第15話 やってみたいこと
朝の光の中で何もしないという時間は、少女が想像していたよりも長く、そして思っていたほど苦痛ではなかった。
マーサの家の前に置かれた椅子へ腰掛け、傷のある右足を少し前へ伸ばしていると、村の中ではいくつもの小さな営みが途切れず続いていた。ベルは家の前で杖を削り、少し離れた畑ではガルドの大声が時折響き、どこかでは桶へ水を汲む音が聞こえる。誰もが何かをしているのに、その誰一人として少女へ「あなたも動きなさい」と声をかけなかった。
最初のうちは、そのことが落ち着かなかった。
誰かが前を通るたびに背筋を伸ばし、手伝えることはないかと視線を向ける。村人が荷物を持っていれば立とうとし、洗濯物を運ぶ老婆が見えれば自分でもできるのではないかと考えた。
けれど右足へ少し力を入れるだけで、踵の傷がまだ治っていないことを身体が思い出させる。
そのたびに、ユウの言葉が浮かんだ。
『今日は長く歩くのはやめた方がいい』
命令されたわけではない。
それでも少女は、今のところその言葉を守っていた。
守っているというより、自分でそうした方がいいと判断し直しているのかもしれない。
違いはまだよく分からなかった。
「退屈か?」
木を削る音が止まり、ベルがこちらを見ていた。
少女は少し考える。
「……分かりません」
「また難しい返事だな」
「申し訳ありません」
「謝るような話じゃない」
ベルはそう言ってから、手にしていた杖を膝へ乗せた。表面をかなり削り終えたらしく、太い枝だったものはすでに一本の杖らしい形へ整っている。
少女は昨日から気になっていた。
「それは、サナさんという方がお使いになる杖ですか?」
「ああ」
「昨日、ユウさんから少し伺いました」
「そうか」
ベルは杖を持ち上げ、目の高さで曲がりを確認する。
「前のが悪いわけじゃないんだが、ちょっと長い。握るところも太すぎた」
「新しく作り直しているのですね」
「全部は作り直さん」
ベルは足元に置いていたもう一本を指した。
使い込まれた古い杖だった。
「こっちの木はまだ使える。握りのところだけ削って、下は少し切る。今作ってるのは予備だ」
少女は二本を見比べた。
王都で杖と言えば、高齢の貴族が装飾として持つものか、怪我人が医師から与えられるものという印象が強かった。目の前の杖には飾りはなく、使う人の身体へ合わせることだけを考えて作られているように見える。
「その長さは、どのように決めるのですか?」
「サナが立った時の手の位置だな。長すぎても短すぎても歩きにくい」
「測ったのですか?」
「ユウが前に見てたのを真似した」
ベルは少し得意げに鼻を鳴らした。
「脇の下まであるようなのを持たせるより、手を下ろした時に自然に握れる辺りがいいらしい。細かいことは俺も知らんが、サナに持たせて調整する」
少女は思わず杖へ身を寄せた。
「使う方に合わせて、最後に変えるのですね」
「そうだ。作った側が『これでいい』って決めても、使う本人が使いにくきゃ意味ない」
ベルの言葉に、少女はしばらく黙った。
作る側ではなく、使う人がどう感じるか。
それはごく当然のことのようでいて、彼女には少し新鮮だった。
公爵家では、衣装一つにも多くの人間が関わっていた。
自分の好みを聞かれることもなかったわけではない。
けれど最終的には、公爵家の長女として相応しいか、王太子の婚約者としてどう見えるか、場の格式に合うかという基準が優先された。
「触ってみるか?」
ベルの声に、少女は顔を上げた。
「よろしいのですか?」
「見るだけじゃ分からんだろ」
差し出された杖を両手で受け取る。
思ったより軽い。
表面にはまだ削り跡が残っており、完全に滑らかではない。握る部分には少しだけ太さが残され、下へ向かうにつれて細くなっている。
「軽いですね」
「重いと持ってるだけで疲れるからな」
「でも、細くしすぎると折れませんか?」
少女が尋ねると、ベルは少し目を細めた。
「そこは木次第だ」
「木の種類で?」
「ああ。硬けりゃ細くできるとは限らんし、粘る木もある。乾かし方でも変わる」
少女は手の中の杖を見た。
学校で材木の流通について学んだことはある。公爵領から王都へ何が運ばれ、どの木が建築や家具に使われるかも覚えた。
