第12話 村の明かり
木々の向こうに見えていた明かりは、近づくにつれて少しずつ形を持ち始めた。
最初に見つけた一つだけではない。暗くなった草地の先に、小さな橙色の光がいくつか離れて浮かび、その周囲には低い屋根や柵らしき影も見えている。王都の夜景とは比べるべくもないほど僅かな灯りだったが、何時間も人の姿を見ないまま歩いてきた少女にとって、それは眩しく感じるほど確かな生活の証だった。
人がいる。
その事実に安堵するより先に、少女の足は止まった。
握っていた枝の先が土へ沈み、乾いた音を立てる。歩き続けたせいで両脚は重く、擦れた踵は一歩ごとに痛んでいるのに、それでも身体は前へ進むことを拒むように固まってしまった。
助けてもらえるかもしれないという期待と、追い返されるかもしれないという恐怖が胸の中でぶつかっている。
王都を離れるまでは、人がいる場所を怖いと思ったことなどなかった。むしろ公爵令嬢として生きてきた十九年間、人の視線がある場所ほど背筋を伸ばし、相応しい振る舞いをすることが当然だった。
今は、その視線を想像するだけで息が浅くなる。
罪人。
追放された女。
王太子の婚約者でありながら、その立場に相応しくない行いをした女。
自分が何をしたのかではなく、王都で自分がどう決めつけられたのか。それをこの場所の人々まで知っていたらと思うと、明かりへ近づくことが急に恐ろしくなった。
「……でも」
少女は振り返った。
背後には、月明かりの下で古い道が細く伸びている。その先は暗い草地と森に呑まれ、少し前まで自分が歩いてきた場所さえ、もうよく見えない。
戻ったところで、追放境界の石柱があるだけだ。
さらに西へ進めば、いずれ王国側へ戻ることになる。戻ることを許されているのかも分からず、仮に戻れたとしても、自分を迎えてくれる場所はない。
東へ進み続けることもできない。
水はなく、食べ物も僅かで、夜の森には何がいるか分からない。魔物について多少の知識があっても、それは自分一人で生き延びられるという意味ではなかった。
少女は再び明かりへ顔を向けた。
正しい選択なのかは分からない。
それでも、第11話で二つに分かれた道を前にした時とは少しだけ違った。正解を知っている誰かが現れて命じてくれるのを待つのではなく、今の自分にできる範囲で選ばなければならない。
「……行こう」
声にしてから、枝を地面へ突く。
一歩進むと踵が痛んだ。
それでも、今度は止まらなかった。
村へ近づくにつれ、生活の音が聞こえるようになった。
どこかの家から食器の触れ合う音がして、別の方角では戸を閉める音が響く。家畜なのか、小さく鳴く動物の声も混じり、薪を燃やしているらしい煙の匂いが夜風に乗って流れてきた。
夕食時なのだろう。
その匂いを意識した瞬間、少女の腹が小さく鳴った。
慌てて腹部を押さえたものの、周囲にはまだ誰もいない。恥ずかしがる必要などないと分かっていても、公爵令嬢として染みついた反応は簡単には消えてくれなかった。
道沿いには畑が広がっていた。
王都近郊の大規模な農地とは違い、一つ一つが小さい。月明かりの下でも、支柱に沿って育つ作物や、土を盛り直した跡がなんとなく分かる。
道そのものにも、人の手が入っていた。
古い街道から分かれた辺境の道なのだから、もっと荒れているものだと思っていた。しかし足元には最近均されたらしい場所があり、端には掘り出された石がまとめて寄せられている。
少女は不思議に思いながら進み、その途中で小さな段差に足を取られた。
「あっ……」
疲れ切った脚では踏ん張りが利かなかった。
杖代わりの枝を地面へ突いたものの、先端が滑る。身体が前へ傾き、少女は咄嗟に片手を伸ばした。
膝をつく寸前、道端の柵へ手が届いた。
どうにか転倒だけは免れたが、擦れた踵へ体重がかかり、鋭い痛みが走る。
「……っ」
少女は柵を掴んだまま動けなくなった。
痛みが引くまで待とうと思ったが、身体が小さく震えている。寒さだけが原因ではなく、長時間の緊張と疲労が限界に近づいていた。
