第20話 ここにいたい
夜のあいだ降り続いた雨は、朝になる頃にはすっかり上がっていた。
雲の切れ間から差し込んだ光が濡れた屋根を白く照らし、軒先からは昨夜の名残の雫が、ときおり思い出したように落ちている。土の道にはまだいくつもの水たまりが残っていたが、東から吹いてくる風には雨の冷たさよりも草と湿った土の匂いが強く混じり、昨日とは違う明るい朝になっていた。
少女はマーサの家の前へ出ると、まず右足へ体重をかけてみた。
立っているだけなら、ほとんど痛くない。
数歩歩いても、踵の傷にはわずかな違和感が残っているだけだった。ベルとユウが作ってくれた当て物を入れていることもあるだろうが、昨日までとは明らかに違う。
「一……くらいでしょうか」
「歩いて?」
後ろから声がして振り返ると、マーサが洗った布を抱えて立っていた。
「はい。傷があるのは分かりますが、痛いというほどではありません」
「なら随分よくなったね」
「今日はもう少し歩いても大丈夫でしょうか」
「それを私に聞くのかい?」
少女は口を閉じた。
マーサが意地悪を言っているわけではないことは、もう分かっている。
「……歩いてみたいです」
「なら歩けばいいさ」
「でも、傷が悪くなったら」
「痛くなったら戻ればいい」
マーサは洗濯物を抱え直し、庭に張られた紐の方へ歩いていく。
「最初から一日の分を決めなくてもいいんだよ。朝歩いて平気なら昼も考えりゃいいし、朝だけで痛くなったら午後は休めばいい」
「途中で変えてもよいのですね」
「誰に怒られるんだい」
少女はすぐに答えられなかった。
以前なら、予定を途中で変えるだけでも理由が必要だった。
体調が悪い。
天候が悪い。
相手の都合が変わった。
予定変更には、誰かが納得できる理由を添えるものだと思っていた。
「……誰にも、怒られませんね」
「私なら、無茶したら怒るけどね」
「それは昨日までで分かりました」
「ならいい」
マーサが笑い、濡れた布を広げる。
少女も自然に笑った。
朝食を終える頃には、村のあちこちから人の声が聞こえ始めていた。
昨日の雨で畑へ出られなかった分、今日は朝から動く者が多いらしい。遠くではガルドの声が響き、その少し後にユウの「分かったって!」という返事が聞こえてきて、少女とマーサは顔を見合わせた。
「今日も捕まっていますね」
「毎日だよ」
「ユウさんも、嫌なら断ればよいのに」
「嫌じゃないんだろ」
マーサは残っていたスープを飲みながら答えた。
「嫌じゃないからやるのと、やらなきゃいけないと思ってやるのは違うからね。あいつも最近は少し分かってきたみたいだけど」
少女は昨日、ユウへ休んでほしいと伝えた時のことを思い出した。
人には休めと言うくせに、自分の疲れには鈍い。
けれど、以前のユウは今よりさらにそうだったのだという。
「難しいですね」
「何がだい?」
「自分が本当にやりたいのか、それとも、やらなければならないと思っているだけなのかを区別することです」
「難しいよ」
マーサはあっさり認めた。
「だから間違えたら、その時また考えるんだ」
昨日のベルと似ている。
一度決めたからといって、ずっと同じである必要はない。
少女はその言葉を胸の中へ置いた。
朝食を片づけた後、少女は一人で外へ出た。
目的地は決めていない。
それでも昨日のような不安はなかった。
道はまだぬかるんでいるため、歩きやすい場所を選びながらゆっくり進む。家々の庭では雨水を捨てたり、倒れた鉢を戻したりする者がいて、少女が通ると何人かが「おはよう」と声をかけてきた。
「おはようございます」
少女も一人ずつ返す。
最初に村へ着いた夜には、誰かに見られるだけで身体が強張った。
今も知らない人の視線がまったく怖くないわけではない。けれど、ここ数日で何度か顔を合わせた者については、少なくとも自分を見るなり罪人と決めつけて責め立てる人ではないことを知っている。
それだけでも、歩く時の呼吸が違った。
「お嬢ちゃん!」
横から呼ばれ、少女は足を止めた。
共同井戸の近くにいた老婆が、桶を地面へ置いて手招きしている。
「はい?」
「足は治ったのかい?」
「かなりよくなりました」
「そうかい。昨日は雨だったから冷えただろ」
「大丈夫でした。昼寝もしましたので」
少女が答えると、老婆が笑った。
「そりゃいい。雨の日は寝るに限るよ」
「皆さん、本当にそうなのですね」
「働く日もあれば寝る日もあるさ」
老婆は桶を持ち上げようとする。
少女は反射的に手を伸ばしかけたが、途中で止まった。
「お手伝いは必要ですか?」
以前なら、聞く前に持っていただろう。
老婆は桶を一度持ち上げ、重さを確かめるように腕を動かした。
「今日は大丈夫だよ」
「分かりました」
「明日腰が痛かったら頼むかもしれんけどね」
「その時は、私にできそうならお手伝いします」
「頼むよ」
少女はそれだけ言って離れた。
断られても、自分が不要だと言われた気はしなかった。
今日は必要ない。
明日は分からない。
それだけのことだった。
道を歩いていると、村の東側にいつもとは違う人影が見えた。
ケルとドラン、それからローデンがいる。
少し離れたところではベルが木材を運び、ユウが地面へしゃがみ込んで何かを確認していた。
少女は昨日の話を思い出す。
