第10話 街道の向こう
翌朝、俺はガルド爺さんの畑で木の支柱を抱えていた。
昨日の夜、「朝飯を食ってからでいい」と念を押された通り、芋と卵を腹へ入れてから来たので文句を言われる筋合いはない。それなのに畑へ着いた瞬間、ガルド爺さんは太陽の位置を確認するように空を見上げ、それからわざとらしく俺へ視線を戻した。
「遅かったな」
「だから朝飯食ってからって言ったの爺さんでしょ。俺、言われた通りにしたんだけど」
「もう少し早く食えばいい」
「そこまで指定するなら昨日のうちに言ってよ」
文句を言いながらも、俺は支柱を一本持って畝の間へ入る。以前なら茶色い魔導書で地面を整え、支柱そのものまで一気に立てていたかもしれないが、今はガルド爺さんから教わった間隔を思い出しながら、自分の手で一本ずつ位置を決めていた。
支柱を地面へ差し込み、少し揺らして安定しているか確かめる。最初の頃は深く入れればいいと思っていたが、土の硬さや作物の位置によって加減が違うらしく、前回は何度もガルド爺さんにやり直しを命じられた。
「そこ、近いぞ」
「これくらい?」
「もう半歩向こうじゃ」
「半歩って爺さん基準?」
「俺基準で何が悪い」
「俺と足の長さ違うじゃん」
「なら見て覚えろ」
相変わらず教え方が雑だった。
それでも、前回よりは分かる。
一本目を少し動かし、隣との間隔を見てから土を踏み固める。ガルド爺さんはしばらく黙って眺めたあと、今度は何も言わなかった。
「合ってる?」
「自分で見ろ」
「褒めたら死ぬ病気なの?」
「間違っとらんものを毎回褒める必要があるか」
「教える側としては、合ってるって言ってくれた方が助かるんだけど」
「なら合っとる」
「言えるじゃん」
俺が笑うと、ガルド爺さんは面倒そうに鼻を鳴らした。
昨日まで森の魔物を警戒していたのに、今日は朝から畑でこんなことをしている。
銀色の魔導書で張った《警戒線》は残してあるし、夜の見回りもしばらく続けることになった。森へ逃げた三匹についても忘れてはいないが、少なくとも昨夜から今朝にかけて村へ近づいた形跡はなく、今すぐこちらから追う理由も見つかっていない。
だから今日は畑をやる。
危険があるからといって、村の生活すべてを止める必要はない。
「ユウ、次これ使え」
ガルド爺さんから少し曲がった支柱を渡される。
「曲がってるけど大丈夫?」
「その程度なら使える。真っ直ぐなもんばっかり選んでたら余るだろ」
「作物に当たらない向きにすればいいのか」
「そういうことじゃ」
受け取って地面へ差し込む。
使えるものは使う。
できることは自分でやる。
難しいところだけ手を借りる。
この村へ来てから何度も聞いた考え方だった。
俺が前の仕事で覚えてきたこととも、少し似ている。
何でも代わりにやればいいわけではない。
できないところだけ支える。
それは人だけではなく、どうやら畑仕事でも同じらしい。
「そういえば爺さん、昨日の夜は森側で何か聞こえた?」
「いや。見回りの連中も何も見とらんと言ってたぞ」
「なら、少し落ち着いたかな」
「油断はするなよ」
「それ、俺が言う側だと思ってた」
「年寄りを舐めるな。長生きしとる分、危ない目も見とる」
七十四歳の本人が自分から年寄りという言葉を使ったので、俺は思わず顔を上げた。
「今、自分で年寄りって言った?」
「言っとらん」
「言ったよ」
「聞き間違いじゃ」
「都合よすぎるでしょ」
追及すると、ガルド爺さんは支柱を持って別の畝へ逃げていった。
俺は笑いながら作業へ戻る。
こういう朝が、もう普通になりつつあった。
◇
支柱を立て終えた後は、自分の畑へ向かった。
森の異変が見つかってから二日ほどまともに手を入れられていなかったので、雑草が少し増えている。作物そのものに大きな変化はなく、ローデンに教わった葉の形を思い出しながら、間違えて抜かないよう慎重に手を動かした。
少し離れた場所では、ベル爺さんが新しい杖を削っている。
以前、俺が高さについて少し話したことをきっかけに作り始めたものだが、今では俺が口を出さなくても何本か作っているらしい。使う人によって長さを変え、握る部分の太さまで調整している。
