第22話 三日後の石鹸
翌朝、少女が目を覚ました時には、窓の向こうがすでに淡い金色に染まり始めていた。
夜の間に雨が降った気配はなく、開けた窓から入ってくる空気にも、数日前まで残っていた湿った冷たさが少ない。遠くではオルドの鶏が朝を知らせ、その声に負けじと別の鳥が鳴き返している。ルーデ村へ来たばかりの頃には一つの騒がしさとしてしか聞こえなかった朝の音も、今ではどの辺りから何が聞こえているのか、少しずつ分かるようになっていた。
少女は寝台の上で身体を起こし、窓の外を見た。
「今日ですね」
誰に聞かせるでもなく呟いてから、少しだけ頬が緩んだ。
サナと約束した日だった。
灰と油を使って作ったものが、三日経つとどう変わるのか。作業を見学した日に「すぐ見てもいい」と言われながら、自分で三日後まで待つと決めた。
たったそれだけの約束だった。
王宮で交わされるような重要な約束ではない。時間を間違えれば誰かの立場に関わるわけでもなく、国の未来が変わるわけでもない。
それなのに、少女は昨夜から少し楽しみにしていた。
目を覚ました時に今日やりたいことが一つある。
その感覚が、まだ新鮮だった。
少女は寝台から降りる前に、右足をゆっくり床へつけた。
踵へ体重をかけても、痛みらしい痛みはほとんどない。立ち上がって部屋の中を何歩か歩き、昨日と同じように足首を動かしてから、少女は自分なりに状態を考えた。
「一……より少ないですね」
傷があることを忘れて歩きそうになる程度には良くなっている。
だからこそ、治ったと決めつけない。
昨日、見張り場所から戻った時には一と二の間くらいまで痛みが上がった。休めばすぐ落ち着いたとはいえ、まだ完全に元通りではない。
今日はサナの家まで歩く。
途中で痛みが増えれば休む。
それだけ確認して、少女は着替え始めた。
客間を出ると、台所ではマーサが朝食の準備をしていた。
鍋からは薄い湯気が上がり、昨日近隣の村人から受け取った豆が煮込まれている。卓上にはパンと卵が並べられ、窓から差し込む朝日が木の器の縁を明るく照らしていた。
「おはようございます」
「おはよう。今日は起きるのが少し早いね」
「そうでしょうか」
「石鹸が気になるんじゃないのかい?」
少女は椅子を引こうとして、動きを止めた。
「……分かりますか?」
「昨日から何度も明日は石鹸だって言ってたじゃないか」
「そんなに言いましたか?」
「言ったね」
少女は恥ずかしくなって椅子へ座った。
「楽しみにしすぎでしょうか」
「楽しみにする量まで決める必要があるのかい?」
「量?」
「少しだけ楽しみにしろとか、たくさん楽しみにしろとかさ」
「そのような決まりはないと思います」
「なら好きなだけ楽しみにしな」
マーサは何でもないことのように言い、鍋からスープをよそった。
少女は差し出された器を両手で受け取る。
「ありがとうございます」
「熱いよ」
「はい」
匙でゆっくり混ぜながら、湯気を眺める。
楽しみにしてもいい。
そんなことまで、いちいち許可を求めようとしていた自分に気づいた。
昨日は村に残ると決めた後、何をしなければならないのか分からず落ち着かなかった。今日は、少なくとも一つだけ、自分からしたいことがある。
石鹸を見る。
それだけで朝が少し違って感じられた。
「今日はサナさんのところへ行った後、何か予定はありますか?」
少女が尋ねると、マーサは自分の椅子へ腰を下ろした。
「私は畑と縫い物だね」
「お手伝いできることは?」
「石鹸を見てから考えればいいだろ」
「……はい」
「また全部先に決めようとしてるね」
「気をつけているのですが」
「気をつけなくても、そのうち慣れるさ」
少女はパンをスープへ浸しながら、小さく頷いた。
「ユウさんは?」
「朝からガルドに捕まってたよ」
「今日もですか?」
「今日は畑じゃなくて水路だってさ」
「水路?」
「昨日の雨で端が少し崩れたらしいよ。大したことはないって言ってたけどね」
