第21話 今日の過ごし方
翌朝、少女が目を覚ました時、最初に聞こえてきたのは雨音ではなかった。
窓の外から鳥の声がして、その合間に、庭先で何かを動かすような乾いた音が聞こえてくる。昨夜まで屋根や軒先に残っていた雨水もほとんど落ちきったらしく、薄いカーテンの向こうには朝の光が柔らかく広がっていた。
少女は寝台の上で身体を起こし、すぐには立ち上がらなかった。
掛け布を膝の上へ残したまま、昨日のことを思い出す。
『今は、この村にいたいです』
ローデンへ向かって、自分でそう言った。
誰かに聞かれたから仕方なく答えたわけではない。残ってよいと言われたから、それに合わせたのでもなかった。
ここにいたい。
自分の口から出た言葉だった。
「……本当に、言ったのですね」
小さく呟いてみると、今さら恥ずかしさが込み上げてきた。
夜にはユウにも独り言を聞かれてしまった。しかも、その後には自分が公爵家の娘であり、元王太子の婚約者だったことを知っても見方が変わらないかなどと尋ねている。
思い返すほど、布団へ潜り直したくなってくる。
けれど、それとは別の感情もあった。
後悔はしていない。
少女は自分の胸へそっと手を当て、その事実を確かめるようにゆっくり息を吐いた。
王都へ戻りたいのかは分からない。
家族に会いたいのかも、まだ分からない。
妹には――会いたいのかもしれない。
そこまで考えたところで、胸の奥に懐かしさと痛みが同時に広がった。
幼い頃、後ろをついてきた小さな妹。
『お姉様!』
何をしてもすぐに覚えてしまう妹。
自分が何日もかけて覚えたことを、一度見ただけでできてしまう妹。
両親から比べられるたび、笑って褒めてやらなければならないと思っていた。
妹が悪いわけではない。
そんなことは、昔から分かっていた。
分かっていたからこそ、苦しかった。
「……今は、やめましょう」
少女は自分へ言い聞かせるように呟いた。
考えないのではない。
今すぐ答えを出そうとしない。
それも、この村へ来てから少しずつ覚え始めたことだった。
寝台から降りる前に、少女は右足を床へつけた。
踵へ軽く体重をかける。
痛みはほとんどない。
昨日と同じように数字で考えるなら、一にも届かないかもしれなかった。
それでも少女はすぐに「治った」と決めず、部屋の中を数歩歩いてみた。窓まで行き、戻り、少しだけ足首を動かしてから、ようやく大丈夫そうだと判断する。
以前の自分なら、痛くないと分かった瞬間に「なら動ける」と考えただろう。
今は、その間に一つ確認が入るようになった。
本当に大丈夫なのか。
今日は何をしたいのか。
できることと、しなければならないことを混ぜていないか。
まだ自然にできるほど身についたわけではない。
けれど、考えることくらいはできるようになった。
着替えて部屋を出ると、台所から焼いたパンの匂いがしていた。
マーサはすでに起きており、鍋を火にかけながら、昨日使った布を棚へ戻している。少女が入ってくると、顔を見るより先に足元へ視線を落とした。
「おはようございます」
「おはよう。足は?」
「今のところ、一より少ないと思います」
「そうかい」
マーサはそれだけ言うと、鍋へ視線を戻した。
もう「痛くないなら働けるね」とは言われないことを、少女は知っている。
だからこそ、自分の方から何か言いたくなった。
「今日は、何をしましょう」
口にした直後、少女は少し違和感を覚えた。
マーサも振り返る。
「私に聞くのかい?」
「……またですね」
「昨日も似たようなこと言った気がするね」
少女は苦笑した。
「では……今日は何をしようか、まだ決めていません」
「それでいいんじゃないかい」
「ですが、朝食の後に何も予定がないのは、少し落ち着きません」
正直に言うと、マーサは小さく笑った。
「なら飯を食いながら考えな」
「食事をしながら決めてもよいのですか?」
「朝飯を食う前に一日の予定を提出する相手でもいるのかい?」
「いません」
「なら決まりだ」
何も決まっていないのに、決まりだと言われた。
少女は少し可笑しくなりながら、食卓の椅子を引いた。
朝食は昨日の残りの野菜を入れたスープと、軽く炙った黒パン、それからオルドが持ってきた卵だった。
少女はパンをスープへ浸しながら、窓の外を見る。空はよく晴れており、昨日の雨を含んだ土が朝日を受けて濃い色をしていた。
「マーサさんは、今日は何をされるのですか?」
「午前は洗い物と畑を少し。午後は知らないね」
「知らない?」
「午前が終わってから考えるよ」
「……本当に、そのように暮らしているのですね」
「何がだい?」
「先の予定を、すべて決めずに」
マーサはパンをちぎりながら、少女を見る。
