第14話 朝にすること
窓の外から聞こえてきたガルドの大声と、それに返すユウの眠たげな声が遠ざかってからも、少女はしばらく寝台の上で動かなかった。朝の光は薄い布越しに部屋へ入り込み、昨夜まで暗闇の中に隠れていた木目や壁の小さな傷を浮かび上がらせている。
昨夜、ここへ入った時には気づかなかったが、窓辺の花瓶に挿されている草花には小さな紫色の花が残っていた。乾燥して色は褪せているものの、丁寧に束ねられているところを見ると、使われていない部屋だからと放置されていたわけではないらしい。
少女は掛け布の上へ両手を置き、ゆっくり息を吐いた。
起きなければならない。
そう考えた直後、自分でその言葉に引っかかった。
なぜ起きなければならないのだろう。
朝だから。
人の家へ泊めてもらっているから。
何か手伝わなければならないから。
頭の中へいくつもの理由が浮かび、そのどれもが間違っているようには思えなかった。けれど昨日、ユウもマーサも、自分へ「何かをしなければ泊めない」とは一度も言っていない。
少女は恐る恐る足を寝台の外へ下ろした。
右の踵を床へつける前に、昨夜の痛みを思い出して少し身構える。布越しに軽く体重を乗せてみると、鋭い痛みは昨日より弱くなっていたものの、まだ擦れた場所が熱を持っているような感覚が残っていた。
「昨日よりは……」
小さく呟き、そこで言葉を止める。
良くなっている。
だから動ける。
ならば手伝える。
そこまで考えてしまった自分に気づき、少女は眉を寄せた。
怪我が少し良くなったことと、何か働かなければならないことは、本来別の話のはずだった。
そう理解はできる。
けれど、理解しただけで長年の癖が消えるわけではない。
少女は立ち上がらず、もう一度寝台へ腰を戻した。
ほんの十数秒だけだったが、何かをする前に自分で止まったのは、彼女にとって珍しいことだった。
しばらくすると、廊下から足音が近づいてきた。
扉が二度、軽く叩かれる。
「起きてるかい?」
マーサの声だった。
「はい」
「入ってもいい?」
「……はい。どうぞ」
少女が答えると、掛け棒を外すまでマーサは扉を開けなかった。
昨夜、自分が怖がっていたことを覚えているのだろう。少女はそのことに気づきながら扉を開き、少しだけ身を引いた。
マーサは少女の顔を見ると、次に足元へ視線を落とした。
「眠れた?」
「途中で一度起きましたが、その後は眠れました」
「なら上出来だね。足は?」
「昨日より、少しだけ痛みが減っています」
「そうかい。じゃあ朝飯の前にユウに見せな」
当然のように言われ、少女は頷きかけた。
しかし、その名前を聞いた瞬間、窓の外で聞いた朝のやり取りを思い出す。
「ユウさんは……もうお仕事へ?」
「ガルドに捕まったみたいだけど、先に朝飯食うって言ってたから、そのうち来るだろ」
「朝から、いつもあのような感じなのですか?」
「だいたいね」
マーサは呆れたように笑い、部屋の窓を少し開けた。涼しい朝の風が入り込み、草と湿った土の匂いが部屋へ流れ込んでくる。
「ガルドは自分でできることまでユウにやらせる奴じゃないよ。ただ、人を呼ぶのが大げさなんだ」
「昨日も、畑の支柱を一緒に立てていたのでしたか?」
「そうそう。あの爺さん、自分を年寄り扱いすると怒るくせに、重いもの持つ時だけ『若いのがいるだろ』って言うからね」
少女は小さく笑った。
王都の朝なら、侍女が入室した後は予定の確認が始まった。
何時に朝食。
何時に家庭教師。
その後に王宮。
午後には茶会。
夜には翌日の確認。
今ここにあるのは、畑へ老人が若者を呼びつけ、その若者が朝食を理由に断るような、あまりに小さな話だった。
それが不思議と心地よかった。
「着替えるなら待つけど」
マーサの声に、少女は我に返った。
「いえ、このままで大丈夫です」
