第17話 夕暮れの知らせ
午後の日差しが少しずつ傾き始めても、少女はマーサの家の前に置かれた椅子から、すぐには立ち上がらなかった。
昼間に村を歩いた疲れが身体の奥へ残っているらしく、座っているだけなら右の踵はほとんど気にならないものの、足を少し動かすと靴擦れのあたりに鈍い熱を感じる。けれど、それ以上に少女を椅子へ留めていたのは、夕方へ向かってゆっくり色を変えていくルーデ村の景色だった。
王都にいた頃、夕方という時間は一日の終わりではなく、次の予定へ移る合図であることが多かった。
午後の講義が終われば教師へ礼を述べ、着替えを済ませて夕食へ向かう。夜会がある日は髪を整え直し、招待客や出席者の名前を確認し、王太子の婚約者として間違いのない振る舞いを頭へ入れておかなければならなかった。
何も予定がない夕方というものを、少女はほとんど知らない。
けれど今は、誰も次の予定を告げに来なかった。
畑から戻ってくる人がいる。
洗濯物を取り込む人がいる。
家の前で農具についた土を落としている人もいれば、まだ働いているガルドのような者もいる。
それぞれが自分の暮らしを続けているだけで、少女へ何かを求める者はいなかった。
「……何もしなくていい時間って、本当にあるのですね」
無意識に漏れた声へ、自分で驚いた。
誰かへ話しかけたつもりではなかった。
けれど、開け放された玄関の向こうからマーサの声が返ってくる。
「何か言ったかい?」
「いえ……独り言です」
「なら聞かなかったことにしとくよ」
家の中では、夕食の準備を始めたらしい。包丁がまな板へ当たる小さな音に混じって、時折、鍋や器が触れ合う音が聞こえてくる。
手伝うべきだろうか。
少女の中へ、いつもの考えが浮かんだ。
けれど、そのまま立ち上がる前に右足を見る。
先ほど四まで上がった痛みは、休んだことで二か三ほどまで落ち着いている。それでも、今日の自分はもう十分歩いたのだと分かっていた。
手伝いたいなら手伝ってもいい。
しかし、助けてもらったから何かを返さなければならないという理由だけなら、今は座っていてもいいのではないか。
少女はしばらく迷った末、椅子から動かなかった。
ほんの少しだけ、落ち着かない。
それでも、その落ち着かなさを理由に立ち上がることもしなかった。
風に揺れる草を見ながら、少女はゆっくり息を吐いた。
しばらくすると、畑の方からユウが戻ってきた。
片手には土のついた小さな籠を持ち、その中には不揃いな葉物と何本かの細い根菜が入っている。服の袖にも少し土がついており、出かける前より明らかに農作業をしてきた姿になっていた。
「おかえりなさい」
少女が声をかけると、ユウの足が止まった。
「あ、ただいま」
返事をした本人が、なぜか少し変な顔をする。
少女も、自分が口にした言葉を一拍遅れて理解した。
「あ……申し訳ありません。私、勝手に」
「なんで謝るの?」
「いえ、その……」
ここは自分の家ではない。
自分が帰りを待つ立場でもない。
そう説明しようとしたものの、上手く言葉にならなかった。
ユウは少し考えてから、手にした籠を持ち直した。
「別に、ただいまでいいんじゃない?」
「……よろしいのですか?」
「俺も今言ったし」
確かにそうだった。
少女は膝の上へ視線を落とし、少しだけ笑った。
「では……おかえりなさい」
「ただいま」
二度目は、先ほどより自然だった。
その短いやり取りが妙に胸へ残ったものの、少女にはまだ理由が分からなかった。
「足は?」
ユウが玄関前へ来る。
「休んでいましたので、二か三くらいまで下がりました」
「ちゃんと休んでたんだ」
「はい」
「それはよかった」
褒められるようなことなのだろうか。
以前ならそう思ったはずなのに、今日は素直に受け取れた。
「ユウさんは、ガルドさんのお手伝いだったのですか?」
「手伝いっていうか、半分捕まったっていうか」
籠を軽く持ち上げる。
「これ持たされた」
「野菜ですね」
「今日の夕飯に使えって」
家の中からマーサが顔を出した。
「ずいぶん少ないじゃないか」
「俺に言わないでよ。ガルド爺さんがこれだけ持ってけって」
「どうせ一番形の悪いの寄越したんだろ」
「食べたら同じだって言ってた」
「自分の家じゃ綺麗なの食べるくせに」
マーサは呆れたように言いながらも、籠を受け取ると一本ずつ中身を確認していく。
少女も何となく覗き込んだ。
公爵家の厨房へ届く野菜とは違い、大きさも形も揃っていない。少し曲がっているものもあれば、葉の端を虫に食われたものもある。
