第18話 やってみたいこと
朝食を終えて外へ出る頃には、ルーデ村を覆っていた薄い霧もほとんど消え、東から差し込む朝日が家々の屋根や畑の葉を明るく照らしていた。
昨夜まで冷えていた土は少しずつ温まり始め、道の脇では朝露を残した草が風に揺れている。少女がマーサの家の前で深く息を吸うと、湿った土や草の匂いに混じって、どこかの家から薪を燃やす煙の匂いが流れてきた。
「痛みは?」
家の前へしゃがみ込んだユウが、少女の右足を見ながら尋ねる。
「じっとしている時は一か二くらいです。立っていると二で、歩き始めだけ三に近い気がします」
「昨日より細かいな」
「朝から自分で確認しました」
「えらい」
ごく自然に返され、少女は一瞬だけ返事に困った。
褒められるようなことではないと思う一方で、以前なら自分の身体がどの程度痛むのかを数字にしようなどと考えなかった。痛くても必要なら歩き、疲れていても予定があれば出席し、それが公爵家の長女として当然だと思っていたのだから、自分の状態を確かめるだけでも以前とは違う。
「昨日より赤みも引いてる。今日はサナ婆さんのところまでなら大丈夫そうだけど、帰りに痛みが増えてたら休んで」
「分かりました」
「あと、これ」
ユウが布で包まれた小さなものを差し出した。
少女が受け取って開いてみると、中には柔らかな布と薄い革を何枚か重ねたものが入っていた。半月に近い形へ整えられ、端の部分だけ少し厚くなっている。
「これは……?」
「靴の中に入れるやつ。昨日ベル爺さんに相談して、踵の傷に直接当たりにくいようにしてみた」
「昨日の夜に作ったのですか?」
「いや、朝。ベル爺さんが早起きだから」
「ユウが起こされたんだよ」
玄関先を掃いていたマーサが笑う。
「ベルのところへ相談しに行くつもりだったくせに、本人が先に来たんだから」
「なんで朝からいるんだよって聞いたら、『昨日言ってただろ』って」
「村じゃ珍しくないよ」
少女は手の中の当て物を見つめた。
高価な素材ではない。
装飾もない。
おそらく王都の職人なら、商品として店頭へ置くことさえないような小さな道具だろう。
けれど、これは自分の足に合わせて作られた。
「ありがとうございます」
「実際に合うか分からないから、履いてみよう」
「はい」
少女は家の前の椅子へ座り、靴を脱いだ。
以前なら、人前で自分の靴を脱ぐことにも抵抗があったかもしれない。けれど昨日から何度も踵を見てもらっているせいか、今は恥ずかしさよりも、本当に痛みが減るのかという興味の方が少し強かった。
ユウが当て物の位置を示し、少女自身が靴の中へ入れる。
「俺が入れてもいいけど、自分で場所分かった方が後で直せるから」
「この辺りでしょうか」
「もうちょっと下かな。そう、そのくらい」
少女は指で位置を調整してから靴を履き、ゆっくり立ち上がった。
最初の一歩。
二歩目。
家の前を五歩ほど進み、そこで止まる。
「……違います」
「悪い方?」
「いいえ。痛くないわけではありませんが、傷へ直接触れる感じがかなり少ないです」
「じゃあ少し歩いてみて、ずれないか確認しよう」
少女は道の端まで歩き、戻ってくる。
完全に痛みが消えたわけではない。
けれど、昨日まで一歩ごとに擦れていた場所へ靴が直接当たりにくくなっている。
「二くらいです」
「歩いて二?」
「はい」
「なら今日はそれで行ってみよう。痛みが四くらいまで上がったら休む。五までいったら帰るくらいで」
「分かりました」
少女は頷き、それから足元を見た。
「治癒魔法を使わなくても、こんな方法があるのですね」
「魔法ない世界でも靴擦れはあるからね」
「……ユウさんのいたところには、魔法がなかったのですよね」
「あ」
ユウが少しだけ固まった。
少女は首を傾げる。
「以前、そういう意味のことをおっしゃっていませんでしたか?」
「言ったっけ」
「はっきりとは聞いていません。ただ、魔法のない場所で暮らしていたような話し方を何度かされていましたので」
ユウは困ったように頭を掻いた。
少女はその表情を見て、これ以上聞くべきか迷う。
知りたい。
昨日までなら、知らないことを質問する時にも相手の立場や機嫌を考えていた。ましてユウがどこから来たのかという話は、彼自身が積極的に語っていない以上、触れてはいけないものなのかもしれない。
「……聞かない方がよいでしょうか」
「いや、別に隠してるわけじゃないんだけど」
ユウは少し考え、東の空を見る。
「ちゃんと話すと長いんだよね」
「では、今日はやめておきます」
