第13話 眠ってもいい夜
二杯目のスープを食べ終える頃には、ルーデ村を包んでいた夜の色がいっそう濃くなっていた。
家々の窓から漏れる明かりはまだ残っているものの、畑や道の先は月明かりがなければ輪郭を判別するのも難しい。遠くで虫の声が重なり、時折、家畜らしい鳴き声と薪が弾ける乾いた音が静かな村の空気へ混じっていた。
少女は空になった器を両手で持ったまま、しばらく動けなかった。
腹の中には久しぶりに温かいものが入っている。喉の渇きも先ほどよりずっとましになり、傷んだ踵にはユウが当てた布が巻かれていた。
少なくとも、街道を一人で歩いていた時よりは楽になっている。
それなのに、安心していいのかどうかが分からなかった。
これほど何かをしてもらえば、次には何かを求められる。
そう考える癖が、どうしても抜けない。
「器、もらうよ」
マーサの声に、少女は我に返った。
「あ……私が洗います」
「今日はいいよ」
「ですが、食事までいただいて、その上――」
「食べ終わった人間に器を洗わせなきゃ村が潰れるってんなら、とっくに潰れてるよ」
マーサは呆れたように言いながら手を差し出した。
少女は器を抱えたまま迷ったが、周囲を見ると、ローデンもユウも特に不自然そうな顔をしていない。むしろユウは、また始まったというような顔でマーサを見ていた。
「マーサ婆ちゃん、一回休ませるって決めたら強いから、今日は諦めた方がいいと思う」
「誰のせいでそうなったと思ってるんだい」
「俺?」
「他に誰がいるんだよ。少し前まで、休めって言っても畑だ屋根だ井戸だって走り回ってただろ」
「最近は昼寝してるって自分で言ってたじゃん」
「ようやくね」
二人の間で交わされる言葉は軽い。
けれど少女には、その何気ないやり取りが不思議だった。
ユウが休むことを、マーサは甘えとも怠けとも言わない。
むしろ、休めるようになったことを良いこととして扱っている。
少女はそれを理解しきれないまま、ようやく器をマーサへ渡した。
「……ごちそうさまでした」
「はいよ」
「本当に、おいしかったです」
「そう言ってもらえりゃ十分だよ」
マーサは器を受け取り、近くにいた老婆へ渡す。老婆は特に会話へ加わることなく頷き、器を持って家の中へ戻っていった。
その後ろ姿を見送っていると、ローデンが腕を組んだ。
「さて。あとは寝る場所だな」
その言葉に、少女の肩がわずかに強張った。
食事の次は寝床。
また何かを与えられる。
ありがたいと思う一方で、それを受け取ることへの居心地の悪さが強くなっていく。
「どこか、納屋のような場所があれば……」
少女が口にすると、マーサがすぐ眉を寄せた。
「なんで納屋なんだい」
「屋根があれば十分です。それ以上をお願いするのは……」
「足を怪我して、ろくに食べてなくて、追放境界から歩いてきた人間を納屋で寝かせる方が面倒だよ」
「面倒……?」
「夜中に具合悪くなられたら、誰かが暗い中を走ることになるだろ」
マーサの言い方は優しいというより現実的だった。
それがかえって少女には受け入れやすかった。
親切だから特別に部屋を与えるのではなく、今の状態なら近くで休ませた方が合理的だと言われれば、自分だけが過剰なものを受け取っているようには感じにくい。
「うちに空いてる部屋がある」
マーサは少し考えてから続けた。
「昔、娘夫婦が帰ってきた時に使ってた部屋だけど、今は誰も使ってない。寝具もあるし、私の家なら夜中に何かあってもすぐ分かる」
少女は反射的に断ろうとした。
しかし、口を開く寸前で止まる。
先ほど、自分から「もう少し食べたい」と言った。
それを誰も責めなかった。
今も、泊まりたいと言えば受け入れてもらえるのだろうか。
「……一晩だけ、お借りしてもよろしいでしょうか」
少女は慎重に言葉を選んだ。
マーサは少しだけ目を細める。
「一晩でも、二晩でも、そこは明日考えりゃいい」
