第16話 村を歩く
昼食を終えても、少女はすぐには立ち上がらなかった。窓から差し込む午後の日差しは朝よりも明るく、マーサの家の古い木の床へ四角い光を落としており、開け放たれた窓からは畑の土と草の匂いを含んだ風がゆっくり入り込んでいる。
村を見てみたいと言ったのは自分なのだから、本当なら食事を終えたらすぐに出かけるべきなのだと思っていた。けれど、向かいに座ったユウから「食べたばっかりだし、少し休んでからにしよう」と言われた時、少女は反射的に「大丈夫です」と返しかけたものの、膝の上で組んだ指へ目を落としてから、小さく頷くことができた。
「……はい。そうします」
「うん。その方がいいと思う」
ユウはそれだけ答えると、手にしていた茶を一口飲んだ。休むことを選んだ少女を褒めることも、大げさに安心することもなく、まるで食後に少し座っていることなど当たり前だという顔をしている。
その反応に、少女は少しだけ肩の力を抜いた。
午前中に筋を取った豆の入っていた籠は、すでに台所の隅へ片づけられていた。自分は途中で休み、そのまま全部を終わらせなかったのに、昼食の時間になれば作業は何の問題もなく済んでいた。
昨日までの自分なら、途中でやめたことが気になって仕方なかっただろう。誰かが続きをやったと知れば申し訳なく思い、自分が最後までやるべきだったのではないかと何度も考えたはずなのに、今はまだ居心地の悪さを覚えながらも、「全部やらなくても終わることはある」と受け止められる程度にはなっていた。
「足、出かける前にもう一回だけ見ていい?」
ユウの声に、少女は顔を上げた。
「はい。お願いします」
椅子に座ったまま右足を少し前へ出すと、ユウはすぐに触れず、まず履物と足首の位置を目で確かめた。昨日から何度か同じことをされているので、少女も以前ほど身構えなくなっている。
「今、じっとしてれば痛みはどれくらい?」
「どれくらい、というのは……」
「全然痛くないのをゼロにして、これ以上は無理ってくらいを十にすると?」
昨日から何度か聞かれた考え方だったが、自分の身体の感覚を数字へ置き換えることにはまだ慣れていない。少女は右足へ意識を向け、靴擦れのある踵に残る熱っぽさと、布が触れた時のわずかな痛みを確かめてから答えた。
「今は……二くらいだと思います」
「歩いたら?」
「朝に歩いた時は、三か……時々、四に近いくらいでした」
「じゃあ今日は、四になったら教えて。急に痛み方が変わった時も」
少女は少し考えた。
「四なら、まだ歩けると思います」
「歩けるとは思うよ」
ユウは否定しなかった。
「でも今日は、どこまで歩けるか試す日じゃないでしょ。村を見たいって言ったから、見に行くんだよね?」
「はい」
「だったら、足を悪くするところまで歩く必要ないよ。明日も歩きたいなら、なおさら」
少女は返事をする前に黙った。
明日も歩きたいなら。
その言葉が、思いがけないところへ引っかかった。
訓練でも勉強でも礼儀作法でも、彼女に求められてきたのは「今どこまでできるか」だった。疲れていても、もう一度できるなら続ける。失敗したなら成功するまで繰り返し、できるようになったなら次は妹と同じところまで、それが無理ならせめて公爵家の長女として恥ずかしくないところまで努力する。
明日も続けるために、今日は途中でやめる。
その考え方は、少女にはまだ新しかった。
「分かりました。四になったら、お伝えします」
「うん」
「……できるだけ」
無意識に付け加えると、ユウが眉を上げた。
「そこは約束してほしいんだけど」
「すみま――」
謝りかけて、少女は口を閉じた。
謝る必要があるのだろうかと考え直し、膝の上で指を組み替える。
「まだ、自信がありません」
正直に言うと、ユウは少しだけ目を見開いた。それでも困った顔はせず、むしろ何かを考えるように頷いている。
「じゃあ、痛そうにしてたら俺からも聞く。それならどう?」
「……お願いします」
「お互い確認するってことで」
その言い方なら、少女にも受け入れやすかった。
自分が完璧に申告しなければならないわけではなく、ユウも見る。ユウが全部決めるわけでもなく、自分も伝える。
二人で確認する。
昨日までなら、誰かに自分の状態を見てもらうことは、弱さを知られることのように感じていただろう。けれど今は、それを少し違うものとして受け取れるようになっていた。
「遠くまで連れてくんじゃないよ」
台所からマーサの声が飛んできた。
洗い終えた食器を布で拭きながら顔を出した彼女は、ユウよりも少女の足を心配しているようだった。
「分かってるって」
「東の端にも行くんじゃないよ。森の方はまだ落ち着いてないんだろ」
「今日は行かないよ」
「畑まで行って、ついでだから道を見てくるなんてのも駄目だからね」
ユウが不服そうな顔をした。
「俺、そんな信用ない?」
「あるから先に言ってんだよ。あんた、頼まれてなくても気になったら見に行くだろ」
「……そこまでじゃないと思うけど」
「昨日も何回外見てたと思ってんだい」
マーサに言い返され、ユウが黙る。
少女は二人のやり取りを眺めながら、ほんの少し口元を緩めた。
ユウは自分へ休むよう言う。
けれどマーサは、そのユウへ休めと言う。