けれど、一本の枝を手にしながら、その木が人の体重をどう支えるかなど考えたことはなかった。
「面白いです」
口から自然に言葉が出た。
ベルが片眉を上げる。
「杖が?」
「はい。私は、こういうものを作ったことがありませんから」
「公爵家のお嬢さんが杖削ってたら、そっちの方が珍しいだろうな」
少女の身体が硬くなった。
ベルもすぐに気づいた。
「……悪い。昨日の話から、服見りゃそのくらいの家の人間だろうと思っただけだ」
「いえ」
少女は杖を握ったまま、小さく首を振った。
「間違ってはいません」
公爵家。
その言葉を聞いただけで胸が痛む。
昨日までなら、そこで会話を終えたかったかもしれない。
けれどベルは、それ以上聞かなかった。
どこの公爵家なのか。
なぜ公爵令嬢が追放されたのか。
何をしたのか。
そうした問いは一つも出てこない。
少女は少しずつ指の力を緩めた。
「返します」
「そこ置いといてくれ」
「はい」
杖をベルの横へ置く。
自分にできたことなど、それだけだった。
それでも少女は、先ほどより少し気分が軽くなっていることに気づいた。
何かを手伝ったわけではない。
役に立ったわけでもない。
ただ、自分が面白いと思ったものについて話した。
その時間が、思いのほか楽しかった。
しばらくすると、道の向こうから少年が走ってきた。
「ベル爺ちゃん!」
「走るな。転ぶぞ」
「転ばないよ!」
言った直後、少年は小石につまずきかけ、両腕を大きく振って体勢を戻した。
ベルが無言で見つめる。
「……転ばなかった」
「今のは半分転んでた」
「転んでないって!」
少女は思わず笑いそうになり、口元を押さえた。
少年はそこでようやく彼女に気づいた。
「あ、昨日の人」
「おはようございます」
「おはよう!」
少年は警戒する様子もなく近くまで来たが、ベルに肩を掴まれて止められた。
「近すぎる」
「なんで?」
「足怪我してるって聞いただろ。走ってぶつかったらどうする」
「ぶつからないよ」
「さっき転びかけてた奴が言うな」
少年は不満そうに頬を膨らませた。
少女はそのやり取りを見ながら、胸の奥に小さな違和感を覚えた。
怖くないのだろうか。
昨日、自分が追放された人間だという話は、ここにいる何人かが聞いている。
この少年が知っているかは分からない。
けれど少なくとも、村の大人たちは彼を遠ざけようとしていない。
「足、痛い?」
少年が尋ねる。
「昨日よりは良くなりました」
「ユウ兄ちゃんが治したの?」
「手当てをしていただきました」
「魔法じゃないの?」
「魔法は使っていません」
少年は露骨に残念そうな顔をした。
「なんで?」
「ユウさんが、今は使わなくていいと」
「えー。白い本使えばすぐ治りそうなのに」
「お前は何でも魔法でやりたがるな」
ベルが呆れたように言う。
「だって魔法すごいじゃん」
「箒で掃けるところを風で飛ばして、後で全部集め直したのは誰だった?」
少年は黙った。
少女は思わずベルを見る。
「そんなことが?」
「ユウが水の球見せたせいで、こいつ最近魔法魔法うるさいんだ」
「ユウ兄ちゃんのせいじゃないよ!」
「半分はそうだな」
少年は納得していない様子だったが、すぐ別のことへ興味を移した。
「ねえ、お姉ちゃん、魔法使える?」
少女は少し戸惑った。
「少しだけ」
「何使える?」
「灯りと、小さな風と……簡単な防御くらいです」
「見たい!」
勢いよく言われ、少女の指が膝の上で止まった。
魔法。
学院で何度も比べられたもの。
妹が教師から褒められ、自分がその隣で「もっと努力しなさい」と言われ続けたもの。
胸の奥に古い緊張が戻ってくる。
「こら」
ベルが少年の頭を軽く小突いた。
「見世物じゃない」
「でも……」
「やりたくないならやらなくていい」
ベルは少女へ向かってそう言った。
少女は少し驚いた。
少年もこちらを見る。
期待されている。
だから応えなければ。
いつもの考えが浮かぶ。
けれど同時に、別の問いが頭に残った。
自分はどうしたいのか。
少女はしばらく考えた。
やりたくないわけではない。
むしろ、少年の前で小さな灯りを出すくらいなら、少しやってみたい気持ちもある。
失敗するのが怖いだけだった。