「明日……」
「今夜のうちに、この先の人生全部決める必要はないだろ」
少女の胸の奥へ、その言葉が静かに落ちた。
ユウも少し前に似たようなことを言っていた。
明日のことは、明日になってから考えればいい。
それがこの村では当たり前の考え方なのだろうか。
少女にはまだ分からない。
ただ、今の自分に未来を決める余力がないことだけは分かっていた。
「では……お願いします」
「うん」
マーサはそれだけ返し、少女へ立ち上がるよう急かさなかった。
「歩けそうかい?」
「はい」
少女は椅子の縁へ手を置き、ゆっくり身体を起こそうとした。
その瞬間、ユウが一歩だけ近づいた。
「立つ時、支えいる?」
「……自分で、やってみます」
「分かった」
彼は手を出さずに待った。
少女は枝を杖代わりにしながら立ち上がる。右の踵に痛みは残っていたが、布が当てられているおかげで先ほどよりは刺激が少ない。
一度ふらつきかけた。
それでも倒れない。
「大丈夫そう?」
「はい。ゆっくりなら」
「じゃあ、ゆっくり行こう」
ユウは彼女の歩幅に合わせるでもなく、先にマーサの家へ向かって歩き出した。
少女は一瞬戸惑った。
支えてくれるものと思っていたわけではない。
しかし、怪我人を案内するなら隣に立つものだという先入観があった。
ところがユウは数歩先で振り返り、少女が歩けていることを確認すると、それ以上手を出さなかった。
少女は枝を突きながら、自分の足で一歩進む。
痛い。
けれど歩ける。
さらに一歩。
マーサは横にいるものの、こちらも身体へ触れない。
必要なら支える。
けれど、できることまでは奪わない。
この村では、それが普通なのだろうか。
少女はそんなことを考えながら、ゆっくりと夜道を進んだ。
マーサの家は、村の中央から少し南へ寄った場所にあった。
大きな家ではない。
石と木を組み合わせた素朴な造りで、屋根には何度か修理した跡が残っている。玄関脇には乾かした薬草らしき束が吊るされ、窓辺には小さな鉢植えが並んでいた。
家の中へ入ると、外より少し暖かい。
薪を燃やした匂いと、先ほど飲んだスープの残り香が混じっている。
「靴はここで脱ぎな。無理なら座ってからでいい」
「はい」
少女は玄関近くの小さな腰掛けへ座り、自分で靴を脱いだ。
布を巻いた踵を見る。
傷は先ほどより落ち着いているように見えた。
ユウも確認のため近づいたが、触れる前に少女の顔を見た。
「もう一回見てもいい?」
「お願いします」
返事をしてから、少女は少しだけ不思議な気持ちになった。
彼は先ほどから何度も許可を求める。
足を見るだけでも。
支える時でも。
傷に触れる時でも。
王都では、医師や侍女に身体を任せることは当然だった。自分が嫌かどうかを尋ねられた記憶はほとんどない。
ユウは布を外し、傷の周囲を慎重に確認した。
「赤みはあるけど、今すぐひどくなってる感じじゃないな。明日の朝また見よう」
「治癒魔法は……使わないのですか?」
少女は思わず尋ねた。
彼が使えるかどうかは知らない。
けれど、先ほど浮かべていた灯りや村人たちの反応を見る限り、ただの初歩魔術師ではなさそうだった。
「使えるよ」
ユウはあっさり答えた。
「でも、これくらいならまず洗って守って休む方がいいと思う。魔法で塞げても、また同じ靴で歩いたら擦れるし」
「治せるのに、治さないのですか?」
「必要なら使うけどね」
ユウは傷へ新しい布を当てながら言う。
「魔法使えば全部終わり、ってことじゃないから。痛くなった原因が残ってたら、また同じことになるでしょ」
少女は自分の靴へ目を向けた。
確かに、その通りだった。
王都では治癒魔法を受けること自体が珍しく、使える者がいればすぐ頼るものだと思っていた。
けれどユウの考え方は少し違うらしい。
「明日は、靴の方も何とかした方がいいな」
「買える場所があるのですか?」
「この村に店はないよ」