「ベル爺さん、それ誰の?」
「サナのだ。今使っとるやつは少し短い」
「本人に合わせた?」
「昨日立ってもらって見た」
「なら大丈夫そうだね」
「お前に言われんでも、それくらいやる」
「確認しただけじゃん」
ベル爺さんは手を止めず、木を削り続ける。
俺が最初に伝えたのは、杖の高さが合っていないと姿勢が崩れたり、かえって使いづらくなったりするという程度だった。その後はベル爺さん自身が使う人を見て調整するようになっていて、俺が全部作るよりずっといい。
「ユウ」
「何?」
「これ終わったらお前のも作るか」
「俺、まだ杖いらないよ」
「魔物に噛まれて脚悪くしたらいるだろ」
「縁起でもないこと言わないで!」
ベル爺さんが声を上げて笑う。
俺も呆れながら笑った。
少し前まで、俺は自分の持っている知識や魔法を使って、この村で役に立とうとしていた。
今は少し違う。
俺が何かを伝えれば、誰かが自分なりに使う。
俺がいないところでも続いていく。
それでいいのだと思えるようになっていた。
俺が全部やらなければ回らない場所にはしたくない。
前の世界で、自分が一番苦しくなったのがそれだったからだ。
◇
昼前になると、畑の向こうからベル爺さんの孫が走ってきた。
今日は魔法を見せてくれと騒ぐのかと思ったが、少年は俺のところまで来ると両膝へ手をつき、息を整えてから西側を指差した。
「ユウ兄ちゃん、ローデンおじさんが呼んでる!」
「何かあった?」
「馬車が来るって!」
「行商人?」
「分かんない!」
次の行商人が来るにはまだ少し早い。
王都の使者が戻ってきた可能性も頭へ浮かんだが、あの三人が村を出たばかりで、さすがにもう次が来るとは思いたくなかった。
「どこ?」
「西の道!」
「分かった。走らなくていいから一緒に行こう」
「俺もう走ってきたよ」
「帰りに転んだら意味ないでしょ」
俺は立ち上がり、手についた土を払う。
魔導書を呼ぶほどの状況ではない。
ただ、知らない馬車が来ると聞くだけで、少し身構えるようになった自分には気づいた。
「王都関係じゃないといいなあ」
「王都嫌いなの?」
「嫌いっていうか、行ったことない」
「じゃあなんで嫌なの?」
「俺を連れていこうとする人がいるから」
「行かなきゃいいじゃん」
「その通りなんだよなあ」
子供に言われると、本当に簡単な話に聞こえる。
実際、今のところはそれで済んでいる。
行きたくないから行かない。
それを選べる生活が欲しかったのだから、難しく考えすぎる必要もないのかもしれない。
◇
村の西側へ行くと、ローデンが街道へ続く細い道の入口に立っていた。
ドランも一緒にいる。
少し遅れてガルド爺さんまで来たので、畑仕事を放り出して見物に来たらしい。
「馬車は?」
俺が聞くと、ローデンが西側を指す。
「まだ向こうだ。ドランが薪を運んでいる時に見た」
「行商人じゃないの?」
「違う。商人の馬車なら荷台がもっと大きいし、この時期に来る奴なら旗を出してる」
「王都?」
「それも分からん。ただ、見慣れない馬車だ」
街道の先を見る。
この村から西へ伸びる道は、少し進むと大きな街道へ合流する。俺自身もこの村へ来る時に通った道で、その先には町があり、さらに進めば王都方面へも繋がっている。
「別に村へ来るとは限らないよね」
「ああ。街道を通り過ぎるだけかもしれん」
「なら待つ必要ある?」
「お前、もう来てるぞ」
ドランが言う。
耳を澄ます。
確かに遠くから車輪の音が聞こえる。
しばらくすると、木々の向こうから馬車の姿が現れた。
「……こっち来てるね」
「だな」
豪華な馬車ではない。
王都の使者が乗ってきたものより少し大きいが、飾りはほとんどなく、色も暗い。
ただ、旅商人のものとも違う。
荷物を積むためというより、人を運ぶための造りに見える。
前には御者が一人。
その隣に男が一人座っている。
「兵士?」
俺が聞く。
「剣は持ってるな」
ローデンが答える。
少し嫌な感じがした。