少女は少し考えた。
「魔法で直すのでしょうか」
「どうだろうね。ガルドがいるなら、全部魔法ではやらせないだろ」
それも想像できた。
ユウが魔法を使えば、土を動かして短時間で直せるのだろう。
けれどガルドなら、自分でできるところは自分でやると言うに違いない。
「ユウさん、昨日は昼に休んでいました」
「知ってるよ」
「本当に休んでいたので、少し安心しました」
「ずいぶん気にするようになったね」
マーサの言葉に、少女の手が止まった。
「……そうでしょうか」
「悪いとは言ってないよ」
「はい」
少女は再びパンをちぎった。
なぜ気になるのか。
昨日も考えたが、まだ答えは出ない。
自分が休むことを教えてくれた人だから、同じように休んでほしい。
それなら説明はつく。
きっと、それだけだ。
少女はそう考え、今はそれ以上掘り下げなかった。
朝食を終えた後、少女は食器を二枚だけ洗った。
鍋はマーサが洗う。
昨日と同じ分担だったが、今日は「もっとできます」と言いたくならなかった。
できることと、今やることは同じではない。
少しずつ、その違いが身体に馴染み始めている。
「足は?」
家を出る前、マーサが尋ねた。
「一より少ないです」
「途中で上がったら?」
「休みます」
「よし」
「確認される前に言えると思います」
「それならもっとよし」
少女は薄い外套を羽織った。
朝の空気は冷たすぎないが、日陰にはまだ夜の名残がある。
「行ってきます」
「行っといで」
扉を開けて外へ出ようとしたところで、少女は一度振り返った。
「マーサさん」
「なんだい?」
「……行ってきます、と言うのも、少し不思議ですね」
「何が?」
「帰ってくる場所があるように聞こえます」
マーサは一瞬だけ少女を見つめた。
それから、いつもと変わらない声で答える。
「帰ってくるんだろ?」
「はい」
「なら合ってるよ」
少女は胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
「行ってきます」
「はいよ」
今度こそ外へ出た。
サナの家までの道は、もう迷わなかった。
共同井戸を過ぎ、低い石垣のある家を曲がり、畑の脇を歩く。途中でベルの孫とすれ違い、少年が元気よく手を振ってきたので、少女も手を上げて返した。
「石鹸見に行くの?」
少年が尋ねる。
「どうして知っているのですか?」
「サナ婆ちゃんが言ってた!」
「またですか」
「何が?」
「いいえ。何でもありません」
少女は苦笑した。
以前なら、自分の予定が知られていることに強い警戒を覚えただろう。
王都での噂は、人を傷つけるものだった。
誰が誰と会った。
誰が何を言った。
誰が失敗した。
誰が王太子に近づいた。
それらが尾ひれをつけて広がり、時には本人の知らないところで意味まで変えられていった。
ルーデ村でも話はすぐ広がる。
けれど今のところ、広がっているのは「少女が石鹸を見に行くらしい」というだけだった。
「サナさんは、何と?」
「今日は灰使うなって!」
「それだけですか?」
「うん!」
少年は首を傾げる。
少女は少し笑った。
「それならよかったです」
「何が?」
「こちらの話です」
少年はよく分からないまま頷き、走っていった。
途中で速度を落としたのは、手に小さな籠を持っているからだろう。
昨日の卵のことを覚えていたのかもしれない。
少女はその背中を見送り、再び歩き始めた。
サナの家へ着くと、庭先にはすでにいくつかの道具が並んでいた。
木桶、長い柄のついた木べら、小さな壺、それから布を被せた浅い木箱。作業台の脇には灰の入った容器もあるが、今日は蓋が閉じられている。
サナは家の中から小さな椅子を運び出していた。
「おはようございます」
「来たね」
「はい」
「待ちきれなかったかい?」
「少し」
「少しかい?」
サナが笑う。
少女は正直に言い直した。