少女は少し驚いた。
「では……」
「ベル爺さんか誰かに相談すれば、当て布とか中敷きみたいなのは作れると思う。町に行くなら、その時ちゃんとしたの買えばいいし」
ユウはそれを自分が全部やるとは言わなかった。
誰かに相談する。
できる人に頼む。
その言葉が自然に出てくる。
少女はそこにも、王都で見てきた人々とは違うものを感じた。
「ユウ、もういいだろ。あんたまで夜更かしするんじゃないよ」
マーサが奥から声をかける。
「分かってるって」
「昨日も遅かっただろ」
「昨日は警戒線見てたから仕方ないだろ」
「仕方ないって言えば何でも通ると思うな」
ユウは困ったように笑った。
少女はその言葉の一つが気になった。
「警戒線……?」
尋ねると、ユウの表情が少し変わった。
隠そうとはしない。
けれど、軽く扱う様子もなかった。
「村の東側に簡単な警戒用の魔法を置いてる」
「魔物がいるのですか?」
「最近、森の様子がちょっと変なんだ」
少女の身体が強張る。
あの夜道で聞いた鳴き声を思い出した。
ユウはその反応に気づいたらしく、すぐ続けた。
「村の中まで入ってきてるわけじゃないよ。東側には結界も置いてあるし、俺たちも見張ってる」
「私が歩いてきた道は……」
「境界からこっちへ?」
「はい」
「北東側の古い道を通った?」
少女は少し考える。
「途中で道が二つに分かれていました。草が少なく、車輪の跡のようなものがあった方を選びました」
ユウとマーサが目を合わせた。
少女はその反応を見逃さなかった。
「何か、危険だったのですか?」
「危険だった可能性はある」
ユウは誤魔化さなかった。
「でも、何も起きずにここまで来られた。それが今の事実だから、まずはそれでいい」
「……そうですか」
怖さは消えない。
自分が知らないうちに危険な場所を歩いていたかもしれないと分かると、遅れて身体が冷えるような感覚がした。
けれどユウは、彼女の判断を責めなかった。
なぜそんな道を選んだ。
もっと考えるべきだった。
そういう言葉は出てこない。
「明日、明るくなってからローデンたちにも道の様子聞いてみる」
「私も確認した方が……」
「今日はしなくていい」
ユウの返事は早かった。
少女が驚いて彼を見ると、彼は少しだけ眉を寄せていた。
「歩いてきた本人から聞く必要があるなら、明日聞く。でも今は休んだ方がいいと思う」
「ですが、森の異変に関係するなら……」
「それを考えるのは俺たちの仕事」
「私が歩いた道なのに?」
「だから明日、必要なことは教えてもらう。でも今日のあんたに夜通し説明させる必要はないでしょ」
少女は返す言葉を失った。
自分が持っている情報なら、役に立てる。
そう考えた途端、全部話さなければならないと思っていた。
それもまた、長年身についた癖なのかもしれない。
役に立てるなら、役に立つべき。
求められる前に動くべき。
できることがあるのに休むのは、怠慢。
それが当たり前だと思っていた。
ユウは立ち上がる。
「じゃあ、俺は帰る」
「もう……?」
少女は自分でも驚くほど早く口にしていた。
ユウが振り返る。
その視線を受けて、少女は恥ずかしくなった。
「いえ……すみません」
「何が?」
「引き止めるようなことを……」
「別に引き止められてないけど」
「でも」
言葉に詰まる。
この家にはマーサがいる。
危険ではないと分かっている。
それでも、唯一自分と年齢が近そうな人間がいなくなることに、少しだけ不安を覚えた。
ユウはしばらく少女を見た後、無理に理由を聞かなかった。
「俺の家、ここからそんなに離れてないよ」
「……そうなのですか」
「何かあったらマーサ婆ちゃんが呼ぶ。というか、多分俺が呼ばれる前にマーサ婆ちゃんが何とかすると思う」
「当然だよ」
奥から返事が飛んでくる。
ユウは苦笑した。
「だから大丈夫」
大丈夫。
その言葉を、少女はこれまで何度も聞いたことがある。