誰か一人だけが皆を支えているわけではないのだと、こうした何気ない場面を見るたびに思う。
「私も、遠くへ行かないよう気をつけます」
少女が言うと、マーサは満足そうに頷いた。
「そうしな。村なんて明日もあるんだから、今日一日で全部見る必要なんかないよ」
その言葉に、少女の胸の奥がわずかに揺れた。
明日もある。
マーサは何でもないことのように言った。
自分が明日もここにいるとは、誰も決めていない。村へ住むことを認められたわけでもなければ、自分自身もここで暮らすと決めたわけではない。
それでも少女は、そこへ意味を求めるのをやめた。
明日のことは、明日になってから考えればいい。
昨日から何度も聞いたその考え方を、今度は誰かに言われるより先に自分で思い出せた。
マーサの家を出ると、昼を少し過ぎたルーデ村には穏やかな風が流れていた。朝より高く昇った太陽は家々の低い屋根や畑を明るく照らしているものの、日陰へ入れば空気は涼しく、乾いた土の匂いに刈った草と薪の煙が混じっている。
少女は玄関前で一度足を止め、右足へゆっくり体重を乗せた。傷そのものが消えたわけではなく、履物の中では鈍い痛みが残っているが、朝より悪化している感じはない。
「三くらいです」
少女が言うと、先に歩き出そうとしていたユウが振り返った。
「まだ聞いてないけど」
「出発する前に、お伝えしておいた方がよいかと思いました」
「それは助かる」
ごく自然に返された礼に、少女は一瞬だけ戸惑った。
痛みを伝えただけなのに、役に立ったと言われたような気がしたからだ。
けれど、よく考えればそれは何かを成し遂げたことへの評価ではない。ユウが少女の状態を知るために必要な情報を、自分から伝えたことへの礼なのだろう。
「では……行きましょうか」
「うん。ゆっくりね」
ユウは少女の隣へぴったり並ばず、半歩ほど前を歩き始めた。支えるために腕を取ることも、少女の歩調を決めることもせず、彼女が無理なく歩ける速度へ自然に合わせている。
昨夜、暗闇の中で見た村は、昼になると驚くほど小さかった。
王都なら一つの通りにも満たないほどの家々が、広い土地へぽつぽつと建っている。家と家の間には畑や小さな庭があり、薪を積み上げた場所、農具を置くためだけの簡素な屋根、干された布や野菜までが生活の一部として外へ出ていた。
道も石畳ではない。
踏み固められた土の上に小石が混じり、場所によっては車輪の跡が浅く残っている。少女が王都で暮らしていた頃なら「整備されていない道」と考えたかもしれないが、今は不思議と荒れているようには見えなかった。
人が歩き、荷車が通り、必要なところをその都度直しながら使っている道なのだと分かり始めていたからだ。
「本当に、三十人ほどなのですね」
少女は周囲を見渡した。
「俺が来て三十一人らしいよ」
「ユウさんを含めて、ですか?」
「うん。最初は俺、自分が数に入ってると思ってなかったけど」
少女はユウを見る。
「いつから村人になったのですか?」
「いつからだろう」
ユウ自身も分からないらしく、少し首を傾げた。
「住み始めてそんなに経ってない頃に、人口の話になったんだよ。その時ローデンに『お前が来て増えたんだから、もう住民だ』って言われた」
「それだけで?」
「それだけだったと思う」
少女は足元の道へ視線を落とした。
ユウは今でこそ村のあちこちで頼られている。規格外と言ってよい魔法を使い、畑や道を直し、村人が困った時には手を貸している。
けれど、「住民」と呼ばれるようになった理由は功績ではなかった。
ここへ来て、暮らしているから。
それだけだったらしい。
自分にも同じことが当てはまるのだろうかと一瞬考えそうになり、少女はそこで思考を止めた。
まだ早い。
昨日来たばかりなのだ。
それに、自分がここへいてよいのかさえ正式には分かっていない。
それでも、以前なら「考えてはいけない」と自分を叱っていたはずの想像を、今は「まだ早い」とだけ思えた。
最初に通りかかったのは、午前中に立ち寄ったベルの家だった。
家の前の作業台には削った木の屑が残り、何本かの工具が布の上へ並べられている。けれどベル本人の姿はなく、午前中に作っていた杖も見当たらなかった。
「ベルさんは、どちらへ?」
「サナ婆さんのところじゃないかな。杖を合わせに行くって言ってたし」
「もう完成したのですか?」
「形はできてたけど、最後は使ってもらってから直すって言ってたでしょ」
少女は午前中の会話を思い出した。
使う人によって、身長も手の大きさも違う。
だから、作る側だけで完成を決めない。
それが妙に印象へ残っていた。
「……見に行ってもいいでしょうか」
言ってから、少女は少し緊張した。
村を案内してもらっている以上、行き先はユウに任せるものだとどこかで思っていたからだ。
しかしユウは、少女が自分から希望を言ったことへ驚く様子もなく頷いた。
「近いよ。行ってみる?」
「はい」
ほんの数分先の場所を選んだだけだった。
けれど少女は、自分がまた一つ決められたことを静かに嬉しく思った。
サナの家へ近づくと、庭先から木を削る乾いた音が聞こえてきた。庭の端には大きな桶が二つ並び、その横へ灰の入った袋と油を入れているらしい容器が置かれており、風向きが変わるたびに灰と草の混じった独特の匂いが漂ってくる。