「これは、売り物にはしないのですか?」
少女が尋ねると、マーサが根菜を一本持ち上げた。
「こういう曲がったのは商人が嫌がることもあるからね。村で食べるよ」
「味は違うのでしょうか」
「ほとんど変わらないよ」
少女は曲がった根菜を見る。
王都で食卓へ並んでいたものは、どれも形が整っていた。料理人が選別していたのか、仕入れる段階で揃えられていたのか、少女自身は考えたこともなかった。
「切っちまえば分からないしね」
マーサはそう言って台所へ戻る。
少女はその後ろ姿を見ながら、昼間の杖や石鹸を思い出した。
自分の知らなかったところで、暮らしはずっと続いていたのだ。
物が作られ、選ばれ、運ばれ、料理され、自分の前へ置かれる。
公爵令嬢として領地経営や帳簿を学んでいたから、数字としては知っていた。
けれど、知識と生活は同じではなかった。
「……面白いです」
「野菜が?」
ユウが尋ねる。
「今日は、そればかり言っている気がします」
少女は少し恥ずかしくなった。
「でも、本当に知らないことばかりで」
「俺も最初そうだったよ」
「ユウさんも?」
「農業なんてほとんど知らなかったし。今もガルド爺さんに怒られてばっかり」
「先ほども声が聞こえていました」
「あれ、ここまで聞こえてた?」
「はい」
少女が笑うと、ユウは嫌そうな顔をした。
「村中に聞こえてたんじゃないかな……」
「いつものことだよ!」
少し離れた道から声が飛んできた。
振り返ると、籠を抱えた老婆が歩いている。
「ほら」
マーサが家の中で笑った。
ユウは諦めたように肩を落とし、少女はまた小さく笑った。
夕食の準備が進むにつれ、家の周りには煮込み料理の匂いが漂い始めた。
少女はしばらく座っていたものの、やがて自分からマーサへ声をかけた。
「マーサさん」
「なんだい?」
「座ったままでできることがあれば、何かしてもよろしいでしょうか」
マーサは鍋を混ぜる手を止めずに少女を見る。
「働かないと飯が出ないわけじゃないよ」
「はい。それは……少し分かってきました」
「なら、なんでやりたいんだい?」
少女は返答に迷った。
助けてもらったから返したい。
その気持ちが完全になくなったわけではない。
けれど、それだけでもなかった。
「今日、いろいろなものを見ました」
少女は台所の入口から中を覗く。
「杖も、石鹸も、鶏も、井戸も。皆さんが普段どのように暮らしているのかを少し知って……私も、何かやってみたいと思いました」
言い終えてから、自分の言葉を確かめる。
役に立ちたい、ではない。
やってみたい。
午前中には言えなかった言葉だった。
マーサは少しだけ目を細める。
「なら、そこの葉をちぎってくれるかい?」
台所の端に置かれた籠を指す。
「固い茎はこっち、柔らかい葉はこっちの皿。座ってできるよ」
「はい」
「全部やらなくていいからね」
「……はい」
最後の一言まで、もう予想できるようになっていた。
少女は椅子を台所の入口近くへ移してもらい、籠を膝の前へ置いた。
葉を一枚取る。
どこからが固いのか分からず、最初の一枚はマーサへ尋ねた。
「この辺りでしょうか」
「もう少し下まで使えるよ」
「では、ここですか?」
「そうそう」
教えられた位置で折る。
二枚目からは自分で確かめながら分けた。
単純な作業だった。
公爵令嬢として学んだ何よりも簡単で、誰かに評価されるようなものでもない。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
「これ、間違えても怒られませんか?」
少女が尋ねると、マーサは振り返った。
「葉っぱちぎるくらいで怒ってたら飯が冷めるよ」
「……そうですよね」
「固いところ入ったら、噛みにくい人の皿から避けりゃいいだけさ」
少女の手が止まる。
「人によって、変えるのですか?」
「オルドはまだ固いの避けてるしね。ベルは何でも食べるけど、サナは歯が弱くなってきてる。煮込めば大抵いけるけど、それでも気をつけるよ」
また、本人に合わせる。
昼間から何度も目にした考え方だった。
「ユウさんが教えたのですか?」
「昔からやってたよ」
マーサが即座に答えた。
「ユウが来る前から年寄りはいたんだから」
「俺、そこまで何でも教えてないよ」
外で野菜の土を落としていたユウも苦笑する。
「ユウは細かいことに気づくから、こっちも参考にはするけどね。村には村で昔から知ってることがあるんだよ」
