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第19話 自分で決める


 翌朝、少女が目を覚ました時、窓の外では細い雨が降っていた。


 屋根を叩くほど強くはなく、灰色の空から落ちてきた雨粒が軒先を伝い、一定の間隔で地面へ落ちている。昨日まで乾いていた庭の土は黒く湿り、遠くに見える畑も薄い靄に包まれていて、いつもなら聞こえてくるガルドの大声も今朝はまだ聞こえなかった。


 少女は布団の中でしばらく雨音を聞いてから、ゆっくり身体を起こした。


 最初に確かめたのは右の踵だった。


 足首を動かしてみる。


 痛みはほとんどない。


 寝台の縁へ腰を移し、床へ足を下ろして少しだけ体重をかけると、傷のあたりに違和感はあるものの、昨日までのような鋭い痛みは感じなかった。


「……一、でしょうか」


 小さく呟いてから、少女は少し考える。


 安静にしていれば一より少ないかもしれない。


 歩いた時にどうなるかは、まだ分からない。


 以前なら、痛みが少なくなったというだけで「もう大丈夫」と判断していただろう。けれど今は、寝起きの状態だけで決めるのではなく、実際に動いてから確かめた方がよいのだと考えられる。


 少女は急いで立ち上がらず、昨日ユウとベルが作ってくれた当て物を靴の中へ入れた。


 位置を指で確かめる。


 昨日はユウに教えてもらいながら入れたが、今日は一人でできた。


 靴を履き、立ち上がる。


 一歩。


 二歩。


 部屋の中をゆっくり歩いてみる。


「……二」


 昨日の朝より軽い。


 少女はそのことを嬉しく思った。


 けれど、その直後に浮かんだのは、何か仕事を探さなければという考えではなかった。


 今日は何をしよう。


 そう考えた自分に気づき、少女は窓の外を見た。


 雨が降っている。


 石鹸はまだ固まっていない。


 サナの家へ行く約束は三日後だ。


 昨日までなら、予定が空いていることに不安を覚えただろう。


 今も完全に平気ではない。


 けれど、空いている時間へ何を入れるかを自分で考えてもよいのだと、少しずつ分かってきた。


 着替えて部屋を出ると、台所ではマーサが朝食の支度をしていた。


 鍋から立ち上る湯気に混じって、焼いたパンの香りが漂っている。雨のせいか室内は昨日より薄暗く、窓辺には小さな灯りが一つ置かれていた。


「おはようございます」


「おはよう。今日はよく降るね」


「足は、かなりよくなりました」


「そうかい」


 マーサは鍋を混ぜながら少女を見る。


「だから働けるって?」


 少女は口を開きかけ、そのまま止まった。


「……まだ何も言っていません」


「顔に書いてあったよ」


「本当ですか?」


「半分はね」


 マーサが笑う。


 少女は少し困った顔をしながら椅子へ座った。


「以前なら、そう言っていたと思います」


「今は?」


「何をしようか考えていました」


「いいんじゃないかい」


「でも、何も思いつきません」


「なら飯食いながら考えな」


 それで会話は終わった。


 何かすることをマーサが与えてくれるわけではない。


 少女は目の前へ置かれたパンを見ながら、少し不思議な気持ちになる。


 これまでの人生では、予定は誰かが決めてくれるものだった。


 幼い頃は教師。


 成長してからは両親。


 王太子の婚約者となってからは王宮の予定まで加わった。


 朝起きれば、その日に何を学び、誰に会い、どの服を着て、どの時間にどこへ行くのかが決められていた。


 自由な時間がまったくなかったわけではない。


 けれど、その自由な時間でさえ、読書をするなら教養になるものを、刺繍をするなら人前へ出せるものを、という考えがどこかにあった。


 何をしよう。


 その問いに、自分だけで答えることの方が難しい。


「マーサさん」


「なんだい?」


「雨の日は、皆さん何をされるのですか?」


「人によるよ」


「畑仕事はしないのですか?」


「この雨なら無理にやらないね。家の中の仕事したり、道具直したり、寝たり」


「寝るのですか?」


「眠けりゃね」


 少女は少し笑った。


「ユウさんも?」


