休養
「翔子はクラシックだな」
中学へ進学する少し前、比較的仲の良かった大学生の兄から、そんなことを言われたことがある。
当時の翔子は、旧時代の紙の書籍やゲーム盤などを好んで集めていた。そのことを指しているのだろうと思い、特に深く考えることはなかった。
しかし、年齢を重ね、自分にできることや与えられる裁量が増えていくにつれて、どうやら自分は趣味だけでなく、思想そのものが旧時代的なのではないかと感じることが増えてきた。
その一部が、かつての姉から受けた影響であることは間違いない。
同時に、自分の骨董趣味も少なからず影響しているのだろうと翔子は考えている。
例えば、旧時代の西洋には「ノブレス・オブリージュ」と呼ばれる道徳観があった。
当時の言葉で直訳するならば、『高い地位には義務が伴う』という意味である。
それが生まれたのは、現在のように、過去の過ちを繰り返してこれ以上生態系や人口体系を破壊しないための規範が整備されるよりも、はるか以前のことだ。
人類がまだ国という単位に分かれ、それぞれ異なる統治機構のもとで生活していた時代である。
にもかかわらず、高い地位と大きな権限を持つ者には、それに相応する責任と義務が生じるという思想が生まれ、一定の市民権を得ていた。
AIによって人類の生存を維持するための最適解が導き出されるよりも遥か昔、コンピューターすら存在しなかった時代の人間が、自分たちだけでそこへ辿り着いていた。
翔子は、そこに浪漫を感じていた。
おそらく兄は、早くから自分のこうした気質にも気づいていたのだろう。
骨董品が好きだから、というだけではない。
その上で自分を「クラシック」と評したのだとすれば――
「なるほど。確かにその通りかもしれないわね」
翔子は誰もいない部屋で、一人納得したように頷いた。
もちろん、この思想を盲信しているわけではない。
それでも岩屋の家系に生を受け、その恩恵を享受している以上、自分には与えられた権力を正しく振るう責任があると翔子は考えていた。
祖父である宗一郎について、翔子が直接知っているのは老いてからの姿だけだ。
個人として好ましい人間だったとは到底思えない。
しかし、その功績については膨大な記録が残っている以上、偉大であったと評価せざるを得なかった。
戦後から今日に至るまでの日本の復旧。基幹インフラの再建から、現在の社会制度の構築に至るまで、そこには幾度となく岩屋宗一郎という名前が登場する。
その名がなぜこれほどの力を持っているのか。
十分すぎるほどの理由があった。
その上で、だ。
翔子はVR上に表示された端末から、岩屋家のデータベースへアクセスした。
秘匿情報というほどのものではない。いわば家族の経歴書のようなもので、直系の人間であれば容易に閲覧できる。
翔子自身、ろくに会ったことも話したこともない兄弟達に情など感じるはずもなかった。
それでも同じ岩屋の名を持ち、その血によって特権を与えられている以上、それぞれに果たすべき責任がある。
その特権を享受しておきながら、果たすべき責任を果たそうとする姿勢すら見せない。
翔子にとって、それは単なる怠慢ではなかった。
世界に対する反逆である。
「おー、恐ろし恐ろし」
翔子はふん、と鼻を鳴らした。
そして、つまらなさそうに決定のボタンを押す。
「ノブレス・オブリージュ、なんてね」
冗談めかして独りごちてみる。
正面の鏡には、自分の顔だけが映っていた。
笑っている者は、誰もいなかった。
*
慰労会の日から、二週間が経った。
あれ以降、翔子の言ったとおり、管理AIによるメンタルチェックは以前と同じものに戻っていた。心なしか、身体の調子も以前より良い。
何より、先週の採卵も問題なく行うことができた。
それは00821という個体が、中央AIから正常に機能していると診断された証拠でもある。
ただ、気になることもあった。
一昨日から、10790が体調不良を理由に業務を休んでいるのだ。
確かにあの日からずっと顔色が悪く、肌も荒れていた。
自分たち第一種生殖世帯構成員にとって、体調やホルモンバランスを良好な状態に保つことは、何よりも優先すべき職務である。体調不良を理由とした休養自体は、何も珍しいことではない。
むしろこれまでの10790の様子を思えば、遅すぎたとさえ感じる。
ただ、それを差し引いても、一人の構成員に一月もの休養期間が設定されるというのは、少なくとも00821の記憶にはなかった。
先輩の00695が言うには、このように長期間の休養が設定された構成員は、そのまま戻ってこないことも多いらしい。
そして今朝の朝礼では、もうひとつ大きな変更が告げられた。
これまで十二名だった構成員に新たな一名を加えた十三名が、今後はすべて翔子一人の管理下に置かれることになった。
説明によれば、これまで六名を共同で管理していた翔子の兄、達雄が、心労のため施設で長期療養に入ることになったらしい。
10790といい、達雄といい。
こうも立て続けに似たようなことが重なると、否が応でも少し不安になる。
「00821は幸せですね。あんな素敵なご主人様がいて」
ふと、数日前に10790から言われた言葉を思い出した。
なぜだろう。
あのときは意味が分からなかったその言葉が、今になって00821の心を少しだけ重くしていた。
「……貴女のご主人も、お嬢様ですよ」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟く。
返事はなかった。
もし10790が戻ってきたら、今度はもう少し話をしてみよう。
なぜそう思うのか、自分でもはっきりとは分からない。
それでも00821は、何となくそうしたいと思った。




