10790
一月の療養期間を経て、10790が屋敷へ戻ってきた。
軽度の記憶洗浄とメンタルケアだけで復帰できたことは、10790本人にとって、また翔子にとっても幸運だった。
翔子は、達雄から受けた行為の一部始終を知っている。
そのため治療に際しては、必要であれば関連する記憶丸ごと忘却し、その補完まで行うことも視野に入れていた。
しかし、記憶へ大きく干渉すれば、それだけ人格が損なわれる可能性も高くなる。
達雄に施されたような大幅な人格改変にまで至らずとも、00821や他の同僚が以前との違いに気づく可能性はある。
何より、処置の程度によっては識別番号が変わる。
そうなれば、情緒や感情の成長が著しいサクラにどのような影響を及ぼすか分からない。
今の自分の手元に置いておくことは難しくなるだろう。
10790の治療履歴と最新のバイタルデータを確認し終えると、翔子は小さく息をついた。
達雄から受けた行為と、それに伴って生じた強い負の感情については一通り処置されている。
それ以外には極力手を加えず、以前と同じ環境、同じ業務へ戻す。
それが10790に対して自分のできる、せめてもの誠意だった。
「……ひとまず、これで全部片付いたわね」
翔子は背もたれに身体を預けた。
普段からほとんどを自室で過ごしているとはいえ、決して暇なわけではない。
オンラインでの講義や仮想空間を利用し、すでに海外の大学課程まで履修している。加えて岩屋家の人間として学ぶべきことも多く、こう見えて日々の予定はかなり詰まっていた。
そんな中で起きた今回の一連の騒動は、いつもより少しだけ歯応えのある出来事だった。
もっとも、苦痛だったかと問われれば、そうでもない。
いずれ大きな責任を負う立場になる者として、果たすべきことを果たしたという使命感の方が強かった。
自分の管理下にある者を守ることができた。
そして何より、自分にとって代え難い存在となりつつあるサクラを、間接的にでも守ることができた。
そのことを翔子は、少し誇らしく思っていた。
一息入れて、壁に掛かった時計を見ると針は十三時を少し回ったところだった。
祖父の宗一郎然り、今や再生医療の進歩によって、富裕層は百歳を越えても自分の足で歩くどころか、スポーツまで楽しめる身体を手に入れている。
先日受けた講義では、教授がこんなことを言っていた。
「技術の進歩によって、人類は時間すら超克しつつある」
翔子からすれば、まったく滑稽な話だ。
技術が進歩しなければ、旧時代の人類が自ら生み出した兵器によって滅亡寸前まで追い込まれることもなかった。
そして数百年前を生きた人々の記録を読めば、現代よりも遥かに自由に、感情豊かに暮らしていたことが分かる。
それが幸福だったのかと問われれば、翔子にも判断はつかない。
戦争もあった。貧困もあった。飢餓も、差別も、病もあった。
過去を美化するつもりはない。
ただ、少なくとも「人類が時間を超克した」という言葉が、すべての人類を指していないことだけは確かだった。
サクラを含め、世界人口の大多数にとって、百年を越える生など初めから想定されていない。
社会から与えられた役割を失えば、苦痛も恐怖もなく、安寧のうちに人生を閉じる。
それが幸福なのだと教えられている。
必要以上に長く生きることは、むしろ不幸なことなのだと。
長寿を許された者たちによって作られた価値観の中で、彼女たちはそう信じて生きている。
果たして、それを十全に生きていると言えるのだろうか。
「…………」
翔子はふと我に返った。
いけない。
少し余計なことを考えすぎたかもしれない。
もう一度時計を見る。
いつの間にか、長針は一番下を指していた。
どれほど寿命が延びようと、一日は二十四時間しかない。
無為に過ごすのは惜しい。
今日は午後の講義もないし、サクラが訪ねてくるまでにはまだ時間がある。
(10790のことも気になるし、散歩がてら様子を見に行こうかしら)
そう思い立つと、翔子は椅子を離れ、薄手のニットを羽織った。
*
10790は昼食を終えたあと、プログラムに沿って午後の体力測定を終えたところだった。
復帰してからまだほんの数日しか経っていない。
それでも以前より遥かに身体が軽く、調子も良かった。
実際、復帰前の測定値と比較すれば一目瞭然である。むしろ今までなぜこの程度の数値が出せなかったのか、不思議に思えるほどだった。
「すごいですね、10790。また自己新記録ですよ」
同僚の00821が、モニターを横目に声をかけてくる。
「ありがとうございます、00821。休んでいる間、皆さんにもご迷惑をかけてしまったので、もっと頑張らないと」
「ふふっ。でも、また頑張りすぎて無理をしないでくださいね。お嬢様も、貴女の復帰をそれはもう喜んでいましたから」
00821がくすりと笑う。
それを見て、10790は少し身構えていた身体から力が抜けるのを感じた。
復帰した直後は、長期の離脱で周囲に迷惑をかけてしまったのではないかと不安だった。
しかし意外なことに、皆は温かく迎えてくれた。
とりわけ自分の復帰を喜んでくれたのが、00821だ。
同じ構成員という立場ではあるものの、00821は皆から一目置かれている。
もともと当主付きだった構成員であり、10790と比較しても遺伝子情報は優秀で、生殖適性も高い。
そのせいだろうか。
以前は彼女に対して、どこか苦手意識に近いものを抱いていたような気がする。
けれど、実際にこうして話してみると、00821には生来の優秀さとは別に、人を惹きつける何かがあった。
翔子様が彼女を可愛がるのも納得できる。
勝手に比較して、疎んじていた自分が恥ずかしい。
……はて?
10790はわずかに眉を寄せた。
彼女に気後れすることはあっても、疎んじていたことなどあっただろうか。
そもそも療養前の自分は、達雄付きの構成員だった。
それなりに大切にされていたし、少なくとも当時の待遇に不満を抱いていた記憶はない。
ならば。
なぜ自分は、一月もの長期療養を必要とするほど体調を崩していたのだろう。
「……10790、どうかしましたか?」
00821の声で、はっと我に返った。
顔を上げると、不安そうな表情でこちらを覗き込む彼女の姿があった。
「あ、ああ、ごめんなさい。何でもないわ」
「そうですか……ならいいのですが。まだ病み上がりですし、今日はもう切り上げた方がいいのでは? 私、何か飲み物を持ってきますね」
少し心配そうな笑みを浮かべながら、00821が飲み物を取りに行く。
その背中を見送りながら、10790は苦笑した。
どうやらまだ、自分は全快というわけでもないらしい。
まあ、過ぎたことはいいか。
それよりも今は、自分の居場所へ無事に戻ってこられたことへの安堵の方が大きかった。
それに、自分を気にかけてくれる優しい同僚と、以前より少しだけ親しくなれたような気もする。
そのことの方が、今の10790には遥かに大切であるように思えた。