「……かなり楽しみにしていました」
「そりゃよかった」
サナは椅子を作業台の前へ置いた。
「まず座りな」
「まだ痛くありません」
「知ってるよ。見るなら座った方が楽だろ」
「あ……はい」
痛いから座るのではない。
座った方が楽だから座る。
少女は素直に腰を下ろした。
「これですか?」
布を被せた木箱へ視線を向ける。
「そうだよ」
「開けても?」
「そのために来たんだろ」
少女は立ち上がりかけたが、サナが木箱を近くへ寄せてくれた。
「ありがとうございます」
「自分で取れるけど、私の方が近かっただけさ」
少女はその言葉に少しだけ笑う。
以前なら、何でも自分でやらなければと考えただろう。
今はサナが近いなら任せればいいと思える。
布の端へ手をかける。
ほんの少し緊張した。
自分が混ぜたものが、どうなっているのか。
「開けます」
「どうぞ」
少女は布をめくった。
木箱の中には、三日前とは違うものがあった。
液体に近かった混合物は形を保つ程度まで固まり、表面は淡い乳白色になっている。完全に均一ではなく、端と中央ではわずかに色も違う。
少女は目を見開いた。
「……固まっています」
「固まったね」
「本当に」
「嘘だと思ってたのかい?」
「そうではありません。ただ……」
少女は木箱へ顔を近づけすぎないよう気をつけながら、中を覗き込む。
三日前、自分は木べらで何度も混ぜた。
途中で腕が疲れ、サナと交代した。
あの時はまだ、とろりとした液体だった。
「これが石鹸なのですか?」
「まだ途中だよ」
「まだ?」
「固まったから切れるようになった。でも、すぐ使うもんじゃない」
「どのくらい待つのですか?」
「しばらく」
「しばらくとは?」
「天気にもよるね」
少女は少し困った。
「日数は決まっていないのですか?」
「だいたいはあるよ。でも、触って見て決める」
サナは木箱の端を指で軽く押した。
「ほら。まだ少し柔らかい」
少女も触ろうとして、手を止める。
「触ってよいですか?」
「端をちょっとだけね。口には入れるんじゃないよ」
「入れません」
「子どもには言っとかないと舐めるのがいるからね」
「いるのですか?」
「ベルの孫が昔やった」
少女は遠くへ走っていった少年の姿を思い出した。
「……想像できます」
「だろ?」
二人で笑う。
少女はサナに言われた場所へ指先で触れた。
表面は乾いているように見えるのに、軽く押すと僅かに沈む。
「本当です。柔らかい」
「だから今日は切って、間を空けて並べる」
「そうすると?」
「風が通る」
「乾かすのですね」
「そういうことだね」
サナは作業台の下から細い糸を張った木枠のような道具を取り出した。
少女は首を傾げる。
「刃物ではないのですか?」
「刃物でも切れるけどね。こっちの方が楽なんだよ」
「見てもよいですか?」
「近くで見な」
サナは木箱から固まった塊を慎重に取り出した。
少女は思わず息を止める。
崩れそうに見えたが、塊は形を保っていた。
「意外と丈夫ですね」
「でも雑に持つと欠けるよ」
「では、慎重に」
「慎重すぎても仕事にならないけどね」
少女はまた難しい顔になる。
サナが笑った。
「壊さないようにする。でも怖がりすぎない。それだけだよ」
「その加減が難しいです」
「やってりゃ分かる」
サナは石鹸の塊を台へ置き、木枠の糸を上からゆっくり押し下げた。
柔らかな抵抗の後、塊が二つに分かれる。
「……綺麗です」
「そうかい?」
「はい」
切断面は表面より少し濃く、まだ湿り気を残していた。
少女は身を乗り出す。
「中は色が違います」
「乾き方が違うからね」
「これも同じ色になりますか?」
「だいたいは」
「ならないことも?」
「あるよ」
「失敗ですか?」
サナの手が止まった。
少女も、自分がその言葉を口にしたことに気づく。
「色が揃わなければ、失敗なのでしょうか」
サナは切った石鹸を眺めた。
「使えないなら失敗かもしれないね」
