第9話 帰る場所
翌朝、目を覚ました時に最初に確かめたのは、鳥の声でも腹の減り具合でもなく、《警戒線》の状態だった。
夜中に一度だけ反応してから、銀色の魔導書で東側へ張った線には新しい接触がなかったらしい。頭の奥に残る感覚を辿っても、眠っている間に起こされた覚えはなく、少なくとも昨夜の一匹が森へ戻った後、村の境界まで大型の何かが近づいた様子はなかった。
「……とりあえず、一晩は平気だったか」
布団の中でそう呟いてから、すぐに起き上がろうとしてやめた。昨日は朝から森へ入り、七匹の未知の魔物に囲まれ、戻ってからも結界や警戒線の調整をしているので、身体のあちこちにいつもより重い疲れが残っている。
だからといって二度寝するほど眠いわけでもなく、しばらく天井を眺めたあとでゆっくり身体を起こした。肩を回すと僅かに張りを感じたが、痛みというほどではなく、腕や脚にも怪我らしいものはない。
「今日は無理しない」
自分へ言い聞かせてから、まず朝飯を作ることにした。
昨日の残りはほとんど食べてしまったので、今日は薄く切った芋と卵、それから少しだけ葉野菜を使う。赤い魔導書を開き、《微熱》で竈へ火を入れると、昨日まで森で警戒していたことが嘘のように、家の中には油の弾ける音と食べ物の匂いが広がっていった。
世界を救うつもりはない。
英雄になるつもりもない。
でも、昨日は魔物と戦った。
その事実だけを取り出せば、少し前まで自分が望んでいた生活とはずいぶん違って見える。
「まあ、毎日じゃなければいいか」
芋を裏返しながら苦笑する。
村を守るために必要だった。
だから動いた。
それだけで、これから魔物討伐を仕事にする理由にはならない。
飯を皿へ移し、椅子へ座る。
しっかり食べる。
昨日の朝までなら当たり前になりつつあったことなのに、森で何が起きているか分からない状況では、こうして普通に朝食を取れること自体が少しありがたく感じられた。
半分ほど食べたところで、家の外から足音が近づく。
声をかけられる前に、誰か分かった。
「ユウー!」
「朝飯食べてる!」
ガルド爺さんの声へ先回りして返すと、外で一瞬だけ間があった。
「今日はまだ何も頼んどらんぞ!」
「どうせ何かあるんでしょ!」
「ある!」
「ほら!」
扉の向こうから笑い声が聞こえる。
「食い終わってからでいい! 東の森を見に行くんだろ!」
「そのつもり!」
「なら俺も――」
「爺さんは村にいて!」
「最後まで言わせろ!」
「どうせ『俺も行く』だったでしょ!」
今度は返事がない。
図星らしい。
「……食ったら広場へ来い!」
「分かった!」
足音が遠ざかる。
俺は残りの朝飯を食べながら、少し笑った。
昨日、未知の魔物が村のすぐ近くまで来た。
普通ならもっと張り詰めていてもおかしくない。
なのにガルド爺さんは今日も同じ調子で、人の朝食中に大声を出している。
それが妙に安心した。
◇
村の中央へ行くと、すでにローデンとドラン、ケルが待っていた。
ガルド爺さんも当然のようにいるが、今日は森へ入れないことを理解しているらしく、鍬ではなく腕を組んで立っている。ベル爺さんやマーサ婆ちゃんまで少し離れた場所にいて、どうやら話だけ聞きに来たらしい。
「昨夜はあの一匹以外、警戒線に反応なかったよ」
俺が先に報告すると、ローデンが頷く。
「こちらの見回りでも何もなかった。夜明け前に一度東側を見たが、森から出てくるものは確認していない」
「じゃあ今朝は、昨日あの一匹がいた場所だけ見たい。足跡が残ってれば、仲間が一緒にいたか分かるかもしれない」
「森の奥までは?」
「行かないよ。昨日で十分」
即答すると、ドランが少し安心したように息を吐いた。
「俺も今日は深く入る気はない。あいつらがまだいるなら、三人で追う意味もないしな」
