【第10話】ミラノの街の危機
(ハァ、ハァ、ハァ……っ!)
私は必死に足を動かしていた。
手の中には、相変わらず禍々しい紫色にチカチカと点滅しながらガタガタ震えている伝説の剣『スカイロード』がある。
大根を引き抜くよりも軽く抜けてしまったこの聖剣は、私の脳内でずっと情けない悲鳴を上げ続けていた。
『(ひ、ひいいぃぃ! 歩くたびに俺の柄を握る強さが変わる……! これは「お前の命など私の気分一つでいつでも握り潰せる」という無言の脅迫かァァ!? 仰せのままに、どうか自我だけは噛み砕かないでください絶対終焉マスターァァ!)』
(違うって!私が運動不足で、走るだけで手が震えてるだけなの! あと絶対終焉マスターって呼ばないでよおおお!)
心の中で激しくツッコミを入れながら、私は前を走るヴォルの背中を追いかける。
だが、ツッコミを入れる体力すら惜しいほどに、事態は一刻を争っていた。
迷宮の森を飛び出した私たちは、魔物の大軍勢が向かったというミラノの街へと急行していた。
遠くから、ドスドスと地響きのような足音が聞こえ、街の方から煙が上がっているのが見える。
(大変、もう街に届いちゃってる……!)
ミラノの街の入り口は、すでに混沌の渦に包まれていた。
「グオオオオオオオン!!!」
街の防壁を破壊し、文字通り「猛獣の軍隊」が侵入していた。
それは、体長が優に五メートルを超える、燃え盛る炎のタテガミを持った巨獣たちの群れだった。
普段は迷宮の森の奥深くに生息しているという上級魔物『ギガ・フレアハウンド』。
それが十数頭も、隊列を組んで街の広場へと踏み込んでいたのだ。
街の衛兵や冒険者たちが必死に応戦しているが、巨獣の一足ごとに地面が爆ぜ、人間たちはゴミのように吹き飛ばされている。
「ひ、避難だ! 商業区の方へ逃げろ!」
「ダメだ、裏路地にも回り込まれてる! 完全に囲まれたぞ!」
絶望が広がる中、広場の中央で、一匹の小さな影が果敢に立ち塞がった。
「きゅぴーー!!」
私たちの旅の仲間であり、マスコット的存在の「ぷに丸」だ。
水色の愛らしいフォルムを震わせ、ぷに丸は巨獣の前に立ちはだかる。
「ぷきゅーっ!!!」
果敢に威嚇するぷに丸。
しかし、相手は圧倒的な質量を持つ巨獣の軍隊だ。
先頭を歩く一番大きな巨獣が、鬱陶しそうに巨大な前足をパサリと一振りした。
――ベシっ!!
「きゅぷぅぅぅぅぅん!?」
ぷに丸は、実に見事な放物線を描きながら、遥か彼方の空へと弾き飛ばされていった。
星になったかのように、キラーンと光って消えていく。
(ぷ、ぷに丸ーーーーーーー!?!?)
私の心の中の悲鳴と同時に、すぐ隣から不敵な笑い声が響いた。
「ふはははは! 有象無象の獣どもめ、よくも俺の庭で泥泥と騒いでくれたな!」
ヴォルだ。
彼はいつの間にか、トレードマークの黒いマントを激しく翻し、巨獣たちの正面へと歩み出ていた。
その目は、かつて魔境を統べたという最凶の魔物としての、冷徹な輝きを帯びている。
(ヴォルくんなら、倒せるかもしれない……!!)
「おい、さくら。特等席でよく見ておけ。これぞ、かつて世界を震え上がらせた俺の真なる力の片鱗だ!」
ヴォルが右手を静かに掲げる。
その瞬間、彼の周囲の空間がぐにゃりと歪み、圧倒的な濃度の黒い魔力が噴出した。
それは詠唱も、魔法陣すらも必要としない。
純粋な破滅の質量。
「滅びよ、ゴミども」
ヴォルが手を振り下ろした瞬間、爆音と共に、漆黒の衝撃波が一直線に放たれた。
それは魔法というより、ただの『シンプルな暴力』だった。
ドゴオオオオオオオオオン!!!
「グルァ!?」
「ギャンっ!?」
(シンプルな攻撃っ……!!)