「……灯りだけなら」
少女が答えると、少年の顔が明るくなった。
「ほんと?」
「はい。ただ、本当に小さいものですよ」
「いいよ!」
少女は片手を持ち上げた。
魔力を集める。
昨夜の街道でも使った術だ。
あの時は暗闇への恐怖から必死に維持していた。
今は朝なので、本来なら灯りなど必要ない。
指先へ意識を集めると、手のひらの上に淡い光が生まれた。
昼の明るさに負けるほど弱い。
大きさも拳より小さい。
それでも少年は目を輝かせた。
「すごい!」
少女の胸が小さく揺れた。
すごい。
その言葉を、自分の初歩魔法へ向けられた記憶はほとんどない。
『妹君はもっと大きく安定させられましたね』
『あなたも練習を続ければ、この程度はもう少し良くなるでしょう』
教師たちの声が蘇る。
少女は光を見つめた。
小さい。
特別ではない。
王都なら、これを使える者はいくらでもいる。
それでも目の前の少年は素直に喜んでいる。
「色、ちょっと黄色いね」
「術者によって少し違うことがあります」
「ユウ兄ちゃんの光は白いよ」
「そうなのですね」
「もっと大きくできる?」
少女の身体がまた強張りかける。
もっと。
その言葉に、反射的に応えなければと思う。
けれど少年に悪意がないことも分かっている。
少女は手のひらの光を見る。
「できますが……今日はやめておきます」
言えた。
少年は少し残念そうな顔をした。
「そっか」
「すみま――」
謝りかけて、少女は言葉を止めた。
ベルがこちらを見ている。
少女は一度息を吸った。
「……また、機会があれば」
「うん!」
少年はそれで満足したらしい。
少女は手のひらの光を消した。
断った。
それでも嫌な顔をされなかった。
そのことが、魔法を見せたこと以上に胸へ残った。
「何してんの?」
聞き慣れ始めた声が道の向こうから届いた。
少女が振り返ると、ユウがガルドと一緒に歩いてきていた。二人とも土のついた道具を持っており、朝から畑にいたことが服の汚れだけでも分かる。
「魔法見せてもらった!」
少年が真っ先に答える。
「へえ」
ユウは少女を見る。
「やりたくてやった?」
最初に聞かれたのがそれだった。
少女は少しだけ笑った。
「はい。灯りだけですが」
「ならよかった」
「なんでそんなこと聞くの?」
少年が首を傾げる。
ユウは持っていた道具を肩へ乗せた。
「やりたくないのに、お前がしつこく頼んだのかと思って」
「しつこくしてないよ!」
「本当?」
「一回だけ!」
「ならセーフかな」
少年はまだ不満そうだったが、そのままガルドへ何か話し始めた。
少女はユウを見た。
「ありがとうございます」
「何が?」
「いえ……何でもありません」
自分でも、何への礼か分からなかった。
ただ、彼が自分の意思を気にしてくれたことが嬉しかった。
「足どう?」
「座っているので、今は痛みません」
「ちゃんと座ってたんだ」
「はい」
「すごいじゃん」
からかわれているのかと思い、少女は少し眉を寄せた。
けれどユウは本気で言っているらしい。
「座っていただけですが」
「昨日までなら立って手伝い探してたでしょ」
少女は返事に詰まった。
図星だった。
「……多分」
「じゃあ進歩じゃない?」
「そのようなことで?」
「そういうことでいいと思うけど」
ガルドが横から笑う。
「こいつなんか最初、俺が鍬持って歩いてるだけで取り上げようとしたからな」
「取り上げてないって。重そうだから持とうかって言っただけだろ」
「同じだ」
「違うよ」
「俺が七十四だからって、何でも持たせてもらわんと困るぞ」
「だから今はやってないじゃん」
「最初はやろうとした」
少女は二人の言い合いを聞きながら、昨日から何度も耳にした考えを思い出した。
できることまで奪わない。
必要なところだけ手を貸す。
ユウ自身も、それをこの村で学び直したのだろう。
「ところで」
ユウが少女を見る。
「朝、ケルたちから道の話聞かれた?」
「はい」
「疲れなかった?」
「大丈夫です。思い出せる範囲だけお話ししました」
「ならいいけど」
少女は少し迷った末に続けた。
「私の話が、少し役に立ったそうです」
声に、わずかに嬉しさが混じった。
ユウもそれに気づいたのかもしれない。