「なるほど……」
少女は葉をちぎりながら頷いた。
ユウが全部を変えたわけではない。
村の人々には元々暮らしがあり、積み重ねた知恵がある。
そこへユウが来て、彼が知っていることも加わった。
誰か一人が中心になってすべてを決めているわけではないのだ。
葉を半分ほど処理したところで、少女は右の踵がじんじんすることに気づいた。
座っているのだから歩行時の痛みとは違うが、長く同じ姿勢を続けたせいか、少し熱を持っている。
まだできる。
籠には残りがある。
けれど少女は、自分の手が無意識に速くなっていることにも気づいた。
全部終わらせようとしている。
「マーサさん」
「ん?」
「……ここまででも、よろしいですか?」
少女は半分ほど残った籠を見た。
「足が少し痛くなってきました」
「もちろん。残りは私がやるよ」
マーサは何のためらいもなく答えた。
「ありがとうございます」
少女は籠を差し出した。
途中でやめても、誰も顔を曇らせない。
それを確認するようにマーサを見ると、本当に何も気にしていなかった。
「手、洗っておいで。もうすぐ飯だから」
「はい」
少女は立ち上がる前に一度足を動かし、痛みを確かめた。
おそらく三ほど。
自分で分かる。
昨日までほとんど意識していなかった身体の感覚を、少しずつ言葉へできるようになっていた。
夕食が始まる少し前、家の外から複数の足音が聞こえた。
少女は手を拭きながら顔を上げる。
マーサも鍋の蓋を置き、玄関へ視線を向けた。
「誰だい?」
「俺が見るよ」
ユウが先に外へ出る。
少女は一瞬迷ったが、その場に座ったまま待った。
昨日なら、何が起きたのか分からないだけで身体が強張っていただろう。
今も不安がないわけではない。
けれど、すぐ逃げる場所を探すほどではなかった。
玄関の外から聞こえてきたのは、ローデンの声だった。
「ユウ、いるか?」
「いるよ。どうしたの?」
「ケルとドランが戻った」
その言葉を聞いた瞬間、少女の指先が止まった。
北東の古い道。
昨日、自分が歩いてきた道を確認すると聞いていた。
森のこともある。
少女は椅子へ座ったまま、無意識に背筋を伸ばした。
「何かあった?」
ユウの声が少し低くなる。
「今すぐどうこうって話じゃない。ただ、お前にも聞いてほしい」
少し間を置いて、ローデンが続けた。
「それと……あの子にも、確認したいことが一つある」
少女の胸が小さく跳ねた。
あの子。
自分のことだ。
昨日までなら、「確認したい」という言葉だけで断罪の日を思い出していたかもしれない。
質問される。
答える。
信じてもらえなければ終わる。
その恐怖は、まだ完全には消えていない。
「今じゃなきゃ駄目?」
ユウが尋ねた。
「いや。夕飯の後でもいい」
「なら飯の後にしよう。歩き回って疲れてるから」
少女は思わず玄関を見る。
ローデンは自分へ聞きたいことがある。
それでもユウは、内容を確認するより先に夕食を優先した。
「分かった。こっちも食ってくる」
「何時くらい?」
「暗くなる前にもう一回来る。ケルとドランも連れてくる」
「あんまり人数多いと怖いんじゃないか?」
少し離れたところからドランらしき声が聞こえた。
「じゃあ俺は来なくていいか?」
今度は別の男の声がする。
「いや、お前が跡見たんだろ」
「なら来る」
「結局二人とも来るんじゃないか」
ユウの呆れた声に、外で小さな笑いが起こる。
深刻な話ではあるのだろう。
それでも、切迫した様子ではない。
少女は少しだけ肩の力を抜いた。
やがてローデンたちの足音が遠ざかり、ユウが家へ戻ってきた。
「聞こえた?」
「はい」
「夕飯の後で話しても大丈夫?」
少女はすぐに「もちろんです」と答えそうになった。
けれど、自分の状態を確かめる。
怖くないわけではない。
疲れてもいる。
それでも、昨日歩いた道のことなら、自分にしか分からないことがあるかもしれない。
「……少し緊張します」
正直に言った。
「うん」
「でも、聞きたいです。私が歩いた道のことですから」
「分かった。嫌になったら途中でやめてもいいからね」
「はい」
少女は頷いた。
尋ねられたことへ必ず最後まで答えなければならないわけではない。
それを覚えておこうと思った。
夕食は、ガルドから渡された野菜と豆を煮込んだものだった。
曲がっていた根菜は輪切りにされてしまえば確かに形など分からず、口へ入れると柔らかく甘い。少女がちぎった葉も一緒に煮込まれており、自分が手を加えたものが食卓へ並んでいることに、ほんの少し不思議な感覚を覚えた。