「昨日と同じ服だけど?」
「着替えは一組しかありませんので……今使ってしまうと」
「なるほどね」
マーサはそれ以上何も言わなかった。
少女は少し迷ってから、鞄の中の櫛を取り出した。
髪だけは整えようと思った。
昨日は乱れたまま村へ入ってしまった。
誰も気にしていないようだったが、それでも、自分が落ち着くために最低限は整えたかった。
マーサは少女が櫛を通す様子を見ていたが、「そんなことしなくていい」とは言わなかった。
そのことも、少女には少し嬉しかった。
休むことと、何もしないことを強制されるのは違う。
やりたいことなら、やっていい。
まだ言葉にはできなかったが、少しずつその違いが分かり始めていた。
朝食は、マーサの家の小さな食卓で取ることになった。
焼いた黒パンと、昨日とは違う野菜の煮込み、それから薄く切った卵焼きのような料理が並んでいる。豪華ではないが、湯気の上がる器からは香草と野菜の甘い匂いがして、少女の腹は昨夜より素直に空腹を訴えた。
「座りな」
マーサに言われ、少女は椅子へ腰を下ろした。
昨日なら「先に何かお手伝いを」と言っていたかもしれない。実際、今もそう言いかけたが、料理がすでに並んでいるのを見て、まず食べることにした。
「いただきます」
「ああ。食べられるだけ食べな」
少女は黒パンを小さくちぎり、煮込みへ少し浸してから口へ運んだ。
固いパンは昨日の保存食と似ているが、温かい汁を吸うと驚くほど食べやすい。卵料理には少し塩が効いていて、薄味の煮込みとよく合った。
「おいしいです」
「昨日も聞いたね」
「……同じことを言ってしまいました」
「同じものを食べてないんだから、別にいいだろ」
マーサは気にした様子もなく、自分のパンを齧った。
少女はその返事に少しだけ安心し、今度は自分からもう一口食べた。
昨夜は一口ごとに申し訳なさが混じっていた。
今朝はまだ完全には消えていないものの、「食べていいのだろうか」より「温かい」という感覚の方が少し強くなっている。
食事の途中で玄関が叩かれた。
「開いてるよ」
マーサが声をかけると、外からユウが入ってきた。
「おはよう」
髪の一部が少し跳ねている。
どうやら本当に起きてそれほど時間が経っていないらしく、昨日よりもずっと普通の青年に見えた。
「おはようございます」
少女が返すと、ユウは少し目を細めた。
「眠れた?」
「はい。夜中に一度起きましたが」
「そっか」
ユウはそれ以上、理由を聞かなかった。
少女は昨日までなら、その質問の続きとして何を夢見たのか、なぜ起きたのか説明しなければならないと考えていただろう。
何も聞かれないまま会話が終わる。
それが、まだ少し不思議だった。
「朝飯は?」
マーサが尋ねる。
「食べてきた」
「本当に?」
「なんで疑うんだよ」
「前科があるからだよ」
「今日はちゃんと食べたって」
ユウはため息をつきながら少女の向かい側へ座った。
「足、見ていい?」
「はい。お願いします」
少女は椅子を少し引き、傷のある足を見せやすくする。
ユウは床へ膝をつかず、小さな腰掛けを自分で持ってきて座った。
布を外す時も急がない。
「痛かったら言って」
「はい」
傷は昨日ほど赤くなかった。
ユウは皮膚の周囲を直接押すのではなく、少し離れた位置へ触れながら腫れを確かめた。
「熱っぽさもそんなにないな。昨日よりは良さそう」
「歩いても大丈夫でしょうか」
少女はすぐ尋ねた。
ユウが顔を上げる。
「どれくらい?」
少女は答えに詰まった。
「その……村の中で、何かできることがあれば」
「足の話じゃなくなってない?」
「……え?」
「歩けるかって聞かれたから、どれくらい歩くのか聞いたんだけど」
少女は膝の上で手を握った。
無意識だった。
怪我が良くなっていると聞いた瞬間、今日できる仕事を探していた。
「すみません」