「そうしよう。俺たちの目的は倒すことじゃなくて、村へ来てるか確認することだから」
話が決まり、今度は俺、ドラン、ケルに加えてローデンも村の境界までは同行することになった。ただし森の中へ入るのは昨日と同じ三人で、ローデンは結界の手前から周囲の様子を見る。
「ユウ」
出発しようとすると、マーサ婆ちゃんに呼び止められた。
「何?」
「昼までには戻りな」
「たぶんそんなかからないよ」
「たぶんじゃなくて、戻れるところで戻ってきな。昼飯あるから」
「それ、戻る理由として強いなあ」
「昨日ろくに食ってないんだから、今日は食べな」
「昨日の昼は状況が状況だったでしょ」
「だから今日食うんだよ」
正しい。
「分かった。できるだけ昼前には戻る」
「できるだけじゃなくて――」
「危なかったらもっと早く戻る!」
先に言うと、マーサ婆ちゃんが満足そうに頷いた。
「それならいい」
この村では、危険な森へ行く前でも「気をつけろ」より先に「飯までに帰れ」と言われる。
少し変なのに、嫌いではなかった。
◇
昨夜《警戒線》が反応した場所には、まだ足跡が残っていた。
結界の外側へ一頭分。
森の中から真っ直ぐ近づき、境界の直前で何度か行き来したあと、そのまま同じ方向へ戻っている。
ケルが地面へしゃがみ込み、慎重に草や土の跡を追った。
「少なくとも、ここまで一緒に来た仲間はいないな」
「周りにもない?」
「新しいのは一頭分だけだ。古い跡はあるが、昨日より前のやつだと思う」
「じゃあ、本当に一匹で来た可能性高いんだ」
俺は森を見る。
昨夜、黄色い目でこちらを見ていた一匹。
こちらへ襲いかかるわけでもなく、しばらく様子を見てから戻っていった。
「何しに来たんだろうな」
ドランが呟く。
「仲間を探してたとか?」
「昨日四匹仕留めたからな」
「それもあり得るけど……」
俺は少し考える。
人間と同じ感情があるのかは分からない。
でも、群れで連携して動いていた以上、仲間を認識している可能性は高い。
「確認しに来たのかもしれないね。自分たちが追い返された場所を」
「また襲ってくるか?」
「分からない。だから決めつけない方がいい」
昨日から何度も同じ結論へ戻る。
分からないものは、分からない。
だから見る。
今日もそれでいい。
「少しだけ森側の足跡追ってみる?」
ケルに聞く。
「浅いところまでならいい。新しい跡だし、途中で他の群れと合流したかくらいは見られる」
「じゃあ百メートルくらいまで。何か変だったらすぐ戻る」
三人で森へ入る。
昨日よりは明るい。
鳥の声も聞こえる。
ただし、普段と比べて戻っているのかどうかは俺には判断できない。
「昨日より鳥鳴いてるね」
「少しな」
ドランが答える。
「でもまだ少ない?」
「ああ。いつもならもっと騒がしい」
「じゃあ完全には戻ってないか」
昨夜の一匹の足跡は、森へ入ってからもしばらく続いていた。
地面が乾き始めているので分かりづらい場所もあるが、ケルが枝の折れ方や草の倒れ方まで見ながら進んでくれる。
五十メートル。
七十メートル。
八十メートルほど進んだところで、ケルが立ち止まった。
「ここで別の跡と合流してる」
「仲間?」
「二匹だと思う。新しい」
見ると、一頭分だった痕跡へ横から別の足跡が重なっている。
「三匹」
「昨日逃げた数と同じだな」
ドランが言う。
俺も同じことを考えていた。
「じゃあ、少なくとも昨日逃げた三匹は生きてて、一緒にいる可能性が高い」
「どうする?」
「戻る」
迷わない。
ケルが少し笑う。
「今日は早いな」
「三匹いるって分かった時点で十分。向こうが村へ来てないなら、追う必要ないでしょ」
「昨日より賢くなったな」