「美味しいです」
「自分でちぎったからって味は変わらないよ」
マーサが笑う。
「分かっています」
「本当かい?」
「……少しだけ、美味しく感じる気もします」
「なら変わってるじゃないか」
少女は言い返せず、笑った。
ユウも隣で笑っている。
食卓に流れる空気は、昨夜とはまったく違った。
昨夜の少女は、スープを口へ運ぶだけでも緊張していた。
食べていいのか。
もう一杯欲しいと言っていいのか。
どこまで説明しなければならないのか。
何を求められるのか。
分からないことばかりだった。
今夜も分からないことは多い。
自分がこの村にいつまでいられるのかさえ決まっていない。
それでも、目の前の食事を美味しいと思うことに、昨日ほど理由を求めなくなっていた。
少女は煮込まれた根菜をもう一つ口へ運んだ。
食事が終わり、外の光が橙色へ変わり始めた頃、ローデンが再びやってきた。
今度はケルとドランも一緒だった。
三人とも昼間の作業着のままで、靴には乾いた泥や草がついている。特にケルのズボンの裾には細かな種がいくつも絡みついており、古い道をかなり歩いてきたことが少女にも分かった。
「食後に悪いな」
ローデンが玄関前で言う。
「いえ」
少女は椅子へ座ったまま答えた。
立って迎えるべきだという考えは一瞬浮かんだものの、マーサから「そのままでいい」と先に言われたため従った。
ローデンたちも気にした様子はない。
ユウが少女の近くへ椅子を持ってきて座り、ローデンは少し離れたところの木箱へ腰を下ろした。ケルとドランは立ったままだったが、少女を取り囲まないよう意識しているのか、二人とも玄関脇へ距離を取っている。
それだけで、少女は少し呼吸しやすくなった。
「先に言っとくが、悪い話が決まったわけじゃない」
ローデンが口を開いた。
「お前さんを問い詰めに来たわけでもない。昨日歩いた道について、一つ確認したい」
「はい」
「疲れてるなら明日にする」
少女は膝の上で手を組んだ。
「大丈夫です。お願いします」
ローデンは頷き、ケルを見る。
「見つけたものから話してくれ」
ケルが一歩だけ前へ出た。
「昨日あんたが言ってた分かれ道は見つけた。境界側から来る古道が途中で二つに分かれてるところだ」
少女は記憶を辿る。
あの場所で、自分はどちらへ進むべきか長いこと迷った。
日が暮れ始め、喉も渇き、足も痛かった。
「片方は草が深くて、もう片方には車輪のような跡がありました」
「あった」
ケルが頷く。
「草が少ない方を選んだんだな?」
「はい」
「そこから、ずっと同じ道を歩いた?」
少女はすぐには答えず、記憶を確かめた。
暗くなってからは小さな光の魔法を使った。
道そのものは何度も曲がった。
森の近くを通った記憶もある。
「基本的には、道から外れていないと思います。ただ……」
少女は眉を寄せた。
「一度だけ、道が二つあるように見えた場所があった気がします」
ケルとドランが顔を見合わせた。
「どの辺だ?」
ドランが尋ねる。
声は低いが、急かす調子ではない。
「申し訳ありません。暗くなっていましたので、正確には……」
「分からないなら分からないでいい」
ケルが遮る。
「覚えてるものだけでいい。周りに何かあったか?」
少女は目を閉じた。
昨日の夜を思い出すことには、まだ少し恐怖がある。
追放境界。
遠ざかる馬車。
一人になった道。
水がなくなり、踵が痛み、どこへ行けばよいのかも分からなかった。
呼吸が浅くなりかけたところで、隣からユウの声がした。
「無理して思い出さなくていいよ」
少女は目を開けた。
「……大丈夫です」
そう言ってから、すぐに付け加える。
「今は、まだ」
以前なら「大丈夫です」で終わっていただろう。
今は、自分の状態に期限をつけられた。
まだ話せる。
もし苦しくなれば止めてもいい。
少女は一度ゆっくり息を吐いた。
「道の右側に、大きな倒木があったと思います。根が道の方へ出ていて、その近くで……音を聞きました」
「音?」
ドランの表情が変わる。
「動物の声だと思います。低くて、短い声でした」
「姿は?」
「見ていません」
「何回?」
「一度だけです」
ケルはローデンを見る。
「その辺だな」
「ああ」
少女は二人の反応に気づいた。
「何か、あったのですか?」
ケルは少し考えてから答えた。
「大きな倒木は見つけた。その近くに獣の足跡があった」
