と答えた。
00904もそれで納得したらしい。
二人にとって性交とは、かつて人間が好きになった相手と子供を作るために行っていた旧時代の生殖方法であり、現代人が井戸水を消毒せずに飲んでいたという話と同じくらい、わざわざ試してみたい理由の分からない習慣だった。
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採取室は身体を冷やさないよう二十五度に保たれ、00821がいつもの白い椅子へ座ると、担当職員は健康記録を確認してから処置を始めた。
予定より一つ少ない十三個で終わったが許容範囲内だった。
透明な容器が機械へ運ばれていくのを眺めながら、00821はふと、採取された卵子が誰の精子と組み合わされるのか尋ねた。
「中央AIが決めます。岩屋様のものが選ばれる可能性もありますよ」
担当職員にそう教えられると、00821は少し嬉しくなった。
岩屋はS、自分はB+である。
単純な足し算ではないことくらい教育課程で習っていたが、それでも岩屋の遺伝情報と組み合わせてもらえれば、自分の卵子からA評価の個体が作られる可能性は高くなる。
市民登録されるといいですね、と職員が言った。
00821もそう思った。
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昼過ぎ、庭の清掃をしていると、十歳ほどの少女に呼び止められた。
衣服から岩屋一族の子供だと分かった。
第一階級に属する人間には番号だけでなく姓と名が与えられるため、彼女にも当然それがあるのだろう。
「あなた、名前ないの?」
個体番号を教えた00821に少女は不思議そうな顔をした。
00821にとっては質問の意味がよく分からず、00821という識別子がすでにあるのだから別の呼称を持つ必要はないと説明したものの、少女は納得しなかった。
「じゃあ私がつけてあげる。サクラ。昔の花の名前なんだって」
サクラ。
発音してみると短くて覚えやすかったので、00821は悪くないと思った。
少女は満足そうに笑って走っていき、間もなく端末から清掃区域Bへの移動指示が届いたため、00821も仕事へ戻った。
一時間後には、サクラという言葉をほとんど思い出さなくなっていた。
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夕方、廊下の隅に朝見かけた廃棄個体の一人が座っていた。
首輪が外され、女はそこに手を当てている。
00821が規則違反を指摘すると、女は少しだけだからと答えた。
首には赤い跡が残っていた。
「痛むなら医療申請をしたほうがいいですよ」
「通らないよ。廃棄だから」
それを聞いて00821は納得した。
医薬品も医師も無限に存在するわけではなく、市民登録を抹消された個体より、生産活動に従事している市民へ医療資源を優先するのは当然のことだった。
ところが女は00821の胸に印刷された個体番号をしばらく眺めたあと、羨ましそうに笑った。
「あなたはいいね。まだ番号がある」
00821は胸元を見下ろした。
K-SM-00821。
「なくさないほうがいいよ。絶対に」
「健康には気をつけています」
00821がそう答えると、女は奇妙な顔で笑った。
何がおかしかったのかは分からなかった。
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その日の夜、端末に生殖細胞利用報告書が届いた。
採取された十三個のうち十一個が受精に成功し、一次評価ではAが一個、Bが三個、Cが四個、規格外が三個。
そしてA判定を受けた個体の父系番号には、IW-S-00001と記されていた。
岩屋だった。
00821は思わず身体を起こした。
自分の卵子と国家最高水準の遺伝情報からA評価が生まれ、その個体は中央第一育成施設へ移送されることが決まっている。B評価の三個も標準育成施設へ送られ、C評価の四個は人口需要に応じて育成の可否が決められ、規格外三個は生体資源転用工程へ回される。
十一個のうち、少なくとも四個は人間になれる。
それは十分に良い成績だった。
00821は少し誇らしい気持ちで確認ボタンを押し、報告書を閉じた。
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消灯時刻になると、AIが今日の社会貢献評価は八十七点だったと告げた。
健康状態にも異常はなく、明日は十二個の採卵が予定されている。
悪くない一日だった。
暗くなった天井を眺めているうちに、00821は昼間の少女から何かをもらったことを思い出した。
物ではない。
言葉だった。
少し考えてから、ようやく思い出した。
「サクラ」
声に出してみる。
悪くない響きだと思った。
しかし、それをどこで使えばいいのか分からなかった。
仕事では00821と呼ばれる。
病院でも00821。
配給を受けるときも、住居を移るときも、いつか生殖能力を失って廃棄判定を受けるときも、必要なのは00821という番号であって、サクラではない。
名前がなくても、これまで何一つ困らなかった。
ならば、やはり必要ないのだろう。
遠くから女の声が聞こえた。
朝見た廃棄個体なのか、それとも別の女なのかは分からない。
岩屋の居住区から聞こえてくるような気もしたが、明日は十二個の採卵が予定されており、睡眠不足によって品質評価を下げるほうが00821には重大な問題だった。
やがてAIが騒音を検知し、自動的に壁の遮音機能を作動させた。
声が消えた。
静かになった部屋で00821は目を閉じ、明日も良い卵子が採れますようにと、誰に祈るでもなく思った。
サクラという言葉は、それきり思い出さなかった。