「即決だな」
「これからサナさんのところへ行きますので」
少女が真面目に答えると、マーサが吹き出した。
「ユウより予定を守るようになったじゃないか」
「俺も守ってるよ」
「ガルドがさっきから待ってるよ」
その名前が出た直後、少し離れた畑の方から大声が飛んできた。
「ユウ! まだか!」
「ほら」
「今行くよ!」
ユウが大声で返す。
少女は笑いながら、靴の具合をもう一度確かめた。
「私は大丈夫です。行ってきてください」
「サナ婆さんの家、分かる?」
「昨日伺いましたから」
「途中で迷ったら誰かに聞けばいいよ」
「はい」
「痛くなったら――」
「四で休んで、五なら帰ります」
「……覚えてるならいいや」
ユウは少しだけ笑った。
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
少女が答えると、ユウは一瞬こちらを見た。
昨日の夕方と同じように、何かを考えたような顔をしたものの、結局何も言わず畑の方へ歩いていく。
少女はその背中を見送った。
昨日は「おかえりなさい」と言った。
今日は「いってらっしゃい」と言った。
ただの挨拶なのに、以前より少しだけ口へ馴染んでいた。
サナの家は、マーサの家からゆっくり歩いても数分ほどだった。
少女は一人で向かうことにした。
マーサから「一緒に行こうか」とは言われなかったし、ユウもついてこなかった。それが突き放されたように感じないことに気づきながら、少女は昨日通った道を自分の速度で歩いていく。
朝の村は忙しい。
家の前で籠を洗っている老婆がいれば、畑へ向かう老人もいる。少し離れたところではベルが木材を削っており、少女に気づくと手を止めずに顎だけで挨拶をした。
「おはようございます」
「おう。足はどうだ」
「昨日より楽です」
「そうか」
それだけ聞くと、ベルはまた木へ視線を戻した。
少女は少し立ち止まり、昨日見たサナの杖とは別の木材が作業台に置かれていることに気づく。
「今日は何を作っているのですか?」
「鍬の柄だ」
「杖ではないのですね」
「毎日杖作ってどうする」
「それもそうですね」
ベルが鼻で笑う。
少女は軽く頭を下げて歩き出した。
自分から話しかけた。
ただそれだけのことが、少し嬉しい。
誰かと話す時、正しい言葉を選ばなければならないと考えなくてもよかった。ベルも少女の言葉遣いを気にする様子はなく、必要なことだけ答え、そのまま自分の作業へ戻った。
サナの家へ近づくにつれ、少し変わった匂いが漂ってきた。
香水のような匂いではない。
木を燃やした後の灰と、油のようなものが混ざった、少し鼻へ残る匂いだ。
「おはようございます」
少女が庭へ入ると、大きな桶の横へしゃがんでいたサナが顔を上げた。
「来たね」
「はい。昨日、見せていただけると伺いましたので」
「覚えてたかい」
「楽しみにしていました」
口にしてから、少女は少し照れた。
けれど、言い直そうとは思わなかった。
「そりゃ作り甲斐があるね」
サナは笑い、桶の隣に置かれた低い椅子を指す。
「まず座りな。足を痛めてるんだろ」
「ユウさんとベルさんが、靴の中へ当てるものを作ってくださいました」
「ベルが?」
「はい」
「なら大丈夫そうだね。あの爺さん、口は悪いけど手は器用だから」
少女は椅子へ腰を下ろし、庭を見回した。
昨日見た桶のほかに、今日はいくつかの容器が並んでいる。
灰。
水。
油。
それから乾燥させた草のようなもの。
公爵家で使っていた石鹸は、香料を加えた白や淡い桃色のものが多かった。形も整えられ、家紋を押した専用品まであった。
その元が、この灰や油なのだと思うと不思議だった。
「本当に灰から作るのですね」
「昨日も疑ってたね」
「疑っていたわけでは……少しだけです」
「同じじゃないか」
サナが笑う。
「でも、今日は最初から全部作るわけじゃないよ。灰汁はもう取ってある」
「灰汁?」
「こっち」
サナが蓋つきの壺を示す。
少女が中を覗くと、薄く色づいた液体が入っていた。
「灰へ水を通して取るんだよ。灰なら何でも同じってわけじゃないけどね」
「どの木を燃やしたかでも違うのですか?」
「違うよ。あと灰に土やゴミが混じりすぎてても使いにくい」
少女は頷きながら壺を見る。
もっと聞きたいことが浮かぶ。
「どのくらいの灰を使うのですか?」
「毎回量ってるわけじゃないよ」
「では、どうやって濃さを揃えるのでしょう」
「見たり触ったりだね」
「触るのですか?」
少女が驚くと、サナがすぐに手を振った。