少女の身体がわずかに固くなる。
「魔物ですか?」
「可能性はある」
ドランが答えた。
「ただ、昨日から残ってる跡だけじゃない。古いのも新しいのも混じってた」
「何匹?」
ユウが尋ねる。
「はっきり数えられない。地面が固いところも多いからな」
ケルが膝へ手を置き、少し姿勢を低くする。
「でも、前に逃げた三匹のうち一匹か、それに近い種類があの辺を通った可能性は高い。爪の形と歩幅が似てる」
少女は昨日の暗い道を思い出した。
もし、あの時。
すぐ近くに魔物がいたのだとしたら。
背中に冷たいものが走った。
「私……」
声が震えた。
ユウがこちらを見る。
「昨日、そこを一人で……」
少女は両手を強く組みそうになり、途中で力を抜いた。
怖い。
昨日の自分は、何も知らなかった。
危険な場所を歩いていたことさえ分からず、ただ明かりを求めて進んでいた。
「怖かったよね」
ユウが静かに言った。
「今知ると、余計に」
少女は頷いた。
「はい」
自分でも驚くほど素直に言葉が出た。
「怖いです」
誰も「でも無事だった」と急いで話を終わらせなかった。
ローデンもケルもドランも黙っている。
マーサは少し離れた場所で食器を片づけながら、少女の方を見ていた。
少女は何度か呼吸を繰り返した。
今は村にいる。
明るい家の前にいる。
周りには人がいる。
昨日の道ではない。
それを一つずつ確かめるように周囲を見ると、胸の強張りが少しずつ緩んでいった。
「……続けても大丈夫です」
自分から言う。
ローデンが頷いた。
「分かった。無理なら止めるぞ」
「はい」
ケルが話を戻す。
「問題は、獣の跡だけじゃない」
少女は顔を上げた。
「昨日話してくれた車輪跡も見た」
「はい」
「あれは村の荷車じゃない」
ユウの表情が変わった。
「分かるの?」
「幅が違う」
ケルは両手でおおよその間隔を示した。
「村で使ってる荷車より車輪の間が広い。それに車輪そのものも細い。荷物運びの重い荷車じゃないと思う」
「追放に使われた馬車じゃないのか?」
ドランが尋ねる。
少女はすぐに首を横へ振った。
「私を運んだ馬車は、分かれ道までは来ていません」
三人の視線が少女へ向く。
少女はその視線に一瞬身を固くしたものの、続きを話した。
「私は境界の手前で降ろされました。馬車は……そのまま戻ったと思います。少なくとも、私が歩いた方向へは進んでいません」
「見た?」
ローデンが尋ねる。
「少しだけ」
少女は記憶を探る。
「馬車が向きを変えるところまでは見ました。私はその後、反対側へ歩きましたので……完全に見届けたわけではありません」
「それで十分だ」
ローデンは少女の証言を断定材料にはせず、ケルへ視線を戻した。
「跡は新しかったのか?」
「少なくとも何週間も前って感じじゃない。ただ、昨日今日かと言われると断定できない」
「雨、しばらく降ってないしな」
ドランが空を見る。
この数日、天候は安定していた。
乾いた地面では車輪跡が残りにくい場所もあれば、轍になった部分だけ長く残ることもある。
「どこまで続いてた?」
ユウが尋ねる。
「倒木の少し先で森側へ寄ってる」
「森へ入った?」
「そこが分からん」
ケルは首を横へ振った。
「道が崩れてるところで跡が薄くなって、その先は落ち葉が多い。無理に追えばこっちが森の奥へ入ることになるから、今日はそこで戻った」
ユウが小さく息を吐いた。
「それでいいと思う」
「ああ」
ドランも頷く。
「三匹のこともある。正体分からん車輪跡を追って、森で囲まれたら馬鹿らしい」
少女は話を聞きながら、胸の中へ別の不安が生まれるのを感じた。
「私が……来たことでしょうか」
その場の空気が少し変わった。
「何が?」
ローデンが尋ねる。
「その車輪跡です」
少女は膝の上の手を見る。
「私が追放されることに関係して、誰かが先に来ていた可能性は……ありませんか」
考えたくはなかった。
けれど、無視することもできなかった。
自分を陥れた者がいる。
追放までが仕組まれていたのなら、その先に何か用意されていた可能性もあるのではないか。
少女の呼吸が少し浅くなる。
「分からない」
ローデンは即座に答えた。
少女が顔を上げる。
「今あるのは、村のものじゃない車輪跡が古道にあったって事実だけだ。お前さんと関係ある証拠は何もない」
「ですが……」
「可能性を考えるのはいい。でも、可能性を事実にするな」
ローデンの声は穏やかだった。
