【第8話】ミラノの激辛カレー
ヴォルに連れられて歩いていくと、ミラノの街の一角に、香ばしくも鼻を突き抜けるような、強烈にスパイシーな香りが漂う小さなお店があった。
看板には『異界カレー・マサラ』と、いかにも怪しげな文字が踊っている。
ギルドでの初めてのクエストに加え、迷子のティオを送り届けるという大仕事を成し遂げたご褒美として、カレーを食べることにしたのだ。
しかし、お店の前に飾られた「デス・スパイスカレー」の食品サンプルは、どう見ても食べ物の色をしていなかった。
ルーが真っ赤を通り越して、どす黒い赤紫色をしている。
おまけに、唐辛子が丸ごと何本も突き刺さっていた。
(こんなすごいカレーもあるんだ……)
「無理です」「他のお店にしましょう」
そう言いたいのに、喉がキュッと締まって、情けない吐息しか漏れない。
そんな私を見て、ヴォルが、鼻でせせら笑った。
「おいおい、さくら。たかが人間の作った料理に怯えるとは情けない奴め。異世界転生をして俺の相棒となったからには、これくらいのスパイス、平気でなくてどうする」
ヴォルは私の返事も待たず、強引に店内のテーブル席へと私を引っ張っていった。
店内に一歩足を踏み入れるだけで、空気に含まれた辛み成分のせいで目がチカチカする。
他のお客さんたちを見渡すと、誰もが汗だくになり、水をがぶ飲みしながら、まるで修行僧のような顔でカレーを口に運んでいた。
席につくと、ヴォル・カタロスはメニューも見ずに、威風堂々と店員を呼び止めた。
「おい店員、『デス・スパイスカレー』をよこせ。俺とこいつで二つだ。」
(え、二つ?!私も食べるの?!)
まだ何も言っていないのに、厭わし(いとわし)カレーを勝手に注文された。
嫌な予感しかしない。
私はブンブンと激しく首を横に振った。
涙目で拒絶の意思を示すけれど、ヴォルは「まぁ見ていろ」と自信満々に胸を張るばかりだ。
やがて、運ばれてきた二つの皿。
……実物は、サンプル以上に凶悪だった。
地獄の業火で煮込まれたかのような赤紫色のルーからは、吸い込むだけで肺が痛くなるような湯気が立ち上っている。
私は完全に硬直した。
スプーンを持つ手さえガタガタと震えてしまう。
そんな私の様子を見て、ヴォルはさらに得意げな笑みを浮かべた。
「ふん、いいか、さくら。真の強者ってのはな、どんな試練も優雅に平らげるものだ。この程度のお子ちゃまスパイス、俺の魔力をもってすれば一瞬で――」
そう豪語しながら、ヴォルはスプーンで豪快にルーをすくい、一気に口の中へと放り込んだ。
一瞬、店内が静まり返ったような錯覚に陥る。
ヴォルは咀嚼を止め、ピキリと彫像のように固まった。
「……ふん、この程度か。大したことは――」
強がりの言葉を紡ごうとした、その瞬間だった。
ヴォルの顔が、見たこともないような奇妙な色へと急激に染まり始めたのだ。
彼の肌が、みるみるうちに沸騰した茹でダコのように真っ赤になり、両目が限界まで見開かれる。
そして、私の脳内に、津波のような大音量で「声」が流れ込んできた。
((((((((ぎゃあああああああああああああああ!!!! 熱い!!! 痛い!!! 滅びる!!! 我の胃袋と存在自体が根底から滅びるぅぅぅ!!! なんだこれは!? 毒か!? 暗殺計画か!? 舌がちぎれる、喉が焼ける、脳味噌が沸騰するぅぅぅ!!! たすけてくれぇぇぇぇ!!!))))))))
(だ、大丈夫?!)
私の万物同調が、ヴォルの悲痛な心の叫びを、これ以上ない生々しさで拾い上げた。
本人はプライドがあるのか、必死に歯を食いしばって声を抑え、涼しい顔を装おうとしている。
しかし、脳内の叫び声は完全にパニック状態のそれであり、もはや断末魔の叫びに近かった。
「かっ……が、う……ぐぁ……!!」
すると、ヴォルはガタガタと派手に椅子をひっくり返し、口を両手でしっかりと押さえたまま、ものの数秒で店を飛び出していってしまった。
残されたのは、手付かずの私のカレーと、ヴォル・カタロスが一口だけ食べたカレー。
(ちょ、ちょっと待って……!)
私は呆然としながらも、慌てて財布から代金をテーブルに置き、彼の後を追いかけて店を飛び出した。
ミラノの街中を、顔を真っ赤にして走り抜ける黒い影。
私もすばやさ3で一生懸命追いかける。
ヴォルの脳内からは、今もなお『水!!! 水はどこだ!!! 氷をくれ!!! 誰か我が口内の暴動を止めてくれぇぇぇ!!!』という悲鳴が絶え間なく響いてきている。
(どこまで行くのーー?!)
ヴォルが転がり込むようにして街の裏手へと駆け込んだ。
そこには、人目を避けるようにして、透き通るような美しい青色をした「精霊の泉」がひっそりと佇んでいた。
すると次の瞬間、ヴォル・カタロスは信じられない行動に出た。
ただ水を飲むだけでは足りないと判断したのか、あるいは頭までおかしくなっていたのか――彼は凄まじい跳躍力で踏み切ると、
「ぶはああああああああああっ!!!」
すると、ザブーーーーン!!! と、盛大な水飛沫を上げて、頭から精霊の泉へとダイブしたのだ。
(え、ええええぇええええええぇ!?!?)