「あんたは触るんじゃないよ。濃いのは手が荒れるから」
「危険なのですね」
「扱い方を間違えればね。だから最初は見るだけ」
少女は素直に手を引いた。
何でもやらせてもらえるわけではない。
できることを自分でやるのと、危険を無視してやるのは違う。
「では、私は何をすればよいでしょうか」
尋ねてから、昨日のことを思い出した。
何をすればよいか。
また指示を求めている。
少女は少し考え、言い直した。
「……私にも、やってみても大丈夫なことはありますか?」
サナが少女を見る。
「あるよ」
それだけ答え、乾燥した草の束を差し出した。
「これを細かくしてくれるかい」
「何に使うのですか?」
「香りつけだよ。大した香りじゃないけど、油の匂いが少しマシになる」
少女は束を受け取った。
指で折ろうとするが、思っていたより茎が硬い。
「細かくというのは、どの程度でしょう」
「適当でいいよ」
最も困る答えだった。
「適当……」
「細かすぎても困らないし、大きくても後で取れる。好きにやってみな」
少女は手元の草を見つめた。
正解がない。
見本もない。
何センチにしろとも、何本ずつ分けろとも言われない。
それだけで妙に緊張する。
少女は一本を取り、指の幅ほどの長さに折った。
長い気がする。
もう半分にする。
今度は短すぎるように思えた。
「サナさん」
「なんだい?」
「本当に、どのくらいでもよいのでしょうか」
「いいよ」
「ですが、出来上がりに差が出ませんか?」
「少しくらい出るかもしれないね」
「それでも?」
「食べ物じゃないし、売り物でもないからね。今日使うのは私とマーサと何軒かの家だよ」
サナは灰汁を別の容器へ移しながら答える。
「失敗したら次に変えればいい」
少女の手が止まった。
「失敗しても、よいのですか?」
「わざと駄目にするのは困るけどね」
サナは少女を見る。
「初めてやるんだろ?」
「はい」
「なら最初から上手くできる方がおかしいよ」
少女は手元の草へ視線を戻した。
妹なら。
反射的に浮かびかけた言葉を、少女は自分で認識した。
妹なら一度見ればできただろう。
そんな考えが、あまりにも自然に出てくる。
十六歳の妹は、幼い頃から何でも覚えるのが早かった。
刺繍も。
礼儀作法も。
楽器も。
魔法も。
一度教えられれば形になり、二度目には褒められる。
少女は何度も練習して、ようやく同じ場所へ届く。
『妹は一度でできたぞ』
父の声が記憶の中へ浮かぶ。
『なぜあなたはできないの?』
母の声も続いた。
指先が強張る。
けれど、今は公爵家の教育室ではない。
目の前にいるのはサナで、手にしているのは乾いた草だ。
「どうした?」
サナが尋ねる。
少女は少し迷った。
「……昔、初めてでも上手くできる人が、近くにいました」
「へえ」
「私は、何度も練習しなければできませんでした」
「それで?」
予想していなかった返しだった。
少女は顔を上げる。
「それで……私は、できない方だと」
「何度かやればできたんだろ?」
「はい」
「ならできてるじゃないか」
あまりにも簡単に言われ、少女は言葉を失った。
「でも、その人は一度でできたのです」
「その人が上手かったんだろ」
「……はい」
「だからって、あんたができないことにはならないじゃないか」
サナは不思議そうな顔をする。
少女はすぐに返せなかった。
妹が一度でできる。
自分は五度かかる。
だから妹は優秀で、自分は劣っている。
ずっとそう思ってきた。
周囲からもそう言われた。
けれどサナは、五度かかってできたなら「できる」と言う。
「時間がかかっても……ですか?」
「急いでる時は早い方が助かるけどね」
サナは現実的だった。
「でも、急いでないなら何回やったっていいだろ。石鹸なんか逃げないよ」
少女は乾いた草を見る。
それから、一本を折った。
今度は先ほどより少し長くした。
次は短く。
しばらく比べてみて、自分が扱いやすいと思った長さへ揃えていく。
「これくらいにします」
「決まったかい?」
「はい。正しいかは分かりませんが」
「使ってみれば分かるよ」
サナはそれ以上口を出さなかった。
作業を始めてしばらくすると、少女の指へ草の細かな欠片がつき始めた。
公爵家で刺繍をしていた時とは違い、爪の間へ粉が入り、指先にも青臭い香りが残る。以前なら汚れを気にしたかもしれないが、今は自分が折った草が小さな山になっていくことの方が面白かった。
「これで全部です」
少女が器を差し出す。
サナは中を見る。
「いいんじゃないかい」