けれど、王都で言われた「大丈夫」は、多くの場合「あなたならできる」「失敗しない」「期待している」という意味を含んでいた。
今のユウの「大丈夫」は違う。
何かあっても、一人で何とかしなくていい。
そう言われているように聞こえた。
「……はい」
少女は小さく頷いた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
ユウは玄関を出ていった。
外へ出た途端、彼の横へ淡い光が浮かび、そのまま夜道を遠ざかっていく。
少女はそれを少しだけ見送った。
「気になるかい?」
背後からマーサに言われ、少女は慌てて振り返った。
「違います」
「何が違うって?」
「いえ、その……」
「私は何も言ってないよ」
マーサは面白そうに口元を緩める。
少女は頬が熱くなるのを感じた。
恋愛という意味ではない。
本当に、そういう余裕などない。
ただ、自分を追及しなかった人間が離れていくことへの不安があっただけだ。
「ほら、部屋見せるよ」
マーサはそれ以上からかわず、家の奥へ向かった。
少女も枝を使いながら、ゆっくり後を追った。
案内された部屋は、小さかった。
窓が一つあり、壁際に木製の寝台、その横に小さな棚が置かれている。豪華な装飾も、柔らかな絨毯もない。
けれど、掃除はされていた。
寝台には清潔な布が敷かれ、その上に厚手の掛け布が畳まれている。窓辺には小さな花瓶があり、乾燥した草花が数本挿してあった。
「古い部屋だから、床が少し鳴るよ」
マーサは扉を押さえながら説明する。
「夜に水が欲しくなったら、廊下を出て右。便所は裏口の方。暗かったら灯り呼びな」
「灯りを……?」
「私を呼べって意味だよ」
「あ……」
少女は少し恥ずかしくなった。
この村へ来てから魔法を見たせいで、何でも魔法の話だと思ってしまった。
「着替えはあるのかい?」
「一組だけ」
「じゃあ今日は無理して着替えなくてもいい。身体拭きたいなら湯を用意するけど」
「そこまでしていただくわけには……」
言いかけて、止まった。
また同じことを言おうとしている。
マーサも気づいたらしく、何も言わず少女の顔を見る。
「……できれば、少しだけ」
少女は言い直した。
「顔と手を洗いたいです」
「そうかい」
マーサは普通に頷いた。
「じゃあ湯を持ってくる」
「私が――」
「足痛いんだろ?」
「……はい」
「なら座っときな」
少女は反論せず、寝台へ腰を下ろした。
それだけのことに、少し勇気が必要だった。
マーサが部屋を出た後、少女は一人になった。
静かだった。
窓の外では虫が鳴いている。
どこかの家から笑い声が微かに聞こえ、少し経つとそれも消えた。
少女は寝台の端へ座ったまま、部屋を見回した。
王都の自室よりずっと狭い。
寝台も硬そうだ。
装飾品もない。
侍女を呼ぶための鈴もなければ、夜着を用意してくれる者もいない。
それなのに、不思議と息苦しくなかった。
誰も入ってこない。
誰も今日の反省を求めない。
明日の予定を確認する者もいない。
授業も、茶会も、王宮への訪問もない。
少女は膝の上へ手を置く。
明日の予定がない。
その事実を考えると、恐怖が湧く。
同時に、ほんの僅かな空白も生まれた。
何をすればいいのか分からない空白。
それはこれまでなら不安でしかなかったはずなのに、今夜は少し違って感じられた。
扉が叩かれる。
「入るよ」
「はい」
マーサが湯の入った桶と布を持ってきた。
少女は礼を言い、顔と手を拭く。
温かい布が頬へ触れた瞬間、自分がどれほど汚れていたかを実感した。
額。
首。
手。
指の間。
旅の埃が落ちていくたび、身体の力も少しずつ抜ける。
髪までは洗えない。
それでも十分だった。
「気持ちいいかい?」
「はい」
「ならよかった」
マーサは椅子へ座り、少女が自分でできる範囲には手を出さなかった。