「よかったじゃん」
「はい」
「じゃあ今日はそれで一仕事終わりだね」
「一仕事……」
少女は思わず笑った。
「少しお話ししただけですよ」
「必要な情報なら仕事じゃない?」
「そういうものなのでしょうか」
「別に仕事ってことにしなくてもいいけど」
ユウは肩をすくめる。
「役に立てたのが嬉しいなら、それでいいんじゃない」
役に立つこと自体を否定されなかった。
そのことが少女には意外だった。
これまでユウは何もしなくていいと言っていた。
だから、自分が誰かの役に立ちたいと思うことまで否定されるのではないかと、どこかで考えていたのかもしれない。
けれど違う。
何もしなくていい。
何かしてもいい。
役に立ちたければ、役に立ってもいい。
大切なのは、それを義務にしないことなのだろうか。
少女にはまだ、それをきれいな言葉にまとめることはできなかった。
昼が近づくにつれ、村の空気は朝より少しだけ賑やかになった。
畑から戻る者が増え、家々から食事を作る匂いが漂い始める。マーサも家の中へ入り、昼食の支度を始めたようだった。
少女は椅子から立たず、その様子を眺めていた。
やがて、マーサが扉から顔を出す。
「昼、うちで食べるだろ?」
少女はすぐに頷きそうになり、一度止まった。
ここで食べたい。
そう思っている。
「……よろしければ」
「よろしいから聞いてるんだよ」
「では、お願いします」
「はいよ」
マーサは中へ戻ろうとする。
少女は少し迷った。
「あの」
「何だい?」
「座ったままでできることなら、何かありませんか?」
言ってしまってから、少女は自分の胸の内を確かめる。
返さなければ。
働かなければ。
そういう焦りは、確かにまだある。
けれど、それだけではなかった。
朝から人が何かを作ったり、直したり、食事を用意したりするのを見ているうちに、自分も少しだけその中へ入ってみたいと思った。
それが義務なのか、自分の希望なのか。
完全には区別できない。
だから、少女は言葉を足した。
「無理に探していただかなくても大丈夫です。ただ……少し、やってみたいと思って」
マーサはしばらく少女を見た。
「そうかい」
いつものように短く答える。
「なら、豆の筋取る?」
「豆?」
「昼に使うやつ。座ってできる」
「やります」
返事が少し早くなった。
マーサは笑わず、からかいもせず、中から籠を一つ持ってきた。
中には緑色の豆が入っている。
「端を少し折って、そのまま筋を引く。こんな感じ」
一本手に取り、実際にやって見せる。
少女は真剣に見た。
「こうでしょうか」
一本受け取り、同じように端を折る。
けれど力加減が分からず、先端だけが小さく千切れた。
「あ……」
「もう一回やればいい」
マーサは普通に次の豆を渡した。
少女は二本目を試す。
今度は折った端から細い筋がついてきた。
「あ」
「それそれ」
ゆっくり引く。
一本の筋が最後まで取れた。
「できました」
「豆の筋取っただけで、そんな顔する人初めて見たよ」
マーサは呆れながらも、どこか楽しそうだった。
少女は自分が少し笑っていることに気づいた。
「初めてなので」
「公爵家じゃやらんだろうね」
「はい」
今度は、その言葉に先ほどほど身体が強張らなかった。
過去を忘れたわけではない。
ただ、今は目の前に豆がある。
三本目を取る。
端を折る。
筋を引く。
途中で切れた。
「切れました」
「裏からも取ればいい」
「裏……」
反対側を見る。
細い筋が残っている。
少女は慎重に取り除いた。
単純な作業だった。
けれど、何度か繰り返していると少しずつ手が慣れてくる。
上手くできると嬉しい。
失敗しても、誰も叱らない。
『妹は一度でできたぞ』
父の声が一瞬だけ浮かぶ。
少女の手が止まる。
目の前の豆を見る。
最初は失敗した。
二本目でできた。
三本目は途中で切れた。
四本目はきれいに取れた。
それで何か問題があるだろうか。
「マーサさん」
「何だい?」
「最初から上手にできないと、困りますか?」
唐突な質問だった。
マーサは鍋を覗き込んでいた手を止め、少女を見る。
「豆の筋取りで?」
「……はい」
「困らないね」
あまりにも即答だった。
「多少残ってても食えるし、気になるなら後で取ればいい」