「本当に?」
「何が不満なんだい」
「いえ……」
もっと何か評価されると思っていた。
上手い。
下手。
長い。
短い。
何点。
けれどサナは、使えるからそれでいいという顔をしている。
「次はどうするのですか?」
「これを煮出す」
「私が入れても?」
「それくらいならいいよ。鍋の縁に手をつけないようにね」
少女は立ち上がりかけ、右足の感覚を確かめた。
二。
まだ大丈夫。
鍋のそばまで移動し、サナに教えられた通り、乾燥した草を少しずつ湯へ落としていく。
ふわりと香りが立った。
「あ……」
少女は思わず鍋へ顔を近づけそうになり、サナに肩を引かれた。
「近い近い。湯気で火傷するよ」
「すみません」
「謝る前に離れな」
「はい」
少女は慌てて一歩下がった。
サナが笑う。
「好奇心強いねえ」
「……そうでしょうか」
「昨日から質問ばっかりじゃないか」
少女は言われて初めて気づいた。
公爵家でも質問はした。
けれど、必要な知識を得るための質問だった。
試験に出るから。
王太子妃として知るべきだから。
領地経営に必要だから。
今している質問は違う。
知りたいから聞いている。
その違いに気づくと、胸の奥が少しくすぐったくなった。
「私……知りたかったのですね」
「何を?」
「こういうことを」
少女は鍋を見る。
「石鹸がどうやってできるのかも。野菜がどう育つのかも。鶏がどう暮らしているのかも」
「知らなかったのかい?」
「ほとんど」
「貴族のお嬢さんってのは大変だね」
サナの言葉に、少女は身体を固くした。
昨日まで、村人たちは自分の身分を深く聞かなかった。
公爵令嬢だとも名乗っていない。
けれど話し方や服装、振る舞いから、普通の町娘ではないことくらい分かるだろう。
「……分かりますか?」
「何が?」
「私が、貴族だったことです」
「そりゃまあね」
サナはあっさり答えた。
「喋り方で分かるよ」
少女は膝の上へ手を置く。
「嫌ではありませんか?」
「何が?」
「貴族が」
「嫌な貴族なら嫌いだよ」
少女は思わず顔を上げた。
サナは真面目な顔で鍋を混ぜている。
「いい貴族なら別に嫌いじゃない。会ったことあんまりないけどね」
「私は……」
自分はどちらなのだろう。
その問いが浮かんだ瞬間、サナが匙を置いた。
「あんた、昨日からこの村で誰かいじめたかい?」
「していません」
「畑を取り上げた?」
「していません」
「税金寄越せって言った?」
「言いません」
「なら今のところ困ってないね」
少女は瞬きをした。
「それだけですか?」
「他に何があるんだい」
昨日、ローデンとユウから言われたことと似ている。
過去の罪が本当かどうか分からない。
けれど、今この村で何をしているかは別だ。
少女は膝の上で指を重ねた。
「私は、公爵家の娘でした」
初めて自分から、少しだけ過去を話した。
サナは驚いたように眉を上げたものの、手を止めなかった。
「ずいぶん偉いところのお嬢さんだったんだね」
「……だった、です」
「今は?」
少女は答えられなかった。
追放された。
家からも切り離された。
自分が今何者なのか分からない。
「分かりません」
「なら、分かるまで石鹸見てればいいよ」
少女はサナを見る。
「そんなことでよいのでしょうか」
「今日は石鹸作る日だからね」
サナは当然のように答えた。
少女は少し俯き、それから笑った。
「はい」
今日、自分が何者かを決める必要はない。
公爵令嬢だった自分。
追放された自分。
罪人と呼ばれた自分。
そのどれを名乗るべきか分からなくても、今は石鹸を作るところを見ていていい。
香草を煮出している間、サナは別の桶を用意した。
少女は近くの椅子へ座り、灰汁と油を混ぜる作業を見守る。
「これは私がやらない方がよいのですよね」
「今日はね」
「今日は?」
「何回か見て、扱い方覚えたらやればいい」
少女は目を瞬く。
「また見に来てもよいのですか?」
「嫌なら昨日の時点で呼んでないよ」
「……ありがとうございます」
「今度は灰汁取るところから見せてやるよ」
胸の中へ、また小さな予定が増えた。
今日だけではない。
次。
その次。
ここへ来たばかりの少女にとって、「また」という言葉はまだ少し不思議だった。
追放された日の自分には、翌日があることさえ考えられなかった。
今は次に石鹸を作る日を想像している。
「混ぜるのには、どのくらい時間がかかるのですか?」
「結構かかるよ」
「ずっと混ぜるのですか?」
「休みながらね」
「休んでも固まらないのですか?」