「色だけなら?」
「使えるなら使うよ」
「売る場合は?」
「見た目を気にする商人もいるけど、この村で使う分なら誰も文句言わないさ」
少女は昨日、曲がった野菜について聞いた時のことを思い出した。
形が悪くても食べられる。
色が揃わなくても使える。
王都では、見た目が整っていることも価値の一部だった。
服も。
料理も。
振る舞いも。
そして、人も。
「……揃っていなくても、使えるならよいのですね」
「困ることがなきゃね」
サナは淡々と答え、次の切れ目を入れた。
少女はその手元を見つめた。
「やってみるかい?」
数個切ったところで、サナが尋ねた。
少女はすぐに「はい」と言いそうになり、一度自分の手を見る。
やりたい。
怖さも少しある。
「一つだけ、やってみたいです」
「一つでいいのかい?」
「やってから決めます」
「上等だ」
サナは場所を譲った。
少女は椅子から立ち、作業台の前へ移動した。
木枠を両手で持つ。
思ったより軽い。
「真っすぐ下ろせばよいのですか?」
「だいたいね。途中で横へ引かない」
「はい」
「力を入れすぎなくても切れるよ」
少女は石鹸へ糸を当てた。
位置を確かめる。
左右。
厚さ。
隣の石鹸と同じくらい。
もう少し右だろうか。
「止まったね」
サナが言う。
「曲がりそうで」
「曲がったら?」
少女は答えられなかった。
「どうなりますか?」
「少し曲がった石鹸になる」
「それだけですか?」
「他に何になるんだい」
少女は思わず笑ってしまった。
「そうですね」
ゆっくり木枠を下ろす。
糸が石鹸へ食い込み、少しずつ沈んでいく。
途中で抵抗が変わり、少女の手が僅かに傾いた。
「あ」
最後まで切り終える。
二つに分かれた石鹸を見ると、断面がほんの少し斜めになっていた。
「……曲がりました」
「曲がったね」
サナはあっさり言う。
少女は自分が切ったものを見つめる。
やはり少し気になる。
「これは、どうしますか?」
「並べるよ」
「使うのですか?」
「使えるからね」
「売り物には?」
「これくらいなら気にしない商人もいるさ」
少女は石鹸をそっと持ち上げた。
自分が切った一つ。
完璧ではない。
だからといって、捨てられない。
「もう一つ、やってもよいですか?」
「どうぞ」
少女は二つ目を切った。
今度は先ほどより少し真っすぐだった。
「先ほどより綺麗です」
「そうだね」
「もう一つ」
「一つだけじゃなかったのかい?」
「やってから決めると言いました」
「確かに言ったね」
サナが楽しそうに笑った。
三つ目を切ったところで、少女は木枠を置いた。
「今日はここまでにします」
「疲れた?」
「少しだけ手に力が入っています。それと、もっとやりたい気持ちはありますが、全部私が切る必要はありませんから」
サナは少女を見る。
しばらく何も言わなかったので、少女は少し不安になった。
「何か?」
「いや」
サナは木枠を受け取る。
「最初に来た日なら、全部やるって言いそうだったと思ってね」
少女は返事をせず、自分の手を見る。
確かにそうかもしれない。
やらせてもらった。
なら最後まで。
途中で止めたら失礼だ。
そう考えていたはずだ。
「……そうだったと思います」
「今日は違うんだね」
「はい」
少女は自分でも少し不思議に思いながら答えた。
「サナさんの石鹸ですから」
「そうだよ」
「私は、やってみたかっただけです」
「それでいい」
サナは残りを切り始めた。
少女は再び椅子へ座り、その手元を眺める。
切り終えた石鹸は、間隔を空けて木板の上へ並べられた。
同じ木箱から作ったのに、厚さには僅かな違いがある。少女が最初に切ったものは少し斜めで、サナが切ったものにも一つだけ端が欠けたものがあった。
「あ」
少女は欠けた石鹸を見る。
「サナさんも失敗するのですね」
「するよ」
「……すみません」
「なんで謝るんだい?」
「失敗と言ってしまいました」