村へ用があるのか。
森の魔物と関係しているのか。
王都から俺へ何か言いに来たのか。
考えられるものはいくつかある。
でも、まだ何も分からない。
「とりあえず話聞こう」
俺はそう言って、その場で待つことにした。
馬車は速度を落としながら近づいてくる。
そして村へ入る手前で止まった。
◇
「この先が、ルーデ村で間違いないか」
御者の隣に座っていた男が尋ねた。
初めて聞いた人間には、この三十一人しかいない小さな集落も地図上ではちゃんと名前を持っているらしい。俺は普段ほとんど「村」としか呼んでいなかったので、改めて名前を聞くと少し不思議な気分になった。
「そうだ。俺はローデンだが、村に用か?」
「いや」
男は短く答える。
年齢は四十前後だろうか。
服装は兵士に近いが、王都から来たアルベルトたちとは装備が違う。
「ここよりさらに東へ行く道は?」
「あるにはあるが、途中から森沿いになる。何をしに行く?」
「仕事だ」
男はそれ以上説明しない。
ローデンの眉が少し動く。
「東は今、魔物が出ている。見慣れない種類だ。行くなら気をつけろ」
「承知した」
男の反応は薄い。
俺は馬車を見る。
窓には厚い布がかけられていて、中は見えない。
「人を運んでるの?」
俺が聞くと、男がこちらへ目を向けた。
「そうだ」
「この先まで?」
「そういう命令だ」
また命令。
その言葉が少し引っかかった。
「どこまで?」
「追放境界までだ」
周囲の空気が変わる。
俺だけ意味が分からなかった。
「追放境界?」
小声で聞くと、ローデンが俺の方へ顔を向ける。
「ここからさらに東へ進んだ先に、古い境界標がある。昔、罪人を王国の管理地域から追い出す時に使われていた場所だ」
「今も使ってるの?」
「滅多にない」
ローデンの声が低くなる。
「少なくとも俺がここに住んでから、実際に人を捨てに来たのは数えるほどだ」
人を捨てる。
嫌な表現だった。
「その人、何したの?」
男を見る。
「我々が答えることではない」
「本人は?」
「処分はすでに決定している」
「そうじゃなくて、本人はこの先でどうするの?」
男が少しだけ怪訝そうな顔をする。
「それを決めるのは我々ではない。境界まで送り届けることが任務だ」
「送り届けるっていうより……」
捨てるだけじゃないか。
そう言いかけて止める。
事情を知らない。
罪を犯した人間なのかもしれない。
危険な人かもしれない。
何も分からない状態で口を挟むのも違う。
「東は本当に危ないぞ」
ドランが言った。
「昨日、俺たちは七匹の魔物に襲われた。三匹はまだ森に残ってる」
男は少し考えた。
「境界までは街道沿いだろう」
「途中で森に近づく」
「我々には護衛がいる」
どうやら引き返す気はないらしい。
「村で一晩休ませるとかは?」
俺が聞く。
「必要ない。日没前には境界へ着く」
それだけ答えると、男は御者へ出発を促した。
馬車が再び動き始める。
俺は道を空ける。
すぐ横を通り過ぎる時、窓を覆っていた布が車輪の揺れでほんの少しだけ動いた。
暗い車内。
人影。
それしか見えなかった。
顔は分からない。
男か女かも、その瞬間には判断できなかった。
でも、誰かが乗っている。
この先へ連れていかれて。
境界で降ろされる。
その後は知らない。
「……嫌な仕事だな」
思わず呟く。
「俺も好きじゃない」
ローデンが答えた。
「でも罪人なんでしょ?」
「王都がそう決めたならな」
「何したか知らない?」
「知らん。通知も来ていない」
「普通、村には知らせないの?」
「ここへ住まわせる処分ではないからな。境界から先へ追放するだけなら、村を通過することすら知らせない場合がある」
馬車が遠ざかっていく。
俺はしばらくその背中を見ていた。
「東って、その先に町とかある?」
「しばらくない」
「家は?」
「ほとんどない。昔の狩人小屋が残っているかもしれんが、使えるかは分からん」
「食べ物は?」
「森で取るしかないだろうな」
「……それ、かなり厳しくない?」
「追放だからな」
ローデンの言葉に、何も返せなかった。