「すぐにはね」
少女はサナの手元を見る。
木の棒でゆっくりと混ぜられる液体は、まだ石鹸らしくない。
「代わりましょうか?」
「足は?」
先に聞かれた。
少女は自分で確かめる。
「二くらいです」
「なら、少しやってみるかい?」
「はい」
サナが棒を渡す。
少女は両手で持ち、桶の中をゆっくり回した。
思ったより重い。
液体そのものの抵抗があり、棒を回すたびに腕へ力がかかる。
「速くなくていいよ」
「はい」
「底からゆっくり」
「こうですか?」
「そうそう」
少女は慎重に混ぜる。
一周。
二周。
十周ほどすると、腕が少し疲れてきた。
まだ続けられる。
けれど昨日の葉をちぎる作業を思い出した。
「サナさん」
「ん?」
「少し腕が疲れてきました」
「なら交代」
サナがすぐ棒を受け取る。
「もう少しできると思いますが」
「できるのと、やめちゃいけないのは別だよ」
少女はその言葉を胸の中で繰り返した。
できる。
だから続ける。
それが当然だと思っていた。
できるけれど、疲れたからやめる。
そんな選択肢もある。
「……難しいですね」
「石鹸が?」
「休む方です」
サナが声を上げて笑った。
「あんた、ユウと同じこと言うね」
「ユウさんも?」
「あいつも最初はそうだったよ。何か頼むと最後までやろうとするし、頼んでないことまで見つけてやるし」
少女は想像する。
今のユウも人を放っておけないところがある。
けれど、村人たちから止められれば休むようになったらしい。
「変わったのですね」
「少しはね」
「私も変われるでしょうか」
口にした後、少女は自分の言葉へ驚いた。
サナはすぐには答えなかった。
桶を混ぜながら、少しだけ考える。
「もう変わってるんじゃないかい?」
「え?」
「昨日来た時より喋るじゃないか」
少女は言葉を失った。
自分では気づいていなかった。
「そう……でしょうか」
「質問ばっかりしてるし」
「それは先ほども言われました」
「じゃあ間違いないね」
少女は少し笑った。
変わるというのは、何か大きな決意をすることだと思っていた。
過去を乗り越える。
強くなる。
自分を変える。
そんな言葉を思い浮かべていた。
けれど、昨日より一つ質問が増えることも変化なのかもしれない。
昼前になると、サナの家へマーサがやってきた。
「どうだい?」
「質問攻めにされてるよ」
「申し訳ありません」
「なんで謝るんだい」
二人からほぼ同時に言われ、少女は口を閉じた。
「……癖です」
「なら、そのうち減るさ」
マーサは完成前の石鹸を覗き込む。
「香草入れたのかい?」
「この子が細かくしたよ」
「へえ」
マーサが少女を見る。
「上手くできたかい?」
少女は答えようとして、少し考えた。
「分かりません」
「分からない?」
「まだ完成していませんから。でも、使えるくらいにはできているそうです」
「そりゃ十分だね」
マーサは笑った。
少女も笑う。
以前なら「上手くできました」と言える結果を求めただろう。
今は、まだ分からないと言える。
それで困る人はいなかった。
「昼はどうする?」
サナが尋ねる。
「うちで食べてくかい?」
少女は少し迷った。
マーサの家へ戻るつもりだった。
けれど、サナの家で食べてもよいのなら、それも少し興味がある。
「ご迷惑でなければ……」
そこまで言って止まる。
またいつもの言い方だ。
「……食べてみたいです」
「なら決まり」
サナは立ち上がった。
「パンと卵くらいしかないけどね」
「十分です」
「マーサも食べるかい?」
「食べるよ。どうせユウはガルドのところで捕まってるだろ」
「捕まってるって……」
少女が笑った、その時だった。
村の東側から、短い金属音のようなものが響いた。
少女の笑顔が消える。
昨夜聞いた警戒線の音に似ている。
ただし、昨夜よりはっきりしていた。
サナとマーサも同時に東を見る。
誰も叫ばない。
少女は椅子から立ち上がりかけたが、マーサが手を上げた。
「待ちな」
少女は止まる。
「警戒線ですか?」
「たぶんね」
サナの声も先ほどまでとは違い、少し低い。
少女の胸が速くなる。
昨夜の話を思い出す。
三匹の魔物。
森側へ続く正体不明の車輪跡。
しかし今ここで、自分が東へ走っても何もできない。
少女は立ち上がらず、耳を澄ませた。
少し離れた道で誰かが声を上げる。
「東だ!」
別の家から人が出てくる音がした。
村が騒然となるほどではない。
けれど、先ほどまでの日常とは明らかに空気が違う。
「サナ、ここにいて」
マーサが言う。