「昨日も同じこと言ってたつもりなんだけど」
三人で来た道を戻る。
途中、昨日鹿の死骸があった方向までは行かなかった。
森の奥に何があるのか。
あの七匹がなぜ浅い場所まで来たのか。
まだ気になる。
でも、それを今すぐ突き止めなければ村が危険という状況ではなさそうだった。
少なくとも今朝は。
◇
村へ戻ると、広場近くから湯気が上がっていた。
時間はまだ昼前だったが、マーサ婆ちゃんとサナ婆さんが大鍋を使い、何かを煮ている。
「ただいま」
声をかけると、マーサ婆ちゃんが鍋から顔を上げる。
「早かったね」
「昼までに戻れって言われたから」
「素直でよろしい」
「子供みたいに言うなあ」
「何かあったのかい?」
「昨夜来た一匹は、森の浅いところで残り二匹と合流してたみたい。昨日逃げた三匹が生きてる可能性は高いけど、今朝は村へ来てない」
「なら飯食えるね」
「判断基準そこ?」
「食えない状況なら先に言うだろ」
確かにそうだ。
俺が笑っていると、ガルド爺さんが近づいてきた。
「森はどうじゃ」
「昨日逃げた三匹はいるみたい。でも追わずに戻ってきた」
「倒さんのか?」
「村に来てないのに、わざわざ森の中で追いかける必要ないよ。向こうが森で暮らしてるだけなら、それでいいし」
「また来たら?」
「その時はまた考える」
ガルド爺さんは少し考えてから頷く。
「まあ、お前がそう言うならいい」
「意外と素直だね」
「腹減っとるから長話したくない」
「結局飯じゃん」
昨日まで命の危険があった森の話をしていたのに、昼飯の時間になれば皆そちらへ意識が移る。
俺にはそれが少し不思議だった。
でも、もしかすると生活とはこういうものなのかもしれない。
危ないことがあった。
心配した。
必要なことをした。
それでも腹は減る。
飯を食う。
午後になれば畑へ行く。
洗濯物も干す。
壊れた戸も直す。
何かが起きたからといって、生活全部がそこへ飲み込まれるわけではない。
◇
昼飯は、昨日中断した道直しの場所ではなく、村の広場で食べることになった。
大鍋の中身は根菜と豆、それから細かく切った肉を煮たものだった。固い肉を小さめにしてあるのを見て、俺は何となくオルド爺さんのことを思い出す。
「これ、肉小さくした?」
マーサ婆ちゃんに聞く。
「昨日のことがあったからね。全員同じにする必要はないけど、今日は人数多いし、柔らかい方が食べやすいだろ」
「俺が言う前にやってたんだ」
「何でもあんたが教えると思うんじゃないよ」
「思ってないって」
「村には村で長く生きてきた知恵があるんだからね」
その通りだった。
俺は前の仕事で食事や姿勢を見ることを覚えた。
でも、この人たちにも何十年も暮らしてきた経験がある。
どちらが上ということではない。
必要なところで持ち寄ればいい。
「ユウ兄ちゃん!」
声がして振り向くと、ベル爺さんの孫が走ってきた。
「昨日魔物と戦ったんでしょ!」
「誰から聞いたの」
「みんな!」
「この村、ほんと情報回るの早いな」
「何匹倒したの?」
「俺が倒したっていうより、四匹捕まえた」
「強かった?」
「強かったよ」
「ユウ兄ちゃんより?」
「俺よりかどうかは分からないけど、普通に怖かった」
少年は目を丸くする。
もっと「余裕だった」と言うと思っていたのかもしれない。
「怖かったの?」
「そりゃ怖いよ。牙あったし、上からも飛んできたし」
「でも勝ったんでしょ?」
「みんなで帰ってこられた。それで十分」
少年は少し考えるような顔をしたあと、俺の隣へ座った。
「じゃあユウ兄ちゃん、英雄?」
「違う」
「なんで?」
「英雄はもっと忙しそうだから」
「そこ?」
「かなり大事」
少年が笑う。
俺も笑う。
そこへベル爺さんが器を二つ持ってきた。