「決める日もあるよ。種を蒔く日とか、商人が来る日とか、誰かと約束してる日とかね」
「はい」
「でも、決めなくていい日まで決める必要はないだろ」
少女は匙を止めた。
決めなくていい日。
その考え方は、自分にはほとんどなかった。
公爵家にいた頃は、一日の予定は朝から夜まで決められていた。
起床。
朝食。
教師による講義。
礼儀作法。
ダンス。
語学。
王家の歴史。
領地経営。
刺繍。
茶会。
婚約者として王宮へ赴く日には、そこへさらに予定が加わった。
何もない時間は、次のために復習する時間だった。
妹なら一度で覚えられることを、自分は二度、三度と繰り返さなければならない。
だから空いている時間があれば使った。
使わなければ追いつけないと思っていた。
「……私には、決めなくていい日というものが、あまりありませんでした」
少女が言うと、マーサはすぐに慰めようとはしなかった。
「なら慣れないだろうね」
「はい」
「今日一日で慣れなくてもいいさ」
「そうですね」
少女はまたスープを口へ運んだ。
昨日、自分はこの村にいたいと言った。
けれど、村に残るということは、すぐに村での役割を決めることではないらしい。
そのことを頭では理解している。
心の方は、まだ少し追いついていなかった。
食事を終えた頃、外から聞き慣れた大声が響いた。
「ユウー!」
少女は思わず窓を見る。
マーサは皿を重ねながらため息をついた。
「朝から元気だねぇ」
「ガルドさんですね」
「他に誰がいるんだい」
少しして、別の方向からユウの声が返ってきた。
「今行くー!」
「今日は早いですね」
「昨日あんたに休めって言われたからじゃないかい?」
「私に?」
「少しは効いてるんだろ」
少女は返事に困り、視線を皿へ落とした。
自分の言葉が、ユウの行動に何か影響した。
そう考えると、胸の奥に小さな温かさが生まれる。
以前なら、それを「役に立てた」と捉えただろう。
今は少し違う。
ユウが休めたなら、よかった。
ただそれだけの気持ちだった。
「私、片づけます」
少女が立ち上がると、マーサが皿を二枚渡してきた。
「じゃあそれを頼むよ。鍋は私がやる」
「全部ではなくてよいのですか?」
「鍋は重い」
「持てます」
「持てるかどうかじゃないよ。洗い場が狭いんだ」
少女は洗い場を見る。
確かに二人並ぶには狭い。
「では、皿を」
「頼むよ」
理由が自分の能力不足ではないことに、少女は少し安心した。
その安心に気づき、また考える。
まだ自分は、「できない」と思われることを怖がっている。
すぐには消えない。
それでも以前なら、鍋まで洗わせてもらえないことに焦り、自分が役に立てていないと感じていただろう。
今は皿を洗えばいい。
それで十分だった。
片づけを終えた後、少女はマーサと一緒に庭へ出た。
昨夜までの湿気が残っているものの、風は乾き始めていた。庭の端では小さな葉が雨粒を残したまま揺れ、その向こうでは村人が畑へ向かって歩いている。
「洗濯物を出すのですか?」
「今日は乾くだろうからね」
「手伝っても?」
「いいよ」
マーサが籠を少女へ渡す。
少女は両手で受け取り、重さを確かめた。
持てる。
足にも問題はない。
庭の紐まで運び、マーサが布を広げる横で一枚ずつ手渡していく。
それだけの作業だった。
けれど、少女は嫌いではなかった。
「こういうことは、使用人がしていました」
「だろうね」
「私は洗濯物を干したこともありませんでした」
「じゃあ今日が初めてかい」
「はい」
「記念日だね」
「洗濯物を干した記念日ですか?」
「何でも最初は一回しかないよ」
マーサは真面目な顔で言い、すぐに笑った。
少女も笑いながら布を渡す。
「では覚えておきます」
「忘れても困らないけどね」
「どちらなのですか」
「好きな方にしな」
その言葉に、少女はまた笑った。
半分ほど干したところで、道の向こうからユウが歩いてきた。
手には茶色の魔導書ではなく、木の棒を二本抱えている。その後ろからガルドも来ており、こちらは何も持っていない。
「おはよう」
ユウが声をかける。
「おはようございます」
「足どう?」
「一より少ないです」
「歩いても?」
「部屋とここまでですが、大丈夫でした」
「そっか」
ユウは安心したように頷く。
ガルドは洗濯物を見上げた。
「今日は乾くぞ!」
「それは空を見れば分かるよ」
マーサが返す。
「俺は天気を見るのが得意なんだ!」
「昨日雨が降るって言ってたかい?」
「降ってから分かった!」
「それは誰でも分かるよ」
少女は笑いを堪えられなかった。
「朝から仲がよいですね」
「どこがだ」
二人の声が重なり、今度はユウまで笑う。
「それ、何ですか?」
