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距離

「いつかこうなるとは思っていたけどね。まさかあのブタに引導を渡すのがお前とはね」


 画面の向こうで足を組んだ男が、いかにも楽しそうに嗤った。


 翔子はコーヒーの入ったカップに口をつけると、ため息混じりに首を振る。


「兄さん、人聞きの悪いことを言わないでちょうだい。私はただ、事実をまとめて報告しただけよ」


 始まりは、00821が抱いた小さな違和感だった。


 翔子はまず、自室前に設置された監視カメラの記録を確認した。


 そこには、扉の前で足を止め、中の会話に耳を澄ませている10790の姿が残されていた。


 次に管理AIの記録を調べると、10790が00821の最近の情緒の変化について相談していた履歴が見つかった。


 00821のメンタルチェックが突然十八項目に増えた理由は、それでほぼ判明した。


 問題は、なぜ10790がそんなことをしたのかだった。


 翔子は10790の行動記録を遡った。


 そこで初めて、彼女が共同管理者である達雄と、通常とは異なる主従関係に置かれている可能性に気づいた。


 だから十二人全員を食堂へ集めた。


 表向きは日ごろの労をねぎらうための慰労だったが、一人ずつ直接顔を見て話すことも目的のひとつだった。


 10790は明らかに憔悴していた。


 首筋に残っていた赤い跡を見つけ、袖の下まで確認した時点で、翔子の中では疑いが確信に近いものへ変わった。


 その後、10790本人への聴取を行い、直近の達雄の端末に残されたログも調査した。


 それらを整理し、中央管理AIへ報告した。


 翔子がしたことといえば、それだけである。


 強いて付け加えるならば、達雄の現在の行動を過去の素行、教育記録、社会的評価などと比較し、現状のまま第一階級としての権限を維持させた場合に予測される不利益と、岩屋家の社会的信用を損なう危険性について、補足資料を添付した程度だ。


 もちろん。


 それを読んだ中央管理AIがどのような判断を下すのか。


 翔子は、最初から分かっていた。


「いやはや、末恐ろしいね。僕としては妹が優秀に育ってくれて嬉しい限りだけどさ」


「褒め言葉として受け取っておきましょうか」


 翔子は涼しい顔で、もう一度コーヒーに口をつけた。


 「でも事実、これで岩屋の家の人間が一人消えたことになる。どうなるんだろうね?」


 兄は画面の向こうで、他人事のように首を傾げた。


「僕の予想だと、施設で頭を弄られて岩屋とは無縁の第二の人生。そうでなければこの先一生、優秀な遺伝子を提供する家畜ってところかな? どっちにしろ岩屋達雄という個人にとっては死と同義だけどね」


 そこで一度言葉を切り、愉快そうに口元を歪める。


「全く良い性格してるよ。あ、褒めてるからね」


「興味ないわ。用事が終わったのなら、もう切るわよ。人を待たせてるの」


「人?」


 兄はわずかに眉を上げた。


「まあいいや。翔子はあまり入れ込まないようにね」


「余計なお世話よ」


 なおも楽しそうに笑っている兄を見て、翔子は苦々しげに通話終了のボタンを押した。


 残っている兄弟の中では、一番まともだと思っている兄でさえこの性格である。


 翔子は残っていたコーヒーを勢いよく飲み干した。


 まったく、どいつもこいつも。


 カップを置いて立ち上がると、そのまま扉まで歩いていく。


 そして、先ほどまでとは打って変わった声で扉の向こうへ呼びかけた。


「入っていいわよ」


「失礼いたします」


 がちゃり、と扉が開き、サクラが部屋へ入ってくる。


 ただ彼女が入ってきただけで、先ほどまで部屋に残っていた張り詰めた空気が、嘘のように解けていった。


 控えめな笑顔を見るたびに、こちらの顔も自然と綻ぶ。


「待たせて悪かったわね。突然、兄から電話が入ってきたものだから」


「いえ」


「あれから仕事の方はどう? 特に変わったことはない?」


「ええ、大丈夫です」


「なら良かった」


 それを聞いて、ようやく肩の力が抜けた。


「ねえ、こっちに来て。今日は何だか、サクラの近くにいたい気分なの」


「喜んで。失礼します、お嬢様」


 サクラが隣へ腰を下ろす。


 入れ込むな、か。


 まあ、兄は何も知らないのだ。


 私は達雄とは違う。


 きちんと距離を保てているし、何よりサクラを大切にしている。


 サクラだって、きっとそれを望んでいる。


 だからいつものように身体を預け、その膝へ頭を載せる。


「ねえ、サクラ」


「何でしょうか」


「ずっと、私のそばにいてね」


 返事はなかった。


 その代わり、サクラは膝の上に載せた私の頭へ手を伸ばし、いつものように優しく髪を撫でてくれた。


 それだけで十分だった。


 私は今、もの凄く幸せだ。



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