「そうですか」
「何だと思ってたんだい」
少女は答えなかった。
答えれば、長い話になる。
今はまだ、その話をする準備ができていない。
「いえ。ただ、聞いてみたくなっただけです」
「そうかい」
マーサも追及しなかった。
少女は五本目の豆へ手を伸ばした。
今度は途中で切れなかった。
昼食の準備が進む頃、ユウが再びマーサの家の前へ戻ってきた。
「何してるの?」
「豆の筋を取っています」
少女は籠を少し持ち上げた。
ユウが目を丸くする。
「自分でやりたいって言った?」
「はい」
「ならいいね」
それだけ言い、近くへ腰を下ろす。
「俺もやる」
「あなたは畑仕事をしていたのでしょう?」
「終わったから」
「休まなくていいのですか?」
少女が尋ねると、ユウは一瞬黙った。
マーサが台所の奥から顔を出す。
「ほら」
「何がほらなんだよ」
「人に休めって言ってる本人が、帰ってすぐ仕事探してる」
少女はユウを見る。
彼は少し気まずそうに頭を掻いた。
「豆の筋取りくらい仕事ってほどでもないだろ」
「それ、私にも同じこと言えますよね?」
少女の口から自然に返事が出た。
ユウが目を瞬く。
マーサが声を上げて笑った。
「一本取られたねえ」
「……確かに」
ユウは少し考えた末、少女の隣ではなく向かい側の椅子へ座った。
「じゃあ五本だけやって休む」
「なぜ五本なのですか?」
「なんとなく」
「理由が適当ですね」
「休む理由なんてそのくらいでいいんだよ」
少女は思わず笑った。
ユウも豆を手にする。
一緒に作業を始めると、少女は彼の手つきがそれほど上手ではないことに気づいた。
「あ」
ユウの豆の端が大きく千切れる。
少女はそれを見る。
ユウも見る。
「……ちょっと折りすぎた」
「私も最初に同じ失敗をしました」
「なら先輩だ」
「まだ十本もしていません」
「俺よりは先輩」
少女は笑いながら、自分の一本を取った。
こんな会話をすることになるとは思っていなかった。
王太子と婚約していた頃、二人で何かを一緒に練習することはあった。
ダンス。
礼儀。
式典の手順。
失敗できないことばかりだった。
目の前の豆の筋取りは、途中で失敗しても誰も困らない。
少し残れば取り直せばいい。
その気楽さが、少女には新鮮だった。
「五本」
ユウが数えた。
「本当にやめるのですか?」
「自分で言ったから」
ユウは椅子の背にもたれた。
「休憩」
少女は少し羨ましくなった。
自分で決めて、本当にやめる。
その行為が簡単そうに見える。
「私も……」
口にしかけて止まる。
「何?」
「いえ」
少女は残っている豆を見る。
籠の半分ほどはまだ手つかずだ。
最後までやらなければ。
そういう考えが浮かぶ。
でも、自分は全部やると約束しただろうか。
マーサから渡された時も、できる分だけと言われたわけではないが、全部とは言われていない。
手を見る。
指先が少し疲れていた。
足は座っているので痛くない。
それでも、もう十分やった気もする。
「……私も、少し休みます」
少女は豆を籠へ戻した。
ユウは何も褒めなかった。
「うん」
それだけだった。
少女は椅子の背へ身体を預ける。
最初は少し落ち着かなかった。
途中でやめた豆が目の前にある。
マーサが昼食に使う予定のもの。
自分が全部やれば楽になる。
そう思う。
けれど数分後、マーサが普通に籠を引き寄せ、自分で残りの豆を取り始めた。
「……すみません」
少女は反射的に言った。
マーサが顔を上げる。
「何が?」
「途中でやめてしまったので」
「やりたい分やったんだろ?」
「はい」
「ならいいよ。残りは私がやる」
少女はその手元を見る。
マーサの指は慣れていて、一本ごとの動きが速い。
自分が無理に最後までやるより、ずっと早い。
「全部やらなくても、いいのですね」
「全部一人でやったら、私の分がなくなるだろ」
マーサは笑った。
少女はその言葉を聞きながら、胸の奥へ何かがゆっくり沈んでいくのを感じた。
自分が全部やらなくても、誰かが続きをできる。
逆に、自分がやった分だけ誰かの仕事が減る。
全部かゼロかではない。
途中まででもいい。
そんな単純なことを、十九歳になって初めて教えられたような気がした。