少女が珍しそうにそちらを見ていると、家の脇から声が飛んできた。
「そこ、気をつけな。昨日こぼした灰がまだ残ってるから」
足元を見ると、土の一部が薄い灰色になっている。
少女は慌てて一歩横へ移った。
「申し訳ありません」
「謝らなくていいから、踏まなきゃいいよ」
サナはそう言いながら庭へ出てきた。
片手には午前中までベルが作っていた杖を持っている。その後ろからベルも現れ、少女とユウを見つけると、軽く顎を上げた。
「見に来たのか」
「はい。完成したと聞きまして」
「まだだ」
ベルは即座に否定した。
「今、合わせてる」
サナが杖を地面へつき、庭の端までゆっくり歩いてみせる。
少女は自然とその足元を見た。
杖をつき、右足を出し、身体を支えながら左足を運ぶ。歩けないわけではなく、速度も極端に遅いわけではないが、杖を握る右手に少し余計な力が入っているように見えた。
「どうだ?」
ベルが尋ねると、サナは数歩進んだところで止まった。
「前のより軽いね。ただ、ここが少し太い」
握り部分を指で示す。
「やっぱりか」
「私の手はあんたより小さいんだよ」
「分かってる」
「分かってて太くしたのかい」
「だから今から直すんだろ」
ベルが杖を受け取り、腰へ下げていた小刀を抜く。
二人のやり取りに、少女は思わず笑いそうになった。
王都であれば、職人が公爵家へ納めた品に不具合があれば、使用人を通じて作り直しを命じることになる。けれどここでは、作った本人と使う本人が同じ庭にいて、「太い」「直す」と言い合っている。
どちらが偉いわけでもない。
使う側が遠慮して我慢する必要もない。
「あんた、立ってなくていいよ」
サナが少女へ言った。
「え?」
「足、怪我してるんだろ。そこ座りな」
庭の端に置かれた椅子を指す。
「私は大丈夫です」
少女は反射的に答えた。
けれど、その直後にユウの方を見る。
ユウは何も言わなかった。
座れとも、無理をするなとも言わず、少女がどうするか待っている。
「……今は、三くらいです」
少女が言うと、サナは首を傾げた。
「何が三なんだい?」
「足の痛みです。四になったらユウさんへ伝えると決めました」
「変な決め方してるね」
「分かりやすいからいいんだよ」
ユウが苦笑する。
サナは少女の足を見てから、もう一度椅子を手で叩いた。
「三でも痛いなら座ればいいじゃないか。四になるまで立ってなきゃいけない決まりでもあるのかい?」
「……ありません」
「なら座りな」
「はい」
少女は椅子へ腰を下ろした。
座った瞬間、右足へかかっていた力が抜ける。
痛みが強くなる前に休む。
たったそれだけのことが、以前より少し自然にできた。
ベルが杖を削る音を聞きながら、少女は庭の桶へ視線を向けた。
「あちらは、何に使うものなのですか?」
「石鹸だよ」
サナが答えた。
「石鹸……ですか?」
「灰と油で作るんだ」
少女は目を見開いた。
灰や油を用いて石鹸を作れるという知識自体はあった。公爵家の教育の中で、領地の産物や流通、生活用品の仕入れについて学んだことがあり、帳簿上では石鹸も何度も目にしている。
けれど、実際に作られる場所を見るのは初めてだった。
公爵家で使う石鹸は香料を加え、形を整え、綺麗な布や紙へ包まれた状態で届く。少女が知っていたのは価格や品質、納入先や使用量であって、灰の匂いがする庭で誰かが手を動かして作っている姿ではなかった。
「サナさんが、ご自分で作られるのですか?」
「そうだよ。商人から買う時もあるけどね。毎日使うものを全部買ってたら高くつく」
「難しくはないのでしょうか」
「分量を間違えりゃ面倒だけど、何年やってると思ってんだい」
サナは笑った。
少女は桶を見つめる。
午前中にベルの杖を見た時と同じ感覚だった。
「……面白いです」
「石鹸が?」
「はい。午前中も杖を見て、同じことを思いました」
少女は少し恥ずかしそうに笑った。
「私が今まで使っていたものも、誰かが作っていたはずなのに。私は、出来上がったものしか見たことがありませんでしたから」
「じゃあ、今度作るところ見るかい?」
サナの誘いに、少女はすぐ「はい」と答えそうになった。
しかし、今日は村を見てみたいと思って出てきたのだ。
ここで石鹸作りを始めれば、きっと長くなる。
足もまだ治っていない。
少女は自分の中に浮かんだ「見たい」という気持ちと、今の身体の状態を少しだけ比べた。
「今日は、村を見て回ると決めましたので……また今度でも、よろしいでしょうか」
「もちろん。石鹸なんて逃げないよ」
サナは何でもないことのように答えた。
「では、また今度、見せてください」
「ああ。作る日に声かけるよ」
少女は小さく頷いた。
また今度。
昨日まで、未来を考えることさえ怖かった。
明日どこへ行けばよいのかも分からず、夜が明けることすら嫌だったのに、今は石鹸を作るところを見てみたいという程度の未来なら、考えても胸が締めつけられなかった。
握り部分を削り直したベルが、もう一度サナへ杖を渡した。
サナは椅子から立ち上がり、庭をゆっくり往復する。先ほどよりも右手の力が抜け、杖を地面へついた時の身体の傾きも小さくなったように少女には見えた。
「どうだ?」