「謝らなくていいけど」
ユウは布を巻き直しながら、少し考えた。
「家の中を歩いたり、トイレ行ったり、そのくらいなら無理しなければ大丈夫だと思う。でも畑仕事とか、長く歩くのは今日はやめた方がいい」
「では、座ってできることなら」
「何かしたいの?」
その質問に、少女は言葉を失った。
できるか。
やるべきか。
役に立つか。
そう聞かれると思っていた。
したいのか。
問われたのは、そこだった。
「……分かりません」
少女は正直に答えた。
ユウは頷いた。
「じゃあ、今は分からなくていいんじゃない?」
また同じ考え方だった。
分からないことを、急いで決めなくていい。
少女は自分の手を見る。
「ただ……何もしないまま、ここに置いていただくのは」
「落ち着かない?」
「はい」
即座に答えた。
ユウは少し笑った。
「それは分かる」
意外な返事だった。
「ユウさんも?」
「俺も最初そうだったから」
「この村へ来た時に、ですか?」
「うん。休むために来たくせに、結局何かしてないと落ち着かなかった」
マーサが鼻を鳴らした。
「何かどころじゃないよ。朝から屋根に登って、畑行って、井戸見て、そのまま道直そうとした奴が何言ってんだい」
「そこまで一日でやってないだろ」
「似たようなもんだよ」
少女は二人を交互に見た。
昨日のマーサの話とも繋がる。
ユウも最初から今のように休めていたわけではない。
「どうして、そんなに働こうとしたのですか?」
尋ねてから、少女は踏み込みすぎたかと思った。
しかしユウは怒らなかった。
少しだけ視線を落とす。
「何かしてないと、自分がここにいる理由がない気がしてたんだと思う」
その言葉に、少女の指が止まった。
ユウは自分の言葉を確かめるようにゆっくり続ける。
「仕事して、誰かの役に立って、それでようやく居ていいっていうか。前の場所でずっとそんな感じだったから、急に休んでいいってなっても、身体の方が慣れてなかったんだよね」
少女は何も言えなかった。
自分と同じだとは思わない。
事情も、育った場所も違う。
けれど、何もしない自分に価値がないように感じることだけは、少し理解できた。
「それは……今は?」
「前よりはまし」
ユウは笑った。
「昼寝もできるようになったし」
「それは私が何度も言ったからだよ」
「分かってるって」
マーサが呆れ、少女は小さく口元を緩めた。
ユウは少女へ視線を戻した。
「だから、何もしないのが落ち着かないってのは別に変じゃないと思う。ただ、落ち着かないからって、怪我してる足で無理に仕事探す必要もないんじゃないかな」
「……はい」
「本当に何かしたくなったら、その時探せばいいよ」
少女はすぐには納得できなかった。
しかし、否定することもできなかった。
少なくとも今日は、怪我を理由に休んでもいい。
そう考えるだけなら、昨日より少し簡単になっていた。
朝食が終わった頃、今度はローデンとケルがマーサの家へやってきた。
ケルの手には細長い枝があり、その先には土が少し付いている。二人とも森へ入る格好ではなく、村の周囲を短く見回ってきただけのようだった。
「朝から悪いな」
ローデンは少女へそう言い、空いている椅子へ腰を下ろした。
「昨日通ってきた道のことを少し聞きたい。今いいか?」
少女は反射的に背筋を伸ばした。
「はい。もちろんです」
声まで少し硬くなった。
ローデンはそれに気づいたらしく、すぐ続ける。
「そんなに構えなくていい。尋問じゃないからな」
「……はい」
「分からんところは分からんでいい。覚えてないことを無理に答える必要もない」
また同じだ。
この村の人間は、どうして皆「分からない」と言うことを許すのだろう。
少女は少し戸惑いながらも頷いた。
ケルが食卓の端へ薄い木板を置き、炭で簡単な線を引いた。
「ここが追放境界だとする」
一本の線。