少女はユウが抱えている棒を見る。
「ああ、見張り場所に持ってくやつ」
「昨日、完成したのでは?」
「完成したと思ったんだけど」
ユウがガルドを見る。
ガルドが胸を張る。
「屋根の端に頭をぶつけた!」
「……大丈夫だったのですか?」
「痛かった!」
「なら、なぜそんなに誇らしげなのですか」
「怪我はしてないからな!」
ユウが棒を持ち直しながら説明する。
「ガルド爺さんが立つと、屋根の一部がちょっと低かったみたいで。目印をつけるのと、できれば屋根も少し上げる」
「また直すのですね」
「うん」
少女は昨日ベルが言ったことを思い出した。
使ってみて駄目なら直す。
見張り場所も、一度完成したから終わりではない。
「私も見に行ってよいですか?」
尋ねると、ユウはすぐに答えず、少女の足を見る。
その視線の意味を理解し、少女は自分から言った。
「痛くなったら戻ります。四まで我慢するつもりもありません」
「それならいいんじゃない?」
「マーサさん」
少女は今度はマーサを見る。
「私が決めることじゃないよ」
「……そうでした」
「ただし洗濯物はあと三枚」
マーサが籠を指す。
「それは干してから行きます」
「よし」
少女は少し嬉しくなり、残った布を手に取った。
見張り場所までの道は、昨日より歩きやすくなっていた。
雨で柔らかくなった部分を避けながら進むと、村の東端に小さな屋根が見えてくる。昨日作ったばかりの木材はまだ新しい色をしており、周囲の古い柵や草地の中では少しだけ目立っていた。
ベルがすでに来ていた。
「遅い」
「ガルド爺さんが途中で畑見てたから」
「作物が俺を呼んでた!」
「呼んでない」
ユウとガルドが言い合っている間、少女は見張り場所へ近づいた。
昨日、自分が高さを考えた長椅子がある。
座ってみたい。
そう思ったが、先にベルへ尋ねる。
「座ってもよいですか?」
「そのための椅子だ」
少女は腰を下ろした。
昨日より少し高くなった座面は、立ち上がる時にも足へ負担がかかりにくい。
「どうだ」
ベルが尋ねる。
「座りやすいです」
「立つのは?」
少女はゆっくり立つ。
右足へ痛みは出ない。
「大丈夫です」
「ならいい」
ベルはそれ以上褒めなかった。
けれど少女は、自分が考えた調整が残っていることを嬉しく感じた。
「問題はこっち」
ユウが屋根の端を指す。
少女も見る。
中央は十分な高さがある。
しかし端へ行くほど少し低くなっており、ガルドほど背の高い者が立つと、確かに頭をぶつけそうだった。
「私には当たりません」
「俺にも当たらない」
ユウが言う。
「じゃあ俺が悪いみたいじゃないか!」
ガルドが抗議する。
「誰も言ってないって」
「背が高いのはいいことだぞ!」
「はいはい」
「適当だな!」
ベルは二人を無視して屋根を見ている。
「柱を替えるほどじゃない」
「端だけ上げる?」
「それが早い」
少女も屋根を見ながら考える。
「目印だけでは駄目なのですか?」
三人が少女を見る。
突然視線が集まり、少女は一瞬だけ身体を固くした。
それでも続ける。
「頭をぶつける場所が分かれば、布か何かを垂らしておけば避けられるのではないかと。屋根そのものを直すより簡単です」
ベルが屋根と少女を交互に見る。
「雨で濡れる」
「布が?」
「ああ」
「では、木を垂らす?」
「邪魔だ」
「そうですか」
少女はすぐに黙りそうになった。
けれど昨日のことを思い出す。
一度目の木片は短かった。
それでも終わりではなかった。
「他に何か……」
「縄はどうだ」
ケルの声がした。
いつの間にか後ろへ来ていたらしい。
「縄?」
「屋根の端より少し下に一本張る。頭より先に目へ入る」
ベルが顎へ手を当てる。
「邪魔にならんか」
「端だけならな」
「雨でも平気ですね」
少女が言う。
ベルは少し考えた後、頷いた。
「それで試す」
少女はケルを見る。
「私の案ではありませんでした」
「元はお前だろ」
ケルが言う。
「目印でいいんじゃないかって話から縄になった」
「でも、私の案は布でした」
「布じゃなきゃ駄目なのか?」
「いいえ」
「じゃあいいだろ」
少女は言葉を失った。
自分の案がそのまま採用されなくても、そこから別の案が出れば意味がある。
それもまた、自分には新しい感覚だった。
縄を張る作業は、少女が手を出す必要もなくすぐ終わった。
ガルドが実際に中へ入り、今度は屋根へ近づく前に縄へ気づいて身体を屈める。
「おお!」
「どう?」
「分かるぞ!」
「じゃあしばらくこれで使うか」
ユウが言う。
「また頭ぶつけたら?」
「その時は屋根直せ」
ベルが答えた。
「最初から直さないのですか?」
少女が尋ねると、ベルは縄を軽く引いて強度を確かめた。