「うん。こっちの方がいいね」
「長さは?」
「ちょうどいい」
「なら、これで使ってみろ。また駄目なら直す」
「最初からそう言えばいいんだよ」
「最初から言ってる」
二人とも不機嫌ではない。
長く付き合ってきた者同士だからこその遠慮のなさなのだろう。
少女はその様子を見ながら、ふとユウへ顔を向けた。
「ユウさん」
「ん?」
「こういうことを、以前のお仕事でもされていたのですか?」
「こういうこと?」
「その人に合わせる、ということです」
少女はベルとサナを見た。
「できないことをすべて代わりにするのではなくて、その人ができることはそのままにして、難しいところだけ変えるというか……上手く言えませんけれど」
ユウは少し考えた後、頷いた。
「杖を作ってたわけじゃないけど、考え方は近いかな」
「やはり」
「立てる人なら、できるだけ自分で立ってもらうし、時間がかかっても自分で食べられるなら待つ。もちろん危なかったり、本人が助けてほしい時は手伝うけど」
ユウはそこで一度言葉を止め、ベルから杖を受け取ったサナがもう一度庭を歩く姿を眺めた。
「全部やってあげる方が早い時もあるんだよ。でも、それを続けてると身体の力を使わなくなったり、本当にできなくなることもある。それに、自分のことなのに何でも他人に決められるのが嫌な人だっているし」
最後の言葉が、少女の胸へ静かに沈んだ。
自分のことなのに、他人に決められる。
少女はそれを嫌だと思ったことがあっただろうか。
幼い頃から、公爵家の長女として何を学ぶかは決められていた。着る服も、出席する茶会も、親しくすべき相手も、どの教師から何を学ぶかも、ほとんどが周囲によって整えられていた。
やがて王太子の婚約者となってからは、その先の人生まで決まった。
王太子妃になる。
いずれ王妃になる。
そのために相応しい振る舞いを身につける。
少女自身も、それを疑ったことはほとんどなかった。
自分で選ぶ必要がないのではなく、自分で選ぶものではないと思っていたのだ。
「……難しいですね」
少女が呟くと、ユウが視線を向けた。
「何が?」
「自分で決める、ということが」
少女は膝の上へ置いた手を見た。
「何をしたいのかと聞かれても、すぐには分かりません。何をすべきかなら、考えられるのですが」
ユウはすぐに答えなかった。
ベルもサナも近くにいるため、少女がそれ以上自分の過去を話したくないことを察したのかもしれない。
「大きいことから決めなくていいんじゃない?」
しばらくして、ユウが言った。
「大きいこと?」
「これからどこで暮らすとか、何して生きるとか。そういうのは今決めなくていいと思う」
少女は顔を上げる。
「今なら、次どこ見たいかとか。そのくらいでいいんじゃない?」
「次……」
少女は村の方を見る。
知らない場所ばかりなのだから、何があるのかも分からない。
「知らないので、選べません」
「じゃあ候補出す?」
ユウは少し考えながら指を折った。
「近いところなら共同井戸。畑。オルド爺さんの鶏。あとは前に直した道もあるけど、今日は足考えると近場かな」
少女は一つずつ想像した。
畑は朝から見えている。
井戸も気になる。
道も、この村の人々が自分たちで直したというなら見てみたい。
けれど、一つだけ聞いた瞬間に別の興味が湧いた。
「……鶏を見たいです」
「鶏?」
ユウが少し意外そうな顔をした。
「はい。近くで見たことが、ほとんどありません」
サナが声を上げて笑った。
「公爵家のお嬢さんなら、そんなもんかね」
以前なら、その呼ばれ方だけで身体を強張らせたかもしれない。
けれど少女は、今度は俯かなかった。
「卵は毎日のように見ていたのですけれど、鶏そのものを見る機会はありませんでした」
「じゃあ卵の元を見てきな」
サナが杖を軽く持ち上げた。
「はい」
少女は笑った。
行き先を一つ決めただけなのに、不思議と胸の奥が軽かった。
誰かの役に立つためではない。
公爵令嬢として必要な知識でもない。
ただ、自分が見たいと思った。
それだけの理由で行き先を選んだのは、いつ以来なのか思い出せなかった。
オルドの家へ向かう道は、サナの家から南へ少し下ったところにある。途中には低い木の柵と小さな畑があり、葉の間から覗く実を確かめている老人が一人いたが、ユウと少女を見ると軽く手を上げただけで、自分の作業へ戻っていった。
少女も会釈を返しながら歩いていたものの、しばらくすると右の踵に先ほどより強い痛みを感じた。まだ四ではないと思い、そのまま歩こうとしたところで、半歩前を歩いていたユウが速度を落とす。
「痛み、上がった?」
少女は一瞬、反射的に「大丈夫です」と答えそうになった。
しかし午前中に交わした約束を思い出し、自分の足へ意識を向ける。
「……少しだけ」
「いくつ?」
「三と四の間くらいだと思います」
「じゃあ、一回座ろう」
「でも、まだ四ではありません」
「四まで使い切る必要ないよ」
少女は目を瞬いた。
「使い切る?」
「四になったら休んでいい、って意味じゃないからね。四はこれ以上続けない方がいいって目安。三で休んだって別に損しないでしょ」
「損……」
そんなつもりはなかった、と否定しようとして、少女は言葉を止めた。