「失敗だろ。端をぶつけたんだから」
サナは欠けた小さな部分を拾う。
「これはどうするのですか?」
「うちで使う」
「欠けた部分も?」
「まとめて使うよ」
少女は目を瞬いた。
「捨てないのですね」
「使えるからね」
また同じ答えだった。
「サナさん」
「なんだい?」
「失敗した時、嫌になりませんか?」
問いかけてから、少女は少し踏み込みすぎたかと思った。
けれどサナは怒らず、石鹸を並べながら考える。
「物によるね」
「物による?」
「何日もかけたものを全部駄目にしたら、そりゃ嫌になるよ」
「そうですよね」
「腹も立つ」
「はい」
「若い頃は鍋を一つ駄目にして、半日誰とも口を利かなかったこともあるよ」
少女は意外に思ってサナを見る。
「サナさんが?」
「私だって腹くらい立てるさ」
「いつも落ち着いているので」
「八十年近く生きてりゃ、腹を立てた後にどうするかも少しは覚える」
「どうするのですか?」
「飯を食う」
少女は予想していなかった答えに瞬きをした。
「食事ですか?」
「腹減ってると余計腹立つだろ」
「……それは、そうかもしれません」
「飯食って、それでも腹立ってたら寝る」
「寝る」
「次の日も腹立ってたら、何が駄目だったか考える」
少女は思わず笑った。
「すぐ反省しないのですね」
「腹立ってる時に考えてもろくなことにならないよ」
「そういうものですか?」
「私はね」
サナは肩をすくめる。
「ベルならその場で直し始めるだろうし、ガルドなら笑ってもう一回やるかもしれない。ユウなら失敗した理由を先に調べるかね」
「人によって違う」
「そりゃ違うさ」
少女は並べられた石鹸を見る。
失敗した時の正しい反応が一つだけあるわけではない。
落ち込んでもいい。
腹を立ててもいい。
休んでもいい。
直してもいい。
使える部分だけ使ってもいい。
大切なのは、失敗したという事実が、その人全部の価値にならないことなのかもしれない。
少女はそこまで考え、すぐに結論として固めるのをやめた。
今はただ、目の前に少し斜めの石鹸がある。
それで十分だった。
作業を終える頃、庭先へ一人の老婆がやってきた。
少女は共同井戸で何度か見かけたことがあるが、名前まではまだ知らない。
「サナ、灰まだあるかい?」
「今日は使うなって言っただろ」
「石鹸はもう終わったんじゃないのかい」
「終わったよ」
「なら少しくれ」
老婆はそこで少女に気づいた。
「ああ、あんたが石鹸見に来てた子かい」
少女の肩が僅かに強張る。
「はい」
「どうだった?」
「面白かったです」
「そうかい」
老婆はそれだけ言うと、灰の容器へ視線を戻した。
「じゃあ灰もらうよ」
「勝手に持ってくんじゃないよ。量るから待ちな」
「いつも細かいねぇ」
「前に多く持ってっただろ」
「覚えてたのかい」
「忘れるか」
二人が言い合う。
少女は少し呆気に取られた。
自分についての話は、それで終わった。
「気にならないのでしょうか」
思わず呟くと、老婆が振り返る。
「何が?」
「いえ……私が」
「あんた?」
「村では見ない人間ですから」
「ああ」
老婆は少女を上から下まで一度見た。
「気にはなるよ」
少女の背筋が少し伸びる。
「でもサナのところで石鹸切ってるなら、今はそれでいいんじゃないかい」
「……それで?」
「他に何かあるのかい?」
少女は答えられなかった。
ある。
本当はたくさんある。
公爵家の娘だった。
王太子の婚約者だった。
罪を着せられた。
追放された。
名前さえまだ言っていない。
けれど、今この老婆の前にいる自分は、サナのところで石鹸を切った人でもある。
「ありません」
少女は小さく答えた。
「では、今はそれで」
「そうかい」
老婆はまた灰の話へ戻った。
サナの家を出る頃には、太陽が少し高くなっていた。
少女は右足の状態を確認する。
一程度。
問題はない。
それでも、すぐに次の場所へ行こうとはしなかった。