「森の異変は、お前さんが来る前から起きてる。獣も前からいる。車輪跡がいつついたかも正確には分からん。それを全部、お前さんが来たことへ結びつける理由は今のところない」
少女は言葉を失った。
自分が来たせいかもしれない。
何か悪いことが起きれば、そう考える癖がついている。
妹よりできなかった時も。
両親が不機嫌になった時も。
王太子との関係が悪くなった時も。
最後には、身に覚えのない罪まで自分のせいにされた。
だから今も、村に何か不穏なものがあれば、自分が原因なのではないかと考えた。
「もし関係が見つかったら、その時考える」
ユウが言った。
「今は別々でいいんじゃない?」
少女はユウを見る。
「別々……」
「あんたが追放されてここへ来たこと。森がおかしいこと。知らない車輪跡があること。今のところ、三つは別の話」
「でも、後で繋がるかもしれません」
「繋がるかもしれないね」
ユウは否定しない。
「その時に繋げればいいよ」
少女はしばらく黙っていた。
何もかも自分へ結びつけなくていい。
原因が分からないものを、先回りして自分の責任にしなくていい。
それもまた、少女にとっては新しい考え方だった。
「……分かりました」
完全に納得できたわけではない。
それでも今は、そう考えてみようと思えた。
「もう一つある」
ケルが言った。
少女は少し緊張したものの、今度は逃げるように視線を落とさなかった。
「昨日の夜、村の警戒線が一回鳴っただろ」
「はい」
マーサの家で眠ろうとしていた時、外から聞こえた短い音を思い出す。
「今日、そっちも見た。線そのものに異常はない」
ユウが少し安心したように息を吐く。
「何が触ったか分かる?」
「小さい跡はいくつかあった。兎か狐くらいのやつ。ただ、それだけとは言い切れない」
「例の三匹の跡は?」
「線のすぐそばにはない」
ケルはそこで一度言葉を止めた。
「少なくとも、昨夜あいつらが村まで入ってきた形跡は見つからなかった」
少女の肩から少し力が抜けた。
「では、村は……」
「今のところ大丈夫だ」
ドランが答える。
「だから今日はもう調べない。明日また明るくなってから見る」
「夜には行かないのですか?」
少女が尋ねる。
「行かん」
ドランは当然のように答えた。
「暗い森で、正体の分からん相手を探す理由がない」
ユウが少し笑った。
「この村、そういうところはちゃんとしてるよね」
「お前が一人で行きそうだから言ってるんだ」
「行かないって」
「本当か?」
「行かないよ」
ケルまで疑わしそうな目を向ける。
少女は三人の顔を順番に見た。
「……ユウさんは、そんなに一人で行こうとするのですか?」
「しないよ」
「する」
ローデンとドランの声が重なった。
ユウが不満そうな顔をする。
「最近はしてないだろ」
「最近はな」
「それ、改善してるってことじゃん」
「マーサに止められてるだけだろ」
家の中からマーサの声が飛ぶ。
「止められて止まるようになっただけマシだよ!」
全員が少し笑った。
森にはまだ危険がある。
正体の分からない車輪跡も見つかった。
それでも、誰も今夜のうちに答えを出そうとはしない。
暗いなら明るくなってから。
危ないなら複数人で。
分からないなら、分からないまま持ち帰る。
少女には、その慎重さが不思議だった。
王都では、分からないことを分からないままにしておくことが許されない場面も多かった。
王太子の婚約者なら答えを求められる。
判断を求められる。
迷えば能力不足だと見られる。
けれど、分からないものを無理に決める方が危険なこともあるのだ。
「今日はここまでだな」
ローデンが立ち上がる。
「明日はケルとドランで、村側からもう一度浅いところを見る。奥へは入らん」
「俺も――」
「お前は来るな」
ユウが言い終える前に、三人からほぼ同時に止められた。
少女は思わずユウを見る。
「なんで?」
「お前、明日ガルドの畑だろ」
「午前中だけだよ」
「それにサナが石鹸作るんじゃなかったか?」
ローデンの言葉に、少女が目を瞬く。
「どうしてご存じなのですか?」
「サナがさっき言ってた」
ルーデ村では話が広まるのが早いらしい。
「この子に見せるから、灰を勝手に持ってくなって」
「誰が勝手に持ってくんだよ」
「ガルド」
「ありそう」
ドランが真顔で頷いた。
少女はまた笑った。
「ですから、ユウさんは来なくても大丈夫です」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