見張りをする場所。
座って見張れるようにするための、小さな雨避け。
「もう作るのですね」
近づきながら声をかけると、ベルが振り返った。
「おう」
「おはようございます」
「足は?」
「一くらいです」
「なら泥に気をつけろ」
「はい」
昨日までなら、そこで「何か手伝います」と続けていたかもしれない。
今日はまず周囲を見る。
地面には四本の短い杭が置かれ、屋根に使うらしい板も積まれている。大きな建物ではなく、大人二人ほどが座れる程度の簡素な場所を作るようだった。
「ここに見張り場所を作るのですか?」
少女が尋ねると、ケルが東側を指した。
「もう少し南も考えたが、ここが一番見やすい。北東の古道側も少し見える」
少女は指された方を見る。
村の端から先には低い草地が続き、その向こうに森が広がっている。昨日までより空気が澄んでいるせいか、雨に洗われた木々の緑が濃く見えた。
「警戒線は?」
「今のがあの辺」
ユウが立ち上がり、少し先を示す。
「その外側に、もう一本作ってみようと思ってる」
「昨日話していたものですね」
「うん。ただ、今の警戒線と同じ感度だと動物で鳴りすぎるから、大きいものだけ拾えるようにできるか試してるところ」
「できそうですか?」
「たぶん。でも、たぶんで村の警戒に使うのも怖いから、今日は試すだけ」
ユウの手には銀色の魔導書がある。
少女は何度か見たことのある本だった。
魔法なら、すぐに完成させられるのだと思っていた。
けれどユウは、できそうだからといってすぐ実用へ回そうとはしない。
「試す時は、どうするのですか?」
「人に歩いてもらったり、ガルド爺さんに走ってもらったり」
「俺が走るのか?」
少し離れたところから声が飛んできた。
少女が振り返ると、いつの間に来たのかガルドが腕を組んでいる。
「聞いてたの?」
「今聞いた!」
「じゃあ走って」
「任せろ!」
「元気ですね……」
少女が呟くと、ローデンが苦笑した。
「止める方が疲れる」
「七十四歳なのですよね?」
「本人の前で老人扱いしない方がいいぞ」
「聞こえてるぞ!」
ガルドが叫ぶ。
「まだ若い!」
「やはり聞こえています」
少女が笑うと、周囲の男たちもつられて笑った。
ベルが杭を立てる位置を確認し始める。
少女は作業の邪魔にならない場所へ移動し、しばらく見ていることにした。
土台をユウが魔法ですべて作るのかと思っていたが、実際には最初にベルとケルが地面の状態を確認し、水が溜まりにくい位置を選んでいた。ユウが茶色の魔導書を開いたのはその後で、土を大きく動かすのではなく、杭を打つ部分だけを少し締めている。
「もっと広く固めないのですか?」
「雨水が流れなくなるから、このくらいでいいって」
ユウが答えながらベルを見る。
「だよね?」
「俺に聞くな。水はケルだ」
「なんで?」
「昨日見た」
「それだけ?」
「俺より知ってる」
ベルは気にした様子もなく杭を持つ。
昨日、ユウが言っていたことを少女は思い出した。
自分よりできる人に任せればいい。
ベルも同じようにする。
この村では、それが特別なことではないらしい。
「お嬢ちゃん、そこから少し下がってくれ」
ベルに言われ、少女は素直に二歩下がった。
「ここでよいですか?」
「ああ。木が倒れるかもしれん」
「分かりました」
少女は離れた場所から作業を見守った。
やりたいからといって、何でも近くでやらせてもらえるわけではない。
危ない時は離れる。
できないことは、できる人に任せる。
それでも、自分がそこにいることまで否定されるわけではなかった。
しばらくすると、ローデンが少女の近くへ来た。
「少しいいか?」
声は穏やかだった。
それでも少女の身体は、反射的に強張った。
「……はい」
「そんな顔するな。叱る話じゃない」
「すみません」
「それもいらん」
ローデンは東の森へ一度視線を向けてから、少女へ戻す。
「昨日の足跡の話とは別だ」
「別……」
「あんた自身のことだ」
胸の奥が冷えた。
少女は無意識に両手を重ねる。
いつか来る話だとは分かっていた。
何日か食べさせてもらい、寝る場所を借りている。
村人たちは追い出さなかった。
けれど、それが永遠に続くと決まったわけではない。
「今ここで全部話せって意味じゃない」
ローデンが少女の顔を見て言った。
「ただ、足も治ってきただろ」
「……はい」
「だから、そろそろこれからのことを少し考えた方がいい」
少女は俯きそうになった。
足が治った。
歩けるようになった。
なら、出ていかなければならない。
その考えが真っ先に浮かんだ。
「私……」
声がうまく出ない。
昨日まで何度も、自分で決めてもよいのだと教えられてきた。
けれど、選べるのは小さなことだけなのかもしれない。
昼寝をする。
石鹸を見る。
ベルの作業を手伝う。
村に残ることまで、自分が選んでよいとは限らない。
「今夜出ていけって話じゃないぞ」
ローデンが言う。
少女は顔を上げた。
「……違うのですか?」
「足が治った途端に追い出したら、マーサに俺が追い出される」
少し離れた場所で木材を持っていたマーサ本人が、こちらを見た。
「聞こえてるよ」
「ほらな」
「怪我人を雨上がりの道へ放り出したら、あんたの飯はしばらくないからね」
「だからやらん」