サナの家の前に置かれた椅子へもう一度座り、少し休む。
「帰らないのかい?」
「帰ります。でも、その前に少し座っていこうと思います」
「そうしな」
サナは石鹸を並べた板を日陰へ移している。
少女はその様子を見ながら尋ねた。
「次は、いつ見ればよいですか?」
「また見たいのかい?」
「はい」
「明日見ても大して変わらないよ」
「では、いつ頃なら?」
「何日かしたら触ってみるかい」
「何日ですか?」
「またそこからかい」
サナが笑う。
少女も笑った。
「待つのが苦手なのです」
「知ってるよ」
「でも、少しはできるようになりました」
「じゃあ五日」
「五日後」
「覚えられるかい?」
「覚えています」
「なら来な」
「はい」
また一つ、未来の予定ができた。
少女はそれを胸の中で確かめる。
三日先を待てた。
今度は五日先。
その間にも、別の日がある。
以前の自分なら、予定とは義務を埋めるものだった。
今は、小さな楽しみが先に置かれている。
マーサの家へ戻る途中、共同井戸の近くでユウと出会った。
肩には鍬を担ぎ、ズボンの裾には泥がついている。水路の作業をしていたという話を思い出し、少女は思わず足を止めた。
「お疲れさまです」
「おかえり」
ユウが自然に言った。
少女も自然に返す。
「ただいまです」
口にしてから、二人とも一瞬だけ黙った。
以前とは逆だった。
最初に少女が「おかえりなさい」と言い、ユウが「ただいま」と返した。
今日はユウが「おかえり」と言った。
少女は自分の返した言葉が、胸の中へゆっくり沈んでいくのを感じた。
「……石鹸、どうだった?」
ユウが先に話題を変えた。
「固まっていました」
「おお」
「三つ切らせてもらいました」
「三つ?」
「最初は一つだけのつもりでした。でも、もう少しやりたくなって」
「楽しかった?」
「はい」
少女は迷わず答えた。
「一つ目は曲がりました」
「切るの?」
「糸で切りました」
「へえ」
「でも使えるそうです」
「そっか」
「サナさんも一つ欠けさせました」
「それ言っていいの?」
「本人が失敗だと言っていました」
「ならいいのか」
ユウが笑う。
「ユウさんは?」
「水路直してた」
「魔法で?」
「最後だけ」
「最後だけなのですか?」
「ガルド爺さんが自分で土入れるって聞かなくて」
少女はやはり、と笑った。
「想像していました」
「途中からベル爺さんまで来て、傾きが悪いとか言い始めてさ」
「大変でしたね」
「でも前より流れよくなった」
「では成功ですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「次に雨降った時に見ないと分からない」
少女は少し驚いた。
「完成したのに?」
「水路だからね。水流れた時に崩れたら意味ないし」
「……また、待つのですね」
「何が?」
「今日、サナさんにも似たようなことを聞きました。石鹸も固まっただけでは完成ではないそうです」
「ああ」
「畑も、すぐには育ちません」
「うん」
「見張り場所も、一度作ってから直しました」
「そうだね」
少女は少し考えながら、村の家々を見る。
「この村では、完成するまで時間のかかるものが多いですね」
ユウは鍬を肩から下ろした。
「都会でもそうじゃない?」
「そうでしょうか」
「たぶん。見えにくいだけで」
少女はその言葉を考える。
王都では、完成したものばかりを見ていたのかもしれない。
整えられた庭。
仕立てられた服。
並べられた料理。
用意された馬車。
誰かが途中を引き受けていた。
自分が見ていなかっただけだ。
「私は、完成しているものの中で暮らしていたのですね」
「そうかもね」
「でも、自分だけは完成していないと言われ続けていた気がします」
言ってから、少女は少し驚いた。
そんなことをユウへ話すつもりではなかった。
ユウもすぐには答えない。
少女は視線を落とした。