「これで困らないかもしれん」
「困ったら?」
「直す」
「……そうでした」
少女は笑った。
その後、ケルは外側の補助警戒線を確認しに行った。
ユウも同行する。
少女はついていこうか迷ったが、昨日よりさらに東へ行くことになると聞き、今回は見張り場所に残ることを選んだ。
「行かないのか?」
ガルドが聞く。
「少し興味はあります」
「なら行けばいい!」
「でも、今日はここまでにします」
少女は自分の足を見る。
痛みはまだ一程度。
限界ではない。
それでも、朝から洗濯物を干し、ここまで歩いた。
「戻る分もありますので」
「そうか!」
ガルドはあっさり受け入れた。
引き止められない。
説得もされない。
少女は見張り場所の椅子へ座り、東の草地を眺めた。
風が草の先を揺らしている。
遠くには森がある。
あの向こうから、自分は歩いてきた。
さらに向こうには、追放された境界がある。
少女は膝の上で両手を重ねた。
数日前の自分が、この場所に座っている姿を想像できただろうか。
おそらく無理だった。
あの時は、次の朝が来ることさえ考えたくなかった。
帰る場所がない。
誰にも必要とされない。
何をしても妹には及ばない。
王太子にも信じてもらえない。
両親にも見放された。
友人にも――。
少女の指が僅かに強張った。
そこだけは、まだ触れると痛みが鋭い。
幼い頃から一緒だった友人の顔が浮かぶ。
自分が妹との比較で苦しかった時、何度も話を聞いてくれた。
笑ってくれた。
お茶を飲んだ。
それなのに最後には、自分を庇わなかった。
それどころか――。
少女は息を止め、そこで記憶を閉じた。
まだ無理だ。
思い出せないのではない。
今ここで一人で最後まで辿るのは、怖かった。
「……今日は、ここまで」
自分へ向けて小さく言う。
忘れたふりをするのではない。
いつか向き合う。
けれど今日ではない。
少女はゆっくり顔を上げた。
「何がここまでなんだ?」
横からガルドの声がして、少女は驚いた。
「聞いていたのですか?」
「何を?」
「……いいえ。何でもありません」
「そうか!」
ガルドは気にした様子もなく、見張り場所の外側へ腰を下ろした。
「椅子に座らないのですか?」
「お前が座ってるだろ!」
「まだ空いています」
「俺は地面でも平気だ!」
「昨日、腰が痛いと言っていませんでしたか?」
「誰から聞いた!」
「マーサさんです」
「あいつ余計なことを!」
少女は少し呆れた。
「椅子に座ってください」
「俺はまだ若い!」
「若い人も椅子には座ります」
ガルドは何か言い返そうとしたが、言葉が見つからなかったらしい。
「……それもそうだな!」
素直に立ち上がり、少女の隣へ座る。
少女は笑った。
「お前、ここにいるんだってな」
しばらくして、ガルドが前を向いたまま言った。
少女の笑みが止まる。
「……ローデンさんから?」
「いや」
「では、なぜ」
「昨日、ここにいたいって言ってただろ」
少女は固まった。
「聞こえていたのですか?」
「聞こえたぞ!」
「どこまで?」
「今はこの村にいたいってところ!」
少女は両手で顔を覆いたくなった。
昨日、ガルドは少し離れた場所にいた。
気を遣って聞こえないふりをしていたのだと思っていた。
「聞こえていたなら、何か言ってください」
「大事な話してたから黙ってた!」
「……本当に、そういうところだけ妙に気を遣うのですね」
「俺はいつも気を遣ってるぞ!」
「それは少し疑わしいです」
少女が言うと、ガルドは大声で笑った。
「嫌か?」
笑いが収まった後、ガルドが尋ねる。
「何がですか?」
「俺に聞かれてたの」
少女は少し考えた。
「恥ずかしいです」
「そうか!」
「でも……嫌ではありません」
「ならいい!」
ガルドはそれ以上聞かない。
少女は横顔を見る。
「私が誰なのか、聞かないのですか?」
「誰なんだ?」
「それを私に聞くのですか?」
「お前が聞かないのかって言ったから」
「そうではなくて……」
少女は困った。
公爵家の娘であること。
元王太子の婚約者であること。
昨日は村の皆へ話さないと決めた。
ガルドは知らないはずだ。
「気になりませんか?」
「なるぞ」
「では、なぜ聞かないのです?」
「言いたくなったら言うだろ」
あまりにも簡単に返され、少女は黙った。
「それだけですか?」
「今困ってないからな!」
ローデンがユウの名前について言ったことと、よく似ている。
少女は視線を森へ戻した。
「……私、昨日までは、言わなければならないと思っていました」
「何を?」
「名前をです」
「言いたいなら言えばいいぞ」
「まだ言いません」
「そうか!」
それで会話が終わった。
少女は少し笑った。