それでも、もう村は目の前にある。
数軒先の家には窓から灯りが漏れ、低い柵の向こうには洗ったらしい農具が立てかけられている。人が暮らしている場所まで辿り着いたのだから、声をかければいい。
そのはずなのに、少女は何を言えばいいのか分からなかった。
助けてください。
泊めてください。
水をください。
どれも、口に出すことへ強い抵抗がある。
公爵家にいた頃、自分が誰かへ何かを頼む時には、相手にも役割があった。使用人へ湯を頼むのも、御者へ馬車を頼むのも、護衛へ同行を頼むのも、すべて決められた関係の中で行われる。
見知らぬ人へ、自分には返せるものが何もない状態で助けを求めた経験がない。
「どう、すれば……」
呟きながら柵を離れようとした時だった。
「誰かいるのか?」
突然聞こえた声に、少女の肩が大きく跳ねた。
反射的に振り向くと、二十歩ほど先の家から一人の男が出てきていた。手には小さな灯りを持ち、暗い道にいる少女を確認しようと目を細めている。
五十代ほどだろうか。
少女にはまだ、その男がローデンだとは分からない。
「こんな時間に……」
男は途中まで言い、少女の姿を見たところで口を閉じた。
旅人にしては荷物が少なすぎる。
服は上質な生地で作られているものの、裾には土が付き、長く歩いたらしく靴も汚れている。何より、柵へ片手をついていなければ立っていることさえ辛そうな様子は、事情を知らなくても普通ではないと分かった。
男が近づいてくる。
少女は一歩下がろうとした。
その動きで踵へ再び痛みが走り、顔が歪む。
男はすぐに足を止めた。
「待て。近づかない方がいいなら、ここで止まる」
予想していなかった言葉に、少女は顔を上げた。
男は本当に止まっていた。
警戒していないわけではない。灯りを少し高く持ち、少女の服装や鞄、周囲の道へ視線を動かしている。
ただ、無理に距離を詰めようとはしなかった。
「村へ用があるのか?」
「……」
答えなければ。
少女は口を開いたが、声が出なかった。
名前を言えばいいのか。
身分を言うべきなのか。
それとも、まず追放されたことを説明するべきなのか。
王都であれば、名乗ればそれだけで自分が誰か伝わった。けれど今、その名前がどんな意味を持つのか分からない。
「私は……」
声が震えた。
男は急かさなかった。
その沈黙が、かえって少女を戸惑わせる。
「私は、その……」
何を言っても間違える気がした。
事情を隠せば騙していると思われるかもしれない。すべて話せば追い返されるかもしれない。
そんな迷いを続けているうちに、近くの家から別の声が聞こえた。
「ローデン、どうしたい?」
年老いた女性が戸口から顔を出している。
その後ろからも誰かが覗き、何事かと道の方へ視線を向けた。
少女の身体が強張った。
一人ならまだ耐えられた。
けれど、人が増えると途端にあの広間の記憶が重なった。
自分へ集まる視線。
ひそひそと交わされる言葉。
信じられないという顔。
侮蔑。
失望。
『違います』
あの時の自分の声が蘇る。
『私は、そんなことをしていません』
誰かが証拠を読み上げた。
別の誰かが証言した。
そして、よく知っている声まで聞こえた。
少女の呼吸が浅くなる。
「おい?」
ローデンの声が聞こえた。
少女は答えようとしたが、うまく息を吸えない。
「ごめん、なさい……」
なぜ謝ったのか、自分でも分からなかった。
「私……何も……」
言葉が続かない。
柵を握る指に力を込めたつもりだったが、その手にも力が入らなくなっていた。
ローデンの表情が変わる。
「マーサ、ちょっと来てくれ」
「言われなくても行くよ。あんたはそこで待ってな」
先ほど戸口から顔を出していた老婆が、灯りを手に道へ出てきた。
歩みは決して速くない。
少女はその人が自分よりずっと年上だと分かり、なぜか「迷惑をかけてはいけない」という考えが最初に浮かんだ。
「大丈夫、です。私は……」