「たぶんガルドに捕まらなきゃ寝てるんじゃないかい」


「雨でも捕まるのですか?」


「ガルドだからね」


 理由になっているのか分からない。


 けれど、なぜか納得できた。


 朝食を半分ほど食べた頃、玄関を叩く音がした。


「マーサ、いるか?」


 ベルの声だった。


「開いてるよ」


 扉が開き、雨除けの外套を羽織ったベルが入ってくる。


 片手には細長い木の板を何枚か抱えていた。


「おはようございます」


「おう」


 ベルは少女へ短く返し、板を壁際へ立てかけた。


「ユウ来てないか?」


「まだだよ」


「そうか」


「何か頼むのかい?」


「棚の位置変えたいんだ」


 マーサが呆れた顔をする。


「この前作ったばっかりじゃないか」


「使ってみたら高かった」


「誰が使うんだい?」


「俺」


「自分で作ったんだろ」


「だから直すんだ」


 ベルは当然のように答えた。


 少女は思わず壁際の板を見る。


「一度作ったものを、直すのですか?」


 ベルが少女を見る。


「使いにくかったらな」


「失敗だったということでしょうか」


「まあ失敗だな」


 あまりにも平然と言われ、少女は少し驚いた。


「嫌ではないのですか?」


「何が」


「作り直すことが」


「面倒ではある」


 ベルは椅子へ座る。


「でも高いまま使う方が面倒だろ」


「……そうですね」


「一回作ったからって、死ぬまでそのまま使わなきゃならん決まりもないしな」


 少女はパンを持ったまま、ベルを見る。


 一度決めたものを変える。


 一度作ったものを直す。


 失敗したなら、必要なところだけ変える。


 それを恥じる様子がまったくない。


「何をそんなに見てる」


「いえ……」


 少女は少し迷ってから答えた。


「ベルさんは、失敗することが怖くないのですね」


「怖いぞ」


 予想外の返答だった。


「え?」


「高い木材で失敗したら泣きたくなる」


「……そういう意味ではなく」


「分かってる」


 ベルは笑った。


「若い頃は失敗するたび腹立ててたよ。今でも腹立つ時はある」


「では、どうして」


「失敗したもの睨んでても棚は低くならんからな」


 マーサが笑う。


「ベルにしちゃいいこと言うじゃないか」


「俺はいつもいいこと言ってる」


「聞いたことないね」


「お前が聞いてないだけだ」


 二人の言い合いを聞きながら、少女は少し笑った。


 失敗しても平気なのではない。


 嫌だと思う。


 腹も立つ。


 それでも直す。


 失敗を恐れなくなる必要などないのかもしれない。


 怖くても、失敗した後にどうするかを選べればいい。


「おはよう」


 今度はユウが入ってきた。


 髪が少し濡れている。


「ユウさん」


「おはよう。足どう?」


「今日は歩いて二くらいです」


「かなり良くなったね」


 ユウは少女の歩き方を一度見てから、ベルの方へ視線を向けた。


「ベル爺さん、何その板」


「棚直す」


「この前作ったやつ?」


「高い」


「測ったんじゃなかったの?」


「測った」


「じゃあなんで」


「俺が間違えた」


 ユウが笑う。


「珍しい」


「お前帰れ」


「俺呼ばれたんだけど?」


 少女は二人を見ながら、ふと尋ねた。


「私も見てもよいですか?」


「棚直すところ?」


 ユウが聞き返す。


「はい」


「面白い?」


「分かりません」


 少女は正直に答えた。


「ですから、見てみたいです」


 ユウが少し笑った。


「いいんじゃない?」


 ベルも肩をすくめる。


「見ても減らん」


「では、お願いします」


 少女は朝食の残りを見た。


 すぐ立ち上がりそうになり、止まる。


「……食べ終わってから行きます」


「当たり前だよ」


 マーサが言う。


 少女は少し照れながらパンを口へ運んだ。


 ベルの家へ向かう頃には、雨が少し弱くなっていた。


 少女はマーサから借りた雨除けを羽織り、足元を確かめながら歩く。泥の多い場所ではユウが先に歩いて足場を確認したものの、手を引くことはせず、少女も必要なところだけ自分で避けながら進んだ。