ユウとケルが戻ってきたのは、それからしばらく後だった。
二人の表情に緊張はない。
何か異常があったわけではなさそうだと分かり、少女は自分でも気づかないうちに息を緩めていた。
「どうでした?」
「外側の線は問題なし」
ユウが答える。
「夜の間に一回だけ反応してた」
「何か来たのですか?」
「跡を見る限り、たぶん鹿」
ケルが補足する。
「線の近くまで来て、そのまま南へ抜けてる。人間の靴跡は増えてない」
「そうですか」
少女は胸を撫で下ろした。
新しい人間の足跡がない。
それだけで完全に安心できるわけではない。
昨日の人物がどこへ行ったのかは分からないままだ。
「三匹の魔物は?」
「見つかってない」
ユウは誤魔化さなかった。
「だから警戒はそのまま」
「はい」
「でも、今日は何も起きてない」
その言葉を聞き、少女は頷いた。
今日は何も起きていない。
分からない未来まで先取りして怖がるのではなく、今確認できたことを受け取る。
少しずつ、その感覚が分かってきた。
「そろそろ戻ります」
少女は立ち上がった。
ユウが足元を見る。
「痛い?」
「一くらいです」
「じゃあ何で?」
以前なら、その問いに戸惑ったかもしれない。
少女は今、自分の答えを持っていた。
「疲れる前に戻ろうと思いました」
ユウは一瞬黙った。
それから笑う。
「そっか」
「何ですか?」
「いや、いいと思う」
「それだけですか?」
「それだけ」
少女は昨日ローデンへ「それだけですか」と聞いたことを思い出した。
この村の人は、自分が大きなことをしたと思っている時ほど、あっさり受け止める。
けれど、そのあっさりした反応が今は心地よかった。
帰り道は、ユウも一緒だった。
ガルドはベルに呼ばれて畑の方へ行き、ケルはローデンへ報告するため別れた。二人だけになっても、少女は以前ほど緊張しなくなっている。
「今日は何してたの?」
ユウが尋ねる。
「朝食を食べて、洗濯物を干しました」
「洗濯?」
「はい。初めてです」
「初めて?」
ユウが少し驚く。
「使用人がしていましたので」
「ああ、そっか」
「マーサさんには、洗濯物を干した記念日だと言われました」
「記念日にするほど?」
「私もそう言いました」
二人で笑う。
少女は歩きながら足元を見る。
土はまだ少し柔らかい。
ユウは昨日までのように半歩近くを歩いているが、手を出してはこない。
少女も支えを求めていない。
「ユウさん」
「ん?」
「村にいると決めたら、もっと何かが変わると思っていました」
「何かって?」
「分かりません」
少女は少し考える。
「仕事を決めたり、住む場所を決めたり……皆さんに認めてもらうために、何かを始めたり」
「昨日言ったばっかりじゃん」
「はい」
「早くない?」
「やはり、早いですか」
「俺はこの村に来た時、最初の何日かほぼ何もしてなかったよ」
少女は驚いて彼を見る。
「ユウさんが?」
「うん」
「想像できません」
「失礼だな」
「だって、いつも何かしています」
「最近はね」
ユウは少し笑った。
「来たばっかりの頃は、家の片づけして、飯食って、寝てた」
「魔法は?」
「風呂沸かした」
「それは使ったのですね」
「風呂は大事だから」
少女は笑った。
「でも、何もしないでいるのが苦しくなかったのですか?」
尋ねると、ユウは少し黙った。
歩く速度は変わらない。
「最初は、何もしなくていいのが嬉しかった」
「はい」
「その後、ちょっと落ち着かなくなった」
「やはり」
「ずっと忙しかったからね」
ユウは前を見る。
「何か忘れてる気がしたり、呼ばれる気がしたり」
少女は彼の横顔を見る。
「今もありますか?」
「たまに」
「そうなのですか」
「夜中に目が覚めた時とか」
声は軽い。
けれど、少女は笑わなかった。
ユウが以前いた場所には、夜でも誰かに呼ばれる仕事があった。
眠っていても、身体のどこかがそれを覚えているのかもしれない。
「……その時は、どうするのですか?」
「何も鳴ってないって確認して、また寝る」
「眠れますか?」
「眠れない時もある」
「では」
少女は言いかけて止まる。
何かしてあげなければ。
そう考えた自分に気づいた。
自分に何ができるのか。
何をするべきなのか。
すぐそこへ向かってしまう。
「どうしたの?」
「……何かしなければ、と思いました」
少女は正直に言った。
「俺に?」
「はい」
「なんで?」
「ユウさんが眠れないなら」
そこまで言って、自分でも分からなくなる。
ユウが少し笑った。
「今は寝れてるよ」
「そうですね」
「もし眠れなくて困ったら、その時考える」
マーサと同じだ。
少女は頷く。
「では、その時にしてください」
「何を?」
「困っていると言ってください」