「大丈夫な人間は、そんな立ち方しないよ」
老婆――マーサは、呆れたような声でそう言った。
けれど、その声には責める響きがなかった。
少女は言葉を失った。
マーサは数歩離れた場所まで来ると、まず少女の顔ではなく足元へ目を向けた。
「靴、痛いだろ」
「……え?」
「さっきから右足をまともにつけてないじゃないか。左も怪しいね」
少女は咄嗟に足を揃えようとした。
痛みを隠すための動きだったが、身体がついてこない。
「平気です」
「そうかい」
マーサはあっさり頷いた。
少女は少しだけ安心したが、その直後に続いた言葉で目を瞬いた。
「じゃあ、平気かどうかは座ってから考えよう。立ったまま考える必要はないだろ」
「……座る?」
「椅子くらいあるよ。小さい村だけどね」
マーサはそう言って、近くの家の前に置かれている木の椅子を指した。
少女はそこを見る。
十歩ほどしか離れていない。
それなのに、他人の椅子へ勝手に座っていいのかという迷いが生まれた。
「でも……」
「それ、うちの椅子だから私がいいって言ってる」
マーサは少女の迷いを見抜いたように言い、ローデンへ顎を向けた。
「ローデン、持ってきな」
「俺が?」
「今ここに若いのがあんたしかいないだろ」
「五十過ぎを若い扱いするのは、この村くらいだぞ」
文句を言いながらも、ローデンは素直に椅子を取りに行った。
そのやり取りを聞いて、少女は目を瞬いた。
状況に似つかわしくないほど普通の会話だった。
自分が誰なのか。
何をしたのか。
どうしてここにいるのか。
まだ何も聞かれていない。
ローデンが椅子を運んで戻り、少女から少し離れた場所へ置く。
「自分で座れるか?」
問いかけられ、少女は反射的に頷いた。
「はい」
「なら、頼む。支えが必要なら言ってくれ」
手を伸ばしてくることもなかった。
少女は杖代わりの枝を使いながら、ゆっくり椅子まで進んだ。
一歩ごとに痛む。
けれど、誰も急かさない。
マーサもローデンも黙って待っている。
椅子へ腰を下ろした瞬間、脚から一気に力が抜けた。
座れたことに安堵したのか、身体の震えが先ほどより大きくなる。
「水は?」
マーサに尋ねられた。
少女は鞄へ視線を落とした。
「……ありません」
「最後に飲んだのは?」
「馬車の中で……」
「どれくらい前だい?」
答えようとして、分からないことに気づいた。
王都を出てから時間の感覚が曖昧になっている。
「すみません、分かりません」
また謝ってしまった。
マーサは眉を寄せた。
「分からないなら分からないでいいよ。謝ることじゃない」
少女は顔を上げた。
そんな言い方をされたことが、すぐには思い出せなかった。
ローデンが家へ向かい、しばらくして水の入った木の杯を持って戻ってくる。
「一気に飲むなよ。ゆっくりでいい」
「……ありがとうございます」
両手で受け取る。
水は冷たかった。
口をつけると、乾いていた喉へ染み込んでいく感覚があまりにも鮮明で、少女は思わず目を閉じた。
もっと飲みたかったが、言われた通り一度口を離す。
マーサがその様子を見ていた。
「食べてるかい?」
「パンを、少し」
「少しって?」
少女は鞄の中に残っている量を思い浮かべた。
「一口……いえ、二口くらいです」
マーサが深く息を吐いた。
「ローデン」
「分かってる。何か持ってくる」
「固いのはやめな。疲れてる時に無理して食べさせても仕方ない」
「うちに昼のスープが残ってる」
「それでいい。熱くしすぎるなよ」
話が勝手に進んでいく。
少女は慌てて杯を持ったまま立とうとした。
「待ってください。そこまでしていただくわけには……」
身体を浮かせた瞬間、脚に力が入らなかった。
椅子へ戻りそうになったところで、マーサが腕を伸ばしかける。
しかし、その手は少女の身体へ触れる寸前で止まった。
「支えるよ。いいかい?」
少女は息を呑んだ。
許可を求められるとは思っていなかった。
ほんの一瞬迷った後、小さく頷く。