「こっち、滑るから気をつけて」


「はい」


 道の端に小さな水たまりができている。


 昨日までなら靴や裾が汚れることを気にしただろう。


 今もまったく気にならないわけではないが、それより転ばない方が大切だと思える。


「雨の日は、道がかなり変わるのですね」


「この辺まだ土だからね」


「石を敷かないのですか?」


「全部やると大変だし、雨水の流れも考えないと逆に溜まるところができるらしいよ」


「らしい?」


「俺もまだ勉強中」


 ユウが笑う。


「魔法で平らにはできるけど、平らにすれば全部解決ってわけじゃなかった」


 少女は道を見る。


 茶色の魔導書を使えば、土を動かすことは簡単なのだろう。


「魔法なら、一日で石畳にもできるのではありませんか?」


「たぶんできる」


「では、なぜしないのですか?」


「必要か分からないから」


 ユウは水たまりを避けながら答える。


「村の人が今の道で困ってる場所は直す。でも、全部石畳にしたら畑から土ついた靴で歩きにくいとか、雨水が変な方へ流れるとか、俺が知らない問題が出るかもしれないし」


「先に皆さんへ聞くのですね」


「うん」


 少女は少し考える。


「ユウさんの魔法なら、聞かずに変えることもできますよね」


「できるけど、俺が使う道じゃないところまで俺の好きにしていいわけじゃないでしょ」


 少女は足を止めそうになった。


 王都で強い力を持つ者は、決める側に立つ。


 爵位。


 権力。


 財産。


 魔法。


 持つものが大きいほど、周囲を動かす力も大きくなる。


 ユウの《魔導書庫》ほどの力なら、この村の形を自分好みに変えることさえ難しくないはずだ。


 けれど彼は、できることと、してよいことを分けている。


「どうした?」


「いえ」


 少女は再び歩き出す。


「ユウさんは、不思議な方だと思いまして」


「最近それよく言われる」


「以前から言われていたのでは?」


「村に来てからは特に」


 ユウは困ったように笑った。


 ベルの家へ着くと、問題の棚はすぐに分かった。


 壁へ取りつけられた木製の棚は、少女から見ても少し高い。ベル自身が手を伸ばせば届くものの、奥に置かれた道具を取ろうとすれば身体を伸ばさなければならない位置だった。


「昨日、腰ひねった」


 ベルが言う。


「だから下げる」


「大丈夫なの?」


 ユウが尋ねる。


「もう痛くない」


「どのくらい?」


「知らん」


「数字で言うなら?」


「お前まで始めたのか」


「俺が始めたんだけど」


 ベルは面倒そうに腰を動かす。


「一だ」


「動かすと?」


「二」


「重いもの持ったら?」


「三くらいだ」


「じゃあ今日は重いの俺が持つよ」


「全部持つなよ」


「分かってる」


 少女はその会話を聞きながら、昨日自分がユウへ疲労を尋ねたことを思い出した。


 ユウは他人へ聞く時は迷いがない。


 やはり自分のことだけ少し違うらしい。


「私は何をすればよいでしょう」


 少女が尋ねると、ベルは棚を見る。


「見てるんじゃなかったのか?」


「できることがあるなら、やってみたいです」


「足は?」


「二です」


「なら道具渡すくらいならできるな」


「はい」


 少女は少し嬉しくなった。


 何でもやるのではない。


 今の自分にできることを任せてもらう。


 ベルが棚から小さな箱を下ろし、その中の道具を一つずつ説明した。


「これは木槌。こっちは普通の金槌。釘抜き。錐。鉋は触るな、刃が出てる」


「はい」


「これが鑿」


「のみ?」


「木を削る道具だ」


 少女は興味深そうに見る。


「使ってみたいです」


「今日は駄目だ」


「……はい」


 断られた。


 けれど、以前のように自分が能力不足だから拒否されたのだとは思わなかった。


「危ないからですか?」


「使い方知らんだろ」


「はい」


「今度教えてやる」


 少女は顔を上げる。


「よいのですか?」


「覚えたいならな」


「覚えたいです」


 答えはすぐに出た。


 ベルが少しだけ笑う。


「じゃあ今度だ」


 また一つ、今度が増えた。


 棚を外す作業が始まった。


 ユウが棚を支え、ベルが固定していた金具を外す。


 少女は必要な道具を渡し、外した金具を箱へ戻していく。


「錐」


「はい」


「違う。それは鑿だ」


「……申し訳ありません」


「謝らんでいいから、そっち」


 少女は箱の中を見る。


 似ているように見えた二本を比べる。


「こちらですね」


「そうだ」


 二度目は間違えなかった。


 しばらくして、またベルが手を伸ばす。


「鑿」


 今度は迷わず渡せた。


「これですね」


「おう」


 それだけだった。


 褒められもしない。


 けれど、少女の胸には小さな満足が残った。