あまりの勢いに、周囲の草木にまで水がバシャバシャと降りかかる。
泉の真ん中で、ヴォルは溺れるようにもがきながら、口を大きく開けて泉の水をガブガブと補給していた。
さらに頭まで水に浸かり、全身を冷やそうと必死にのたうち回っている。
かつて魔境を統べたという最凶の魔物の威厳は、完全に水に溶けて消え去っていた。
「……ぷはっ! はぁ、はぁ、はぁっ……! し、死ぬ、本当に死ぬかと思ったぞ……!」
しばらくして、ようやく落ち着きを取り戻したヴォルが、ずぶ濡れの状態で泉から這い上がってきた。
不思議なことに、その泉の水を浴びると、彼があれほど苦しんでいた激辛の赤みが、みるみるうちにスッと引いていった。
口の中のヒリヒリ感も完全に消え去ったようで、彼の脳内の悲鳴もようやく静まり返った。
どうやらお口直しには最高の、魔力を含んだ奇跡の水だったみたいだ。
(すごいびしょびしょ……)
私はトコトコと彼のそばに歩み寄り、ハンカチを差し出した。
全身からポタポタと水を滴らせながら、ヴォルはバツが悪そうにそれをひったくり、顔を拭きながらぷいっとそっぽを向いた。
「ふ、ふん。別に辛くてダイブした訳ではない。食べた途端、カレーが『ここにダイブしろ』と脳内に命令してきたから、ダイブしただけだ。」
(それは無理があるよ……!!)
心の中で冷静にツッコミを入れながら、私はヴォルのやせ我慢があまりにも可笑しくて、思わず口元を緩めた。
いつもは怖くて頼りになる相棒の、こんなに情けないお茶目な姿が見られるなんて。
少しだけ彼との距離が縮まったような気がして、私の緊張もほぐれていく。
その時、ヴォル・カタロスがダイブした拍子に、泉の底から岸辺へと跳ね飛ばされたものがあることに気づいた。
水に濡れてきらきらと光る、綺麗なエメラルドグリーンの紙切れ。
(……これ、なんだろう?)
私がしゃがみ込んでそれを拾い上げ、不思議そうに眺めていると、ヴォルがハッと目を見開いて身を乗り出してきた。
「おい、それは……『迷宮の森』の入場チケットじゃねえか!」
(……??)
私が首を傾げていると、ヴォルが早口でまくし立てた。
「『迷宮の森』は、凶悪な魔物が潜む危険地帯であると同時に、数々の伝説の遺物や貴重な素材が眠る、中級以上の冒険者しか立ち入りを許されない場所だ。そのチケットは、ギルドで相当な実績を積むか、あるいは大金を払わなければ絶対に手に入らない代物。なぜそんなものが、こんな人気の無い泉の底に沈んでいたんだ……?」
(な、何だかすごそう……!!)
ヴォルが顎に手を当て、不思議そうに首を傾げる。
その時、目の前の泉の真ん中が、ぽわんと淡い光を放った。
水面が小さく波立ち、そこから光る羽を持った、手のひらサイズの可愛らしい水の精霊がひょっこりと顔を出したのだ。
精霊は言葉を発しなかった。ただ、お腹を抱えてケラケラと笑うようなジェスチャーをしながら、私たちを見つめている。
そして、私の固有スキルが、その精霊の『本音』をダイレクトに受信した。
(『あはははは! おっかしい! 最凶の魔物が、たかが人間の激辛カレーに負けて大パニックで泉にダイブするなんて! 盛大に水飛沫を上げて飛び込んできたときは、本当に腹筋が崩壊するかと思ったわ!』)
(み、見てたんだ……!!)
精霊の心の声は、さらに続く。
『最高に面白い芸術的なダイブを見せてくれたお礼に、そのチケットをあげるわ! それは昔、ここに迷い込んだ高名な冒険者が落としていったものなの。それを使って、もっと面白い冒険をしてきてね、可愛い人間のお嬢さん!』
精霊は私に向かってウィンクをすると、満足そうにパシャリと音を立てて泉の底へと消えていってしまった。
(ヴォルくんのダイブが面白かったからチケットを貰っちゃうなんて、なんだか複雑だけど……結果オーライ、なのかな?)
私はヴォルに聞こえないよう、心の中で苦笑いした。
もし精霊の本音をそのまま伝えたら、彼のプライドが完全に粉々になってしまうだろう。
「……ふ、ふん。どうやら、俺が放った圧倒的なダイブの衝撃波に恐れをなして、泉の精霊が宝物を差し出してきたようだな。当然の配慮と言える」
まだ少し服を絞って水滴を落としながら、どこまでも強がるヴォル。
私はそんな彼を見て、言葉には出さずに、ただコクコクと優しく頷いてあげた。
何はともあれ、私たちは偶然にも、次の目的地への切符を手に入れてしまった。
私は貰った緑色のチケットを、なくさないように大切にポケットにしまった。
激辛の試練(?)を乗り越えた私たちの前には、新しい冒険の舞台が待っている。
「よし、さくら。服が乾いたら出発だ。次は『迷宮の森』へ向かい、我が真の実力をお前に見せつけてやる!」
びしょ濡れのマントを無理やり翻して歩き出すヴォル。
私はその広い(そして湿った)背中を追いかけながら、次の迷宮での冒険を想像して、胸を小さく弾ませるのだった。