「……お願いします」
「はいよ」
マーサの手が肘の少し上を支えた。
強く掴むのではなく、身体が崩れない程度の力だった。
「ほら、座っときな。立てることを証明しに来たわけじゃないんだろ」
少女は再び椅子へ腰を下ろした。
その言葉が胸のどこかへ引っかかった。
立てることを証明する必要はない。
できることを証明する必要もない。
ここへ来た理由すら、まだ話していない。
それなのに、水を渡され、椅子を出され、食事まで用意されようとしている。
「どうして……」
少女は杯を見つめながら呟いた。
「何がだい?」
「どうして、私にそこまで……」
マーサは少女の顔を見た。
「水飲ませて椅子に座らせるのが、そこまで大したことかい?」
「でも、私は……」
続きが喉へ引っかかる。
言わなければならない。
この人たちは知らないから優しくしているだけかもしれない。
知ったら変わるかもしれない。
それでも、黙ったまま世話になるのは卑怯な気がした。
「私は、追放されました」
言葉にすると、マーサの目が僅かに細くなった。
近くで様子を見ていた村人たちの間にも、小さなざわめきが起こる。
少女の身体がすぐに強張った。
やはり言わなければよかった。
そんな後悔が浮かぶ。
「王都から……罪を犯したとして、ここへ……」
声が震える。
「でも、私は……」
続きを言えば、また同じことになるかもしれない。
違う。
やっていない。
何度言っても届かなかった言葉。
少女は膝の上で指を握った。
「私は、やっていません」
周囲が静かになった。
少女は顔を上げられない。
「信じていただけないと思います。でも……本当に……」
「その話、今しなきゃ駄目なのかい?」
マーサの声が落ちてきた。
少女は思わず顔を上げた。
「……え?」
「追放された理由を今ここで全部話さなきゃ、水を飲んじゃいけない決まりでもあるのかって聞いてるんだよ」
「でも……」
「私はそんな決まり知らないね」
マーサは肩をすくめた。
周囲の村人たちも、どう反応すればいいのか迷っているようだった。
追放された人間が村へ現れることなど、彼らにとっても普通ではない。
誰もが無条件に安心しているわけではないことは、少女にも分かった。
それでも、石を投げられることもなければ、すぐ出ていけと怒鳴られることもなかった。
ローデンがスープの入った器を持って戻ってくる。
周囲の空気が変わっていることに気づき、少女とマーサを交互に見た。
「話したのか?」
「追放されたってところだけね」
「そうか」
ローデンはそれ以上聞かず、少女の前へ器を置いた。
湯気はほとんど立っていない。
マーサが熱くするなと言ったから、飲みやすい温度まで冷ましてきたのだろう。
「先に食べた方がいい」
少女はローデンを見た。
「……怖くないのですか?」
「何が?」
「私が……罪人かもしれないのに」
ローデンは少し考えるように黙った。
軽々しく「信じる」と言わないことが、少女には意外だった。
「分からん」
やがて返ってきたのは、そんな言葉だった。
「俺はお前が誰なのかも知らないし、王都で何があったのかも知らない。だから、やったとも、やってないとも今は言えん」
少女の胸が僅かに沈む。
やはり信じてもらえない。
そう考えかけた時、ローデンは続けた。
「ただ、今ここで見て分かるのは、あんたが腹を空かせて、水もなくて、足を痛めてるってことだ。その三つと、王都で何があったかは別の話だろ」
少女は返事ができなかった。
無実を信じてもらえたわけではない。
それなのに、不思議と王都で「信じている」と言われたどんな言葉より、胸へ静かに入ってきた。
分からないから、分からないと言う。
それでも、目の前で起きていることは見てくれる。
そんな考え方があることを、少女は知らなかった。
「食べな」
マーサに促され、少女は木の匙を手に取った。
スープには柔らかく煮込まれた豆と、小さく切った野菜が入っている。
一口だけ口へ運ぶ。
温かい。
熱すぎない。
