第11話 追放の先
馬車の扉が閉じられる音は、思っていたよりも軽かった。十九年間の人生を王都側へ置き去りにするには、あまりにもあっけない音で、少女は地面へ置かれた小さな鞄を見つめたまま、しばらく顔を上げることができなかった。
御者が手綱を引くと、馬が低く鼻を鳴らし、車輪が乾いた土を噛み始めた。少女をここまで運んできた男たちは最後まで振り返らず、馬車は夕暮れの古い街道を西へ戻っていく。
追いかけようとは思わなかった。戻ってほしいと叫んだところで止まらないことも、自分を王都へ連れ帰る権限など彼らにはないことも、頭では分かっていた。
それでも、車輪の音が小さくなるにつれて、胸の奥に残っていた何かまで遠ざかっていくようだった。馬車の姿が木々の向こうへ完全に消えた頃、少女はようやく自分以外には誰もいないことを理解した。
夕方の風が髪を揺らし、頬へ冷たく触れる。王都を出た時には整えられていた髪も、長時間の移動と馬車の揺れで崩れ、細い毛束が顔に張りついていた。
少女はそれを耳へかけようとして、途中で手を止めた。誰に見られるわけでもないのに身だしなみを整えようとした自分が妙に可笑しく感じられたが、笑うことはできなかった。
目の前には、古びた石柱が立っている。
王国東部管理境界。
深く刻まれた文字の一部には苔が入り込み、長い間ここが使われてこなかったことを思わせた。そんな場所が、自分のために再び使われたという事実だけは、ひどく鮮明だった。
「……ここから先が、追放地」
声に出してみると、自分のものとは思えないほど掠れていた。喉が乾いていることに今さら気づいたが、馬車の中で渡された水はとうに飲み切っている。
小さな鞄を持ち上げる。
中身は着替えが一組と、薄い外套、それから保存の利く固いパンが少し。水を入れる革袋と、最低限の銀貨もあったが、それだけでどれほど生きられるのか、少女には見当もつかなかった。
公爵家の娘として、帳簿を読み、領地経営の基礎を学び、税や流通についても教えられてきた。国境地方の収穫量や交易路について答えを求められたこともあるが、自分一人が知らない土地へ放り出された時、どの方向へ何里歩けば人家があるのかということは、誰も教えてくれなかった。
父なら知っていたのかもしれない、と考えかけて、少女は唇を噛んだ。父の姿を思い浮かべた瞬間、胸の奥に押し込めていた記憶が勝手に浮かび上がってくる。
『……やはり、お前だったか』
低く、冷たい声だった。
少女は無意識に鞄の持ち手を強く握り、指先へ爪を食い込ませた。あの時、自分は何度も違うと伝えたはずなのに、父は最初から答えを決めている人の顔をしていた。
『違います。お父様、私は――』
『言い訳まで見苦しい!』
耳の奥で怒声が蘇り、少女の肩が小さく震えた。誰もいない街道なのに、あの広間へ引き戻されたような気がして、反射的に周囲を見回してしまう。
当然ながら、父はいない。
母もいない。
王太子も、あの場に集まっていた貴族たちもいない。
夕暮れの草原と森だけが広がり、遠くで鳥の鳴く声が聞こえていた。静かなはずなのに、その静けさは少しも彼女を安心させてくれなかった。
「歩かないと……」
このまま石柱の前に立っていても夜になる。そう理解しているからこそ、少女は自分へ言い聞かせるように呟き、東へ続く道へ視線を向けた。
道と呼べるものは残っていたが、王都周辺の街道とは比べものにならないほど細い。土は固く踏み締められているものの、ところどころ草が入り込み、長く使われていない轍の跡も半分ほど消えかけていた。
森の方から風が吹くたび、葉がざわざわと重なる音を立てる。その中へ何か別の音が混じっていないか気になり、少女は足を踏み出す前に何度も耳を澄ませた。
怖い。
そう思った瞬間、別の声が胸の奥から浮かび上がる。
『その程度のことで怯えていて、王太子妃が務まると思っているの?』
母の声だった。
少女は息を止め、ゆっくり吐き出す。目の前には母などいないのに、背筋を伸ばさなければ叱られるような感覚だけが残っていた。
「……もう、王太子妃にはならないのに」
自分で口にした言葉に、胸が強く痛んだ。婚約がなくなったことは分かっていたはずなのに、未来の形を実際の言葉にすると、そこに空いた穴の大きさが急にはっきりする。