ユウがいなくても大丈夫。
昨日の夜なら、考えられなかったかもしれない。
もちろん、一人きりになるわけではない。
マーサもいる。
サナもいる。
村の人々がいる。
それでも、ユウが常に隣にいなければ不安だという状態から、ほんの少しだけ離れられた。
ユウもその意味へ気づいたのか、一瞬だけ少女を見る。
しかし特別なことは言わなかった。
「じゃあ、畑行ってくるよ」
「ちゃんと働け」
「俺、普段から働いてるけど」
「昼寝もしてるだろ」
「昼寝は必要なんだよ」
「便利な言葉覚えたな」
ローデンが笑い、三人は帰っていった。
日が沈むと、ルーデ村は急に静かになった。
家々の窓に小さな明かりが灯り、昼間まで聞こえていた農具の音や子供たちの声も消えていく。遠くから虫の鳴く音が聞こえ、時折、鶏小屋の方から羽音がする程度だった。
少女は寝る前に、ユウからもう一度踵を見てもらった。
「赤みは昨日より引いてるね」
「今日は歩きすぎたでしょうか」
「少し負担はかかったと思う。でも途中で休んでたし、今のところ悪化って感じじゃない」
「治癒魔法は、まだ使わないのですか?」
「使う必要が出たら使うよ」
ユウは傷へ直接触れず、周囲の皮膚を確認する。
「治した直後に同じ靴で擦ったら、また傷になるかもしれないし。まず当たり方を変えたい」
「魔法で治せるのに?」
「治せるからって毎回治す必要はないでしょ」
少女は少し考える。
「不思議です」
「何が?」
「王都なら、治癒魔法を使える者がいるのなら、使う方がよいと考えると思います」
「重い怪我なら俺も使うよ」
ユウは包帯代わりの布を新しいものへ替えながら答えた。
「でも今は、普通に治ってきてる。なら傷を治すより、また擦らないようにする方が先かな」
少女は自分の足を見る。
強い力があるから、使う。
できるから、やる。
ユウはその考え方をしない。
魔法についても同じなのだ。
「明日、履き物の中に当てるもの作ってみるよ。ベル爺さんにも聞いてみる」
「そこまでしていただいてよいのでしょうか」
少女が尋ねると、ユウは少しだけ苦笑した。
「また戻った」
「……はい」
自分でも分かった。
「すみません」
「それも」
少女は口を閉じる。
そして少し考えた。
「では……ありがとうございます」
「うん」
その方がずっと簡単だった。
ユウが帰った後、少女はマーサから借りた寝間着へ着替え、昨日と同じ部屋へ入った。
窓の外は暗い。
昨夜なら、その暗さを見るだけで追放境界の道を思い出した。
今夜も思い出さないわけではない。
ケルから、あの倒木の近くに魔物らしい足跡があったと聞いた。
知らない車輪跡も森側へ続いていた。
思い返すと、胸の奥が冷える。
少女は寝台へ座ったまま、両手を膝へ置いた。
怖い。
その感情を否定しなかった。
昨日なら、怖くないふりをした。
今は、怖いと認めてもいいと思える。
そして怖いものがあるからといって、今いる部屋まで危険になるわけではない。
扉には内側から掛けられる閂がある。
マーサは隣の部屋にいる。
村の東側には警戒線がある。
ユウも、ローデンも、ケルも、ドランも、夜の森へ無理に入らなかった。
皆が危険を無視しているわけではない。
怖がった上で、できることをしている。
少女は窓から視線を外した。
枕元には水差しがある。
昨夜、夢から覚めた後に水を頼んだことをマーサが覚えていたのか、今日は寝る前から置いてくれていた。
少女は水差しを見つめ、少しだけ笑った。
それから横になる。
布団を胸元まで引き上げると、昼間に見たものが順番に浮かんだ。
杖。
石鹸の桶。
鶏。
井戸。
曲がった野菜。
自分でちぎった葉。
それから、夕方に聞いた森の話。
楽しいものと怖いものが、同じ一日の中にあった。
どちらか一つだけを選ぶ必要はない。
少女は目を閉じた。
明日は石鹸を作るところを見る。
その予定を思い浮かべながら眠りへ入れることが、昨日とは何より違っていた。
翌朝、少女は鶏の鳴き声で目を覚ました。
最初に聞こえた時は、何の音なのか分からなかった。
二度目で昨日見た鶏を思い出し、布団の中で小さく笑う。
「……あんな声なのですね」
王都では聞いたことがなかった。
窓から入る朝の光はまだ柔らかく、床へ細長く伸びている。
少女はすぐには起き上がらず、まず右足を動かした。
安静時の痛みは、昨日より少ない気がする。
二。
あるいは、一と二の間。
自分で数字を考えたことに気づき、少し驚いた。
