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【第17話】満天の星空の下で


 

 

フェニックスが世界樹のてっぺんへと去り、山頂に静寂が戻ってから、どれほどの時間が経っただろう。

 

 

秘宝「世界樹の雫」を手に入れた安心感からか、私はその場に座り込んだまま、いつの間にかうとうとと眠ってしまっていたらしい。

 

 


「――さくらさん、目が覚めましたか?」




 

 

耳に心地よい、どこまでも紳士的で優しい声に、私はゆっくりと目を開けた。

 

 

視界に飛び込んできたのは、吸い込まれそうなほどに深く、美しい濃紺の夜空。

 

 

そこには、前世の都会では絶対に見ることのできなかった、こぼれ落ちんばかりの満天の星々が、キラキラと瞬いていた。

 

 

気づけば、もうすっかり夜になっていたのだ。

 

 


「おい、いつまで寝てんだ、さくら。風邪ひいても知らねえぞ」




 


私のすぐ隣では、ヴォルがぶっきらぼうに言いながら、地面に座って大きな黒いマントを広げ、風除けのように私の背中を包み込んでくれていた。

 

 

彼の体からは、竜特有のじんわりとした暖かな熱が伝わってくる。

 

 

私の頭の上では、ぷに丸が「きゅぴ〜……」と、星空を見上げながら気持ちよさそうに寝息を立てていた。

 

 

私たちは今、世界樹の巨大な木の根元に、三人と一匹で並んで座っていた。 

 

 

昼間の大騒ぎが嘘のように、夜の霊峰は静かで、ただ満天の星々が私たちを優しく照らしている。 

 

 

火をパチパチと小さく熾(おこ)しながら、ヴォルがふと、夜空を見上げたまま、いつもより少し低い声で私に問いかけてきた。

 

 


「……なあ、さくら。前から気になってたんだがよ」




 

 

ヴォルは膝を抱え、少し言いづらそうに視線を泳がせる。

 

 


「お前……前の世界で、一体どんな目に遭ってたんだ?……いつも涙目で緊張しているのが、気になったんだよ。お前、前の世界で……何かあったのか?」




 

 

その言葉に、反対側に座っていたレオンもハッと息を呑み、真剣な眼差しを私に向けた。

 

 


(前の世界の、こと……)




 

 

私は胸の奥がキュッと切なくなるのを感じた。

 

 

声は出ない。

 

 

けれど、この二人には、本当の私のことを少しだけ知ってほしかった。

 

 

私はポケットから、いつも持ち歩いている意思疎通用のスケッチブックとペンを取り出した。

 

 

魔法の火の光を頼りに、サラサラと文字を書き進めていく。

 

 


 

 

 

しばらくして、私は書き終えたページを、二人の前にそっと差し出した。

 

 


『いじめられていた、というのとは少し違うかもしれません。私は緊張するとどうしても声が出なくなってしまうから、クラスの中でずっと浮いていて、みんなから変な目で見られていました。誰も私に話しかけてくれないし、私もおびえて誰とも関われませんでした』 




 

 

二人が無言でスケッチブックを見つめ、頷く中、私は次のページをめくる。

 

 

そこには、あの「激辛カレー事件」の時の、私の本当の想いが綴られていた。

    

 


『だから、前の世界ではいつも、お昼ご飯は一人で、誰も来ない屋上への階段の踊り場で、こっそり隠れるようにして食べていたんです。……だからね、ヴォルくん。あの時、ミラノの街で、ヴォルくんが私を強引に激辛カレーのお店に引っ張っていってくれた時、私は本当は、すごく、すごく嬉しかったんです』




 

 


「……あ?」




 

 

ヴォルが間抜けた声を上げて、目を丸くした。

 

 


『実物はものすごくどす黒くて、吸い込むだけで肺が痛くなるような凶悪なカレーだったし、ヴォルくんは一口食べた瞬間に顔を茹でダコみたいに真っ赤にして、脳内で「ぎゃあああ! 滅びるぅぅぅ!」って叫びながら泉にダイブしちゃったけれど。……でも、誰かと一緒に机を挟んで、おんなじご飯を食べるのなんて、私にとっては本当に久しぶりのことで。……だから、あのお茶目で情けないヴォルくんの姿を見たとき、前の世界の寂しかった記憶が、全部どこかへ消えていくみたいに嬉しかったんです』