 最初は間違えた。


 次はできた。


 それでいい。


 棚を壁から外した後、ベルは床からの高さを測り始めた。


「どのくらい下げるのですか?」


 少女が尋ねる。


「指二本分くらい」


「それだけですか?」


「それで足りる」


「もっと下げれば楽になるのでは?」


 ベルは少女を見る。


「下げすぎると、下の作業台に置いたものが当たる」


「あ……」


 少女は棚の下を見る。


 確かに作業台がある。


 その上には木材を立てかけることもあるらしい。


「一つだけ考えてはいけないのですね」


「そうだな」


「棚を取りやすくするだけではなく、下も使えるようにする必要がある」


「そういうこと」


 ベルは壁へ印をつける。


「だから一回で完璧に決めようとすると面倒なんだ。使ってみて、駄目ならまた直す」


 少女は壁の古い穴を見る。


 一度目に棚を取りつけた痕が残っている。


 失敗した証拠だ。


 けれど、ベルは隠そうともしていない。


「穴は残るのですか?」


「気になるなら埋める」


「気にならないなら?」


「そのまま」


「……そのままでもよいのですね」


「壁は壁だ」


 少女は笑った。


 公爵家なら、壁に余計な穴が残るなど許されなかっただろう。


 使用人が補修し、跡が分からないよう整えたはずだ。


 ここでは、穴が残っていても暮らせる。


 その程度の不完全さを誰も恥じない。


 作業が半分ほど進んだ頃、少女は玄関の外へ視線を向けた。


 雨はまだ降っている。


 東の森は霞んで見えにくい。


 昨日、魔物が警戒線へ触れた。


 今日はどうなのだろう。


 ケルやドランは見回りへ行っているのだろうか。


「気になる?」


 ユウに声をかけられ、少女は振り返った。


「……少し」


「森?」


「はい」


 少女は正直に答える。


「雨なら、足跡が消えてしまうのではありませんか?」


「逆に新しいのは見つけやすいこともあるってケルが言ってた」


「では、見に行っているのですか?」


「警戒線の内側だけね。森には入らないって」


 少女は少し安心した。


「ユウさんは行かなくてよいのですか?」


「行かなくていいって言われた」


「行きたいのですか?」


「気にはなるよ」


 ユウは棚を支えたまま答える。


「でも、ケルとドランの方が足跡見るのは上手いし」


 少女はユウを見る。


「任せられるのですね」


「俺よりできる人に任せた方がいいでしょ」


「それが簡単にできる方ばかりではないと思います」


 少女は自分の過去を思い出した。


 妹の方が上手くできることを認めるのが、苦しかった。


 自分より妹へ任せた方がよいと言われるたび、自分の価値まで否定されたように感じた。


「自分より上手な人がいると、嫌ではありませんか?」


 ユウは少し考える。


「内容によるかな」


「内容?」


「俺だって悔しい時あるよ。料理とか、最近マーサ婆ちゃんに全然勝てないし」


「勝負していたのですか?」


「してないけど」


 ベルが鼻で笑う。


「なら負けてもいないだろ」


「そうなんだけどさ」


 ユウは笑った後、少女を見る。


「でも、自分ができないことを誰かができるなら助かるよ。全部俺が一番じゃないと困る生活って、たぶんすごく疲れるし」


 少女はすぐには返せなかった。


 全部で一番でなくていい。


 自分より上手な人がいても、自分が消えるわけではない。


 頭では理解できる。


 けれど、妹と比べられ続けた記憶が、それを簡単には受け入れさせてくれない。


「……私は、まだ難しいです」


「うん」


 ユウはそれ以上何も言わなかった。


 大丈夫だとも。


 すぐ変われるとも。


 言わない。


 少女はそのことに少し安心した。


 棚を取りつけ直したのは、昼より少し前だった。


 ベルが自分で手を伸ばし、奥に置いた箱を取る。


「どうですか?」


 少女が尋ねる。


「楽だな」


「成功ですか?」


「今のところは」


「今のところ?」


「明日使ったらまた気に入らんところ見つかるかもしれん」


 少女は笑った。


「では、完成ではないのですね」


「使えるなら完成でいい」


「でも、また直すかもしれない」


「そうだ」


「不思議です」


「何がだ」


「完成したものでも、変えてよいのですね」


 ベルは少女の顔を見た。


「変えちゃいけないものもあるだろうが、棚くらい変えていいだろ」


「はい」


 少女は壁の棚を見る。


 自分の人生も棚のように簡単ではない。


 婚約。


 家族。


 公爵家。


 王都。


 追放。


 どれも木の板を付け直すようには変えられない。


 それでも、一度決められた形が永遠に続かなければならないとは限らないのかもしれない。