ローデンは肩をすくめた。
少女は笑えなかった。
安心したはずなのに、胸の緊張がまだ解けない。
「でもな」
ローデンは続ける。
「この村にいるなら、村として考えなきゃならんこともある」
「……はい」
「特にあんたの場合は、普通に旅してきたわけじゃない」
追放。
その言葉をローデンは口にしなかった。
けれど、少女には分かった。
「私は……王国東部管理境界の向こうへ置いていかれました」
「ああ」
「戻ってきてしまいました」
「そこだ」
ローデンは頷く。
「昔の追放なら、境界の外へ出された人間が勝手に王国内へ戻れば問題になることもあった。だが、今あの制度がどう扱われてるか、俺も細かいところまでは知らん」
少女は静かに聞いた。
ローデンも法律の専門家ではない。
辺境で商人や役人とのやり取りをしているだけの人だと聞いている。
「追放を命じられた時、書面は渡されたか?」
「いいえ」
「何か読まれたか?」
少女は記憶を辿った。
あの日のことを思い出すだけで、胸の奥に鈍い痛みが広がる。
大勢の視線。
王太子の冷たい声。
父の怒鳴り声。
母の失望した顔。
友人だった少女の伏せられた目。
それから馬車。
「正式な処分については、王宮で告げられました」
声が少し震えた。
「婚約を破棄すること。それから……私を王都から追放し、東部管理境界の外へ送ると」
「期間は?」
「聞いていません」
「王国への立ち入りを禁じるとは?」
少女は目を閉じ、記憶を探した。
「……分かりません」
「分からんでいい。無理に思い出すな」
ローデンがすぐ止める。
少女はゆっくり息を吐いた。
「馬車へ乗せられてからは、ほとんど説明されませんでした。境界へ着いた時も、『ここから先があなたの追放地です』とだけ」
「書面もなし」
「はい」
「身分を示すものは?」
少女は首を横へ振る。
「持っていたものは、ほとんど取り上げられました」
残されたのは、小さな鞄。
着替え一組。
薄い外套。
硬いパン。
わずかな銀貨。
それだけだった。
公爵家の娘であることを証明する品も、王太子の婚約者だったことを示すものもない。
「なるほどな」
ローデンは腕を組んだ。
答えが出た顔ではない。
むしろ分からないことが増えたように見える。
「困りますか?」
少女は尋ねた。
「困る部分はある」
ローデンは誤魔化さなかった。
胸が痛む。
それでも少女は逃げずに聞いた。
「どのようなことでしょう」
「もし役人が来て、あんたを追放者だと知った時に、村が勝手に匿ったと言われる可能性がある」
「……はい」
「逆に、追放が境界の外へ一度出す処分だけなら、戻ってきても問題ないかもしれん。昔の制度と今の運用が同じとも限らんし、王都の貴族に対する処分なら普通の追放とは扱いが違う可能性もある」
少女は一つずつ理解しようとする。
ローデンは結論を持っていない。
だからこそ、都合のよいことだけ言わない。
「それを調べるためには……私が誰なのか、必要なのですね」
ローデンは少し黙った。
「あった方が調べやすい」
少女の指先が冷たくなる。
名前。
家名。
公爵家。
王太子の元婚約者。
それを口にすれば、今までのようにはいられなくなる気がした。
村人たちにとって自分は「昨日来た人」だった。
正確には、もう昨日ではない。
それでも、何者なのか決められないまま、ここにいてよかった。
名前を言えば、また過去が自分へ貼りつく。
「今日言わなくてもいい」
ローデンが言った。
少女は驚いて顔を上げる。
「ですが、必要なのでは」
「必要なのと、今この場で吐かせるのは別だ」
「……でも」
「今朝突然役人が来る予定でもない」
ローデンは東側へ視線を向ける。
「今はむしろ、森と知らん人間の足跡の方が近い問題だ」
少女も森を見る。
人の足跡。
北東の古道。
自分との関係は分からない。
「私のせいかもしれません」
言ってから、少女は続ける。
「……そう考えてしまいます」
「そうかもしれんし、違うかもしれん」
ローデンはそれだけだった。
「だから調べてる」
「はい」
「何でも自分に繋げるなとは言わん。実際、繋がってる可能性もあるからな」
少女は少し驚いた。
ユウなら「まだ分からない」と言う。
ローデンも同じだが、さらに現実的だった。
「ただ、可能性があることと、決まったことは違う。そこを混ぜるな」
「……はい」
少女は頷いた。
自分のせいではないと言い切ってもらうより、その言葉の方が信じられた。
「ローデン」
ユウが近づいてきた。
「外側の線、少し試せそう」
「後で見る」
「何話してたの?」
ローデンが少女を見る。
説明するかどうかを任せているのだと気づく。
少女は少し迷った。
「私が、この村にいることについてです」
ユウの表情が少し変わった。
「追放のこと?」
「はい」
「そっか」
ユウは少女の隣へ立つが、何も決めつけない。
「どうすることになった?」
「まだ、何も」
少女は答える。
「私がどのような命令で追放されたのか、詳しいことが分からないので」
「書類とかないんだ?」
「ありません」
「じゃあ調べるのも難しいね」
「私が名前を話せば、少し分かるかもしれないそうです」
ユウは一度ローデンを見る。
それから少女へ戻す。
「話したくない?」
少女はすぐには答えられなかった。