まともな防御を試みる隙すらなく、先頭の巨獣二頭が、まるでダンプカーに撥ねられたかのように横一閃に吹き飛んだ。
背後の石造りの建物ごと粉砕され、地面には深い溝が刻まれる。
上級魔物のはずのギガ・フレアハウンドが、一撃で戦闘不能になりピクピクと痙攣していた。
「な、なんだあの男は……!?」
「一撃でフレアハウンドを……!?」
街の冒険者たちが唖然としてヴォルを見つめる。
ヴォルはフッ、と鼻で笑い、顎に手を当ててポーズを決めた。
「俺のインフェルノを放ったら、また街が滅びちまうからな。ほんの少しだけ手加減してやったんだ」
ヴォルがドヤ顔でこちらを振り返ろうとした、その時だった。
「グルルルル……!!」
吹き飛ばされた仲間の背後から、さらに一回り大きな、この軍隊のリーダーとおぼしき巨獣が猛然と突進してきた。
その狙いは、ヴォルの背後――つまり、体力が尽きかけてその場に呆然と立ち尽くしていた、私だった。
(ひえっ……!?)
突進してくる巨獣の風圧だけで、私の髪が激しく煽られる。
逃げなきゃ……!!
そう思うのに、足がすくんで一歩も動かない。
学校の朝礼で急に指名された時よりも、何百倍も身体がカチコチに固まってしまった。
完全に、文字通り「固まっている」私。
巨獣は私の目の前まで迫り、その巨大な影が私を覆い尽くした。
鋭い牙、燃え盛る瞳、圧倒的な威圧感。
しかし、巨獣は、私の目の前、わずか数十センチのところで、ピタリと動きを止めた。
「…………?」
巨獣の大きな瞳が、じっと私を見つめる。
(こ、怖いよぉ……!!)
私も、恐怖で涙目になりながら、固まったまま巨獣を見つめ返す。
沈黙。
完全にフリーズした私と、敵のボス巨獣が、至近距離でじっと見つめ合うという、奇妙極まりない空間が誕生した。
(な、何……? 食べられるの……? 私、美味しくないよ……?)
私が声にならない恐怖でガタガタ震えていると、私の固有スキルが、目の前の敵の脳内から強烈な『本音』を受信し始めた。
『(……え? なにこれ? なんでこの人間、目の前に俺が来てもピクリとも動かないの……!? 普通、絶叫して逃げるか、武器を構えるよね……!?)』
(動けないの! 怖すぎて筋肉がロックされてるだけなぉぉ!)
『(ちょっと待って、このお嬢ちゃんが持ってる剣……これ、迷宮の森の奥で俺たちを何百年も抑えつけてた伝説の聖剣じゃん!? なんで禍々しい紫色になってガタガタ震えてんの!? 聖剣が恐怖で汚染されてる……!?)』
『(ひ、ひいいぃぃ! ご、ごめんなさいボス! このマスター、魂の底が深すぎてヤバいんです! 逆らったら存在ごと消されますよぉぉ!)』
(聖剣くん、余計なこと言わないでぇぇ!!)
敵のボス巨獣の脳内に、凄まじい大パニックの嵐が吹き荒れる。
巨獣は、完全に固まったまま、瞬き一つせず自分を見つめてくる私(※怖くて目が離せないだけ)に対して、底知れない恐怖を感じ始めているようだ。
『(こ、この人間……一言も喋らないし、表情一つ変えない……。この圧倒的な余裕……。俺の突進など、最初から視界にすら入っていないというのか……!? え、待って、こいつ攻撃していいのか……?! もしかして、手を出した瞬間に、俺の魂ごと消滅させられるんじゃ……?!)』
(いいよ! 攻撃しないで! そのまま大人しく帰ってぇぇ!)
敵が勝手に深読みして怯えまくっている。
だが、その時。
巨獣のパニック状態の『本音』の奥底から、もう一つの、全く別の感情が私の脳内に流れ込んできた。
『(……あー、でもさぁ。正直、戦うのとかどうでもいいんだよね……。数百年もあのジメジメした森に閉じ込められてさぁ……。ずっと窮屈だったんだよ……。本当は、誰かと遊んで欲しいだけなんだよね……。広いところで、思いっきり身体を動かしてさぁ……)』
(え……、遊びたいの……?)