 今すぐそこまで考える必要はない。


 ただ、そういう考え方もある。


 今はそれだけで十分だった。


「昼、うちで食うか?」


 ベルが尋ねる。


 少女は少し驚いた。


「よろしいのですか?」


「パン余ってる」


「でも、マーサさんが」


「マーサには俺から言う」


 少女はユウを見る。


「俺に聞かなくていいよ」


 先回りされた。


「……そうでした」


 少女は少し笑う。


 自分で決める。


 ベルの家で食べてみたいか。


 少女は考えた。


「では、いただきたいです」


「決まりだ」


 ベルはそれだけ言って台所へ向かった。


 昼食は簡単なものだった。


 硬めのパンと、塩漬け肉を薄く切ったもの。それに酢漬けの野菜が少し。


 少女は初めて食べる酸味の強い野菜に驚き、思わず目を細めた。


「苦手か?」


 ベルが尋ねる。


「少し酸っぱいです」


「酸っぱいものだからな」


「そうではなく……」


 少女はもう一口食べる。


 今度は先ほどより味が分かる。


「嫌いではありません」


「なら食え」


「嫌なら残していいからね」


 ユウが付け加える。


 ベルがユウを見る。


「俺が無理に食わせてるみたいに言うな」


「一応」


「食える分だけ食えばいい」


 少女は二人の会話を聞きながら、酢漬けをもう一つ取った。


 好きか嫌いか。


 そんなことさえ、以前はあまり考えなかった。


 出されたものを食べる。


 礼儀に反しない。


 それが先だった。


「私は、酸っぱいものは少し苦手かもしれません」


 少女は言ってみた。


「そうか」


 ベルはそれだけだった。


 誰も困らない。


 少女は少し笑った。


「でも、これはもう一つ食べます」


「どっちなんだよ」


 ユウが笑う。


「苦手と嫌いは違うのではありませんか?」


「確かに」


 ベルが頷く。


「こいつより分かってるな」


「なんで俺が怒られるの?」


 少女は声を上げて笑った。


 食事が終わる頃、玄関の外から靴音が聞こえた。


 少女の笑い声が止まる。


 扉が二度叩かれた。


「ベル、いるか?」


 ケルだった。


「入れ」


 扉が開く。


 雨除けを羽織ったケルの後ろにはドランもいる。


 二人とも濡れているが、怪我をした様子はない。


 少女は少しだけ胸を撫で下ろした。


「どうだった?」


 ユウが尋ねる。


 ケルは室内へ入る前に靴の泥を落とした。


「線の内側は問題なし」


「外は?」


「新しい跡が一つある」


 少女の手が膝の上で止まる。


 昨日も一匹分の足跡があった。


「また魔物?」


「いや」


 ケルは首を横へ振った。


「人だ」


 部屋の空気が変わった。


 ベルも食器を置く。


「人?」


 ユウの声が低くなる。


「ああ」


 ドランが答えた。


「靴跡だ。雨が降ってからついた」


「いつ頃?」


「朝から今までの間だろうな」


 ケルは外套の水を払いながら続ける。


「東の警戒線から少し離れたところ。村へ入った形跡はない」


「一人?」


「見つけたのは一人分」


 少女は無意識に東の方角を見る。


 壁があるため森は見えない。


「昨日の車輪跡と関係があるのでしょうか」


 口にした直後、少女は自分で止まった。


「……まだ分かりませんね」


 ケルが少女を見る。


「ああ」


「すみません」


「謝ることじゃない」


 少女は膝の上の手から少し力を抜いた。


「その人は、村を見ていたのですか?」


 ユウが尋ねる。


「そこまでは分からん。ただ……」


 ケルは少し間を置いた。


「跡が変なんだ」


「変?」


「森から来て、警戒線の近くまで来てる」


 ドランが低い声で続ける。


「そこで引き返してるんだが、同じ道を戻ってない」


「別方向へ?」


「ああ。北へ向かってる」


 ユウは眉を寄せる。


「北東の古道側?」


「その可能性はある」


 少女の胸が少し速くなる。


 昨日までなら、自分との関係をすぐ疑っただろう。


 今も頭には浮かぶ。


 追放された自分。


 北東の古道。


 知らない車輪跡。


 魔物。


 そして、人の足跡。


 偶然ではないのではないか。


 自分を追っている者ではないか。


 けれど、まだ証拠はない。


 少女はゆっくり息を吸った。


「……怖いです」


 誰かに聞かれる前に、自分から言った。


 ユウが少女を見る。


「うん」


「私と関係があるのではないかとも、考えています」


「うん」


「でも、まだ決めません」


 少女は膝の上の手を見る。


「分からないので」


 ケルが静かに頷いた。


「それでいい」


 少女は少しだけ呼吸を整えた。


「今日は追わない」


 ドランが言う。