ユウが少女を見る。
視線が合った。
少女は少しだけ恥ずかしくなったが、目を逸らさなかった。
「私に何ができるかは分かりません。でも、話くらいなら聞けるかもしれません」
ユウはすぐに返事をしなかった。
風が二人の間を抜け、道端の草が揺れる。
「うん」
少しして、ユウが答えた。
「その時は頼むかも」
「はい」
少女は小さく笑った。
何かをしてあげると決めたわけではない。
助けられると約束したのでもない。
困った時に話を聞く。
それくらいなら、自分にもできるかもしれない。
そして、できなければできないと言えばいい。
マーサの家へ戻る頃には、右足の痛みは一から二の間くらいになっていた。
少女は玄関へ入る前に一度立ち止まり、自分で確認する。
「少し上がりました」
「二?」
ユウが聞く。
「一と二の間です」
「じゃあ休む?」
「はい。昼まで座っていようと思います」
「了解」
ユウはそれだけ言った。
「ユウさんは?」
「俺?」
「これから何をするのですか?」
「ガルド爺さんの畑」
「休憩は?」
「昼にする」
「本当に?」
「するって」
少女は少し疑うように見つめる。
ユウは苦笑した。
「マーサさんにも言っといていいよ」
「では、そうします」
「そこまで?」
「忘れないためです」
「俺が?」
「はい」
少女は真面目に答えた。
ユウは何も言えなくなったようだった。
「マーサさん」
家へ入った少女は、台所にいたマーサへ声をかけた。
「ユウさんが昼に休憩するそうです」
「そうかい」
「しなかったら教えてください」
「分かった」
「二人で監視するのやめない?」
まだ玄関にいたユウが抗議する。
「見張り場所もできたことですし」
「俺を見張る場所じゃないよ!」
少女は笑った。
マーサも笑う。
その声を背中に受けながら、ユウは畑へ向かっていった。
昼までの時間、少女は本当に何もしなかった。
正確には、窓辺の椅子へ座り、時々外を眺め、マーサが置いてくれた温かい飲み物を飲んだ。
最初の十分ほどは落ち着かなかった。
何か手伝えることはないか。
布は畳まなくていいのか。
昼食の準備は。
そんな考えが何度も浮かぶ。
けれど、マーサは何も頼まない。
少女も尋ねなかった。
窓の外では村人たちが働いている。
それを見ていると、自分だけ休んでいることへの罪悪感が少しずつ膨らむ。
そのたびに少女は右足へ意識を向けた。
一と二の間。
大した痛みではない。
けれど、自分で休むと決めた。
痛みが四になるまで働かなければ休んではいけないわけではない。
何度も心の中で確認する。
やがて、罪悪感より窓から入る風の心地よさの方が強くなってきた。
少女は背もたれへ身体を預ける。
目を閉じるほど眠くはない。
何かを考えなければならないわけでもない。
しばらくすると、庭の洗濯物が風に揺れる音が聞こえた。
自分が干した布だった。
それを見て、少女は少しだけ満足した。
昼食の前にユウが戻ってきた。
「休憩しに来た」
玄関から宣言する。
少女は椅子から振り返った。
「本当に来ましたね」
「信用なかった?」
「少し」
「ひどい」
ユウは笑いながら靴の泥を落とす。
マーサが台所から顔を出した。
「座りな」
「はい」
ユウが素直に椅子へ座る。
少女はそれを見て、なぜか安心した。
「何?」
視線に気づいたユウが尋ねる。
「休んでいるなと思って」
「休んでるよ」
「よかったです」
「そんなに?」
「はい」
少女は迷わず答えた。
ユウが少しだけ目を逸らした。
その反応の意味は分からない。
少女自身も、自分がなぜこんなに安心したのか、まだうまく説明できなかった。
昼食を食べながら、マーサが午後の予定を尋ねた。
「で、午後はどうするんだい?」
少女は匙を持ったまま考える。
朝なら、何か仕事を探さなければと思っただろう。
今はいくつか浮かぶ。
オルドの鶏を見に行く。
ベルのところへ行く。
サナの石鹸は明日まで待つ。
マーサの畑を見る。
あるいは、何もしない。
「……畑を見てみたいです」
少女は答えた。
「誰の?」
「マーサさんの」
「私のかい?」
「はい。朝、少し作業すると言っていましたから」
「もう終わったよ」
「そうなのですか?」
「草を少し抜いただけだからね」
少女は少し残念に感じた。
するとマーサが続ける。
「見るだけならいつでも見ればいいだろ」
「作業が終わっていても?」
「畑は消えないよ」
昨日も聞いたような言葉だった。
村は明日もある。
畑も、作業が終わったから消えるわけではない。
「では、見せてください」
「いいよ」
午後の予定が一つ決まった。
昼食後、少女は少し休んでからマーサの畑へ向かった。