確かに心のどこかで、決められた限界が四なら四までは歩くべきだと思っていた。
まだできる。
まだ歩ける。
なら続ける。
それはあまりにも身体へ染みついた考え方で、自分でも気づかないほどだった。
「鶏は逃げないから」
ユウが道端の木陰を指す。
そこには腰掛けられそうな切り株があった。
少女は先ほどサナから言われたことを思い出す。
「……鶏は、逃げることもあるのでは?」
ユウが真顔で考え込んだ。
「確かに」
少女は堪えきれず、小さく笑った。
「ふふっ」
「いや、でもオルド爺さんの鶏が今日全部いなくなることは多分ないから」
「多分なのですね」
「生き物だから絶対とは言えないし」
真面目に答えるユウがおかしくて、少女の笑みはもう少しだけ続いた。
そのまま切り株へ腰を下ろす。
木陰へ入ると、汗ばみかけていた首筋を風が撫で、畑から土の匂いが運ばれてきた。遠くでは誰かが鍬を振るい、別の家の軒先では洗濯物が揺れている。
ベルの孫が道の向こうを走っていった。
少年は少女へ気づくと、速度を落とすこともなく大きく手を振る。
少女は一瞬迷った後、小さく手を振り返した。
それだけで少年は嬉しそうに笑い、そのまま角を曲がって見えなくなった。
「元気ですね」
「毎日あんな感じ」
ユウが笑う。
少女は少年が消えた道を見つめていたが、やがて膝の上へ視線を落とした。
「昨日は……少し怖かったんです」
「子供が?」
「いいえ。人が、です」
ユウは何も言わず、続きを待った。
「誰かに見られると、何を言われるのだろうと思ってしまって。昨日、村へ着いた時も、人が集まってくるのが怖くて……王都でのことを思い出しました」
あの日、自分へ向けられた視線は忘れられない。
疑い。
失望。
軽蔑。
好奇心。
それまで丁寧に頭を下げていた者まで、自分が罪人だと告げられた瞬間に見る目を変えた。
だから、昨夜ルーデ村で人々が集まってきた時も、少女は身体を強張らせた。
また同じことが起きると思った。
「今も、まったく怖くないわけではありません」
少女は指先を組み直した。
「でも、少し違います。ここの方々は私を見ても、すぐに何かを決めませんから」
ユウは近くの木へ背を預けた。
「村の人たちも、何も考えてないわけじゃないと思うよ」
「はい」
「知らない人が急に来たんだから、気にはしてるだろうし。追放されたって聞けば、警戒する人もいると思う」
少女はゆっくり頷いた。
ユウは都合のいいことだけを言わない。
村人全員が無条件に少女を信じているわけではないのだろう。
それでも、その事実を聞いて不思議と傷つかなかった。
「でも、今のところあんたがこの村で何かしたわけじゃない。それなら、見てから考えればいいって人が多いんじゃないかな」
「見てから……」
「俺もそうだし」
昨日と同じだった。
無実だと決めつけない。
けれど、罪人だとも決めつけない。
少女は唇を一度結んだ。
「私は……やっていません」
昨日より、少しだけはっきり言えた。
ユウは少女を見た。
「はい」
それだけだった。
信じるとも、疑うとも言わない。
証拠を出せとも、説明しろとも言わない。
少女は胸の奥に残っていた息を、ゆっくり吐き出した。
今は、それでよかった。
しばらく休むと、踵の痛みは三ほどへ戻った。
「どう?」
「三くらいです」
「鶏、行けそう?」
「はい。見たいです」
少女は切り株から立ち上がった。
ユウは手を差し出さず、彼女が自分で姿勢を整えるのを待つ。もし身体が傾けば支えられる距離にはいるが、最初から力を貸そうとはしない。
その距離が、今は心地よかった。
オルドの家は本当に近く、数分もしないうちに低い柵と小さな鶏小屋が見えてきた。土の上では数羽の鶏が自由に動き回り、嘴で地面をつつくものもいれば、羽を広げて身体を震わせているもの、日陰でじっとしているものもいる。
少女は思わず足を止めた。
「……思っていたより、大きいです」
「最初の感想そこ?」
ユウが笑った。
「もっと小さいものだと思っていました」
「卵から考えたら、まあ大きいか」
一羽がこちらへ歩いてくる。
少女は思わず半歩下がった。
「こちらへ来ます」
「来るね」
「どうすればよいのでしょう」
「何もしなくていいよ」
「何もしなくて……」
鶏は少女の心配など気にしていないように足元近くまで来ると、土を一度つついた。少女は少し身体を固くしながら、その丸い目と小刻みに動く頭を見下ろす。
「餌持ってると思ってるんだろ」
家の裏から低い声がした。
オルドが小さな籠を手に出てくる。
「お邪魔しております」
少女が頭を下げると、オルドは軽く片手を上げた。
「足、悪いんだって?」
「靴擦れです。昨日よりは良くなっています」
「そうか」
それ以上、オルドは聞かなかった。
少女がなぜ村にいるのかも、何をして追放されたのかも尋ねず、鶏小屋の中へ入っていく。
巣箱から卵を一つずつ取り出し、籠へ入れる。
「ユウ」
「何?」
「一個持ってけ」
オルドが卵を差し出した。
「また?」
「昨日の礼だ」
「もうもらっただろ」
「昨日は昨日だ」
「毎日もらったら、今度は俺の方が借りになるんだけど」
「なら食え」
「返事になってないよ」
二人のやり取りを聞きながら、少女は昨日から何度も考えている「返す」ということを思い出した。