「雨の森で人間一人の跡追うのは危ない。向こうが俺たちに見つかりたくないなら、なおさらな」


「村の見張りは?」


「増やす」


 ケルが答える。


「東だけじゃなく北も一人置く。夜は警戒線を少し広げられるか?」


 ユウは考える。


「できると思う。ただ、広げすぎると小動物で鳴りっぱなしになるかも」


「なら今の線を残して、その外にもう一本は?」


「感度落として?」


「ああ。人間か大きい魔物くらいで反応するようにできるなら」


「試してみる」


 少女は二人の会話を聞いていた。


 魔法があるから全部解決するのではない。


 どこへ置くか。


 何に反応させるか。


 誤反応をどうするか。


 村人の見張りとどう組み合わせるか。


 ユウも一人で決めず、ケルたちの経験を聞いている。


「俺も行く」


 ベルが言った。


 ユウがすぐ振り返る。


「どこに?」


「見張り」


「腰痛いんでしょ」


「一だ」


「重いもの持ったら三って言ったじゃん」


「見張りで何持つんだ」


「長時間立ってたら?」


 ベルが黙る。


 少女はその様子を見て、少しだけ笑った。


「座って見張ることはできないのですか?」


 全員が少女を見る。


「え?」


 少女は少し不安になる。


「何か、おかしなことを言いましたか?」


「いや」


 ケルが先に答えた。


「椅子持ってけばいいな」


「見張り台みたいなもの作るか?」


 ドランが言う。


「屋根だけでもあれば雨の日も使える」


 ベルが顎へ手を当てる。


「簡単なのでいいなら作れるぞ」


 ユウも考え始める。


「土台だけ俺が整えれば、そんなに大掛かりじゃなくていいかも」


 少女は驚いて三人を見る。


「本当に作るのですか?」


「便利そうだからな」


 ベルが答える。


「でも、私はただ座ればよいのではと思っただけで……」


「それでいいんじゃない?」


 ユウが言う。


「誰が言ったかより、使えるかどうかでしょ」


 少女は言葉を失った。


 自分の何気ない一言から、話が進んでいる。


 公爵家では意見を述べる時、根拠を揃えなければならなかった。


 王太子の婚約者として会議へ同席する時も、曖昧な発言は避けるよう教えられていた。


 今は違う。


 思いついたから言った。


 使えるなら試す。


 駄目なら直す。


 それでいいらしい。


「じゃあ午後、場所だけ見よう」


 ケルが言う。


「雨が強くなったら明日だ」


「それでいい」


 ドランも頷いた。


 少女は話がまとまっていく様子を、少し不思議な気持ちで見ていた。


 ケルとドランがローデンへ報告するため出ていった後、ユウも一度マーサの家へ戻ることになった。


 少女は立ち上がり、自分の足を確かめる。


「痛みは?」


 ユウが尋ねる。


「二です」


「朝と変わってない?」


「はい」


「じゃあ歩けそうだね」


 少女は頷いた。


 ベルへ礼を言い、雨除けを羽織る。


「今日はありがとうございました」


「何もしてないぞ」


「棚のことを教えていただきました」


「教えたつもりはない」


「でも、教わりました」


 ベルは少し困った顔をする。


「変なやつだな」


「ユウさんにも言われました」


「俺そんな言い方してないよ」


 少女は少し笑った。


「では、今度は鑿を教えてください」


「覚えてたのか」


「はい」


「足治ってからな」


「分かりました」


 約束がまた一つ増えた。


 マーサの家へ戻る道では、朝より少し雨が強くなっていた。


 ユウと少女は並んで歩く。


 距離は近すぎない。


 泥の深い場所ではユウが先に通り、少女はその足跡を避けながら歩いた。


「さっきの見張りの話」


 ユウが言う。


「よく思いついたね」


「座ればよいだけだと思ったのです」


「それが思いつかなかったんだよ」


「皆さん、立つことを前提にしていたのですか?」


「たぶん」


 少女は少し考える。


「私も以前なら、そうだったと思います」


「そうなの?」


「見張りは立ってするものだと教えられたら、それ以外を考えなかったでしょうから」


 王宮の騎士たちも、屋敷の門番も、立っていた。


 だから見張りとは立つもの。


 少女もそう思っていた。


「でも、ベルさんが腰を痛めていると聞いたので」


「うん」


「立たなくても見えるなら、座っても同じなのではないかと思いました」


「介護の仕事でも、そういうの結構あったよ」


 ユウが何気なく言う。


 少女は顔を向けた。


「前のお仕事ですか?」


「うん」


 ユウは前を見たまま続ける。


「みんな同じやり方に合わせるんじゃなくて、その人ができる方法を探すっていうか。立ってできないなら座ってできるかもしれないし、片手で難しいなら道具変えればできるかもしれないし」