家の裏手にある小さな畑は、ガルドのものほど広くない。何種類かの野菜が列になって植えられ、雨を受けた葉が光っている。
「これは何ですか?」
「豆」
「こちらは?」
「根菜だよ」
「まだ小さいですね」
「これから大きくなる」
少女は畝の間へしゃがみ込む。
右足へ負担をかけないよう、姿勢を変えながら葉を見る。
「毎日、何かするのですか?」
「何もしない日もあるよ」
「植物なのに?」
「植物だからさ」
マーサは葉を一枚持ち上げ、裏側を見る。
「人間が触りすぎてもよくない」
「水は?」
「雨が降った」
「肥料は?」
「今はいらない」
「草は?」
「朝抜いた」
少女は少し困った。
「では、本当に今は何もしないのですね」
「そうだよ」
二人で畑を見る。
少女は不思議な気持ちになった。
植物を育てるなら、毎日何かをしなければならないと思っていた。
けれど必要な時に必要なことをして、あとは待つ。
サナの石鹸と同じだった。
「待つことが多いのですね」
「畑はだいたいそうだよ」
「何もしない時間も、育てている時間なのですか?」
マーサは少女を見る。
「そう言ってもいいんじゃないかね」
少女は葉へ視線を戻した。
何もしない。
それは空白ではないのかもしれない。
自分にも、同じことが言えるのだろうか。
すぐに答えは出なかった。
「触ってもよいですか?」
「優しくね」
少女は小さな葉へ指先を伸ばした。
雨上がりの葉は冷たく、表面に残っていた水滴が指へ移る。
生きている。
まだ小さい。
けれど、小さいからといって急いで引っ張って大きくすることはできない。
そんな当たり前のことが、今の少女には妙に心へ残った。
その日の午後、少女は結局、畑で大きな仕事をしなかった。
マーサから葉の見方を少し教わり、畝の間に落ちていた小枝を二本拾い、最後に水桶を元の場所へ戻しただけだった。
それでも家へ戻る途中、朝に感じていた焦りは薄くなっていた。
村にいると決めた翌日に、自分の仕事を決めなくてもいい。
住む家を決めなくてもいい。
全員へ過去を話さなくてもいい。
役に立つことを証明しなくてもいい。
今日は洗濯物を干した。
見張り場所を見た。
途中で休んだ。
ユウが休むところも見た。
午後には畑の葉へ触れた。
それだけだった。
けれど少女は、不思議と一日を無駄にしたとは思わなかった。
夕方、空が薄い橙色へ変わり始めた頃、少女はマーサの家の前で洗濯物を取り込んでいた。
朝に干した布はすっかり乾いている。
一枚ずつ籠へ入れていると、村の西側から荷車の音が聞こえた。
少女の手が止まる。
心臓が強く跳ねた。
商人が来るのは四日後。
だから違う。
頭ではそう分かっている。
それでも、外から村へ入ってくる車輪の音を聞いた瞬間、身体が先に反応した。
馬車。
王都。
追放。
少女の指が布を強く掴む。
呼吸が浅くなった。
「お嬢ちゃん?」
近くにいたマーサが気づいた。
少女は返事をしようとしたが、すぐには声が出なかった。
荷車の音は近づいてくる。
少女は逃げるように家へ入りかけ、そこで足を止めた。
逃げたい。
隠れたい。
誰にも見つかりたくない。
けれど、何が来たのかはまだ分からない。
「……怖いです」
少女はようやく言った。
マーサが隣へ来る。
「そうかい」
「馬車の音が……」
「ああ」
「分かっているのです。商人ではないと。まだ四日後ではありませんから」
「うん」
「でも」
少女は息を整えようとする。
うまくいかない。
「家に入るかい?」
マーサが尋ねた。
少女は玄関を見る。
入ってもいい。
隠れてもいい。
無理に確認する必要はない。
その選択肢があると分かっただけで、少し呼吸が戻った。
「……ここにいます」
「そうかい」
「でも、もし知らない人だったら」
「その時考えよう」
マーサは少女の横に立ったまま、西の道を見る。
少女も布を抱えながら、同じ方向を見た。
やがて道の向こうから姿を現したのは、一頭の馬に引かれた小さな荷車だった。
乗っているのは一人。
少女の知らない中年の男だった。
身体が再び強張る。
だが、村の中央にいたガルドがその男を見つけるなり大きく手を上げた。
「おお! 遅かったな!」
「雨で道がぬかるんでたんだよ!」
男も大声で返す。
知り合い。
少女の肩から少し力が抜ける。
「近くの村の人だよ」
マーサが説明した。
「たまに卵や布を交換しに来る」
「……そうなのですね」
「知らない顔だったかい?」
「はい」
「なら怖いわな」
マーサは「怖がる必要はない」とは言わなかった。
少女はそれがありがたかった。
荷車が村へ入ってくる。
男は少女の姿に気づき、一度だけこちらを見た。
少女の身体がまた緊張する。
男は不思議そうな顔をした。
知らない若い女が、三十人ほどしかいない村にいる。