そこから西へ続く道と、北東へ曲がる細い道。
「たぶん、あんたが選んだのはこっちだ」
少女は木板を覗き込んだ。
「はい。道が分かれた場所は、このような形でした」
「何を見てこっちを選んだ?」
「草が少し短くて、土が固くなっていました。それから、車輪の跡のようなものがあったので、人が使う道なのだと思いました」
ケルはローデンを見る。
「判断は悪くない」
その一言に、少女は顔を上げた。
褒められるとは思っていなかった。
「ただ、あの跡は村の荷車じゃない」
「では、何の……?」
「まだ分からん」
ケルは簡単に答えた。
分からないことを、専門家らしい男まで普通に口にする。
少女はそこにも少し驚いた。
「昨日、歩いている途中で何か見なかったか? 動物でも、足跡でもいい」
少女は目を閉じ、昨夜の道を思い出す。
暗くなり始めた森。
低い鳴き声。
木箱の残骸。
二つに分かれた道。
草地。
「姿は見ていません。ただ、一度だけ森の中から低い鳴き声が聞こえました」
「場所は?」
「道が分かれるより前です。追放境界からどのくらい歩いたかは……すみません、分かりません」
「それでいい」
ケルは木板へ印を一つつけた。
「他には?」
「木々の間で葉が揺れました。でも、風だったかもしれません」
「方向は?」
少女は少し考え、木板の右側を指した。
「歩いている時の左ではなく、右側でした。森が近かった方です」
ケルはまた印をつける。
ローデンは何も急かさない。
ユウも会話へ割り込まず、少女が思い出すのを待っている。
「それから……」
少女の中で一つ、引っかかるものがあった。
「分岐した後ですが、道の端の草が一部だけ大きく倒れている場所がありました」
ケルの手が止まる。
「どのくらい?」
「人一人が横になれるより、もう少し広かったと思います。ただ、暗かったので」
「血は?」
「見ていません」
「臭いは?」
少女は記憶を探った。
森の湿った匂い。
土。
草。
それ以外に何かあっただろうか。
「……少しだけ、獣のような匂いがした気もします。でも、自信はありません」
「十分だ」
ケルは木板を見つめた。
ローデンが眉を寄せる。
「北側へ寄ったか?」
「可能性はあるな」
「三匹のうち一匹だけ?」
「まだ何とも言えん」
男たちの会話から、少女には分からない情報があることだけは理解できた。
「三匹……?」
思わず尋ねる。
ローデンは誤魔化さなかった。
「昨日ユウから聞いただろ。森に変な魔物が出てる。全部で七匹確認して、四匹は処理した。残り三匹が森へ戻ってる」
少女の背筋が冷たくなる。
「私が聞いたものが、その魔物だった可能性があるのですか?」
「ある。違う可能性もある」
ケルが答えた。
「今の情報だけじゃ決められん」
少女は昨日の夜道を思い出した。
自分はそんな場所を一人で歩いていた。
もし道のすぐ近くに魔物がいたら。
もしこちらへ出てきていたら。
今になって恐怖が強くなり、指先が冷たくなる。
「私は……何も知らずに」
声が僅かに震えた。
ユウがこちらを見た。
「知らなかったんだから、しょうがないよ」
「でも、もっと周囲を警戒していれば……」
「警戒してたでしょ」
「足りなかったかもしれません」
「それ言い始めたら、きりないと思う」
少女は口を閉じる。
ユウは責めるでも慰めるでもなく、普通の声で続けた。
「昨日のあんたは一人で、暗くなってて、足も怪我してて、それでも道見て草の状態まで考えて村まで来た。結果として危ない場所を通ったかもしれないけど、知らない情報まで使って正解選べって言われても無理でしょ」
少女は木板を見つめた。
自分なら、きっとこう言っていた。
もっと慎重なら。
もっと賢ければ。
妹なら。
そこまで考えたところで、胸の奥が小さく痛んだ。
「妹なら……」
口から漏れかけた言葉を、少女は途中で止めた。