「分かってるよ。あんたも走るんじゃないよ」
「走らないよ」
二人とも年齢を感じさせないほど即座に役割を決める。
少女はその様子を見ていた。
「私は……」
何をすればいい。
その言葉が出かかる。
けれど今は、本当に自分で判断できない。
なら、聞いていい。
「私は、ここにいた方がよいですか?」
「いておくれ」
サナが答えた。
「今はその方が助かる」
「分かりました」
少女は頷いた。
役に立たないと言われたわけではない。
ここにいることが今の役割だ。
しばらくすると、道の向こうからユウが走ってきた。
ガルドも後ろにいる。
「ユウさん!」
少女は思わず立ち上がった。
ユウはサナの家の前で速度を落とす。
「大丈夫?」
「はい。こちらには何も」
「警戒線が一回反応した。東側見てくる」
「一人で?」
少女の口からすぐに出た。
ユウが止まる。
「いや。ローデンとドランがいる」
「ケルも先に行ってるぞ!」
後ろからガルドが答えた。
少女は少し安心する。
「なら……お気をつけて」
「うん」
ユウはそれだけ答えて再び走り出そうとする。
「ユウさん」
少女がもう一度呼んだ。
何を言いたいのか、自分でも分からなかった。
行かないでほしい。
そんな言葉ではない。
危険なことをしてほしくない。
けれど、確認する人は必要なのだろう。
昨日、彼らは無理をしないと話していた。
「……無理は、しないでください」
ユウは少し驚いた顔をした。
それから笑う。
「分かった」
「本当にですよ」
「分かってるって」
後ろのガルドが大声で笑う。
「お前、言われる側になったな!」
「ガルド爺さん、うるさい!」
緊張していた少女の口元が少しだけ緩む。
ユウとガルドは東側へ向かっていった。
少女はサナの家の前で待った。
何もしないで待つ時間は、想像していたより長く感じる。
サナは途中で石鹸の桶へ戻った。
「続けるのですか?」
「火事でも起きてるなら別だけどね。止めっぱなしにしたらこっちが駄目になるよ」
少女は驚きながらも、少し納得した。
何か起きたからといって、村中の生活をすべて止めるわけではない。
確認する人が確認する。
残る人は残る。
必要になれば呼ばれる。
少女も椅子へ座った。
「私も、混ぜましょうか?」
「さっき腕疲れたんだろ」
「少し休みました」
「なら五回くらい」
「五回?」
「今日は五回で交代」
少女は棒を受け取った。
一回。
二回。
ゆっくり混ぜる。
五回で止める。
「終わりました」
「ちゃんと止まれたね」
サナが笑う。
少女も笑った。
外ではまだ人の足音が聞こえる。
不安は消えていない。
それでも、桶の中の液体はゆっくりと混ざり続けている。
日常と不安は、どちらか一つになるわけではないのだ。
警戒線が鳴ってから四半刻ほど経った頃、ユウたちが戻ってきた。
少女は今度こそ立ち上がった。
「どうでしたか?」
ユウの服には少し草がついているが、怪我はない。
後ろにはローデン、ドラン、ケル、ガルドがいる。
「村の中には入ってない」
ユウが最初に言った。
少女は息を吐いた。
「よかった……」
「線の外側に跡があった」
ケルが続ける。
「昨日までなかったやつだ」
ローデンの表情は険しい。
「例の魔物ですか?」
少女が尋ねる。
「たぶんな」
ドランが答える。
「一匹分だけだ。線の手前まで来て、少し歩いて森へ戻ってる」
「侵入しようとした形跡は?」
マーサが尋ねる。
「線に触れたのは一度だけ。飛び越そうとした跡も、掘った跡もない」
ユウが説明する。
「たぶん近づいて、警戒線に触れて引いたんだと思う」
「三匹全部じゃないのか」
サナが言う。
「今見つかったのは一匹だけ」
ケルはそこで言葉を止め、東の森を見る。
「ただ、気になることがある」
少女の胸へ再び緊張が戻る。
「何ですか?」
「足跡が、北東側から来てる」
昨日調べた古い道。
少女にもすぐ分かった。
ユウの表情も少し険しくなる。
「車輪跡があった方?」
「方向は近い」
「同じ場所から来たってこと?」
「そこまでは言えない」
ケルは首を振る。
「森の中じゃ道なんていくらでも曲がる。今分かるのは、北東寄りから一匹来たってだけだ」
ローデンが腕を組む。
「昨日と同じだ。勝手に話を繋げるな」
少女はその言葉を聞き、自分の胸の中に浮かびかけた考えを止めた。
車輪跡。
魔物。
自分が歩いた道。
追放。
全部が一つに見えそうになる。
けれど、まだ分からない。
「……はい」
少女は自分へ言い聞かせるように頷いた。
ローデンが少女を見る。
