真相
屋敷での業務を終え、00821がいつものように翔子の寝室へ向かおうとしたときだった。
「あの……」
不意に背後から声をかけられ、足を止める。
振り返ると、そこには昼間、翔子と何かを話していた10790が立っていた。
話すのが初めてというわけではない。ただ、普段担当している業務が違うこともあり、こうして向こうから呼び止められることは珍しかった。
「何かご用ですか?」
「いえ、あの……」
10790は言い淀んだ。
00821がそのまま待っていると、やがて意を決したように口を開く。
「翔子様のところへ行かれるのですよね?」
「はい」
「あの、昼間のことで……お礼をお伝えいただけたらと思いまして」
「はあ……あ、いえ。承知しました」
何に対する礼なのかは分からなかったが、00821は頷いた。
それよりも、先ほどから10790の様子が気になった。
どこか歯切れが悪い。
目の下には薄く隈ができている。あまり眠れていないのか、肌も少し荒れていた。
昼間、翔子が彼女を気にかけていた理由が、少し分かったような気がした。
「あの……失礼ですが、どこか具合でも悪いのではないですか?」
「え?」
「顔色があまり優れないようですので。体調が悪いときは無理をなさらず、休養申請をしてくださいね」
そう告げると、10790はしばらくきょとんとしていた。
それから、どこかばつが悪そうに笑う。
「翔子様にも、昼間そう言われました」
「ああ……でしょうね」
自分でも気づく程度のことを、翔子が見落とすはずがない。
そう思うと同時に、昼間から引っかかっていたものが少しだけ取れたような気がした。
その顔を見て、10790が少し寂しそうに笑った。
「貴女は幸せですね。あんな素敵なご主人様がいて」
「ええ、そう思います」
00821は素直に頷いた。
少しだけ誇らしい気持ちになってから、ふと首を傾げる。
「……というか、貴女の主人もお嬢様なのでは?」
考えてみれば、おかしな言い方だった。
10790も翔子の管理下にある構成員なのだから、まるで他人の主人について話しているような言葉を使う理由が分からない。
「……ええ、そうですね」
10790は目を伏せた。
それから何かを噛み締めるように、もう一度呟く。
「その通りです」
そのときだった。
顔を傾けた拍子に10790の襟元がわずかにずれ、右の首筋が覗いた。
うっすらと、赤い跡のようなものが見えた。
「引き留めてしまってごめんなさい。それじゃあ、お疲れ様」
「あ、はい。お疲れ様です」
10790は軽く頭を下げると、そのまま00821の横を通り過ぎていった。
翔子が昼間見ていたものは、あれだったのだろうか。
00821はその場に立ったまま、遠ざかっていく10790の背中を目で追った。
なぜだろう。
その後ろ姿はひどく寂しげで、少し触れただけでも壊れてしまいそうなほど、脆いもののように思えた。
*
部屋の前でノックをすると、珍しく翔子の方から扉を開けて迎え入れてくれた。
「お疲れ様、サクラ」
椅子を勧められることには、今でも少し慣れない。
だからといって断っても翔子はいい顔をしないので、00821は黙って腰を下ろした。
翔子は00821が座ったあと、その向かいに腰掛け、膝から下にブランケットを掛けた。
「昼間のお菓子は楽しんでいただけたかしら? 貴女の好みに合っていたと思うのだけれど」
口元を手で押さえながら、翔子がくすりと笑う。
また少し、胸の奥が温かくなった。
「ありがとうございます。大変美味しくいただきました。そういえばその件で、先ほど10790からも、お嬢様にお礼を伝えてほしいと言われました」
「10790が?」
そう口にした途端、翔子はぴたりと笑うのをやめた。
ほんの少しだけ、表情が真剣なものへ変わる。
「彼女と何か話した?」
「いえ、特には……。ただ、体調が悪そうでしたので休むようにお伝えしたのと、私がお嬢様のもとで働けて幸せだと言っていました」
「……そう」
少しだけ目を伏せたその顔が、先ほど見た10790と重なった。
翔子は黒髪で、髪型もまるで違う。それでも小柄で整った容姿には、どこか彼女と通じるものがあった。
翔子は立ち上がると、ポットに入った白湯を二つのカップへ注いだ。
「あと……そういえば、今朝相談してくれた件なんだけど、解決したわ。今日からはいつも通りの質問に戻っているはずよ」
「ありがとうございます、お嬢様」
翔子は片方のカップを00821へ勧めながら、不思議そうにこちらを見た。
「その……聞かないの? どうやって分かったのかとか、原因とか」
「ええと、はい。ですがお嬢様がお話しになりたいのであれば、ぜひ」
「……いえ。気にならないならいいの」
翔子はカップを手に取って、また口を付けた。
「とにかく、貴女に異常はなかったわ。それだけは間違いないから安心なさい」
「流石でございます。やはりお嬢様に相談して良かったです」
「でしょ。もっと褒めなさい」
ふふん、と鼻を鳴らして、翔子はどこか満足そうな顔をした。
00821には、00821なりの理解があった。
自分に話す必要のあることなら、翔子は尋ねなくても話してくれる。
ならば、話さないということは自分が知る必要のないことなのだ。
翔子が何を考えているのかまでは分からない。
それでも、必要のないことを無理に聞かない。それが翔子に対する信用の証であり、礼儀なのだと、00821の中ではきちんと説明がついていた。
だから、それ以上は尋ねなかった。
白湯を飲みながら翔子の今日の授業について話を聞き、時折相槌を打つ。
昨夜とは違って、胸の内に引っかかるものは何もない。
楽しそうな主人の顔を見ながら、今夜はよく眠れそうだと00821は思った。