背中だけ拭くかと聞かれた時、少女は少し迷った末に頼んだ。
「お願いします」
「はいよ」
服の襟を少し緩める。
マーサの手は必要な場所にしか触れなかった。
その距離感に、少女はまたユウを思い出した。
「ユウさんは……」
口にしてから、少女は止まった。
「なんだい?」
「いえ……」
「聞きたいことがあるなら聞けばいいよ。答えられるかは別だけどね」
その言い方にも、妙な安心感があった。
「ユウさんは、この村の方なのですか?」
「今はね」
「今は?」
「少し前に来たんだよ」
「では、生まれた時からここに?」
「違うね」
マーサはそれ以上を自分から詳しく話さなかった。
少女も踏み込むべきではないと思い、口を閉じる。
けれど、少し気になった。
ただの村人だと言っていた。
それなのに魔法を使い、傷を見慣れていて、村人たちから自然に頼られている。
「不思議な方ですね」
少女が呟くと、マーサは鼻を鳴らした。
「変な奴だよ」
「変……」
「自分ができるからって何でもやろうとして、最初の頃は本当に面倒だった」
少女は意外に思った。
今のユウは、何でも自分で抱える人間には見えなかった。
「今は違うように見えます」
「少しはね」
マーサは布を桶へ戻した。
「こっちも何度も言ったからさ。あんたが全部やったら、こっちは何するんだって」
「……何をする」
「年寄りだからって、できることまで取り上げられたら困るだろ」
少女は黙った。
できること。
その言葉が、胸へ残る。
自分はずっと、できないことばかり見てきた。
妹より遅い。
妹より不得意。
妹より期待に応えられない。
誰かから「できること」を見てもらった記憶が、すぐには浮かばなかった。
「疲れた顔してるね」
マーサの言葉に、少女は顔を上げた。
「すみません」
「また謝った」
少女は口を閉じる。
「今日は何回目だろうね」
「……数えていません」
「私も数えちゃいないよ」
マーサは笑った。
少女もほんの少しだけ口元を緩めた。
「寝な」
「まだ、少し……」
「眠くない?」
「眠いです」
「じゃあ寝な」
あまりにも単純だった。
少女は困ったように寝台を見る。
「でも、今眠ってしまったら……」
「朝になるね」
「そうではなくて……」
言葉が続かない。
眠るのが怖い。
目を閉じたら、断罪の場面を見るかもしれない。
起きた時にここがなくなっていたら。
やはり出ていけと言われたら。
そんな不安をどう説明すればいいのか分からなかった。
マーサは急かさず、しばらく待った。
「怖いかい?」
少女は驚いた。
図星だった。
「……少し」
「そうかい」
マーサはそれだけ言った。
大丈夫だとも、怖がるなとも言わない。
「扉は閉めるかい?」
「……はい」
「鍵はないけど、内側から掛け棒はできる。私が入る時も、必ず声かけるよ」
少女は胸の奥が少し緩むのを感じた。
「ありがとうございます」
「それと、夜中に目が覚めても、無理に寝直さなくていい。水飲んでもいいし、呼んでもいい」
「呼んでも……」
「一人で我慢しなきゃならない決まりはない」
その言葉に、少女は視線を落とした。
一人で我慢しなくていい。
そんなことを言われたのは、いつ以来だろう。
覚えていない。
「……おやすみなさい」
「おやすみ」
マーサは部屋を出た。
扉が閉まる。
少女は内側から掛け棒を下ろした。
それから靴を脱ぎ、外套を畳み、小さな鞄を寝台の横へ置く。
これまでなら、服をきちんと整え、明日の準備をし、髪を梳いてから眠った。
今夜は、そこまでできなかった。
掛け布を持ち上げ、横になる。
寝台は予想通り少し硬い。
それでも馬車の座席よりずっと楽だった。
少女は横向きになり、鞄へ手を伸ばした。
中には、残ったパンと着替え、それから僅かな銀貨がある。
自分がまだ持っているもの。
あまりに少ない。
王都にいた頃と比べれば、本当に何もない。
それでも今日は、水を飲んだ。
スープを食べた。