「……怖いです」
「うん」
「名前を言ったら、また……」
言葉が止まる。
何が怖いのか。
少女自身にも完全には整理できていない。
「皆さんの見方が変わる気がします」
ようやく出てきた言葉は、それだった。
「今は、私が誰だったのかを知らないまま話してくださいます。でも、名前を言えば、家も分かるかもしれません。そうしたら、私が何をしたとされているのかも……」
公爵家の娘。
王太子の婚約者。
婚約破棄。
罪人。
それらが一度に戻ってくる。
「それを知っても、同じようにしてくださるとは限りません」
少女の声は震えていた。
けれど、止めなかった。
「怖いです」
二度目は、最初よりはっきり言えた。
ユウはしばらく黙っていた。
近くではベルが木槌を振るう音が続き、濡れた木から水滴が落ちている。少し離れたところではガルドが外側の警戒線を試す準備をしていて、この場所だけ時間が止まったわけではなかった。
「変わる人はいるかもしれない」
ユウが言った。
少女は顔を上げる。
「……そうですよね」
「だって、知らなかったこと知るんだから」
ユウは誤魔化さない。
「貴族が苦手な人もいるかもしれないし、王都で何があったか聞いて警戒する人もいるかもしれない」
少女の胸が痛む。
それでも聞く。
「でも、それって名前を言わなくても、いつか起きるんじゃない?」
「……いつか」
「ずっと何も話さないって決めるなら、それも考えなきゃいけないけど」
ユウは少女を見る。
「今、怖いから今日言わないのと、ずっと言わないのは別でしょ」
少女は黙った。
今日決めなくてもいい。
また、その考えだった。
「それに」
ユウは少し困ったように笑う。
「俺も本名全部言ってないし」
「え?」
少女が瞬きをする。
ローデンもユウを見る。
「そういやそうだな」
「ユウさんは、ユウさんではないのですか?」
「ユウは名前の一部というか……まあ、ユウではあるよ」
「一部?」
「向こうの名前、こっちだと呼びにくそうだったから」
「初めて聞きました」
「言ってなかったからね」
少女は呆気に取られた。
自分だけが名前を隠しているような罪悪感があった。
けれど、目の前の男も村では「ユウ」としか名乗っていないらしい。
「ローデンさんは知っているのですか?」
「知らん」
「マーサさんは?」
「知らないと思う」
「ガルドさんも?」
「たぶん」
「それでよいのですか?」
少女が思わずローデンへ尋ねると、ローデンは肩をすくめた。
「困ってないからな」
「でも……」
「王都の役人が来て、ユウの戸籍を出せと言われたら困るかもしれん」
「俺、戸籍ないと思う」
「だからその時考える」
「雑じゃない?」
「お前が言うな」
少女は二人を見た。
そして、少しだけ笑った。
名前は大切だ。
身分も、法律も、無視してよいものではない。
けれど、今この瞬間の関係が、名前だけでできているわけでもないらしい。
「ローデンさん」
少女は呼んだ。
「なんだ?」
「私……」
そこまで言い、呼吸を整える。
全部を話す必要はない。
今日話せるところまで。
それを自分で決める。
「公爵家の娘です」
口にした瞬間、胸の奥が強く痛んだ。
もう「です」と言ってよいのか分からない。
家から切り捨てられた。
それでも、生まれた家まで消えるわけではない。
「正確には……娘でした、と言うべきなのかもしれません」
ローデンは黙って聞いている。
ユウも何も挟まない。
「そして、王太子殿下の婚約者でした」
声が震えた。
あの日の光景が蘇る。
大広間。
集められた人々。
冷たい視線。
『もういい』
彼の声。
信じてもらえなかった。
自分の言葉は、最後まで届かなかった。
少女は手を強く握りそうになり、途中で力を抜いた。
「今は、違います」
それだけ言うのにも時間がかかった。
ローデンの表情が変わる。
驚いていないわけではない。
公爵家と王太子。
辺境の小さな村には、あまりにも遠い言葉だった。
「……なるほどな」
ローデンがゆっくり息を吐いた。
「それなら普通の追放とは扱いが違う可能性が高い」
「はい」
「名前は?」
少女の肩が僅かに強張る。
ローデンはそれを見て、すぐ言葉を足した。
「いや。今はいい」
「……申し訳ありません」
「だから謝るな」
少女は俯く。
「まだ、名前は……」
「言いたくなった時でいい」
ユウが言った。
少女は彼を見る。
「でも、ローデンさんが調べるには」
「公爵家の令嬢で、元王太子の婚約者が最近追放された。このくらい大きい話なら、町へ行けば何か聞けるかもしれん」
ローデンが答えた。
「俺から王都へ問い合わせるような真似はしない。まずは次に町へ行く商人から、最近の王都の話を聞く程度だ」
「私がここにいることは?」
「言わん」
「……ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早い」
ローデンは真剣な顔で少女を見る。
「調べて、もしこの村にいることが明確にまずいと分かったら、その時はまた話す」
少女の胸が締めつけられた。
それでも頷く。
「はい」
「村も巻き込むことになるからな」
「分かっています」
怖い。
けれど、必要な話だ。
自分がここにいたいからといって、村人たちへ危険を押しつけてよいわけではない。