昨日まで、ユウから聞かれなければ考えなかったことだった。
寝台からゆっくり足を下ろす。
立ち上がる前に一度体重を乗せてみる。
「……三、まではいかないでしょうか」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
自分の身体のことを、自分で確かめる。
それもまた、少女が今までほとんどしてこなかったことだった。
着替えを済ませて部屋を出ると、台所ではマーサが朝食を作っていた。
「おはようございます」
「おはよう。眠れたかい?」
「はい。昨夜は、一度も起きませんでした」
「そりゃよかった」
マーサは鍋を混ぜながら、少女の足元を見る。
「足は?」
「じっとしていれば一か二くらいで、歩くと三より少ないと思います」
「ずいぶん細かくなったね」
少女も少し笑った。
「ユウさんに聞かれると思いましたので、先に確認しました」
「そのうちあいつより細かくなるんじゃないかい」
「それは困ります」
「なんでだい」
「ユウさんに嫌がられそうです」
口にしてから、少女は自分が冗談らしいものを言ったことに気づいた。
マーサも一瞬驚いた顔をした後、声を上げて笑う。
「大丈夫だよ。あいつ、自分のことになると雑だから」
「そうなのですか?」
「他人には痛みはいくつだ、疲れてないかって聞くくせに、自分が疲れてる時は『大丈夫』で済ませるんだから」
少女は眉を寄せた。
「それは……よくないのでは?」
「そうだろ?」
マーサが嬉しそうに振り返る。
「今度あんたから言ってやんな」
「私が、ですか?」
「言われる側にもならなきゃ駄目だよ、ああいうのは」
少女は返事をしなかった。
自分がユウへ休むよう言う。
まだ少し想像しにくい。
ユウは助ける側で、自分は助けてもらう側だと思っている部分があるからだ。
けれど、この村ではそれが固定されていないことを、昨日一日で何度も見た。
いつか。
自分も誰かに「休んだ方がいい」と言える日が来るのだろうか。
少女はその未来を否定しなかった。
朝食の準備を手伝おうか迷っていると、家の外から大きな声が聞こえた。
「ユウ! 起きてるか!」
少女はすぐに誰の声か分かった。
「ガルドさんですね」
「朝から元気だよ、まったく」
マーサが呆れる。
少し離れたところからユウの声が返る。
「起きてるよ!」
「なら早く来い!」
「朝飯まだなんだけど!」
「食ってから来い!」
「じゃあなんで今呼んだんだよ!」
少女は口元を押さえた。
昨日とほとんど同じやり取りなのに、今日はそれが少し楽しみになっている自分がいる。
「ユウさん、大変ですね」
「半分は自分で首突っ込んでるんだよ」
マーサは皿を並べながら笑った。
「でも今日は、あんたはユウについていかなくていいからね」
「はい。サナさんのところへ行く予定です」
少女は迷わず答えた。
予定。
自分で作った、小さな予定だった。
マーサが何気なく頷く。
「朝飯食って、足見てもらって、それからだね」
「はい」
「途中でやめたくなったら帰ってくればいい」
「はい」
昨日なら、最後の一言を聞いて少し戸惑ったかもしれない。
今は分かる。
行くと決めたから、最後までいなければならないわけではない。
見たいと思ったから見に行く。
疲れたら帰る。
また見たければ、別の日に行けばいい。
少女は窓の外へ目を向けた。
朝のルーデ村には薄い霧が少し残り、その向こうで人々が一日を始めている。東の森は遠くから見れば昨日と変わらず静かで、昨夜聞いた話を知らなければ、そこに何か異変があるとは思えないほどだった。
森の問題は、まだ終わっていない。
知らない車輪跡の正体も分からない。
自分の追放がそれと関係しているのかも分からない。
王都で何が起きているのかも、家族が今どうしているのかも、少女には何一つ分からなかった。
それでも、分からないことをすべて今朝のうちに解決しなくてもいい。
少女は朝食の席へ座った。
湯気の立つ器が目の前へ置かれる。
「いただきます」
言葉にしてから匙を取った。
温かい朝食を食べる。
それが終われば足を見てもらう。
それから、サナの家へ石鹸作りを見に行く。
今日の自分が知っている未来は、それくらいだった。
けれど少女は、その程度の未来であれば、以前よりずっと怖がらずに見つめることができた。
窓の外から、またガルドの声が聞こえる。
「ユウ! まだか!」
「今食ってるって!」
今度こそ少女は声を押さえきれず、朝の食卓で笑った。