昼食は、少女が筋を取った豆を使った煮込みだった。
自分が手を加えたものが料理の中に入っている。
それだけで、少し特別に感じる。
「これ、私が……」
言いかけると、マーサが笑った。
「あんたが取ったのと私が取ったのと、どれか分からんけどね」
「そうですね」
少女も笑った。
ユウがパンをちぎりながら、煮込みを覗く。
「俺の五本も入ってる」
「五本だけで偉そうに言うな」
「ちゃんと働いたじゃん」
「五本で?」
「途中で休むのも大事って話してたところだろ」
「都合のいい時だけ使うねえ」
マーサとユウのやり取りを聞きながら、少女は匙を口へ運ぶ。
朝と同じように、温かい。
けれど味は少し違って感じた。
自分が何かをしたからだろうか。
いや。
それだけではない気がする。
やらされたのではない。
返済のためでもない。
ここに置いてもらう資格を得るためでもない。
自分が少しやってみたいと思って、豆の筋を取った。
それが昼食になった。
少女は器を見つめる。
「……こういうのも、いいですね」
ユウが顔を上げる。
「何が?」
「自分で少しだけ関わったものを食べるのが」
「ああ」
ユウは頷く。
「畑もそうだよ。自分で育てたやつ、ちょっと美味く感じる」
「ユウさんが育てているのですか?」
「ガルド爺さんに教えてもらいながらね」
「まだ下手だぞ」
外から声がした。
いつの間にかガルドが窓の近くを通っていたらしい。
「聞こえてるぞ!」
「聞こえるように言った!」
少女は吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえた。
ユウがため息をつく。
「絶対七十四じゃないだろ、あの元気さ」
「本人に言ったら怒るよ」
マーサが楽しそうに答える。
少女はもう一度匙を口へ運んだ。
笑い声のある食卓。
誰かが少し失敗しても、比べられない。
途中で休んでも責められない。
できる人が続きをする。
それでも、自分のしたことが消えるわけではない。
そんな場所があることを、彼女は少しずつ知り始めていた。
食後、少女はすぐ立ち上がらなかった。
器を洗いますとも言わなかった。
代わりに、自分の身体がどのくらい疲れているのかを少し考えた。
眠いわけではない。
足の痛みも強くない。
午前中より気持ちは落ち着いている。
そして、ひとつだけ気になっていることがあった。
「ユウさん」
「ん?」
「午後、もしご迷惑でなければ……」
少女はそこで一度言葉を止めた。
頼んでいい。
断られる可能性があっても、聞いていい。
そう自分へ言い聞かせる。
「村を、少し見てみたいです」
ユウは少女の足を見る。
少女もすぐ続けた。
「長く歩くつもりはありません。傷が痛くなったら戻ります」
「見たいの?」
「はい」
今度は迷わず答えた。
働ける場所を探したいからではない。
何か返せるものを探したいからでもない。
昨日は暗くて、何も見えなかった。
今朝はマーサの家の前から眺めただけだった。
この村がどんな場所なのか、自分の目で見てみたい。
それだけだった。
ユウは少し考えた後、頷いた。
「じゃあ、近いところだけ」
「はい」
「途中で痛くなったら言うこと」
「分かりました」
「無理して平気って言わない」
少女は少し困った。
「……努力します」
「だから、そこは頑張らなくていいって」
ユウが笑う。
少女もつられて小さく笑った。
村を見たい。
それは追放されてから初めて、自分から「してみたい」と思ったことだった。
何かを取り戻すためではない。
誰かに認めてもらうためでもない。
ただ知りたいから。
ただ見てみたいから。
少女は自分の中に生まれたその小さな気持ちを、今度は「そんなことをしている場合ではない」と押し潰さなかった。
窓の外には、昼の光に照らされたルーデ村が広がっている。
昨日の夜、追放された自分がようやく辿り着いた場所。
今朝までは、ただ一晩を過ごした場所でしかなかった。
けれど午後になれば、その中を自分の足で少しだけ歩いてみる。
少女はそのことを思い浮かべながら、食後の温かい茶を一口飲んだ。
胸の奥にはまだ、王都で失ったものの痛みが残っている。
それでも今は、その痛みとは別の場所に、ごく小さな好奇心が生まれていた。