「それともう一つ」
ローデンが続ける。
「そもそも、あんたがここにいたいのかを聞いてない」
少女は息を止めた。
「……え?」
「法的にいられるとしても、本人が出ていきたいなら話は違うだろ」
考えていなかった。
正確には、考えることを避けていた。
この村へ残れるか。
追い出されるか。
そればかり考えていた。
自分が残りたいのかどうかを、誰からも尋ねられていなかった。
「今すぐ答えなくても――」
「いたいです」
ローデンの言葉を遮っていた。
少女自身が、一番驚いた。
ユウも少し目を見開いている。
ローデンは何も言わない。
少女の心臓が速く打つ。
言ってしまった。
けれど、取り消したくなかった。
「……ここに、いたいです」
今度はゆっくり言った。
喉が震える。
「ずっとなのかは、まだ分かりません。私は、自分がこれから何をするのかも分かりませんし、皆さんにご迷惑をおかけするかもしれません」
言葉が溢れそうになるのを、一つずつ整える。
「王都へ戻りたいのかも、まだ……分かりません」
戻りたい。
戻りたくない。
家族に会いたい。
会いたくない。
妹の顔が浮かぶ。
あの子は今、どうしているのだろう。
自分が追放されたことを知っているのだろうか。
胸が痛む。
それでも今答えられることはある。
「でも、今は」
少女は村を見る。
小さな家。
濡れた畑。
作りかけの見張り場所。
ベルが置いた木材。
遠くでこちらを気にしながら、何も聞こえていないふりをしているガルド。
マーサの家。
サナの石鹸。
オルドの鶏。
そして、隣にいるユウ。
「今は、この村にいたいです」
自分で選んだ。
誰にも命じられていない。
公爵家のためでもない。
王太子のためでもない。
妹より優れていることを証明するためでもない。
罪を晴らすためですらない。
ただ、自分がここにいたい。
それだけだった。
「分かった」
ローデンは短く答えた。
少女は瞬きをする。
「……それだけですか?」
「何を言えばいい」
「分かりません」
「なら俺も分からん」
少女は思わず笑ってしまった。
ローデンも僅かに口元を緩める。
「村に正式に住むとか、そういう話は法律のことを少し調べてからだ。ただ、調べてる間ここにいることについて、俺は反対しない」
「本当ですか?」
「マーサの家にいつまで置くかはマーサと相談しろ。飯もずっとただで出すわけにはいかんから、その辺も考える」
「はい」
少女は頷く。
その話が嬉しかった。
何でも無料。
何でも無条件。
何も考えなくてよい。
そう言われるより、自分がここで暮らすために考えることがある方が、少しだけ未来を感じられた。
「仕事についても、足が治ったからって急いで決める必要はない」
「でも、何かはしたいです」
「それは自分で探せ」
「はい」
「困ったら聞け」
「はい」
少女はもう一度頷いた。
「よし!」
突然、大声が響いた。
全員が振り返る。
少し離れた草地で、ガルドが両腕を上げていた。
「何?」
ユウが聞く。
「俺はいつ走ればいい!」
緊張していた空気が一気に崩れた。
「ずっと待ってたの?」
「待ってたぞ!」
「言ってよ!」
「大事な話してたから待ってた!」
「そこは気を遣えるんだ……」
「俺を何だと思ってる!」
少女は口元を押さえて笑った。
目の奥が少し熱い。
先ほどまでの感情が残っている。
泣きそうなのか。
笑いたいのか。
自分でもよく分からない。
けれど、どちらか一つに決めなくてもいいのだと思えた。
外側の警戒線の試験は、少女も離れた場所から見学することになった。
ユウが銀色の魔導書を開き、既存の《警戒線》よりもさらに東側へ薄い魔力の境界を作る。見た目にはほとんど分からず、少女が目を凝らすと、濡れた草の上にごく淡い銀色の揺らぎが見える程度だった。
「まず歩くぞ!」
ガルドが張り切っている。
「普通に歩いて」
「分かった!」
「普通だからね?」
「分かってる!」
ガルドは線へ向かって歩く。
境界を越えた瞬間、ユウの持つ銀色の魔導書が小さく震えた。
「反応した」
ケルが言う。
「音は?」
「今は俺だけ分かるようにしてる」
「見張り場所でも分かるようにできるか?」
「そこ試したい」
ユウは本を見ながら調整する。
少女には何をしているのかほとんど分からない。
けれど、最初から完成しているわけではないことは分かった。
「次、走るぞ!」
「待って! まだ!」
「まだか!」
「なんでそんなに走りたいの?」
「若いからだ!」
ベルが木材を削りながら呟く。
「転ばせとけ」
「雨上がりだから本当に転ぶよ」
少女は笑いながら見ていた。
試験は思ったより長く続いた。
ガルドが歩く。
走る。
ケルが外套を広げて歩く。
ベルが木材を持って越える。
最後にはオルドの鶏を借りて試そうという話まで出たが、それはユウが止めた。
「なんで鶏なんだよ」
「小さい動物で鳴らないか確認するんだろ?」
ガルドが言う。
「鶏を東の警戒線まで連れてくる方が大変でしょ」
「じゃあ犬は?」
「この村、犬いたっけ?」
「いないな」
「じゃあ何で言ったの?」
少女は声を上げて笑った。
試験の結果、大人が普通に歩けば反応する一方、小さな石を投げたり、枝を揺らした程度では反応しないところまで調整できた。