傷を手当てしてもらった。
自分で「もう少し食べたい」と言った。
泊めてほしいと頼んだ。
顔を洗いたいとも言った。
その一つ一つを思い出す。
何もできなかった日ではない。
少女はその考えに自分で戸惑った。
王太子妃になるための勉強もしていない。
誰かを喜ばせてもいない。
結果を出してもいない。
それでも今日は、自分が必要なことをいくつか選んだ。
窓の外で風が吹く。
木々が揺れる音に身体が強張った。
森の魔物の話を思い出す。
けれどその直後、遠くで小さく何かが鳴った。
澄んだ、短い音。
少女は身体を起こしかけた。
何の音か分からない。
しばらく耳を澄ませると、また一度だけ聞こえた。
村の東側。
魔法の警戒線かもしれない。
少女の胸が速くなる。
起きてマーサを呼ぶべきか迷った。
しかし、廊下の向こうから足音が聞こえた。
マーサではない。
家の外を誰かが歩いている。
その少し後、別の方向から男たちの声が微かにした。
村の誰かが確認へ向かっている。
少女は寝台の上でじっとしていた。
自分が行かなくても、誰かが動いている。
それが分かるまでに少し時間がかかった。
王都にいた頃も、護衛や使用人はいた。
けれど今の感覚は少し違う。
自分が指示しなくても。
自分が責任を負わなくても。
必要な人が必要な場所へ行く。
少女は掛け布を胸元まで引き上げた。
「……任せても、いいのかしら」
小さく呟く。
答えは返らない。
それでも、起き上がらなかった。
しばらくして、外の足音が戻ってきた。
慌ただしい声はない。
戸を叩かれることもない。
大きな問題ではなかったのだろう。
少女はようやく息を吐いた。
瞼が重くなる。
今度こそ眠気に抗わなかった。
夢を見た。
広い部屋に立っている。
周囲には大勢の人がいるのに、誰の顔もはっきりしない。
ただ、声だけが聞こえる。
『やはり、お前だったか』
『どうしてあの子のようになれなかったの』
『もういい』
少女は何度も「違います」と言おうとする。
けれど声が出ない。
喉が塞がったようになり、誰もこちらを見てくれない。
その中に、一人だけよく知った少女の後ろ姿が見えた。
明るい髪。
幼い頃から何度も見てきた背中。
「待って」
夢の中で、ようやく声が出た。
「待って……」
妹は振り返らなかった。
代わりに、別の声が聞こえる。
『お姉様!』
幼い頃の声だった。
嬉しそうに自分を呼ぶ。
少女は手を伸ばす。
そこで景色が崩れた。
目を開けると、知らない天井があった。
少女は激しく息をしながら、しばらく自分がどこにいるのか理解できなかった。
王都ではない。
公爵家でもない。
馬車でもない。
暗い小さな部屋。
胸が苦しくなり、反射的に身体を起こす。
その時、窓から細い月明かりが入っているのが見えた。
寝台の横には、自分の鞄がある。
足には布が巻かれている。
少しずつ記憶が戻ってきた。
追放された。
歩いた。
村へ来た。
水を飲んだ。
スープを食べた。
ユウと名乗る青年に傷を見てもらった。
マーサの家に泊めてもらっている。
少女は胸へ手を置いた。
心臓はまだ速い。
夢だった。
分かっていても、涙が滲む。
声を出したら誰かに聞かれる。
そう思って堪えようとした時、マーサの言葉を思い出した。
一人で我慢しなくていい。
少女は掛け布を握った。
呼ぶか。
呼ばないか。
しばらく迷う。
その末に、寝台から足を下ろした。
踵が少し痛む。
それでも歩ける。
扉まで行き、掛け棒へ手をかける。
外へ出てマーサを起こす。
そこまで考えたところで止まった。
呼んで、何をしてもらうのだろう。
怖い夢を見たと伝えるだけ。
十九歳にもなって。
公爵令嬢だった自分が。
そんなことで人を起こす。
恥ずかしさが込み上げる。
少女は手を引っ込めかけた。
その時、廊下の向こうから小さな咳払いが聞こえた。
「起きてるのかい?」
マーサの声だった。