オルドは助けてもらったから卵を渡す。
ユウは受け取りすぎだと言う。
けれど、そこには借りを清算しなければならないような重さがない。
「何のお礼なのですか?」
少女が尋ねると、ユウがわずかに言葉を詰まらせた。
代わりにオルドが答える。
「この前、飯を喉に詰まらせた」
少女の表情が変わった。
「大丈夫だったのですか?」
「ああ。こいつが取ってくれた」
オルドがユウを顎で示す。
「もう何ともない」
少女はユウを見る。
昨夜、マーサがユウについて「オルドの顔色を何度も見ていた」と話していた理由がようやく分かった。
「ユウさんが助けたのですね」
「俺だけじゃないよ。周りの人にも動いてもらったし」
「でも、助けたんだ」
オルドが淡々と重ねる。
ユウは少し居心地悪そうに頭を掻いた。
「まあ……結果としては」
少女はその顔を見つめた。
これほどの魔法を持っているのに、英雄になりたいとは思わない。
人を助けても、自分一人の功績として受け取ろうとしない。
それが彼の前の仕事と関係しているのか、それとも元々そういう人なのか、少女にはまだ分からなかった。
けれど、今すぐ答えを知る必要もないのだろう。
「毎日、ご自分で卵を集めるのですか?」
少女がオルドへ尋ねた。
「ああ」
「鶏のお世話も?」
「できる分はな。重い餌袋は手伝ってもらうこともある」
少女は静かに頷いた。
また同じだった。
できることは自分でする。
難しいことは頼る。
ユウだけがそう考えているのではない。
ベルも、サナも、オルドも、形は違っていても同じように暮らしている。
「触ってみるか?」
オルドが近くの鶏を見ながら尋ねた。
少女は目を丸くした。
「触れるのですか?」
「嫌ならやめとけ。こいつらも機嫌悪い時あるからな」
少女は鶏を見る。
触ってみたい気持ちはあった。
けれど少し怖い。
昨日までなら、勧められた以上はやるべきだと思ったかもしれない。
「……今日は、見るだけにします」
「そうか」
オルドはそれだけ答えた。
残念そうにも、呆れたようにも見えない。
少女は胸の奥で、ほんの少し息を吐いた。
断ることが、昨日より簡単になっていた。
オルドの家を出た後、二人は遠回りをせずマーサの家へ戻ることにした。途中で共同井戸の近くを通ると、二人の老婆が縄を引きながら水を汲んでおり、滑車が軋む音と桶から零れる水音が午後の静かな村へ響いている。
少女は思わずそちらへ足を向けかけた。
桶は見るからに重そうだった。
「お手伝いを――」
「怪我人は見てな」
先に一人の老婆から言われ、少女は足を止めた。
「ですが、お二人では重いのでは?」
「毎日やってるよ」
もう一人が縄を引きながら笑った。
「無理な日は誰か呼ぶから大丈夫だ」
二人で縄を引き、上がってきた桶を縁へ載せる。
確かに危なげはない。
少女は自分が手を出す必要がないことを確認し、その場で小さく頭を下げた。
「分かりました」
「足治ったら、その時頼むかもしれないよ」
老婆が笑う。
「その時は、お手伝いします」
少女が答えると、二人も笑った。
約束ではない。
義務でもない。
必要なら頼む。
できるなら手伝う。
その程度の軽さで人と人が繋がっていることが、少女にはまだ新鮮だった。
「本当に、皆さんご自分でなさるのですね」
井戸から少し離れてから、少女はユウへ言った。
「できることはね」
「王都では、高齢の方があのように水を汲む姿を見ることはほとんどありませんでした」
「貴族の家なら使用人もいるだろうしね」
「はい」
少女はしばらく歩いてから、自分の中に浮かんだ疑問を口にした。
「私は……人に何かをしてもらうことに、慣れていたはずなのですね」
「そうなの?」
「着替えも、食事も、移動も、多くのことを使用人に支えてもらっていました。自分一人ですべてをしていたわけではありません」
少女は自分の手を見る。
「それなのに、今は誰かに何かをしていただくと、落ち着かなくなります。すぐに返さなければならないと思ってしまって」
自分でも矛盾していると感じていた。
ユウはすぐには答えず、少女の歩調に合わせて速度を少し落とした。
「してもらう内容じゃなくて、関係が違うのかもね」
「関係?」
「前は役割として決まってたんでしょ。侍女さんは身支度を手伝う。料理する人は食事を作る。御者は馬車を動かす。それが仕事だったなら、受け取る方も毎回借りだとは思わないんじゃない?」
少女は足元を見ながら考えた。
「……確かに、そうです」
「今はマーサ婆ちゃんも俺も、あんたと何か契約してるわけじゃないからね。だから全部、借りに感じるのかもしれない」
言われてみれば、その通りだった。
公爵家にいた頃は、誰が何をするのか決まっていた。
侍女が服を整えることに対して、少女がその場で対価を返す必要はない。家が雇用し、役割があり、その関係の中で支援を受けていた。
けれど今は違う。
マーサは侍女ではない。
ユウは護衛でも医師でもない。
ローデンも、ベルも、サナも、オルドも、少女のために働く義務などない。
だから何かを受け取るたびに、自分が相手から奪っているような気がしていたのだ。
「では……」
少女は少し迷ってから尋ねた。
「私は、皆さんとどういう関係なのでしょう」