疲れた身体でも飲み込める。
少女は二口目を口へ運び、そこで手を止めた。
「……おいしいです」
「そりゃよかった」
マーサはそれだけ言った。
料理を褒められたことを大げさに喜ぶでもなく、恩を売るでもない。
少女はもう一口食べた。
喉を通った温かさが腹へ落ちていく。
その感覚を意識した瞬間、視界が滲んだ。
泣くつもりなどなかった。
先ほど街道で十分に泣いたと思っていた。
それでも涙は止まらず、器へ落ちそうになって、少女は慌てて顔を背けた。
「申し訳……」
「謝らなくていい」
マーサが先回りした。
「でも……」
「泣きながら食べたって、スープの味はそんなに変わらないよ」
少女は唇を噛んだ。
堪えようとすると余計に涙が出る。
周囲には人がいる。
見られている。
それでも、今度は誰も彼女の涙を罪の証拠にはしなかった。
少し離れた場所で見ていたベル爺さんが、気まずそうに視線を逸らす。別の老婆は何も言わず家へ戻り、しばらくしてから薄い布を持ってきてマーサへ渡した。
マーサはそれを少女へ差し出した。
「鼻も拭けるよ」
少女は泣きながら、ほんの僅かに口元を緩めた。
「……ありがとうございます」
それがこの村へ来てから、初めて力を込めずに言えた言葉だった。
少女が半分ほどスープを食べた頃、村の奥から足音が近づいてきた。
「ローデン?」
若い男の声だった。
少女の手が止まる。
マーサがそちらを向いた。
「やっと来たかい」
「やっとって、俺は呼ばれたから来たんだけど」
「だったらもっと早く来な」
「無茶言うなよ。家にいたんだから」
聞こえてきた会話は、先ほどのローデンとのやり取りに似ていた。
少女は涙を拭き、声のした方へ顔を向ける。
暗い道を、一人の青年が歩いてきていた。
手には灯りを持っていない。
代わりに、その横へ淡い白色の光が浮かび、青年の歩く速度に合わせて静かについてきている。
魔法だと気づくまで少し時間がかかった。
少女が知っている照明魔法とは術式の気配が違う。
青年は集まっている村人たちを見てから、椅子へ座っている少女へ視線を移した。
驚いたように僅かに目を見開く。
けれど、それだけだった。
値踏みするように服を見ることも、顔を凝視することもない。
「この人?」
「そうだ」
ローデンが答えた。
「昼間の馬車に乗ってた人らしい」
少女は息を呑んだ。
この村の人間は、あの馬車を見ていた。
青年の視線がもう一度少女へ向く。
「追放境界まで行った馬車?」
「本人が追放されたと言ってる。細かい話はまだ聞いてない」
「そっか」
青年はそれだけ言った。
少女は思わず彼の顔を見つめた。
もっと何か聞かれると思った。
何をしたのか。
なぜ追放されたのか。
名前は。
身分は。
けれど青年は少女の足元を見て、眉を寄せた。
「足、怪我してる?」
「……え?」
「右を庇ってるから。左も痛そうだけど」
少女は自分の足を見る。
靴を履いたままなので、傷そのものは見えない。
「歩いている途中で、靴擦れを……」
「どれくらい歩いた?」
「分かりません」
「そっか。じゃあ分からなくていいや」
あまりにも自然に言われ、少女は言葉を失った。
少し前にマーサからも似たことを言われた。
分からないことを、無理に答えなくていい。
青年はしゃがみ込もうとして、途中で動きを止めた。
「足、見てもいい?」
「……あなたが?」
「嫌ならマーサ婆ちゃんに見てもらう。俺は一応、こういうの見る癖があるだけだから」
「癖?」
「前の仕事でね」
青年は詳しく説明しなかった。
少女はマーサを見る。
「こいつ、怪我を見る時だけ妙に細かいんだよ」
「妙には余計だろ」
「この前なんてオルドの顔色を朝から何度見てた?」
「気道塞がった次の日なんだから見るだろ、普通」
「見すぎだって言ってんのさ」
二人の会話を聞きながら、少女は迷った。
目の前の青年が何者なのか分からない。
それでも、勝手に身体へ触れようとしなかったことだけは分かる。