幼い頃から決められていた。
王太子の婚約者として恥ずかしくないように学び、礼儀を覚え、舞踏を習い、歴史を学び、外国語を覚えた。得意ではないことほど時間をかけ、妹なら一度で覚えることを何度も繰り返して身につけた。
それでも足りなかった。
最後には、全部なくなった。
少女は俯きかけた顔を上げ、東へ向かって歩き始めた。立ち止まれば考えてしまうので、今は足を前へ出すことだけに集中したかった。
最初のうちは、歩くこと自体はそれほど難しくなかった。
道は緩やかな下りになっていて、夕方の光もまだ残っている。王都から連れ出されて以来ほとんど身体を動かしていなかったせいか、馬車から降りた直後よりも少しだけ脚が動くようになった。
問題は、履いている靴だった。
丈夫ではあるものの、長距離を歩くためのものではない。貴族令嬢が屋敷や馬車から降りて歩くことを前提に作られているため、しばらく進んだだけで踵が擦れ始めた。
少女は違和感を覚えながらも歩き続けた。痛みを理由に立ち止まることへ、なぜか強い抵抗があった。
『妹は弱音なんて吐かなかったわ』
また母の言葉が浮かぶ。
妹は乗馬を覚えるのも早かった。
剣術の基礎を習わせれば、少女が何度も転んでようやく覚えた足運びを、妹は一度見ただけで真似してみせた。魔術の授業でも同じで、教師が感心するたびに、両親は嬉しそうに妹を褒めた。
少女だって、妹が褒められること自体が嫌だったわけではない。
幼い妹が笑えば可愛かったし、「お姉様、できました!」と駆け寄ってくる姿を見れば、本当は一緒に喜びたかった。けれど、その直後に必ず自分へ向けられる視線があることを知っていたから、いつしか素直に笑えなくなった。
『妹は一度でできたぞ』
『なぜあなたはできないの?』
言葉はいつも短かった。
それでも、それを何年も積み重ねれば、少しずつ身体の内側へ沈んでいく。今では何か失敗するたび、自分で自分へ同じ言葉を投げるようになっていた。
少女は足元の小石につまずき、咄嗟に腕を広げて体勢を戻した。鞄が大きく揺れ、肩にかけていた外套がずり落ちかける。
「危な……」
喉から漏れた声に、自分で驚く。
周囲に誰もいないから、転んでも笑う者はいない。誰も呆れないし、誰も妹と比べたりもしない。
それなのに、胸の奥では「こんなところでつまずくなんて」と自分を責める声が聞こえていた。少女はその事実に気づいても、すぐにはどうすればいいのか分からなかった。
少し先に、道端から大きな岩が突き出している。
そこなら腰を下ろせそうだった。
少女は何度か迷った末、ようやく足を止めた。休んでいいのかどうかを、自分以外に決める人がいないということが、ひどく不思議だった。
岩へ座ると、脚の疲れが一気に表面へ出てきた。
踵の痛みも強くなり、恐る恐る靴を脱いでみる。白い靴下には薄く血が滲んでいて、少女はしばらくそれを無言で見つめた。
傷自体は大きくない。
それでも、歩けば悪化する。
分かっているのに、「もっと歩かなければ」という焦りが消えない。
「妹なら……」
そこまで言って、少女は口を閉じた。
森から吹いてきた風が汗ばんだ首筋を冷やす。自分が何を言いかけたのか理解するまで数秒かかり、その後で苦いものが喉の奥へ広がった。
「妹なら、もっと上手に歩けるのかしら」
小さく言ってから、視線を落とす。
妹はここにいない。
そもそも、こんな場所へ追放されたこともない。
比べる意味などないはずだった。
なのに、自分の中から最初に出てくる名前は妹だった。
少女は膝の上で両手を握り、何度か深く呼吸する。泣きそうなのか、怒りたいのか、それともただ疲れているのか、自分でも判別できなかった。
やがて、何か食べなければならないと思い出す。
鞄から固いパンを取り出した。
小さく割ろうとすると、思った以上に硬い。何度か力を入れてようやく欠けた一片を口へ入れたが、水がないせいでうまく飲み込めず、何度も噛んでから慎重に喉へ送った。
公爵家の食卓では、パンが硬いなど考えたこともなかった。
焼きたてのものが出され、季節に合わせたスープや肉料理が並び、食後には菓子まで用意される。それを当然だと思ったことはないつもりだったが、本当の意味では何一つ分かっていなかったのかもしれない。