少女は驚いた。
「……はい」
「水飲む?」
それだけだった。
何があったのかとは聞かない。
なぜ起きたのかも聞かない。
少女は扉越しに目を閉じた。
「……少し、いただきたいです」
「分かったよ」
足音が遠ざかる。
しばらくして戻ってくる。
少女は掛け棒を外し、扉を開けた。
マーサは杯を一つ持って立っていた。
「はい」
「ありがとうございます」
水を受け取る。
冷たい。
少し飲むと、熱くなっていた喉が落ち着いた。
「夢でも見たかい?」
マーサが尋ねる。
少女は一瞬迷った。
「……はい」
「そう」
「内容は……」
「話したくないなら話さなくていいよ」
少女は杯を見つめた。
話さなくていい。
それが今夜何度目の許可なのか分からない。
「少し、怖かったです」
少女は小さく言った。
「そうかい」
「起こしてしまって、すみません」
「私は年寄りだから、夜中に一回くらい目が覚めるよ」
マーサは肩をすくめた。
「だから気にしなくていい」
少女は少しだけ笑った。
「ご自分で年寄りとおっしゃるのですね」
「八十だからね」
「八十一だろ、って言う奴もいるけど、あれは間違いだから」
少女は瞬きをした。
「八十一……」
「八十」
妙に強い訂正だった。
少女は堪えきれず、ほんの少しだけ笑った。
声になるほどではない。
けれど、確かに笑った。
マーサも気づいたようだが、何も言わなかった。
「もう少し寝られそうかい?」
「……はい」
「なら寝な」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ」
扉を閉め、掛け棒を戻す。
少女は寝台へ戻った。
今度は鞄を握らなかった。
代わりに、枕へ頭を置き、掛け布を胸元まで引き上げる。
まだ怖い。
明日がどうなるかも分からない。
この村にいつまでいられるのかも知らない。
王都で起きたことは何一つ解決していない。
それでも、今夜はここにいていい。
少なくとも朝までは。
それだけを考えた。
少女は目を閉じる。
次に眠りへ落ちるまで、今度はそれほど時間がかからなかった。
朝。
鳥の声で目が覚めた。
少女はゆっくり目を開け、窓から差し込む光を見つめた。
夜中に一度起きたせいか、身体は重い。
それでも、馬車の中で目覚めた時とは違った。
何かに追い立てられている感覚がない。
少女は寝台の上でしばらく動かなかった。
起きなければ。
そう思う。
けれど、今日は何時までに着替えなければならないという予定もない。
朝食の席へ遅れれば父に叱られることもない。
教師を待たせることもない。
王宮へ向かう準備もない。
少女は天井を見つめる。
「……何をすればいいのかしら」
呟いた声には、昨夜ほどの絶望がなかった。
分からない。
それは変わらない。
けれど、第11話で道の分岐に立った時の「分からない」とは少し違っていた。
あの時は、間違えればすべて終わるように感じていた。
今は、分からないまま朝を迎えている。
それでも誰も怒っていない。
窓の外から、誰かの声が聞こえる。
「ユウ! 朝だぞ!」
大きな老人の声だった。
少し間を置いて、眠そうな声が返ってくる。
「分かってるよ、ガルド爺さん!」
「起きてるなら早く来い!」
「まだ朝飯食ってない!」
「食ってから来い!」
「じゃあなんで呼んだんだよ!」
村のどこかで笑い声が上がった。
少女は寝台の上で目を瞬いた。
しばらくして、また笑いが込み上げそうになる。
昨日、自分を助けた青年が、朝から老人に振り回されている。
それが妙に可笑しかった。
少女は窓の方へ顔を向けた。
朝の光が、小さな部屋へ差し込んでいる。
王都を追われて初めて迎えた朝だった。
失ったものは、何一つ戻っていない。
名前も、立場も、未来も、まだ何も決まっていない。
それでも少女は、自分が今日も目を覚ましたことを、昨日ほど嫌だとは思わなかった。