「ほら、しゃべっとらんで食え」
「爺ちゃん、俺自分で持てる」
「なら次は自分で取りに行け。これはもう持ってきたから受け取れ」
「はーい」
孫が器を受け取る。
俺にも一つ差し出される。
「俺の分も?」
「お前も取りに行ってなかっただろ」
「ありがとう」
「昨日働いたから多めに食え」
ベル爺さんが去る。
俺は器を見る。
少し多い。
「……多いな」
「ユウ兄ちゃんいっぱい食べるじゃん」
「誰情報?」
「みんな」
「何でも共有されてるな、この村」
苦笑しながら食べ始める。
温かい。
うまい。
周囲では昨日の森の話だけでなく、畑の出来や鶏、行商人がいつ来るかという話まで同時に飛び交っている。
俺が魔物と戦ったことは、確かに話題にはなっている。
でも、それだけではない。
誰も俺を囲んで英雄扱いしない。
頭を下げ続ける人もいない。
特別な席を用意する人もいない。
昨日までと同じように、空いているところへ座って、同じ鍋の飯を食べる。
それが嬉しかった。
◇
昼食が終わる頃、ローデンが俺のところへ来た。
「午後はどうする」
「一応、東側の結界もう一回見る。警戒線は今夜も残すつもり」
「それ以外は?」
「畑かな。昨日ほとんど見てないし」
「道直しは?」
「今日やる?」
聞くと、ローデンは肩をすくめる。
「無理に今日じゃなくてもいい。昨日の途中までで荷車は通れるようになってる」
「じゃあ明日でもいいんじゃない?」
「俺もそう思う」
あっさり決まった。
前の世界なら、予定していた作業が中断すれば、どこかで取り戻さなければならないと思っていた。
今日できなかった。
なら明日へ上乗せ。
明日も無理なら、その次。
そうして予定はどんどん詰まっていく。
この村では、必要なものだけ残して、急がなくていいものは本当に後へ回る。
「午後、畑やってくるよ」
「疲れてるなら寝てもいいぞ」
「昨日からみんな俺を寝かせたがるね」
「森で戦ってきた奴を翌日からこき使う村だと思われたくない」
「誰に?」
「知らん」
ローデンが笑う。
「でも、畑くらいならやりたい。身体動かした方が落ち着く気がする」
「なら好きにしろ。ただ、森へ一人で入るな」
「それは約束する」
今の俺も、一人で行く気はなかった。
◇
畑へ行くと、昨日見なかっただけなのに少し久しぶりに感じた。
大きく変わっているわけではない。
作物が一晩で急成長するはずもない。
ただ、地面へしゃがみ込んで葉の状態を見たり、雑草を抜いたりしていると、森で魔物と睨み合っていた時間が遠く感じられる。
「こっちの方が好きだな」
思わず口から出た。
魔法で戦うより、草を抜いている方がいい。
格好良さはない。
誰かに称賛されることもない。
でも、今の俺にはこちらの方がずっと落ち着く。
しばらく手を動かしていると、ガルド爺さんがやってきた。
「ユウ」
「今日は何?」
「最初から頼み事扱いするな」
「爺さんが俺のところ来る時、大体何かあるじゃん」
「今日は様子見じゃ」
「珍しい」
ガルド爺さんは畑の端へ腰を下ろす。
「昨日は礼を言っとらんかったからな」
「何の?」
「村のことだ。あの魔物、ここまで来てたんだろ」
「まあね」
「お前がいなけりゃ、誰か食われとったかもしれん」
少し重い言葉だった。
俺は雑草を一本抜き、その根についた土を払う。
「でも、ドランとケルがいなかったら森で迷ってたかもしれないし、ローデンが村に残ってくれたからこっちも任せられた。俺一人でやったわけじゃないよ」
「知っとる」
「なら別に俺だけに礼言わなくていいでしょ」
「それでも、お前の魔法がなきゃ危なかったのも本当だ」
「……それはそうかも」
無理に否定するのも違う。
「だから、ありがとう」
ガルド爺さんが言う。