「何か思い出したか?」
「いいえ」
少女は少し考えてから続ける。
「ただ、昨日なら全部自分に関係しているのではないかと考えていたと思います」
「今日は?」
「考えそうにはなりました」
正直に答える。
「でも、まだ分からないことを思い出しました」
ローデンは何も褒めなかった。
ただ一度だけ頷く。
「それでいい」
少女には、そのくらいが心地よかった。
「今日は森へ入らない」
ドランが言った。
「線の周辺だけ確認して終わりだ」
「午後は?」
ユウが尋ねる。
「見張りを少し増やす。追うのはなし」
「分かった」
「お前は畑へ戻れ」
「なんで俺だけ毎回そうなるんだよ」
「ガルドの支柱終わってないだろ」
ローデンが言う。
「そうだぞ!」
ガルドが大きく頷く。
「魔物より先に豆が倒れる!」
「比較対象おかしくない?」
「豆は待ってくれん!」
「昨日は支柱は逃げないって言ってなかった?」
「昨日と今日は違う!」
少女は堪えきれず笑った。
緊張していた周囲の老人たちもつられるように笑い、ローデンまで肩を揺らしている。
森の問題は何も解決していない。
それでも、笑ってはいけないわけではない。
「ユウさん」
少女が呼ぶ。
「ん?」
「畑へ行ってきてください」
「なんでそっち側なの?」
「豆が倒れてしまうそうですから」
「ほら見ろ!」
ガルドが嬉しそうに言う。
「味方が増えたぞ!」
「俺の味方じゃないの?」
ユウが少女を見る。
「それとこれとは別です」
少女は少し考えてから答えた。
サナとマーサが声を上げて笑う。
ユウは何とも言えない顔をしながらも、結局ガルドと一緒に畑へ戻っていった。
昼食は予定通り、サナの家で食べた。
焼いたパンと卵、それに昨日の残りだという豆の煮物が並ぶ。
少女は椅子へ座り、朝からの出来事を思い返していた。
「疲れたかい?」
サナが尋ねる。
「少し」
「足は?」
「三くらいです」
「なら午後は休んだ方がいいね」
「はい」
少女は迷わず答えた。
それから少しだけ考える。
「石鹸は、午後も作るのですよね」
「作るよ」
「見たいです」
「休むんじゃなかったのかい?」
「座って見ているだけなら……駄目ですか?」
サナは少女を見る。
「足が四になったら帰る」
「はい」
「眠くなったら寝る」
「ここでですか?」
「嫌ならマーサのところへ帰って寝な」
少女は少し笑う。
「分かりました」
休むことと、何もしないことは必ずしも同じではない。
身体を休めながら、見たいものを見ることもできる。
少女は昼食を口へ運んだ。
午後になると、石鹸の液は朝より少しずつ重くなっていった。
少女はほとんど椅子へ座ったまま、サナの手元を眺めている。
時折質問し、答えを聞く。
眠くなれば少し目を閉じる。
途中、本当に十数分ほど眠ってしまったらしく、目を開けるとサナが何事もなかったように作業を続けていた。
「……寝ていました」
「見れば分かるよ」
「申し訳――」
少女は途中で止めた。
サナがこちらを見る。
「……よく眠れました」
「そりゃよかった」
それで終わった。
少女は少し笑い、椅子へ座り直した。
夕方近くになり、石鹸はようやく型へ流し込まれた。
まだ柔らかく、少女が知っている石鹸とはまるで違う。
「これで完成ですか?」
「まだだよ」
「まだ?」
「固まるまで待つ」
「どのくらいですか?」
「何日か」
少女は目を丸くした。
「今日使えないのですか?」
「使えないよ」
「一日かけて作ったのに?」
「そういうもんだ」
少女は型の中を見る。
今日の朝から見ていた。
草を細かくした。
少し混ぜた。
途中で休んだ。
昼寝までした。
それでも完成は今日ではない。
「……待つのですね」
「そうだね」
「何もしないで?」
「石鹸についてはね」
サナは布を被せる。
「明日になったからって急に触るんじゃないよ」
「はい」
「待つのも作るうちだ」
少女はその言葉を聞き、型の中の石鹸を見つめた。
待つ。
昨日、サナからも似たことを聞いた。
何でもすぐに答えを出さなくていい。
傷も。
森の問題も。
自分のこれからも。
時間をかけなければ分からないものがある。
「また、見に来てもよいですか?」
「固まった頃にね」
「いつですか?」
「三日くらいしたら一回見てみな」
三日後。
少女の中へ、また未来が一つ増えた。
「はい。来ます」
今度は迷わず答えた。
マーサの家へ帰る途中、少女は畑の脇を通った。
ガルドとユウがまだ作業をしている。
支柱はかなり立て終わっており、蔓が倒れないよう一つずつ結ばれていた。