 

 


「――ぶふっ!?」




 

 

静かな夜の山頂に、レオンの盛大な吹き出し音が響いた。

 

 

レオンは口元を押さえ、肩をガタガタと震わせながら、隣の黒竜を憐れむような目で見つめる。

 

 


「な、なるほど……! 伝説の最凶の黒竜が、人間の作った激辛カレーごときに完全敗北し、脳内で『滅びるぅぅ!』と叫びながら泉に飛び込んだ、と……。ぷっ、くくく……! なんとも凄まじい黒歴史ですね、ヴォル・カタロス!」




 

 


「なっ……! お、おい金ヅラ笑うな! さくら! お前それ、今ここでバラすんじゃねえよ! 雰囲気が台無しだろ!?」




 

 

ヴォルは耳の裏どころか、顔全体を真っ赤にしてマントに深く顔を埋めた。

 

 

彼の脳内からは、凄まじい羞恥心の本音がビシバシと伝わってくる。

 

 


『(うわああああああ恥ずかしい死ぬ!!! 俺の最凶の威厳が完全に消え去った!!! いや、でも、さくらがあんな風に俺との飯を嬉しかったって言ってくれたのは……その、めちゃくちゃ心臓が跳ねるくらい嬉しいんだけど、それ以上に辛い! 金ヅラの前でバラされたのが致命的に辛いぃぃぃ!!!)』




 

 

ヴォルくんの心の中ののたうち回りっぷりに、私は心の中でクスッと小さく笑ってしまった。

 

 



 

 

 

少しだけ場の空気が和んだところで、私はさらにスケッチブックに文字を書き足した。

 

 

夜風が世界樹の葉をサワサワと揺らす。

 

 


『でも、その屋上の階段でご飯を食べていたのを、ある日、クラスの目立つ人たちに見つかってしまったんです。「うわ、何あいつ、暗っ」って笑われて、ひそひそ噂されて……。それがすごく怖くて、恥ずかしくて。それ以降は、学校ではお昼ご飯を食べるのを我慢して、ずっと一人で机に突っ伏して、放課後まで耐えていました。……だから、この世界に来て、みんなが私の周りに集まって、一緒にお喋りをしてくれるのが、本当は、夢みたいに温かくて……大好きなの。声が出なくて、いつもおびえてばかりで、ごめんなさい』




 

 

書き終えた文字を見つめる私の視界が、少しだけ涙で潤んだ。  

 

 

前の世界の、あの冷たくて孤独だった教室の空気。

 

 

クラスの人たちのくすくすとした、ささやき声。

 

 

それを思い出すだけで、今でも胸が締め付けられる。

 

 

すると、私の頭の上に、驚くほど優しくて、大きな温もりがぽんと置かれた。

 

 


「――謝ることなど、何一つありませんよ、さくらさん」




 

 

レオンだった。

 

 

彼はいつもの眩しいばかりの騎士の笑顔ではなく、まるで迷子をあやすような、どこまでも慈愛に満ちた、本当に優しい瞳で私を見つめていた。

 

 


「声が出ないことの、一体どこに非があるというのですか。言葉などという不完全な道具がなくとも、貴女の美しく優しい御心は、こうして私たちに痛いほど伝わっています。前の世界の人々は、貴女のその宝物のような価値に気づけなかった、ただの凡愚に過ぎません」




 

 

レオンは私の前に跪くと、私の小さく震える手を、そっと両手で包み込んだ。

 

 


「これからは、もう一人で隠れてご飯を食べる必要などありません。私が毎日、王宮仕込みの最高級のハーブティーと、極上の三ツ星料理を貴女の前に並べましょう。貴女が寂しい思いをすることは、このレオン・ハルバートが、生涯を賭けて絶対にさせません。だから……もう我慢しなくていいのです」




 

 



(レ、レオンくん……。優しすぎて、本当に王子様みたいだよ……ありがとう……っ)




 

 