 少女は静かに聞く。


「できないから代わりに全部やるのではなく?」


「それで本人が楽なら全部やる時もあるよ。でも、自分でやりたい人からまで取らない方がいいかなって」


 昼間のベル。


 昨日のサナ。


 杖。


 靴の当て物。


 いくつものことが、少しずつ繋がっていく。


「ユウさんは、そのお仕事が嫌いだったわけではないのですね」


 ユウの足がほんの少しだけ遅くなった。


「……うん」


 少女は黙って待った。


 雨が二人の雨除けを細かく叩いている。


「仕事そのものは、嫌いじゃなかった」


 ユウは少し時間を置いて答えた。


「できなかったことができるようになった時とか、本人が嬉しそうにしてるの見るのは好きだったよ」


「では、なぜ辞めたかったのですか?」


 少女は尋ねてから、少し迷った。


「答えたくなければ、答えなくても大丈夫です」


「それ、俺が言ってたやつ?」


「はい」


「使われたな」


 ユウは少し笑った。


 それから、雨の向こうを見る。


「人が足りなかったんだよね」


 少女は黙っている。


「夜、一人でたくさんの人を見たり。誰かが休んだらその分埋めたり。記録とか、会議とか、事故があった時の報告とかもあって」


 ユウの声は淡々としていた。


 けれど少女には、その淡々とした話し方の奥にある疲れを少し感じた。


「誰かを助ける仕事なのに、助ける側がずっと無理するのが当たり前みたいになってた」


 少女は足元を見る。


「……似ていますね」


「何が?」


「少しだけ、私と」


 ユウが少女を見る。


「私は誰かを助ける仕事をしていたわけではありません。でも、公爵家の娘だから。王太子殿下の婚約者だから。できて当然だと言われることが増えていきました」


 少女は言葉を選ぶ。


「できなければ、努力が足りない。疲れていても、皆ができているのだから自分もできるはずだと」


 妹ならできる。


 その言葉までは口にしなかった。


 けれど胸の中には確かに浮かんでいた。


「休みたいと思うこと自体が、よくないことのように感じていました」


「うん」


「ユウさんも、そうだったのですか?」


「かなり」


 ユウは苦笑した。


「休みの日に寝てても、何かしないとって思ってたし」


「今は?」


「昼寝してる」


 少女は笑った。


「知っています」


「村の人に散々言われたからね」


「それでも、昨日は疲れが四なのに働こうとしていました」


「……覚えてた?」


「はい」


「そこは忘れていいよ」


「嫌です」


 少女は即答した。


 ユウが目を丸くする。


 少女自身も少し驚いたものの、言い直さなかった。


「私には休めとおっしゃるのですから、ユウさんも休んでください」


 ユウはしばらく黙っていた。


「……分かった」


「本当ですか?」


「努力します」


「休むのに努力するのですか?」


 少女が尋ねると、ユウは困ったように笑った。


「そこ突っ込む?」


 少女も笑った。


 雨の中の道を歩きながら、胸の奥にあった緊張が少しだけ解けていく。


 少女はまだ、ユウの過去をほとんど知らない。


 どこから来たのか。


 どんな家族がいたのか。


 どうしてこの世界へ来たのか。


 知らないことは多い。


 けれど、今すぐ全部聞く必要はないと思えた。


 聞きたい時に聞く。


 話したくなければ待つ。


 それでいい。


 マーサの家へ着いた頃には、雨脚がさらに強くなっていた。


「午後は外出禁止だね」


 マーサが窓の外を見る。


「禁止なのですか?」


 少女が尋ねる。


「足治りかけの子にはね」


「……分かりました」


 少女は少しだけ残念だった。


 見張り場所を決めるところも見てみたかった。


 けれど、痛みが少ないからといって治ったわけではない。


「何かしたいことある?」


 ユウが尋ねる。


 少女は考える。


 外へ行けない。


 石鹸は待つ。


 ベルの鑿は足が治ってから。


「……分かりません」


「じゃあ、分からないままでいいんじゃない?」


 数日前にも聞いたような言葉だった。


 けれど今は、その意味が少し違って聞こえる。


「ユウさんは?」


「俺?」


「午後は何をするのですか?」


「警戒線の調整があるけど、この雨なら外側の線は明日にするかも」


「それがなくなったら?」


 ユウは考える。


「昼寝?」


「やはり寝るのですね」


「雨の日の昼寝っていいんだよ」


 少女は窓の外を見る。


 雨音は強くなっている。


 外へ出られない。


 予定もない。


「……私も、してみてもよいでしょうか」


「昼寝?」


「はい」


「もちろん」


 少女は少し笑った。


「では、今日はそうします」


 誰かに命じられたわけではない。


 身体が限界になったわけでもない。


 眠くて仕方がないわけでもない。


 ただ、やってみたいから昼寝をする。


 少女にとって、それは石鹸作りや村歩きと同じくらい新しい選択だった。


 昼食後、少女は自分の部屋へ戻った。


 雨音が窓の外で続いている。


 寝台へ横になり、布団を薄く掛ける。


 眠れるだろうか。


 そう思っていたのに、目を閉じてしばらくすると身体から力が抜けていった。