「おーい!」
ガルドが少女に気づく。
「石鹸できたか!」
「まだです!」
少女も少し大きな声で返した。
「なんだ、失敗したのか!」
「違います! 固まるまで三日くらい待つそうです!」
「そんなにかかるのか!」
「ガルド爺さん、村に何年住んでるの?」
ユウが呆れている。
「石鹸はサナに任せてるから知らん!」
「知らないことを偉そうに言わないでよ」
「お前も農業知らなかっただろ!」
「今覚えてる途中だよ!」
少女は道の端で笑った。
ユウがこちらを見る。
「足、大丈夫?」
「今は三くらいです」
「朝より上がってるね」
「はい。ですから帰ったら休みます」
「それがいい」
「ユウさんは?」
「俺?」
「疲れていませんか?」
ユウが少し黙った。
少女も、自分が何を尋ねたのかを一拍遅れて理解した。
朝、マーサから聞いた。
ユウは人のことは気にするのに、自分のことになると雑になる。
「……どのくらいですか?」
少女は少し照れながら続けた。
「疲れを数字にするなら」
ガルドが面白そうにユウを見る。
ユウは困った顔をした。
「えー……」
「ほら」
少女は思わず言った。
「私にはすぐ聞くではありませんか」
「そうだけど」
「自分では分からないのですか?」
「分かるよ」
「では?」
ユウはしばらく考えた。
「……四くらい?」
「なら休んだ方がよいのでは?」
「四ならまだ――」
「お前、人には四で休めって言ってなかったか?」
ガルドが割り込む。
ユウが黙る。
少女は朝の会話を思い出し、少しだけ可笑しくなった。
「言っていました」
「二対一だな!」
「なんでガルド爺さんまでそっちなんだよ」
「俺は疲れてないからな!」
「七十四歳が朝からずっと畑やってる方が問題だよ!」
「まだ若い!」
「若くない!」
いつものやり取りが始まる。
少女は笑った後、ユウを見る。
「でも、本当に少し休んでください」
今度は冗談ではなく言った。
「私は、ユウさんに助けてもらいました。だからというだけではありませんが……疲れているなら、ユウさんも休んでよいと思います」
ユウの表情から、少しだけ笑いが消えた。
少女は自分の言葉が重すぎただろうかと不安になる。
けれどユウはしばらく黙った後、小さく息を吐いた。
「……じゃあ、これ結んだら終わりにする」
「あと三本だ!」
ガルドが言う。
「三本ならやる」
「五本あるぞ!」
「増えたじゃん!」
「今見つけた!」
「絶対嘘だろ!」
少女はまた笑った。
完全に休ませることはできなかった。
けれど、それでもいいのかもしれない。
相手の全部を自分が決める必要はない。
休んでほしいと伝える。
それをどうするかは、ユウが選ぶ。
「では、お先に戻ります」
「うん。足休めて」
「ユウさんも」
「分かったって」
少女は畑を離れた。
マーサの家へ向かう道を、一人で歩く。
右の踵は少し痛い。
腕にも、石鹸を混ぜた疲れが残っている。
指先には乾燥した草の匂いが染みついていた。
けれど、嫌な疲れではなかった。
今日、自分は何をしただろう。
石鹸作りを見た。
香草を折った。
混ぜた。
途中で疲れてやめた。
昼寝した。
魔物の警戒線が鳴って怖かった。
ユウに無理をしないでと言った。
サナから、三日後にまた来てもいいと言われた。
どれも大きな出来事ではない。
公爵家にいた頃なら、一日の記録に残す価値さえないと思っただろう。
けれど今の少女には、その一つ一つが妙に鮮明だった。
道の途中で立ち止まり、東の森を見る。
森は夕日に照らされ、木々の上だけが金色になっている。
あの中には、まだ正体の分からないものがいる。
村へ近づいた魔物もいる。
知らない車輪跡もある。
怖い。
それでも、少女は昨日のように「自分が来たせいかもしれない」と最初から決めつけなかった。
分からないものは、まだ分からない。
今日作った石鹸が使えるものになるのかも、今はまだ分からない。
三日待てば少し分かる。
森のことも、いつか分かるかもしれない。
自分がこれからどう生きるのかも。
「……待っても、よいのですね」
少女は小さく呟いた。
誰からも返事はない。
それでも、その言葉は昨日までより自然に胸へ落ちた。
少女は再び歩き出す。
マーサの家が見えてくる。
その向こうでは夕食の煙が上がり始めていた。
明日何をするのかは、まだ決めていない。
けれど三日後には、固まった石鹸を見に行く。
ほんの数日前まで、自分にはもう未来などないと思っていた少女の中に、今は三日先の小さな約束があった。