私はハッとした。
目の前で牙を剥いている恐ろしい化け物の本音は、驚くほど無邪気で、寂しがり屋な子供のようだった。
ずっと狭い森に閉じ込められて、退屈で、誰かと遊びたくて、結界が解けたから勢いで街に飛び出してきてしまっただけ。
まるで、ずっと家の中に閉じ込められていて、お散歩に行きたくて大興奮している大型犬のようだった。
(遊んで欲しい……。そっか。暴れたいわけじゃないんだ……)
それを知った瞬間、不思議と恐怖が少しだけ和らいだ。
喋ることはできない。
でも、この子の願いを叶える方法なら、言葉を使わなくてもできるかもしれない。
私はポケットに手を突っ込んだ。
そこには、さっき精霊の泉の近くで拾った、手のひらサイズの綺麗な丸い魔石が入っていた。
ちょうど、おもちゃのボールくらいの大きさだ。
私はカチコチの身体を無理やり動かし、ポケットからその魔石を取り出した。
そして、目の前の巨大なフレアハウンドに向けて、無言でそれを差し出す。
「…………?」
巨獣が、片目を細めて魔石を見つめる。
『(ん? なんだその丸いのは……。まさか、新手の古代兵器か!? 触れた瞬間に大爆発するタイプの――)』
私は、その魔石を、広場の開けた方へと、ぽいっと優しく投げた。
コロコロコロ……と、魔石が地面を転がっていく。
巨獣の目が、無意識にその魔石の動きを追った。
右へ、左へ、転がる魔石に合わせて、巨獣の大きな頭が完全にシンクロして動く。
タテガミの炎が、なんだか嬉しそうにパチパチと弾けた。
『(あ……丸いもの……転がってる……。あ、あれ、めちゃくちゃ追いかけたい……! 楽しそう……!!)』
巨獣の「本音」が、一瞬で「遊びたいモード」に切り替わるのが分かった。
「ガルル……!」
巨獣は我慢しきれなくなったように、私の目の前から猛然と反転し、転がる魔石に向かってダッシュした。
そして、大きな口で魔石をパクリと咥えると、嬉しそうに尻尾をブンブンと振り回しながら、私の元へと戻ってきた。
(えっ、持ってきてくれた……!)
ドスドスと地響きを立てながら、咥えた魔石を私の足元に「ぽとり」と落とす。
『(ねえ! もう一回! もう一回投げて!!)』
(こ、これは……完全に犬だーーーーーーー!!!)
私は心の中で叫びながらも、ホッとして笑顔になった。
落ちた魔石を拾い、今度は少し遠くへ投げる。
巨獣は「ワンッ!」と嬉しそうな声を上げ、弾かれたようにそれを追いかけていった。
「さっきまで人を襲っていた魔獣が、あの女の子と遊んでいるぞ!?」
「あの女の子、何者なんだっ……?!」
街の人々もわらわらと集まってきた。
(ど、どうしよう……!サーカスみたいになっちゃった……!!)
こうして、ミラノの街の広場で、「一言も喋らない女子高生と、街を滅ぼしかけた巨大獣のボール遊び」という、前代未聞の光景が始まったのだった。
「おい、さくら……お前……」
背後から、ヴォルの戦慄した声が聞こえた。
彼を見返すと、彼はまたしても顎が外れそうなほど口を開け、手足をご丁寧にガタガタと震わせていた。
脳内からは、過去最大級の勘違いの津波が押し寄せている。
『(ば、バカな……! ギガ・フレアハウンドのボスといえば、狂暴の代名詞のはず……! それを、一言の言葉も交わさず、ただの『沈黙の威圧』だけで完全に調教し、玩具の如く従わせただと……!?)』
ヴォルは、ガタガタ震える聖剣と、楽しそうにボールを追いかける巨獣を交互に見つめる。
『(恐ろしい……恐ろしすぎるぞさくら! 聖剣を奴隷にし、最凶の魔獣をペットのように扱うとは……! 喋らないのは、やはり『語るに落ちる』というやつか。お前にとって、この程度の戦いは、ただの暇つぶしの『お遊び』に過ぎないというメッセージ……! やはり、お前こそ世界を統べるに相応しい、絶対的な支配者だ……!!)』
(違うのーーーー!! ただのボール遊び!! 普通に懐かれちゃっただけだから!! そんな恐ろしい目で見ないでぇぇ!!)
私が心の中で涙目で叫んでいる間にも、他のフレアハウンドたちも「ボ、ボスが楽しそうに遊んでる……」「俺たちも混ぜて欲しい……」と、完全に戦意を喪失し、私の周りに集まってきて、お座りの体勢を取り始めていた。
「きゅ、きゅぴぃぃいぃぃ……」
(あ、ぷに丸!大丈夫だったかな……?!)
今まで気持ちよく寝ていたのに、起きて戦おうとした瞬間飛ばされるなんて、何だかちょっと可哀想。
しかし、街の防衛戦は、私の「無言のボール遊び」によって、一瞬にして平和的なドッグランへと変貌を遂げたのだった。
「……なあ、俺たちは一体、何を守ろうとしてたんだっけ?」
そして、武器を構えたまま固まる衛兵の呟きが、平和すぎる広場に虚しく響いていた。