「……お願いします」
少女が答えると、青年は頷いた。
「じゃあ、まず靴脱げる?」
「はい」
少女は自分で靴へ手を伸ばした。
青年は手伝わない。
脱げないと分かってから手を出すつもりなのだろうかと考えながら、少女は右の靴をゆっくり外した。
靴下に血が滲んでいる。
青年の表情が僅かに険しくなった。
「結構擦れてるな」
「大した傷では……」
「大した傷かどうかと、痛いかどうかは別じゃない?」
少女は口を閉じた。
青年は傷を確かめながらも、必要以上に触れなかった。
「水で汚れ落として、布当てた方がいい。今日はもう歩かない方がいいと思う」
「でも……」
「どこか行く予定ある?」
少女は答えられなかった。
行く場所などない。
青年はその沈黙を見て、少しだけ首を傾げた。
「じゃあ、少なくとも今すぐ決めなくてもいいんじゃない?」
「……決めなくても?」
「暗いし、腹減ってるし、足痛いんでしょ。その状態でこの先どうするか考えても、ろくなこと思いつかないと思うけど」
少女は青年を見た。
言葉遣いは、王都で接してきた貴族たちとはまるで違う。
丁寧でもない。
それなのに、不快には感じなかった。
「でも、私は……追放された人間です」
「聞いた」
「罪を犯したとされています」
「それも今聞いた」
「私はやっていません」
青年はすぐに答えなかった。
少女の胸が緊張する。
やがて青年は、傷から視線を上げた。
「それが本当かどうか、俺には分からない」
少女の指が僅かに強張った。
けれど、青年の表情には疑うような険しさも、慰めるための笑顔もなかった。
「俺、その場にいなかったし。何があったかも知らないから」
「……はい」
「ただ」
青年は一度周囲を見た。
マーサがいて、ローデンがいて、少し離れた場所にはベルたちもいる。誰も口を挟まず、青年の言葉を待っていた。
「今ここにいるあんたが、少なくともこの村では何もしてないなら、それでいいんじゃない?」
少女は瞬きを忘れた。
青年は特別なことを言ったつもりもないように続ける。
「王都で何があったかは、話したくなった時に話せばいいと思う。俺たちが聞かなきゃ困ることが出てきたら、その時は聞くかもしれないけど」
「それだけ、ですか?」
「何が?」
「私が何者なのか、聞かないのですか?」
「今すぐ必要?」
問い返され、少女は答えに詰まった。
青年は少し考えてから、傷へ当てる布をマーサから受け取った。
「呼び方は必要だから、名前くらいはそのうち聞きたいけど。言いたくないなら今日は別にいいし」
少女の胸が揺れた。
名前さえ、今は言わなくていい。
それは、自分が公爵令嬢であることも、王太子の元婚約者であることも、罪人として追放されたことも、今夜この場所で水を飲み、食事をする資格とは関係がないということなのだろうか。
「あなたは……」
少女は青年を見つめた。
「あなたは、誰なのですか?」
「ああ、俺?」
青年はそこで初めて、自分が名乗っていなかったことに気づいたらしい。
「ユウ。ここの村に住んでる」
「ユウ……」
「うん」
それだけだった。
家名も役職も言わない。
少女は無意識に次の言葉を待ったが、何も続かない。
「それだけですか?」
「それだけって?」
「家名や、お立場は……」
「ないよ、そういうの」
ユウは困ったように笑った。
「ただの村人」
少女は返事を忘れた。
ただの村人。
その言葉と、彼の横へ浮かんでいる魔法の光がどうにも噛み合わない。
これほど自然に無詠唱らしき魔法を維持できる人間が、ただの村人であるはずがない。そう思ったが、周囲の老人たちは誰一人として疑問を持っていない様子だった。
「ユウ、傷はどうなんだ?」
ローデンが尋ねる。
「今すぐどうこうって感じじゃない。汚れ落として保護して、今日は歩かせない方がいいと思う。あと、かなり疲れてる」
「見りゃ分かるよ」
マーサが呆れたように言う。
「じゃあ泊まる場所だな」
ローデンが周囲を見る。
その言葉に、少女は慌てた。