ユウが何も言わず待つ。
少女は唇を閉じ、その先を飲み込んだ。
「……いえ、何でもありません」
今はまだ、それ以上言えなかった。
けれど昨日までなら、止めることすらできなかった。
その違いを、少女自身だけが知っていた。
ケルとローデンは、午前中にドランと一緒にその道を確認することになった。
「案内は必要でしょうか」
少女が尋ねると、ケルはすぐ首を振った。
「いらん」
「ですが、場所を知っているのは私です」
「傷んだ足で連れて行ったら、確認するものが一つ増える」
あまりにも現実的な返しに、少女は黙った。
ケルは木板を指で叩く。
「これだけ聞けりゃだいたい分かる。分からなかったら戻ってきてまた聞く」
「……はい」
「昨日見たことは役に立った。ありがとう」
その言葉に、少女は目を見開いた。
「役に……?」
「ああ」
ケルはそれ以上褒めなかった。
ただ必要な情報を受け取り、それが役立ったから礼を言っただけだった。
少女は胸の中へ小さな温かさが広がるのを感じた。
自分にもできることがあった。
その事実は嬉しい。
けれど同時に、別の考えがすぐ浮かぶ。
「では、これで少しは……」
言いかける。
ユウが首を傾げた。
「少しは?」
少女は迷った末、正直に続けた。
「ここに置いていただく分を、返せたでしょうか」
食卓の周囲が少し静かになった。
マーサが深く息を吐く。
ローデンは困ったように頭を掻いた。
ユウだけは、何を言われたのか一度考えるように少女を見た。
「昨日の夜の水と飯と寝床の分?」
「はい」
「別に借金にしてないけど」
「ですが、私は一方的にいただいています」
「今の道の話も、別に宿代として聞いたわけじゃないよ」
「でも……」
「それを一緒にしない方がいいと思う」
ユウの声は強くない。
しかし、そこだけは少しはっきりしていた。
「昨日あんたを泊めたのは、泊まる場所がなくて足も怪我してたから。今日、道のこと聞いたのは、俺たちが森を調べるのに情報が必要だったから。たまたまあんたが知ってることがあったから教えてもらった。それで十分じゃない?」
少女は返事ができなかった。
「助けてもらったら、すぐ返さなきゃ駄目なの?」
「普通は……」
言いかけて、自信がなくなる。
普通とは何だろう。
公爵家では、恩には恩を返す。
利益には利益を。
義務には責任を。
それ自体が悪いとは思わない。
けれど、自分は今、水一杯や食事一回まで帳簿のように数えようとしている。
「俺も村の人に飯もらうし、野菜もらうし、昼寝してる間に畑見てもらうことあるよ」
ユウは続けた。
「全部その日のうちに返してるわけじゃない」
「いつ返すのですか?」
「返せる時じゃない?」
少女は眉を寄せた。
曖昧すぎて、理解しづらい。
ユウはその表情を見て笑った。
「俺も最初、そういう顔してたと思う」
「そうなのですか?」
「多分ね。誰かに何かしてもらうと、すぐ返さないと落ち着かなかったから」
マーサが腕を組む。
「今だってまだ完全には治ってないけどね」
「うるさいな」
少女は少しだけ笑った。
その後、視線を自分の手へ落とす。
「では……今日は、何をすればいいのでしょう」
ユウが少し考える。
「足休める」
「それだけですか?」
「朝飯食べた。道の話もした。十分じゃない?」
「午前中が、まだ始まったばかりですが」
「だから?」
本当に分かっていない顔をされ、少女は困った。
「一日というのは、もっと……」
予定があるもの。
学ぶもの。
こなすもの。
積み上げるもの。
そんな言葉が頭へ浮かぶ。
けれど、どれも口にしなかった。
ユウが窓の外を見る。
「天気いいし、外に座っててもいいんじゃない? 歩かなきゃ」
「外で……何をするのですか?」
「別に何もしなくても」
少女は真顔で彼を見る。
ユウも少女を見る。