しかしユウは満足していなかった。
「魔物で試せないんだよね」
「試すために連れてくるなよ」
ドランが真顔で言う。
「しないよ」
「お前なら捕まえられそうだから先に言った」
「俺を何だと思ってるの?」
「岩を消すやつ」
ベルが答える。
「まだ言う?」
少女は以前聞いた、ユウが小さな火の魔法で岩を消し飛ばした話を思い出した。
本人にとっては忘れてほしいことらしい。
「今日は仮運用だな」
ローデンがまとめる。
「今の警戒線はそのまま残す。外側は補助。反応したら、必ず人が確認する」
「それがいいと思う」
ユウも頷いた。
「魔法だけで判断しない方がいい」
少女はその言葉を聞きながら、少し前の自分を思い出していた。
証拠。
証言。
積み重なった疑い。
それによって、自分は罪人にされた。
魔法が反応した。
だから敵だ。
そんな決め方を、この村の人たちはしない。
反応は知らせるだけ。
その後、人が見る。
確かめる。
考える。
少女は胸の奥が僅かに痛むのを感じたが、今はその感情を追い払わなかった。
見張り場所も昼前には形になった。
四本の柱。
簡単な屋根。
背もたれのない長椅子。
壁は東側からの風を避ける部分にだけ取りつけられ、視界を塞がないよう開けられている。
「できましたね」
少女が言う。
「まだだ」
ベルは座ってみる。
数秒後、立ち上がった。
「低い」
「え?」
「椅子が低い」
「また直すの?」
ユウが笑う。
「腰にくる」
「昨日の棚と同じですね」
少女が言うと、ベルがこちらを見る。
「使ったから分かった」
「はい」
「どうすると思う」
突然尋ねられ、少女は見張り場所を見る。
椅子そのものを作り直す。
脚を長くする。
何かを下へ入れる。
いくつか浮かぶ。
「脚の下へ、木を足すのは駄目でしょうか」
「悪くない」
「本当ですか?」
「ただ固定しないとずれる」
「では、固定すれば」
「できる」
ベルは木材の余りを見る。
「やってみるか?」
「私が?」
「鑿はまだ使わせんぞ」
「分かっています」
少女は笑った。
ベルの指示を聞きながら、必要な長さを測る。
一度目は少し短かった。
少女の顔が強張りかける。
けれどベルは木片を見て、「これは別に使う」と横へ置いただけだった。
「次」
「はい」
二度目。
今度は少し長い。
「長いです」
「削ればいい」
「失敗では?」
「長いのは直せる」
少女は木片を見る。
「では、削ります」
「そこは俺がやる」
「はい」
できないところは渡す。
ベルが削った木片を、少女がもう一度合わせる。
「今度は?」
「合っています」
「じゃあそれだ」
四つ分を用意するのに、思ったより時間がかかった。
少女が実際に行ったことは、測って印をつけ、ベルへ渡した程度だ。
それでも、椅子が少し高くなった後にベルが座り、「これならいい」と言った時、胸の中に小さな喜びが広がった。
「私が考えたものが、本当に使われるのですね」
「嫌なら外すぞ」
「嫌ではありません」
少女は慌てて答えた。
「むしろ……嬉しいです」
「ならよかったな」
ベルはそれだけ言った。
昼になり、作業していた者たちは一度村の中央へ戻った。
マーサとサナが簡単な食事を用意しており、オルドも卵を持ってきていた。少女が近づくと、サナが手招きする。
「石鹸、気になるかい?」
「はい」
「まだだよ」
「分かっています」
「見に来るかと思った」
「三日後と言われましたから」
「ちゃんと待てたね」
少女は少し笑う。
「少し見たいとは思いました」
「なら見てもよかったのに」
「……よかったのですか?」
「触らなきゃね」
「それは先に言ってください」
少女が珍しく少し不満そうに言うと、サナが大笑いした。
「聞かなかったじゃないか」
「確かにそうですが……」
「じゃあ飯の後見るかい?」
少女は一瞬考えた。
見たい。
でも三日後の変化も楽しみにしている。
「今日はやめておきます」
「いいのかい?」
「はい。三日後に見た方が、変わったところが分かりそうですから」
「そうかい」
自分で決めた。
見たい気持ちはある。
けれど、今日は見ない。
少女はその選択に小さな満足を覚えた。
食事が始まると、自然に見張り場所の話になった。
「椅子の高さは、あの子の案で直したぞ」
ベルが少女を指す。
「私だけではありません」
「最初に木を足すって言ったのはお前だろ」
「でも削ったのはベルさんです」
「それがどうした」
少女は返事に困った。
サナが笑う。
「いいじゃないか。二人でやったってことで」
「……はい」
その言い方が、一番しっくりきた。
自分一人の成果にしなくてもいい。
かといって、自分は何もしていないと消す必要もない。
二人でやった。
それでいい。
食事の途中、ローデンが町へ向かう予定について話し始めた。
「次の商人が来るのは、順調なら四日後だ」
少女の手が僅かに止まる。
「その方から、王都のことを?」
「ああ。直接あんたの話は出さない」
「公爵家のことも?」
「最初は出さん。最近王都で大きな話がなかったか聞く程度だ」
「それで分かるでしょうか」
「王太子の婚約が破棄されたなら、商人の耳にも入ってる可能性は高い」
周囲にいた村人たちが、少しだけ静かになった。
少女は視線を感じる。
ローデンから聞いたのか。