ユウはしばらく考えた。
少女は無意識に答えを待った。
客人。
追放者。
保護対象。
罪人。
あるいは、もっと別の何か。
けれどユウの口から出たのは、どれでもなかった。
「昨日来た人?」
少女は目を瞬いた。
「……それだけですか?」
「今のところは」
「追放された罪人ではなく?」
「それは王都側で付けられた立場でしょ。少なくとも今の村では、昨日来た人」
あまりにも簡単だった。
少女はしばらくユウを見つめ、それから小さく笑った。
「ずいぶん曖昧ですね」
「複雑な方がいい?」
「いいえ」
少女は首を横へ振った。
「今は、それくらいがいいです」
公爵令嬢でもない。
王太子の婚約者でもない。
罪人でもない。
妹より劣る姉でもない。
何者なのかを今すぐ決めなくても、ただ昨日ここへ来た人として歩いていられる。
その曖昧さが、少女には不思議なほど心地よかった。
マーサの家が見えてきた頃、右足の痛みが再び強くなった。
少女は歩きながら自分の状態を確かめる。
まだ歩ける。
家までは近い。
この程度なら黙っていても辿り着ける。
そう考えたところで、少女は自分がまた同じことをしようとしていると気づいた。
「ユウさん」
「ん?」
「痛みが……四くらいになりました」
自分から言えた。
ユウはすぐに立ち止まったが、慌てて少女へ触れることはしなかった。
「分かった。ここで一回休む?」
少女はマーサの家を見る。
もう少しだ。
頑張れば歩ける。
けれど、四になったら伝えると決めた。
そして、伝えた後にどうするかも自分で選べる。
「……少しだけ、休みたいです」
「うん。座れそうなところ探そう」
ユウは道の脇にある低い石を見つけ、表面の土を手で軽く払った。
少女は自分でそこまで歩き、ゆっくり腰を下ろす。
足から力を抜くと、じんじんしていた踵の痛みが少しずつ落ち着いていった。
風が頬を撫でる。
午後の日差しはわずかに傾き始め、畑の向こうでは草の穂が風に合わせて波のように揺れている。どこかの家から鶏の鳴き声が聞こえ、少し遅れて子供たちの笑い声が重なった。
少女は今日見たものを思い返した。
ベルが削った杖。
サナが作る石鹸。
オルドの鶏。
共同井戸。
どれも王都にいた頃なら、わざわざ足を止めることさえなかったかもしれない。
「楽しかった?」
ユウが何気なく尋ねた。
少女はすぐに答えられなかった。
楽しかった。
確かにそう思う。
けれど、その感情を認めようとした瞬間、胸の奥へ別の痛みが差し込んだ。
自分は追放されたばかりだ。
家族から捨てられた。
婚約を失った。
信じていた人にも背を向けられた。
何一つ解決していない。
それなのに、杖を見て面白いと思った。
石鹸を作るところを見たいと思った。
鶏を見て笑った。
そんな自分は、薄情なのではないだろうか。
「……少し、怖いです」
少女が答えると、ユウは問い返さずに待った。
「楽しかったと思ってしまうことが」
言葉にした途端、胸の奥が苦しくなった。
「私は追放されたばかりなのに。何も解決していないのに……今日、杖を見て、石鹸のお話を聞いて、鶏を見て、楽しいと思いました」
少女は膝の上で指を重ねる。
「そんなことを思っていて、いいのでしょうか」
ユウはすぐに答えなかった。
風に揺れた草が擦れ合い、遠くで誰かが農具を置く乾いた音がした。少女も答えを急かさず、ただ自分の中へ生まれた罪悪感を見つめていた。
「俺は、いいと思うけど」
やがてユウが言った。
「悲しい時って、ずっと悲しんでないと駄目なの?」
少女は顔を上げた。
「それは……」
「昨日泣いたから今日笑っちゃ駄目とか、今日楽しかったら昨日のことが大したことなかったって意味になるとか、そういうことじゃないと思う」
ユウは慰めるための笑顔を作らなかった。
ただ、自分がそう思っているという声だった。
「俺も前の仕事で、しんどいことがあった日の帰りにコンビニで甘いもの買って、美味いって思ったことあるし」
「……こんびに?」
少女が首を傾げる。
ユウの表情が止まった。
「あ」
「何でしょう?」
「……前にいたところの店みたいなもの」
「お店ですか?」
「うん。食べ物とか日用品とか、いろいろ売ってる」
「夜のお仕事の帰りにも開いていたのですか?」
「開いてた。夜中でも」
少女は驚いた。
「夜中でもお店が?」
「そういうところだったんだよ」
説明すればするほど自分で墓穴を掘っていると思ったのか、ユウは少し困ったように頭を掻いた。
少女はその姿を見つめ、やがて口元を緩めた。
「ユウさんも、不思議なところから来たのですね」
「まあ……その話は、また今度で」
また今度。
少女はその言葉を聞いても、もう不安にはならなかった。
「はい。また今度、聞かせてください」
「話せる範囲なら」
ユウも頷いた。
少女は風に揺れる畑へ視線を戻した。
悲しいことは、なくなっていない。
父の声を思い出せば今も胸が痛む。
母の顔も、王太子の目も、親友の声も忘れてはいない。
妹のことを考えれば、言葉にできないほど複雑な感情が残っている。
それでも、今日見た杖は面白かった。
石鹸を作るところも見たい。
鶏は思っていたより大きかった。
その感想まで捨てる必要はないのかもしれない。
「……楽しかったです」