「すみません。急に」
「謝らなくていいよ」
「……はい」
「完成って、何をもって完成なんだろうね」
ユウが言う。
少女は顔を上げた。
「人間の、ですか?」
「うん」
「公爵家の娘としてなら、求められるものはありました」
「全部できたら完成?」
「……たぶん」
「その後は?」
少女は答えられなかった。
王太子妃になれば、次は王太子妃として求められる。
王妃になれば、王妃として求められる。
子どもを産めば、母として求められる。
終わりなどない。
「完成しませんね」
「たぶんね」
「では、ずっと足りないままですか?」
「足りないって考えなくてもいいんじゃない?」
ユウは道端の草へ目を向ける。
「途中ってだけで」
少女も草を見る。
昨日触れた畑の小さな葉を思い出した。
まだ小さい。
だからといって、足りない植物とは呼ばなかった。
ただ、育っている途中だった。
「……途中」
「俺も途中だし」
「ユウさんも?」
「そりゃそうでしょ」
「でも、何でもできるように見えます」
「できないことだらけだよ」
「例えば?」
「農業」
「ガルドさんに教わっていますね」
「木工」
「ベルさんに教わっています」
「鶏」
「オルドさんですね」
「石鹸」
「サナさん」
二人は顔を見合わせた。
「本当ですね」
「でしょ」
少女は笑った。
規格外の魔法を使える人が、村では老人たちにいろいろ教わっている。
その事実が、今さら可笑しかった。
「そういえば、足は?」
ユウが尋ねる。
「一くらいです」
「休んだ?」
「サナさんの家を出る前に座りました」
「自分から?」
「はい」
「じゃあ今日は俺が言うことないな」
「それは少し寂しいですね」
口にした瞬間、少女は固まった。
ユウも目を瞬く。
「……いえ」
頬が熱くなる。
「そういう意味ではなくて」
「どういう意味?」
「分かりません」
「俺も分からない」
「では忘れてください」
「はい」
ユウは笑いを堪えているように見えた。
「笑っていますか?」
「ちょっと」
「忘れてくださいと言ったのに」
「まだ十秒くらいしか経ってないから無理」
「では、十分後に忘れてください」
「努力します」
少女は少しだけ唇を尖らせた。
けれど、本気で嫌ではなかった。
マーサの家へ戻ると、少女は石鹸作りのことを一通り話した。
一つ目が曲がったこと。
三つ切ったこと。
サナも一つ欠けさせたこと。
五日後にまた見に行くこと。
マーサは豆の筋を取りながら聞いていたが、最後に一つだけ尋ねた。
「で、楽しかったのかい?」
「はい」
「ならよかった」
「それだけですか?」
「他に何がいるんだい?」
また同じだった。
少女は笑い、マーサの向かいへ座る。
「それ、手伝ってもよいですか?」
「やりたい?」
「はい」
「じゃあ半分頼むよ」
「全部ではなく?」
「私は何するんだい」
「……半分お願いします」
少女は豆を受け取った。
作業を始めてしばらくすると、少女は以前より手が慣れていることに気づいた。
最初に豆の筋を取った時には、どこから指をかければよいか分からず、途中で何度も切ってしまった。今日は形を見れば、どちら側から始めればよいのか少し分かる。
「上手くなっています」
「二回目だからね」
「二回で?」
「一回目よりは上手くなるだろ」
マーサは当たり前のように言う。
「でも、まだマーサさんの方が速いです」
「私が何年やってると思ってるんだい」
「……比べる相手を間違えました」
「そういうこと」
少女は手元の豆を見る。
以前なら、相手が何年やっているかなど関係なく、自分が遅いことだけを見ていた。
妹が一度でできた。
なら自分も一度でできなければならない。
それが当たり前だった。
「私、ずいぶん変な比べ方をしていたのかもしれません」
少女が呟くと、マーサは手を止めなかった。
「誰と?」
「……妹とです」
名前は出さない。