罪を犯した人間へ罰があること自体は分かる。
俺だって、何をしても許されると思っているわけではない。
ただ、何をした人なのかも知らないまま、食べ物も家もない場所へ連れていかれるのを見送るのは、あまり気分のいいものではなかった。
「ユウ」
ガルド爺さんが呼ぶ。
「追いかけるなよ」
「……追いかけないよ」
「顔に出とる」
「何も知らないのに助けに行くほど無茶しないって」
それは本当だった。
俺はあの馬車に乗っている人間の名前すら知らない。
罪も知らない。
事情も知らない。
だから、今できることはない。
「ただ、東の魔物だけは気になる」
「それは俺もだ」
ローデンが頷く。
「境界までの道へ出る可能性はある。念のため今夜は警戒を強めよう」
「うん」
馬車はやがて木々の向こうへ消えた。
俺たちは村へ戻る。
それだけだった。
◇
午後は、昨日途中になっていた東側の道直しを少しだけ進めた。
森へ近い場所ではあるが、村の中なので《警戒線》の範囲内だ。今日はローデンとドランも一緒にいて、危険があればすぐ引き上げることを最初に決めている。
「ここ、もう少し土入れる?」
「その方がいいな」
ローデンが窪みを見る。
俺は籠へ土を入れようとしたが、ガルド爺さんに止められた。
「そこは魔法でやれ」
「今日は使っていいの?」
「昨日魔物と戦った奴に重い土ばっかり運ばせたら、マーサに俺が怒られる」
「基準そこなんだ」
「あと、そこは人力だと面倒じゃ」
「本音出たなあ」
茶色の魔導書を呼び出す。
《土成形》で必要な分だけ土を動かし、窪みへ入れる。
その後は皆で踏み固める。
魔法だけで完成させない。
人力だけにもこだわらない。
楽をしていいところは楽をする。
最近は、その加減も少し分かってきた。
「ユウ兄ちゃん!」
また少年が来る。
「今度は何?」
「水!」
「飲むの?」
「違う! 魔法!」
「道直し中だから後で」
「いつ?」
「終わったら」
「絶対?」
「覚えてたら」
「忘れないでよ!」
「そっちが覚えてたらまた言いに来るでしょ」
「分かった!」
少年が走っていく。
ガルド爺さんが笑う。
「人気者じゃな」
「水の魔法が人気なだけだよ」
「同じようなもんだ」
「全然違うって」
そんな話をしながら道を直す。
西の街道を通った馬車のことは、時々頭へ浮かんだ。
でも、追いかけなかった。
知らない人間の人生へ、事情も分からないまま飛び込むことはできない。
俺は救世主ではない。
困っている人間を片っ端から探して救う生活をするつもりもない。
そう決めている。
だから今は、自分の目の前にある道を直す。
それでいいはずだった。
◇
日が傾き始めた頃、道直しはひとまず終わった。
完全に新品の道になったわけではないが、荷車が通るには十分な状態まで戻っている。俺たちは道具を片づけ、明るいうちに村の中心へ戻ることにした。
「ユウ、水!」
約束を覚えていた少年が待ち構えていた。
「本当に待ってたの?」
「絶対って言った!」
「俺、絶対とは言ってないよ」
「でもやって!」
「少しだけね」
青い魔導書を開き、小さな《水球》を一つ作る。
少年は両手で触ろうとして、水が形を変えるたびに笑った。
「木に投げて!」
「前もやったじゃん」
「今日も!」
「一回だけ」
水球を近くの木へゆっくり飛ばす。
幹へ当たって弾ける。
少年が喜ぶ。
「もう一回!」
「一回って言ったでしょ」
「明日は?」
「明日の気分次第」
「じゃあ明日聞く!」
元気に走っていく。
俺は魔導書を閉じる。
「国家戦略級、今日も平和に使われとるな」
ローデンが横から言った。
「それでいいんだよ」
「王都の魔術師が聞いたら泣きそうだ」
「泣かせとけばいいよ」
笑いながら家へ向かう。
王都から来たアルベルトは、俺の力が多くの人を救えると言った。
それはたぶん正しい。
でも、正しいことを全部自分がやらなければならないわけではない。
今日は道を直した。
子供と遊んだ。
朝は畑の支柱を立てた。
それで十分だった。
◇
夕飯を食べた後、俺は家の前へ椅子を出した。