「うん。どういたしまして」
それだけ答える。
頭を下げさせるつもりもない。
自分を特別に扱わせるつもりもない。
でも感謝まで拒否する必要もない。
「それで」
ガルド爺さんが続ける。
「明日の朝、東の畑の支柱も手伝え」
「結局それが本題じゃない?」
「礼と頼み事は別じゃ」
「順番逆でもよかったでしょ」
「礼を先に言った方が頼みやすい」
「利用された気分なんだけど!」
ガルド爺さんが大笑いする。
俺も笑った。
これでいい。
昨日命懸けで戦ったからといって、今日から関係が変わる必要はない。
俺は村を守った英雄ではなく、明日の朝に畑の支柱を手伝わされる若者のままだ。
◇
夕方近くになってから、オルド爺さんの家にも寄った。
本人は鶏小屋の前で椅子へ座り、夕方の餌の準備をしている。俺を見るなり「今日は詰まらせとらんぞ」と言われたので、こちらが聞くことは完全に読まれていた。
「咳は?」
「ない」
「熱は?」
「ない」
「食事は?」
「小さくして食っとる」
「完璧じゃん」
「だからもう毎日来なくていいぞ」
「毎日は来ないよ。今日は森のことも伝えに来た」
昨夜現れた一匹が、今朝森の浅い場所で残り二匹と合流したらしいことを説明する。少なくとも今日のところは村へ近づいておらず、夜も警戒線を残すつもりだと伝えると、オルド爺さんは鶏小屋へ視線を向けた。
「じゃあ、こいつらも今日は大丈夫か」
「たぶん。でも夜は外出ないでね」
「分かっとる」
「一回で覚えてくれるようになった」
「お前に毎回言われる方が面倒だからな」
「理由は何でもいいよ」
オルド爺さんが笑う。
「昨日はありがとな」
「それ、もう聞いたよ」
「昨日はちゃんと言っとらん」
そうだったかもしれない。
「助かった」
短い言葉だった。
俺は少しだけ黙る。
「うん」
「それだけか」
「何て言えばいいの?」
「知らん」
「じゃあ、どういたしまして」
オルド爺さんは満足そうに頷いた。
「明日、卵持ってけ」
「お礼ならいらないよ」
「礼じゃない。余っとる」
「昨日まで匿名で置いてたのに、今日は堂々と言うんだ」
「ばれたから隠す意味ないだろ」
「開き直ったなあ」
また笑う。
昨日死にかけた人が、今日鶏の餌を準備して、明日の卵の話をしている。
その普通さが嬉しかった。
◇
家へ戻ると、玄関前に籠が置かれていた。
中には芋が数個と、葉野菜、それから小さな瓶に入った塩漬けのものがある。
「……今度は誰だ」
名前はない。
でも、もう驚かなくなった。
誰かが余ったものを置いていったのだろう。
拾い上げて家へ入る。
夕飯は昼の煮込みが少し残っているので、それとパンで十分だった。
赤い魔導書で火を入れ、鍋を温める。
窓の外はゆっくり暗くなっていく。
東の森は見えない。
あの中には、まだ三匹の魔物がいる。
もっと奥には、俺たちの知らない何かがいる可能性も残っている。
それでも、今日は誰も森へ襲いに行かなかった。
向こうが村へ来ていないなら、こちらから追いかける必要もない。
少なくとも、今のところは。
俺は椅子へ座り、夕飯を食べる。
昨日は魔物と戦った。
今日は足跡を確認して戻り、昼飯を食べ、畑で雑草を抜き、ガルド爺さんに明日の支柱を頼まれ、オルド爺さんの様子を見た。
どちらが特別な日なのかと聞かれれば、たぶん昨日だ。
でも俺は、今日の方が好きだった。
誰も死なない。
何も壊れない。
自分がすごい力を持っていることを考えなくていい。
ただ飯を食って、知っている人と話して、畑を触って一日が終わる。
「こういうのでいいんだよな」
誰へ言うでもなく呟く。
以前の俺なら、もっと大きなことをしなければ一日を無駄にしたように感じていたかもしれない。
仕事で何件対応した。
記録を何枚終わらせた。