 昨日まで歩き回った疲れが残っていたのかもしれない。


 雨の音が遠くなる。


 少女はいつの間にか眠っていた。


 目を覚ました時、部屋の光は少し暗くなっていた。


 どのくらい眠ったのか分からない。


 少女は一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなり、胸がざわついた。


 けれど窓を打つ雨音と、隣の部屋から聞こえるマーサの物音で思い出す。


 ルーデ村。


 マーサの家。


 少女はゆっくり息を吐いた。


 夢は見なかった。


 ただ眠っただけだった。


「……本当に、昼寝しました」


 誰もいない部屋で呟く。


 少し可笑しくなった。


 部屋を出ると、台所ではマーサが豆を選り分けていた。


「起きたかい」


「はい」


「よく寝てたね」


「どのくらいですか?」


「一刻弱かな」


 少女は驚いた。


「そんなに?」


「疲れてたんだろ」


「何もしていないのに……」


 そこまで言って、止まる。


 今日は棚の作業を手伝った。


 歩いた。


 知らない人の足跡が見つかって緊張した。


 ユウの昔の話も少し聞いた。


 何もしていないわけではない。


「……いえ。少し疲れていたのかもしれません」


「なら寝て正解だ」


 少女は頷いた。


 眠ったことへ罪悪感を覚えそうになったが、その感情も以前ほど強くなかった。


 夕方近く、雨はようやく弱まり始めた。


 少女は窓辺へ座り、濡れた村を眺めていた。


 水たまりへ落ちる雨粒。


 軒下へ避難している鶏。


 遠くで雨除けを着た誰かが歩いている。


 いつもの村とは少し違う景色だった。


 その時、東側から人が戻ってくるのが見えた。


 ローデン。


 ケル。


 ドラン。


 三人だけだ。


 走ってはいない。


 少女は少し安心する。


 それでも、昼に見つかった人の足跡のことが気になった。


 玄関へ向かおうとして、止まる。


 聞きに行きたい。


 けれど、今すぐ自分が聞かなければならないわけではない。


 ローデンたちは必要なら話しに来るだろう。


 少女は椅子へ戻った。


 待つ。


 昨日、石鹸作りで覚えたことだった。


 それから半刻ほど経って、ローデンがマーサの家を訪れた。


 少女も同席してよいか尋ねると、ローデンは頷いた。


「昼の足跡だが、少し先まで確認できた」


 少女は静かに聞く。


「北東の古道へ向かってる」


 やはり。


 胸が少し強張る。


「車輪跡と同じ場所ですか?」


「近い。ただし、同じだとはまだ言えん」


 ローデンは以前と同じように線を引く。


「雨で古い跡がかなり崩れた。今日の靴跡は新しいが、車輪跡と直接重なってるところまでは確認できなかった」


「その人は、どこへ行ったのでしょう」


「分からん」


「森の中へ?」


「それも分からん」


 少女は膝の上の手を見た。


 分からない。


 以前なら、その言葉を聞くたび不安が大きくなった。


 今も不安はある。


 けれど、分からないものを無理に埋めようとは思わなかった。


「明日は?」


 ユウが尋ねる。


「雨が上がれば、外側の警戒線を作る。足跡は追わない」


「分かった」


「あと、見張り場所はベルの案で一つ作ってみる」


 少女が顔を上げる。


「本当に?」


「椅子置くだけより、雨避けあった方がいいからな」


 ローデンが少女を見る。


「お前さんの一言が元だ」


「でも、私は……」


 少女は言いかけて止まった。


 大したことは言っていない。


 そう言おうとした。


 けれど、それを決めるのは自分ではないのかもしれない。


「……役に立ったのなら、嬉しいです」


 素直に言った。


「役に立ったよ」


 ローデンはそれだけ答えた。


 少女の胸が、少しだけ温かくなった。


 夜になっても、雨は細く降り続いていた。


 少女は寝る前に右の踵を確認する。


 昼寝をして休んだせいか、痛みはほとんどない。


 明日には、もっと歩けるかもしれない。


 できることも増えるかもしれない。


 けれど、できることが増えたからといって、全部しなければならないわけではない。


 今日、少女は棚の修理を少し手伝った。


 酸っぱい野菜が少し苦手だと知った。


 座って見張ればよいのではないかと言った。


 ユウの昔の仕事について、ほんの少し知った。


 そして、自分で昼寝をすると決めた。


 どれも、公爵家の娘として求められてきた成果とは比べようもないほど小さなことだった。


 それでも少女は、今日という一日を無駄だったとは思わなかった。


 寝台へ横になり、雨音へ耳を澄ませる。


 明日の予定はまだ決まっていない。


 森の問題も解決していない。


 北東の古道へ向かった人物が誰なのかも分からない。


 少女自身がこの村でこれからどうするのかも、まだ決められない。


 それでも、一つだけ分かることがあった。


 明日の自分が何をするのかは、明日になってから自分で決めてもいい。


 少女はその考えを胸の中へ置いたまま、静かな雨音の中で目を閉じた。

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