あるいは先ほどの会話が見えていたのか。
自分が公爵家の娘で、元王太子の婚約者だということを、ここにいる全員が知っているわけではないはずだ。
「今、話しますか?」
少女はローデンへ尋ねた。
「何を?」
「皆さんに、私のことを」
ローデンは少し考える。
「俺から言う話じゃない」
「……はい」
「言いたいなら言えばいい。言いたくないなら今日は言わなくていい」
少女は食卓を囲む人々を見る。
マーサ。
サナ。
ベル。
ガルド。
オルド。
ケル。
ドラン。
ユウ。
この数日、自分を助けてくれた人たち。
怖い。
知られたら、何かが変わるかもしれない。
それでも、先ほど自分はローデンとユウへ一歩だけ話した。
もう一歩進むか。
今日はやめるか。
どちらでもよい。
少女は自分の呼吸を確かめた。
「今日は……まだ、やめておきます」
何人かがこちらを見る。
けれど、誰も理由を聞かなかった。
「そうかい」
マーサがスープをよそう。
「なら食べな」
「はい」
少女は匙を持った。
話さないと決めたことも、自分の選択だった。
午後は足を休めるため、マーサの家で過ごした。
痛みは二にも届いていない。
それでも朝から歩き、見張り場所の作業も見ていたため、今日はここまでにしようと思えた。
少女は窓辺で布を畳むマーサを眺めていた。
「手伝うかい?」
珍しくマーサの方から尋ねる。
「はい」
少女は答え、すぐに付け足した。
「やってみたいです」
「じゃあこっちの小さいのだけ頼むよ」
二人で布を畳む。
特別な技術は必要ない。
少女が端を合わせると、少しずれた。
直す。
次はきれいに重なる。
「マーサさん」
「なんだい?」
「私は、しばらくこの村にいたいとローデンさんへ伝えました」
マーサの手が止まる。
「そうかい」
「……驚かないのですか?」
「なんとなく、そう言うんじゃないかと思ってたよ」
「なぜ?」
「三日後の石鹸を楽しみにしてる人間が、今日出ていくとは思わないからね」
少女は思わず笑った。
「確かにそうですね」
「ただ、うちにずっと泊まるなら話は別だよ」
少女の背筋が伸びる。
「はい」
「その顔するんじゃないよ」
マーサは苦笑する。
「追い出すって意味じゃない。長くいるなら、あんたの場所を考えた方がいいって話さ」
「私の場所……」
「空き家はいくつかある」
少女は驚いた。
「家を?」
「まだ決まった話じゃないよ」
「はい」
「今のあんたに一人暮らしさせるのがいいかも分からんし、家を直す必要もある。しばらくここにいたって構わない」
少女は自分の部屋を思い浮かべる。
マーサの家の客間。
安全だった。
夜に怖い夢を見た時、水をもらった。
扉を内側から閉められることも教えてもらった。
「……少し寂しいです」
思わず出た。
マーサが少女を見る。
「まだ出ていく話じゃないよ」
「分かっています」
少女は自分でも戸惑いながら続ける。
「でも、自分の家を持つかもしれないと聞いたら、ここを出ることを想像してしまいました」
「近所だよ」
「そうなのですか?」
「この村で遠くへ引っ越す方が難しいよ」
少女は笑った。
「それなら、少し安心しました」
自分の家。
まだ想像できない。
公爵邸にあった自室とは、きっとまったく違う。
使用人もいない。
大きな寝台もない。
けれど、もしそこに住むなら、何を置くのだろう。
そんな考えが浮かんだ。
少女は慌てて先まで考えすぎないようにする。
まだ法的に残れるかも分からない。
空き家へ移るとも決まっていない。
「今は、ここにいてもよいですか?」
少女が尋ねる。
「もちろん」
「ありがとうございます」
「その代わり」
マーサが言う。
少女は少し緊張する。
「自分の分の布くらい畳んどくれ」
少女は目の前の布を見る。
「それだけですか?」
「今はね」
「はい」
少女は笑いながら、次の布を手に取った。
夕方近くになると、ユウがマーサの家へ顔を出した。
外側の警戒線は一日試して問題がなかったため、夜も補助として使うらしい。ただし昨日見つかった人間の足跡については、新しい情報はなかった。
「北側も見たけど、今日は新しい跡なし」
ユウが椅子へ座りながら言う。
「雨で消えた可能性もあるけど」
「そうですか」
少女は少し安心し、それと同時に、何も分からなかったことへの不安も感じた。
「怖い?」
「少し」
「うん」
「でも、昨日ほどではありません」
「どうして?」
少女は考える。
「皆さんが警戒してくださっているから……でしょうか」
それだけではない。
「それと、分からないことをずっと考えても、今は答えが出ないと少し分かってきました」
「それ大事だと思う」
「ユウさんもできていますか?」
「急にこっち来たね」
少女は少し笑った。
「人のことばかりですから」
「俺も最近はできてるよ」
「本当ですか?」
「今日は昼にちゃんと休んだ」
「どのくらい?」
「三十分くらい」
「それは昼寝ですか?」
「横になってた」
「眠りました?」
「眠ってない」
「では休憩ですね」
「厳しくない?」
少女は笑う。
マーサも台所から笑っていた。
「ローデンから聞いた」
少しして、ユウが言った。
少女の笑顔が僅かに止まる。
「ここにいたいって言ったんだって?」
「……はい」
言葉にすると、また少し恥ずかしい。