空はまだ完全には暗くなっていない。
西側には赤い光が残り、反対側の東の森は少しずつ黒く沈み始めている。
《警戒線》に反応はない。
村も静かだ。
時々、家の中から話し声が聞こえる。
少し離れた場所では鶏が鳴いている。
俺は椅子の背へ身体を預けた。
「明日は何しようかな」
特に大きな予定はない。
自分の畑。
ガルド爺さんの畑。
森の様子。
オルド爺さんの食事についても、そろそろ毎日確認する必要はなくなりそうだ。
何もしない時間も欲しい。
昼寝もしたい。
そんなことを考えられるくらいには、ここでの生活が普通になっていた。
この世界へ来た直後、俺はとにかく頑張りたくなかった。
前の世界で疲れた。
誰かに期待されることにも、役割を背負わされることにも、もううんざりしていた。
だから辺境へ来た。
人が少なくて。
仕事が少なくて。
偉くならなくて済みそうな場所を選んだ。
最初は逃げてきただけだったのかもしれない。
でも今は違う。
ここにいたいと思っている。
何もないからではない。
ここにいる人たちを知ったからだ。
俺を便利な魔法使いとしてだけ扱わず、飯を食ったか確認して、働きすぎれば止めて、必要な時には普通に頼み事をしてくる。
魔物と戦った翌日にも畑の支柱を頼まれる。
それが心地いい。
「このままでいいな」
小さく呟く。
王都へ行かなくてもいい。
英雄にならなくてもいい。
誰かより優れている必要もない。
自分で選んだ場所で、自分にできることをしながら暮らせれば、それで十分だ。
遠くで犬のような鳴き声が聞こえた気がして、俺は東の森へ目を向ける。
《警戒線》は反応していない。
なら、今は村の外だ。
すぐに立ち上がる必要はない。
俺はそのまま椅子へ座っていた。
少し前なら、確認しに行っていたかもしれない。
でも今は待てる。
必要になった時に動けばいい。
そのことを、この村で少しずつ覚えている。
◇
同じ頃。
村からさらに東へ離れた古い街道を、一台の馬車が進んでいた。
日が沈みかけている。
道の片側には深い森が広がり、反対側には背の低い草原が続いている。
馬車の車輪が石を踏むたび、車体が小さく揺れた。
その中に、一人の少女が座っていた。
年齢は十九。
長い髪は丁寧に整えられていたはずだが、長時間の移動で少し乱れている。身につけている服も上質な生地ではあるものの、旅へ出るために選んだものには見えず、裾には泥がついていた。
少女は窓の外を見ていなかった。
両手を膝の上で重ねたまま、ずっと俯いている。
指先が僅かに震えていた。
泣いてはいない。
もう泣く力が残っていないようにも見えた。
頭の中には、何度も同じ言葉が蘇っていた。
違います。
私はやっていません。
何度言っても届かなかった。
自分を知っているはずの人たちがいた。
幼い頃から隣にいた人もいた。
家族もいた。
婚約者もいた。
それでも、誰も最後まで自分の言葉を聞いてはくれなかった。
馬車が止まる。
少女の肩が僅かに揺れた。
「降りろ」
外から男の声がした。
少女はすぐには動かなかった。
もう一度声がかかる。
「到着した。降りるんだ」
ゆっくり顔を上げる。
扉が開く。
夕暮れの光が車内へ差し込んだ。
少女は立ち上がろうとして、長く座っていた脚がうまく動かず、一度だけ座席へ手をついた。それでも助けを求めることはせず、自分で姿勢を整えてから馬車を降りる。
外には古い石柱が一本立っていた。
文字が刻まれている。
王国東部管理境界。
少女はそれを見上げた。
「荷物はこれだ」
小さな鞄が地面へ置かれる。
驚くほど少ない。
少女が十九年間生きてきた結果として残されたものが、その一つだけだった。
「ここから先が、あなたの追放地です」
男の言葉を聞いても、少女は何も返さなかった。
馬車へ戻ることは許されない。
王都へ戻ることも許されない。
家へ帰ることもできない。
少女は地面に置かれた鞄を見たあと、ゆっくりと顔を上げる。
道はさらに東へ続いていた。
けれど、その先に何があるのか、彼女は何も知らなかった。