気にならない方が不自然だ。
「マーサ、その子は?」
男が尋ねる。
少女の喉が詰まる。
マーサは少女を見る。
答えるかどうか。
その判断を渡されたのだと分かった。
少女は布を抱えたまま、息を一度吐いた。
「……今、こちらにお世話になっています」
自分で答えた。
名前は言わない。
身分も言わない。
嘘もつかない。
「そうか」
男はそれだけだった。
「よろしくな」
「……はい。よろしくお願いいたします」
男は荷車を進め、ガルドたちの方へ向かう。
少女はその背中を見送った。
「聞かれませんでした」
「何を?」
「どこの誰なのか」
「そのうち聞かれるかもしれないよ」
マーサは現実的だった。
「はい」
「嫌なら答えなくてもいいし、答えられるところだけ答えてもいい」
「……今のように?」
「そうだね」
少女は腕の中の洗濯物を見る。
怖かった。
今も胸が少し速く動いている。
それでも、逃げなかったことを誇る気にはなれなかった。
逃げてもよかったのだから。
今日、自分はここにいる方を選んだ。
ただそれだけだった。
洗濯物を取り込み終える頃、ユウが戻ってきた。
荷車の男と少し話したらしく、手には小さな袋を持っている。
「豆もらった」
「また豆ですか」
「またって何」
「この村へ来てから、よく豆を見ます」
「保存しやすいからね」
ユウが笑う。
少女も少し笑ったが、先ほどの緊張が残っていることに気づいたのか、ユウの表情が変わった。
「何かあった?」
少女は迷った。
大したことではないと言えば、それで終わる。
実際、何も起きていない。
近隣の村人が来ただけだ。
「……荷車の音が、怖かったです」
少女は正直に言った。
ユウは袋を抱えたまま、静かに聞く。
「馬車を思い出しました」
「そっか」
「家へ入ろうかとも思いました。でも、ここにいました」
「うん」
「ただ……」
少女は少し考える。
「逃げなかったから偉い、とは思わないようにしています」
ユウが僅かに目を見開いた。
「家へ入ってもよかったので」
「そうだね」
「今日は、ここにいる方を選びました」
少女は自分の言葉を聞きながら、胸の中で何かがゆっくり落ち着いていくのを感じた。
勇気を出した。
克服した。
もう怖くない。
そんな話ではない。
怖かった。
今も怖い。
それでも今日は、ここにいた。
「次は隠れるかもしれません」
「いいんじゃない?」
「……はい」
少女は笑った。
「私も、そう思います」
夜。
夕食を終え、少女は客間へ戻った。
窓の外には、昨日と同じ小さな村の灯りがある。
昨日、自分はここにいたいと言った。
今日、そのために何か大きなことをしたわけではなかった。
村人全員へ身分を明かしたわけでもない。
仕事も決めていない。
家も決めていない。
法的に残れるかも分からない。
森の問題も、人間の足跡も解決していない。
それでも一日が終わった。
少女は寝台へ腰を下ろし、今日したことを思い返した。
初めて洗濯物を干した。
見張り場所の修正を見た。
自分の案から別の案が生まれた。
疲れる前に戻った。
昼まで休んだ。
マーサの畑を見た。
葉に触れた。
知らない人が来て怖くなった。
答えられるところだけ、自分で答えた。
何一つ、人生を変えるような出来事ではない。
けれど、昨日の「ここにいたい」という言葉の後に続いた一日としては、これでよいような気がした。
「明日は……」
少女は呟く。
サナの石鹸を見るのは、明日だったはずだ。
三日後。
その言葉を聞いた時には、三日先を楽しみにできること自体が不思議だった。
今、その日はもうすぐそこまで来ている。
少女は窓の外を見る。
「石鹸を、見に行きましょう」
誰に命じられた予定でもない。
行かなければ怒られる約束でもない。
ただ、自分が見たいから行く。
それだけの明日が待っている。
少女は窓を閉め、寝台へ入った。
明後日をどうするかは、まだ決めていない。
四日後には商人が来る予定で、その時には王都について何か分かるかもしれない。
怖くないわけではなかった。
けれど今夜、その答えまで先に受け取る必要はない。
明日の朝が来たら起きる。
朝食を食べる。
足の具合を確かめる。
そして、行きたければ石鹸を見に行く。
それでよかった。
少女は目を閉じた。
村のどこかから、ガルドの大きな笑い声が微かに聞こえてくる。
少し遅れて誰かが「もう夜だぞ!」と怒鳴り、別の家から笑い声が返った。
少女は布団の中で小さく笑った。
ここにいたいと決めたからといって、すぐに何者かになる必要はない。
今日を一日過ごして、明日を少し楽しみにする。
今は、それくらいの暮らし方から覚えていけばいいのだと思えた。