「よかった」
ユウは自然に言った。
少女は彼を見る。
「よかった、のですか?」
「うん」
「なぜ?」
ユウが少し考える。
「嫌なのに残るんじゃなくて、自分でいたいって思えたなら、その方がいいかなって」
少女が期待していた答えとは少し違った。
自分が残ること自体を喜ばれたのかと思った。
そうではない。
自分で選べたことを、ユウは喜んでいる。
ほんの少しだけ、胸の奥に説明できない感覚が残った。
寂しいわけではない。
不満でもない。
ただ、何かをもう一言聞きたいような気がした。
「ユウさんは……」
そこまで言って止まる。
「俺は?」
少女は迷った。
自分がこの村に残ることを、ユウ自身はどう思うのか。
聞いてみたい。
けれど、なぜそれが気になるのか分からない。
「……いいえ」
「何?」
「まだ分からないので、やめておきます」
「何が?」
「それも分かりません」
ユウが困った顔をする。
少女は少し笑った。
今は、それでいい。
夕食の後、少女はマーサの家の前へ出た。
雨上がりの夜は冷えていたが、空には雲の切れ間があり、いくつかの星が見えている。
東の村外れには、今日作った見張り場所の小さな屋根が影になって見えた。
そのさらに先には、二本の警戒線がある。
見えない境界。
森。
北東の古道。
正体の分からない足跡。
何も解決していない。
王都で何が起きているのかも分からない。
自分がこの村へ法的に残れるのかも分からない。
四日後に来るかもしれない商人から、何が分かるのかも分からない。
それでも、少女には今日一つだけ、自分で決められたことがあった。
「ここに、いたい」
昼間より小さな声で呟く。
誰も聞いていないと思っていた。
「うん」
後ろから返事がした。
少女は驚いて振り返った。
「ユウさん!」
「ごめん。聞こえた」
「いつからそこに?」
「今来たところ」
「本当ですか?」
「本当だって」
ユウは両手を上げる。
少女は恥ずかしくなり、少しだけ顔を背けた。
「独り言でした」
「じゃあ聞かなかったことにする」
「もう返事をしたではありませんか」
「じゃあ遅かった」
少女は困った顔をした後、結局笑った。
ユウも隣へ来る。
ただし、肩が触れるほど近くには立たない。
二人で同じ方向を見る。
暗い村。
家々の窓から漏れる灯り。
遠くの見張り場所。
「ユウさん」
「ん?」
「私が公爵家の娘でも、元王太子殿下の婚約者でも……今は、変わりませんか?」
尋ねる声は、自分で思っていたより小さかった。
ユウはすぐには答えない。
「変わったことはあるよ」
少女の胸が僅かに強張る。
「知らなかったこと知ったから」
「はい」
「王太子の婚約者って大変そうだなとか、公爵家って偉いんだろうなとか」
「……はい」
「でも、昨日石鹸混ぜてた人なのも同じでしょ」
少女は瞬きをする。
「今日、見張りの椅子直してた人でもあるし」
「ほとんどベルさんが直しました」
「でも考えたのはあんたでしょ」
「はい」
「じゃあ、それも同じ」
ユウは夜の村を見る。
「知ったことが増えただけじゃない?」
少女は何も言えなかった。
公爵家の娘。
王太子の元婚約者。
追放された罪人。
それらを知られたら、それだけで自分の全部が塗り替えられると思っていた。
けれどユウの中では、そこへ別の情報が足されただけらしい。
石鹸を混ぜた。
鶏を見た。
昼寝をした。
椅子の高さを考えた。
それらも同じように、自分を形作るものとして残っている。
「……変ですね」
「何が?」
「公爵家の娘だったことと、石鹸を混ぜたことが、同じように並んでいるのが」
「駄目?」
「いいえ」
少女は首を横へ振る。
「少し、嬉しいです」
ユウはそれ以上聞かなかった。
しばらく二人で夜の村を見ていた。
遠くで鶏が一度だけ鳴き、どこかの家から扉を閉める音が聞こえる。
冷たい風が吹き、少女は外套の前を少し閉じた。
「寒くない?」
「少し」
「戻る?」
少女は考えた。
もう少しここにいたい。
けれど身体は冷えてきている。
「あと少しだけ」
「分かった」
ユウは急かさない。
少女も無理に長くいようとはしなかった。
ほんの数分。
それだけ夜の空気を感じてから、自分で言う。
「戻ります」
「うん」
二人はマーサの家へ向かって歩き出した。
玄関の前で、少女は一度だけ振り返った。
小さな村だった。
三十人ほどしかいない。
王都から見れば、地図の端に名前があるかどうかさえ怪しい場所なのかもしれない。
ここへ来た時、自分は何も選んでいなかった。
追放され。
馬車へ乗せられ。
境界へ置き去りにされ。
死なないために歩き。
偶然見つけた灯りを目指した。
けれど今日初めて、この場所に残りたいと自分で言った。
それだけで、同じ村が少し違って見える。
追放された先にあった村ではない。
少なくとも今は、自分がいたいと思った場所だった。
四日後、何が分かるのかは知らない。
明日、森で何が起きるのかも分からない。
いつか名前を話す日が来るのか、王都と向き合わなければならない日が来るのか、それさえまだ分からない。
少女は答えを急がなかった。
明日は明日のことを考えればいい。
そして三日後には、サナの石鹸を見に行く。
今の少女には、そのくらい先まで見えていれば十分だった。