次の一口を食べようとして、手が止まる。
何日持たせればいいのだろう。
この先に人家がなかったら。
水を見つけられなかったら。
森から何か出てきたら。
考え始めると、口の中のパンが急に味を失った。少女は残りを布へ包み直し、鞄の奥へ戻した。
夕日はさらに低くなっている。
夜になる前に、眠れそうな場所を見つけなければならない。
少女は傷んだ踵へ薄い布を巻き、靴を履き直した。痛みは消えなかったが、先ほどよりは少しましだった。
再び歩き始めてから、空の色が変わるのは早かった。
赤みを残していた西の空が紫へ移り、森の奥はそれより先に暗くなっていく。昼間なら何でもない木々の間も、光が減るにつれて奥行きを失い、ひとつの大きな影のように見え始めた。
何かが鳴いた。
低く、短い声だった。
少女は反射的に立ち止まり、音のした森側へ顔を向ける。姿は見えないが、枝のどこかで葉が揺れ、胸の奥が強く縮んだ。
魔物についての知識はある。
王都の学院では基本的な種類を学んだし、領地にも小型の魔物が出ることはあった。けれど、それは護衛がいる環境での知識であり、一人で遭遇した場合に戦えるほどの力を持っているわけではない。
少女は魔術を使えないわけではなかった。
ただし、突出して得意でもない。
妹ならもっと――と考えかけ、すぐにその思考を押し込めようとした。
代わりに、今の自分が使える魔法を思い出す。
小さな灯り。
簡単な風。
それから、ごく弱い防御。
学院で学んだ基礎ばかりだった。
「できることだけ……」
誰に聞かせるでもなく呟く。
今は、それしかない。
少女は指先へ意識を集中させ、小さな光を作った。手のひらの上へ淡い光球が浮かび上がり、完全な暗闇ではなくなったことで少しだけ息がしやすくなる。
けれど、光があるということは、自分の位置も目立つということだった。
少女は数歩進んだところでそれに気づき、慌てて光を小さくする。魔力の消費も考えなければならないと思うと、胸の中へ別の焦りが増えていった。
道の脇に何かが落ちている。
一瞬、人の身体に見えて足が止まった。
慎重に近づくと、古びた木箱の残骸だった。蓋は腐って外れ、中には何も残っていない。
少女は息を吐き、胸へ手を当てた。
自分の鼓動が速い。
「こんなことで……」
情けない、と続けそうになったが、言葉を飲み込んだ。
怖いものは怖い。
誰も見ていないのだから、強がる必要などない。
そう考えたはずなのに、身体から力を抜くことはできなかった。
もう少し進むと、道が二つに分かれていた。
片方はそのまま東へ向かっているように見え、もう片方は北東へ緩く曲がっている。標識らしき木板はあるものの、文字はほとんど消えていて、少女にはどちらが正しいのか判断できなかった。
馬車の男たちは「ここから先が追放地」としか言わなかった。
どこへ行けば生きられるのかは教えられていない。
少女は二つの道を何度も見比べる。
間違えたら。
戻れなくなったら。
その考えだけで脚がすくむ。
公爵家にいた頃なら、道を決める役目は御者や護衛に任せればよかった。自分で地図を読む訓練はしていても、知らない場所で本当に一つを選び、その結果を自分で引き受けることなどほとんどなかった。
少女はその場に立ち尽くした。
どちらかを選ばなければならない。
けれど、選ぶことが怖かった。
『何を迷っている。公爵家の長女なら、もっと堂々と決断しなさい』
父の声が蘇る。
少女は目を閉じた。
堂々と。
正しく。
間違えずに。
いつもそう求められてきた。
「……分かりません」
誰もいない場所で、初めて声に出した。
「私には、分かりません……」
言ってしまうと、胸の奥が急に熱くなった。
分からない。
どうすればいいのか分からない。
この先に何があるかも、どこへ行けばいいかも、自分が明日の朝を迎えられるのかも分からない。
それでも今までは、分からないと言うことさえ許されないような気がしていた。
少女はその場へしゃがみ込み、顔を両手で覆った。
涙が落ちる。
王都を出てから、ほとんど泣けなかった。
断罪された時も、婚約を破棄された時も、両親から見放された時も、周囲には人がいた。泣けば罪を認めたと思われる気がして、背筋を伸ばし、震える声で何度も「違います」と繰り返した。