残業をどれだけ減らした。
誰の代わりへ入った。
役に立った数で一日を測る癖があった。
この村へ来てから、それが少しずつ変わっている。
何も起きない日もある。
それでも飯は食う。
誰かと話す。
昼寝する。
畑を見る。
それだけで一日は一日だった。
そして昨日みたいに何か起きれば、できる範囲で動けばいい。
毎日頑張る必要はない。
必要な時だけ少し頑張って、終わったら戻ってくればいい。
「戻る、か」
その言葉が、自分の中で引っかかった。
昨日、森へ入った時。
俺はずっと「村へ戻る」と言っていた。
魔物から逃げる時も。
森から出た時も。
夜に一匹を確認してからも。
何の違和感もなく、戻ると言っていた。
王都からここへ来たわけではない。
この世界に来て最初から住んでいた場所でもない。
まだ来てからそれほど長いわけでもない。
それなのに、森の中で考えていたのは「村へ帰りたい」だった。
「……家、なんだな」
口にすると、少し照れくさかった。
日本にいた時にも家はあった。
住所もあった。
鍵を開ければ自分の部屋へ入れた。
でも、夜勤明けに帰っても、休みの日に一人でいても、次の仕事が頭から離れなかった。
身体は帰っていても、気持ちまで帰った感じがしないことが多かった。
この村では違う。
森から戻ればガルド爺さんが大声を出す。
マーサ婆ちゃんは飯を食えと言う。
ローデンは俺に全部任せず、自分がやることを決める。
ベル爺さんは勝手に器を持ってくる。
オルド爺さんは卵を置く。
子供は魔法を見たがる。
俺が何かできるからだけではなく、何もしていない時も同じようにそこへ入れてくれる。
昨日魔物から村を守ったから、今日ここにいていいわけではない。
その前から、俺は三十一人目だった。
「そっか」
ようやく分かった気がした。
俺がこの村を守りたかった理由。
人がいるから。
知っている顔があるから。
それだけだと思っていた。
でも、たぶんもう少しだけ違う。
俺はここへ戻りたかったのだ。
守った先に、自分の居場所もあった。
夕飯を食べ終える。
皿を洗う。
外へ出る。
夜の風は少し冷たい。
家々には灯りがついている。
遠くから誰かの笑い声が聞こえる。
「ユウー!」
また大声。
ガルド爺さんだ。
「何ー!」
「明日の支柱、朝飯食ってからでいいぞー!」
「もう聞いたよー!」
「忘れるなよー!」
「爺さんこそ忘れないでよー!」
「俺は忘れん!」
「この前誕生日忘れてた婆ちゃんいる村でそれ言う?」
「マーサに聞こえるぞー!」
少し離れた家から声が飛んできた。
「聞こえてるよ!」
「ほら!」
夜の村に笑い声が広がる。
俺も笑った。
東の森にはまだ分からないことが残っている。
王都からは招聘状も来ている。
この世界でこれから何が起きるのかも知らない。
それでも今夜、戻る場所だけは分かっていた。
この小さな家。
三十一人しかいない村。
朝になれば誰かが呼びに来て、昼になれば誰かに飯を食わされ、夕方になれば明日の仕事を頼まれる場所。
俺は英雄になりたくてここにいるわけではない。
誰かに必要とされ続けるためでもない。
ただ、ここで暮らしたい。
それだけだった。
明日の朝は、ガルド爺さんの畑で支柱を立てる。
その後は自分の畑を見る。
警戒線も確認する。
余裕があれば昼寝もしたい。
予定と言えるほど立派なものではないが、今の俺にはそれくらいでちょうどいい。
家へ戻り、戸を閉める。
外から聞こえていた声が少し遠くなる。
それでも寂しくはなかった。
俺はもう、この家へ一人で帰っているのではない。
村へ帰ってきている。
そう思えるようになったことが、昨日どんな魔物を倒したことよりも、今の俺にはずっと大きなことだった。