数秒の沈黙の後、マーサが吹き出した。
「その顔、昔のユウとそっくりだよ」
「え、俺あんな顔してた?」
「してたね。何もしないって言葉聞くたびに、意味が分からんって顔してた」
ローデンまで笑い始める。
少女は恥ずかしさを覚えたが、不快ではなかった。
自分だけがおかしいと笑われているのではない。
ユウも同じだったと言われているからだろう。
少女は窓の外へ視線を向けた。
朝の光が畑へ差している。
遠くではガルドらしき老人が何かを持って歩き、その後ろを少年が追いかけている。
昨夜は暗くて分からなかった。
村は本当に小さい。
王都なら一つの貴族屋敷の敷地に収まってしまいそうなほどだ。
けれど、そこには人がいる。
誰かが洗濯物を干し。
誰かが畑を見て。
誰かが屋根の下で道具を直している。
少女はしばらくその景色を見つめた。
「……外に、座ってみてもいいでしょうか」
「いいよ」
ユウは即答した。
「でも足痛くなったら戻ること」
「はい」
「あと、歩いて何か探し始めない」
少女は少し目を逸らした。
「……努力します」
「そこは頑張るところじゃないと思うけど」
ユウが苦笑する。
その言葉に、少女はまた少しだけ笑った。
マーサの家の前には、小さな木の椅子が二つあった。
昨夜座ったものとは別で、朝の光が当たる場所へ置かれている。少女はその一つへ腰を下ろし、傷のある足を少し前へ伸ばした。
ユウは隣には座らなかった。
「俺、ガルド爺さんのところ行ってくる」
「お仕事ですか?」
「畑の残り。大したことじゃないけど」
少女は反射的に立ち上がりそうになった。
手が椅子の端へかかる。
その動きを見て、ユウが振り返る。
「来ないよ」
「まだ何も言っていません」
「顔に書いてあった」
「……そんなに分かりやすいでしょうか」
「結構」
少女は少し不満そうに口を閉じた。
ユウは笑いながら道へ出る。
「昼前には戻ると思う」
なぜ自分へ帰る時間を教えるのか。
少女は少し不思議に思った。
けれど昨日、彼が帰ろうとした時に自分が不安そうな声を出したことを思い出し、胸の奥が少し温かくなる。
「いってらっしゃいませ」
自然に出た言葉だった。
ユウが一度立ち止まる。
「うん。いってきます」
その返事を聞き、少女は目を瞬いた。
誰かを送り出す言葉。
誰かから返ってくる言葉。
王都でも何度も交わしてきたはずなのに、今は妙に新しく感じられた。
ユウの背中が畑の方へ遠ざかっていく。
少女は追わなかった。
立ち上がりもしなかった。
椅子に座ったまま、村を眺める。
最初の数分は落ち着かなかった。
手を膝へ置き、姿勢を正し、何かすることがないか周囲を見てしまう。
その度に、自分へ言い聞かせる。
今は座っている。
それでいい。
やがて、近くの家からベル爺さんが出てきた。
手には昨日話に出ていた杖がある。
少女に気づくと、老人は少しだけ手を上げた。
「おはよう」
「おはようございます」
「足、まだ痛むか?」
「少しだけ」
「そうか。なら座っとけ」
それだけ言い、ベルは家の前へ腰を下ろして杖を削り始めた。
少女はしばらく見ていた。
昨日までなら、会話を続けなければ失礼だと思っただろう。
けれどベルは、少女が話さなくても気にしていない。
削る音が一定の間隔で続く。
木の香りが風へ混ざる。
少し離れたところでは、鶏が鳴いた。
誰かが笑う声がする。
少女は膝の上の手から、少しだけ力を抜いた。
何もしない時間というものは、完全な空白ではないらしい。
風がある。
音がある。
人がいる。
自分もそこにいる。
何か役に立っているわけではない。
それでも、誰も追い払わない。
少女はゆっくり息を吸った。
昨日までより、少し深く吸えた。
そしてその朝、彼女は初めて、何かを成し遂げるためではなく、ただ朝の光の中にいるためだけに時間を使った。