「待ってください」
全員の視線が集まる。
先ほどなら、それだけで身体が強張っただろう。
今も怖さは残っている。
それでも、少女は自分から言葉を続けた。
「私は……皆様に、何も返せません」
マーサが眉を寄せる。
「返す?」
「水もいただきました。食事まで。それに、傷の手当てと、泊まる場所まで用意していただくなんて……」
少女は膝の上で両手を重ねた。
「私には今、お返しできるものがありません」
持っている銀貨を出すべきだろうか。
だが、それはこの先を生きるために必要な金でもある。
迷いが顔に出ていたのか、ユウが少し考えてから口を開いた。
「じゃあ、返さなくていいんじゃない?」
少女は顔を上げた。
「ですが」
「今日じゃなくてもいいでしょ」
ユウは傷へ布を当てる準備をしながら、何でもないことのように話す。
「元気になって、何かできるようになって、それで自分がやりたいと思ったら何かすればいいし。やりたくなかったら別にしなくてもいいと思うけど」
「何もしなくても……?」
「俺も何もしない日あるし」
「こいつ、最近ようやく昼寝を覚えたんだよ」
マーサが横から口を挟んだ。
「余計な情報を足すなよ」
「大事な情報だろ」
「どこが?」
周囲から小さな笑いが漏れた。
少女は彼らを見回した。
誰も、ユウが何もしない日があることを責めていない。
むしろマーサは、それを良い変化として話しているように見える。
少女には理解しにくい感覚だった。
何もしない。
役に立たない。
結果を出さない。
そんな時間を持つことが許されるのだろうか。
ユウが傷の手当てを終え、立ち上がった。
「とりあえず今日は、食べて、足休めて、寝ればいいと思う」
「明日は……?」
少女は反射的に尋ねた。
明日になったら何を求められるのか。
何をすれば、ここにいていいのか。
ユウは少し考えた。
「明日?」
「はい」
「明日になってから考えればいいんじゃない?」
少女は何も言えなかった。
そんな答えを聞いたことがなかった。
明日のために今日を使い、来年のために今年を使い、王太子妃になる日のために幼少期からすべてを積み重ねてきた。
いつも先のために頑張ることを求められてきた。
今日を今日のためだけに使っていいと言われたことなど、一度もなかった。
マーサが少女の空になりかけた器を覗く。
「もう少し食べられそうかい?」
少女は自分の腹へ意識を向けた。
まだ空腹だった。
以前なら、相手へ迷惑をかけない答えを選んでいただろう。
もう十分です。
そう言うべきだと思う癖が、今も口を開かせようとする。
少女は一度唇を閉じた。
そして、少し時間をかけてから答えた。
「……もう少し、いただきたいです」
マーサの顔が緩んだ。
「そうかい。じゃあ、もう少し食べな」
それだけだった。
褒められることもない。
けれど少女にとっては、追放されてから初めて、自分が欲しいものを自分で口にした瞬間だった。
ユウはそのことを知らない。
マーサも、ローデンも知らない。
少女自身でさえ、それがどれほど小さく、どれほど大切な変化なのか、まだ理解していなかった。
ただ、差し出された二杯目のスープを受け取った時、先ほどまでより器が少しだけ軽く感じられた。
夜のルーデ村には、いつものように薪の燃える匂いが漂っていた。
畑の向こうには森があり、そのさらに先には、彼女が置き去りにされた古い追放境界がある。森の奥ではまだ正体の分からない異変が続き、《警戒線》の向こうには三匹の未知の魔物が残っている可能性も消えていない。
王都で何が起きたのかを、村人たちは知らない。
少女がどんな罪を着せられ、何を失い、誰に見放されたのかを、ユウもまだ知らない。
今夜分かっていることは、それよりずっと少なかった。
腹を空かせた人がいて、水を飲み、温かいスープをもう少し食べたいと言った。
そして、この小さな村には、その願いへ「いいよ」と答える人がいた。
今の彼女には、それだけで十分だった。