少女は今度こそ、はっきり言った。
ユウが頷く。
「そっか」
「はい」
少女は自分の胸へ確かめるように、もう一度続けた。
「村を見てみたいと言って、よかったです」
昨日、もう少しスープを欲しいと言った時とは違う。
あれは空腹を満たすために必要なものだった。
今日の村歩きは、生きるために必要だったわけではない。
自分が見たかった。
知りたかった。
それで歩いて、楽しかった。
誰かの役に立つこととも、褒められることとも関係のない時間を、自分で選んだのだ。
痛みが三ほどへ落ち着いてから、二人は残りの短い道をゆっくり歩いてマーサの家へ戻った。
玄関前ではマーサが洗濯物を取り込んでいた。風を含んだ布がぱたぱたと音を立て、籠の中には乾いた服や布巾が重ねられている。
「どうだった?」
マーサは二人を見るなり、少女の顔より先に足元へ目を向けた。
「途中で四くらいになりましたので、休んでから戻りました」
少女が自分から答える。
マーサは少し目を丸くした後、満足そうに笑った。
「ちゃんと言えたじゃないか」
「はい」
「村は?」
少女はマーサの腕に抱えられた洗濯物を見てから、今日歩いた道を振り返った。
「楽しかったです」
今度は迷わなかった。
「サナさんの杖を見て、石鹸のお話を聞きました。オルドさんのところでは鶏も見せていただいて、井戸にも寄りました」
「全部この辺じゃないか」
マーサが笑う。
「はい。でも、知らないことばかりでした」
少女も少し笑い、玄関前に置かれている椅子へ目を向けた。
誰かから座れと言われる前に、自分からそこへ歩いていく。
「少し、座っていてもよろしいですか?」
「もちろんだよ。いちいち許可取らなくても、その椅子は座るためにあるんだから」
「……そうでした」
少女は椅子へ腰を下ろした。
自分から休むことを選べた。
それだけでも、朝の自分より少し進んだような気がした。
「明日は、石鹸を作るところを見せていただけるそうです」
口にした後、少女はわずかに目を見開いた。
明日。
自分からその言葉を使った。
マーサは特別な反応をせず、洗濯物を抱え直した。
「サナの石鹸作りは長いからね。途中で飽きたら帰ってきな」
「途中で帰ってもよいのですか?」
「見学だろ?」
「はい」
「だったら、好きなところまで見りゃいいさ」
少女はしばらくマーサを見つめた後、ゆっくり頷いた。
「そうします」
ユウも隣で何も言わない。
まるで少女が明日の話をすることも、途中で帰ることを選ぶことも、ごく普通のこととして受け止めている。
明日ここにいると決めたわけではない。
ずっと住むと決めたわけでもない。
王都へ戻らないと決めたわけでもなければ、自分がこれから何者になるのかも分からない。
それでも、明日見たいものが一つできた。
少女は椅子へ座ったまま、午後の光に照らされたルーデ村を眺めた。
昨日までの彼女にとって、未来とは誰かから与えられた予定の集まりだった。公爵家の長女として学び、王太子の婚約者として振る舞い、いつか妃となるために必要なものを身につけ、決められた場所へ進んでいくことが未来なのだと思っていた。
けれど今、少女の前にある明日の予定は、石鹸を作るところを見てみたいという、それだけだった。
王都にいた頃なら、予定と呼ぶことさえなかっただろう。
誰かに褒められることもない。
何かの評価に繋がるわけでもない。
妹より上手にできる必要もない。
そもそも、自分で作ると決めたわけですらない。
ただ、見てみたい。
その小さな気持ちだけで、明日の中に一つの予定ができた。
少女は膝の上へ置いた手をゆっくり緩めた。
昨日、追放境界から歩き始めた時には、次の朝が来ることさえ怖かった。
今は、明日になれば見たいものがある。
失ったものは何一つ戻っていないし、自分を追放した人々の言葉が消えたわけでもない。それでも、すべてが解決するまで笑ってはいけないわけではなく、立ち直るまで何も楽しんではいけないわけでもないのだと、少女はようやく少しだけ思えるようになっていた。
庭を抜ける風が、乾いた洗濯物を揺らした。
マーサが家の中へ入り、ユウも「俺、ガルド爺さんのところ寄ってくる」と歩き出す。少女はその背中を追う必要も、すぐに何か仕事を探す必要もないまま、椅子へ座っていた。
少しすると、遠くからガルドの大きな声が聞こえた。
「ユウ! 遅いぞ!」
「今行くって!」
「昼飯食ってから何時間休んでんだ!」
「人を案内してたんだよ!」
「なら先に言え!」
畑の方から聞こえるやり取りに、マーサが家の中から「ガルド、あんたも少しは待ちな!」と怒鳴り返した。
少女は目を丸くした後、声を立てて笑いそうになるのを手で押さえた。
王都にいた頃なら、誰かの大声が聞こえれば身体を強張らせていたかもしれない。
今は違った。
あの声が誰のものか知っている。
怒っているように聞こえても、本当に相手を傷つけようとしているわけではないことも少しずつ分かってきた。
少女は椅子の背へ身体を預けた。
踵はまだ痛む。
胸の奥にも、もっと深い傷が残っている。
それでも午後の風は心地よく、明日は石鹸を作るところを見てみたいと思えた。
そんな小さな明日なら、今の自分にも待っていてよいのかもしれなかった。