じわり、と目から涙がこぼれ落ちる。

 

 

一言も喋れない私の沈黙を、レオンはどこまでも優しく、温かく包み込んでくれた。

 

 

そんな感動的なシーンの真ん中で――。

 

 


「あー、クソッ!!! おい金ヅラ、お前ふざけんなよ!!」




 

 

ヴォルがガタバシと立ち上がり、地団駄を踏みながら悔しがった。

 

 


「そこは俺が格好良く『これからは俺が毎日美味いもん食わせてやる!』って励ますはずだったんだよ! なんでお前が全部美味しいところを持っていってんだよ! その手を今すぐ離せ、丸焼きにするぞ!!」




 

 


『(クソおぉぉぉ!! 俺が! 俺がさくらを泣き止ませるはずだったのに! あの金ヅラ、紳士スキルが高すぎて勝てねえ! 悔しい、悔しすぎるだろぉぉぉ!!)』




 

 


(ヴォルくん、心の中の悔しがり方がやっぱり小型犬だよぉ……! でも、そうやって怒ってくれるのが、すごく心地いいな)




 

 

 


 

 

 

ヴォルがひとしきりレオンに噛み付いた後、レオンはふっと夜空を見上げ、少し寂しげな苦笑いを浮かべた。

 

  


「……実は、私にも、騎士としての苦い過去がありましてね」




 


レオンは腰の長剣の柄にそっと手を置いた。

 

 


「昔、私は自分の未熟さのせいで、大切な人を守りきれず、失ってしまったことがあるのです。上級騎士などと上げられていながら、私は一番守りたいものすら護れなかった……。その絶望の淵にいた私を救ってくれたのが、王からの信頼であり、このミラノの街の人々の笑顔でした」




 

 

レオンはまっすぐに私を見つめ直した。

 

 

その青い瞳には、決して揺らぐことのない強い意志の炎が灯っていた。

 

  


「だからこそ、決めたのです。ミラノを救い、私に新たな光をくれたさくらさん……貴女のことだけは、たとえこの命が尽きようとも、絶対に守り抜いてみせると。ミラノの騎士として、貴女の紳士として、私は今度こそ、大切なものを護るために剣を振るうのだと、あの日、心に誓ったのです」




 

 

その言葉には、いつもの「勘違い」ではない、レオンの本物の「騎士としての覚悟」が詰まっていた。

 

 


「……チッ」




 

 

ヴォルは腕を組み、ふいっと顔を背けた。

 

 

いつもなら「何が騎士道だ」と毒づくはずのヴォルだったが、レオンから伝わってくる本物の「過去の痛み」と「強い覚悟」を感じ取ったのだろう。

 

 

彼は少しだけ同情するように、静かに炎をパチパチと爆ぜさせた。

 

 


「……まぁ、お前のその覚悟だけは、少しは認めてやらんこともない。だがな、さくらを一番近くで守るのは俺だ。そこだけは譲らねえからな、金ヅラ」




 

 


「フン、それはこちらのセリフです、トカゲ。さくらさんの隣に相応しいのは、野蛮な暴力ではなく、洗練された騎士の礼節ですからね」




 

 


「んだとコラ?」




 

 


「やるか、トカゲ?」




 

 

またしても、二人の間でバチバチと静かな火花が散り始める。

 

 

でも、その空気は不思議と、昼間の険悪なものとは違って、どこかとても温かかった。

 

 


「きゅぴ〜〜ん?」




 


頭の上のぷに丸が、ようやく目を覚ましてプルプルと身体を揺らす。

 

 

私の膝の上では、大蛇のウロボロスが「ここもあったかい」というように、さらにでろ〜んと甘えるように身体を擦り付けてきた。

 

 


(声が出なくて、前の世界ではあんなに寂しかったのに。……この世界には、私のためにこんなに怒って、こんなに優しくしてくれる人たちがいる)




 

 

満天の星空の下、世界樹の大きくて優しい葉の音を聞きながら。

 

 

私はスケッチブックを胸にギュッと抱きしめ、言葉には出せない代わりに、この世界に来てからで一番の、心からの幸せな笑顔を二人に向けたのだった。

 

 

 

 





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