『もういい』
あの人の声が蘇る。
婚約者だった王太子は、自分を見ることさえ疲れたような表情をしていた。
『これ以上、王家の名誉を汚すな』
少女は両手で口を塞ぎ、漏れそうになった嗚咽を必死に押さえた。
信じてほしかった。
せめて、最後まで話を聞いてほしかった。
自分を愛していたかどうかなど、今となっては分からない。それでも長い年月を婚約者として過ごしてきたのだから、一度くらい「本当にお前がやったのか」と問い直してくれると思っていた。
けれど、そうはならなかった。
提示されたものを見て、証言を聞いて、彼は結論を出した。
少女の言葉だけが、その結論の中へ入らなかった。
「……私、本当に……やってないのに」
膝へ額を押しつけたまま、掠れた声が漏れる。
誰も答えない。
当然だった。
それでも、初めて最後まで言えた気がした。
少女はしばらくその場から動けなかった。
どれほど時間が経ったのか分からない。
涙が少し落ち着いた頃には、空はさらに暗くなっていた。
泣いたから何かが解決したわけではない。
道が分かるようになったわけでもない。
それでも、胸の中へ詰まり続けていたものが少しだけ減ったような感覚があった。
少女は袖で頬を拭き、ゆっくり立ち上がった。
もう一度、二つの道を見る。
正解は分からない。
なら、せめて選ぶ理由を作ろうと思った。
北東へ曲がる道は、草が少しだけ短い。
最近まで何かが通った痕跡かもしれない。
少女はしゃがみ込み、地面へ触れた。
薄暗くてはっきりしないが、土の一部が押し固められている。
車輪の跡にも見えた。
「……こっち」
自信はなかった。
けれど、何も考えずに選ぶよりはいい。
少女は北東へ向かう道へ足を進めた。
しばらく歩くと、森との距離が少し離れた。
代わりに草地が広がり、夜空が大きく見えるようになる。月はまだ高くないが、雲が少ないおかげで完全な暗闇にはならず、少女は手のひらの灯りを消して魔力を温存した。
脚は重かった。
踵も痛い。
空腹も残っている。
それでも、先ほど立ち止まって泣いた後から、ほんの少しだけ歩き方が変わっていた。
急がなければならないという焦りは消えていない。
ただ、転びそうになるほど速く歩く必要はないと、ようやく自分へ言えるようになっていた。
道の端へ背の高い草が生えている場所では、杖代わりになる枝を拾った。
見た目は不格好だったが、足元を確かめるには役立つ。
公爵令嬢らしくない姿だと思い、少しだけ唇が動いた。
「……今さらね」
自嘲するような声だった。
ドレスではなく旅用の簡素な服を着ていても、髪が乱れていても、道端の枝を杖にしていても、もう誰かに叱られることはない。
それが自由だと思えるほど、少女の心はまだ軽くなっていなかった。
ただ、何かを間違えた時にすぐ「妹なら」と考える癖と同じくらい、自分の行動を誰かの目で採点する癖があることには、少しずつ気づき始めていた。
遠くに、小さな明かりが見えた。
少女は足を止める。
最初は星かと思った。
けれど、それは地平よりずっと低い位置にあり、木々の間から揺れるように見えている。
火だろうか。
家だろうか。
誰かがいるのだろうか。
期待と警戒が同時に湧き上がり、少女はすぐには近づけなかった。
人がいるなら助けを求められる。
水を分けてもらえるかもしれない。
けれど、自分が「罪人として追放された女」だと知られたら、どうなるのだろう。
追い返されるかもしれない。
捕らえられるかもしれない。
あるいは、王都の人々と同じように、自分の言葉など聞いてもらえないかもしれない。
少女は鞄の持ち手を握り直した。
近づくことが怖い。
でも、このまま夜の街道で立ち尽くす方がもっと怖かった。
少しだけ進む。
明かりは消えない。
さらに歩くと、もう一つ見えた。
その近くには、屋根のような影もある。
人の住む場所だ。
少女の胸が強く鳴った。
どんな人がいるかは分からない。
自分を受け入れてくれる保証もない。
それでも、今の彼女には他に行く場所がなかった。
少女は痛む足を庇いながら、ゆっくりと明かりのある方へ歩き始めた。
その先にある小さな村が、彼女にとって何になるのかを、この時の少女はまだ知らなかった。