それでも、この村へ来てから初めて、比較ではなく妹そのものについて少し話したい気持ちが生まれた。
「妹さんがいるのかい」
「はい。三つ下です」
十六歳。
少女は指を止める。
「とても、何でもできる子でした」
「へえ」
「魔法も、勉強も、礼儀作法も。一度教われば、すぐに覚えてしまうような子で」
「そりゃすごいね」
マーサは素直に言った。
少女の胸が少し痛む。
けれど、以前ほど鋭くはない。
「はい。すごい子です」
自分の口から、そう言えた。
「私は何度も練習しなければできなくて……両親は、いつも妹と比べました」
マーサの手がゆっくり止まった。
「そうかい」
「妹は一度でできた。なぜあなたはできない。公爵家の長女として恥ずかしくないのか、と」
公爵家。
言ってしまった。
少女は息を呑んだ。
昨日までマーサには、そこまで明かしていない。
マーサも聞き逃さなかったようだった。
しかし、驚いて立ち上がることも、問い詰めることもしなかった。
「公爵家だったのかい」
「……はい」
「そうか」
マーサはそれだけ言い、豆を一本取った。
少女は逆に戸惑った。
「聞かないのですか?」
「何を?」
「私が、どこの公爵家なのか」
「今言いたいのかい?」
少女は考える。
「……今日は、まだ」
「じゃあいいよ」
「驚かないのですか?」
「貴族だろうとは思ってたよ」
「分かっていたのですか?」
「あんたの喋り方と手を見りゃね」
マーサは少女の指先を見る。
「畑仕事も洗濯もしたことない十九の娘なんて、この辺じゃ珍しいよ」
「それは……そうですね」
「ベルも気づいてるだろうし、ローデンなんか最初から何かあるとは思ってただろ」
「でも、誰も」
「聞かないね」
「はい」
「言わないからだよ」
マーサはまた豆の筋を取る。
少女は自分の手元へ視線を落とした。
「妹さんは、あんたを嫌ってたのかい?」
不意に尋ねられた。
少女の手が止まる。
「……分かりません」
最初に出た答えだった。
けれど、そのままでは少し違う気がした。
「いえ」
少女は首を横へ振る。
「少なくとも、小さい頃は……私のことを好きでいてくれたと思います」
記憶の中で、小さな少女が笑っている。
『お姉様!』
庭を歩けばついてきた。
本を読んでいれば隣へ座った。
髪飾りを選べば、同じ色が欲しいと言った。
「よく、後ろをついてきました」
「可愛いじゃないか」
「はい」
少女の口元に、小さな笑みが浮かぶ。
「可愛かったです」
その言葉を口にした途端、胸の奥が強く痛んだ。
少女は息を詰める。
嫌いだったわけではない。
むしろ好きだった。
だからこそ、比べられるたびに苦しかった。
妹が褒められることが嫌なのではない。
その横で、自分が足りないものとして扱われることが嫌だった。
「私……」
少女は豆を握りすぎないよう、ゆっくり手を開いた。
「妹を嫌いだったのではないと思います」
マーサは黙って聞いている。
「でも、妹と一緒にいる自分が、だんだん嫌になりました」
声が少し震えた。
「何をしても比べられて。妹ができるたびに、自分ができないことを見せられているようで……妹が私を呼ぶ声にまで、笑って返せない時がありました」
「そうかい」
「妹は、何もしていないのに」
少女は唇を噛みそうになり、やめた。
「私が勝手に距離を置きました」
「勝手だったのかい?」
「え?」
「親にずっと比べられてたんだろ」
「はい」
「なら、何もないところから勝手に嫌になったわけじゃないじゃないか」
少女は顔を上げる。
「でも、妹には関係ありません」
「妹さんが悪いとは言ってないよ」
「では」
「妹さんが悪くないのと、あんたが苦しかったのは別の話じゃないかい?」
少女は言葉を失った。
その考え方は、ローデンやユウが何度も見せてきたものと似ていた。
一つの事実を、別の事実で消さない。
妹は悪くない。
自分は苦しかった。
両方あってもいい。
「……そうなのでしょうか」
「私は妹さんを知らないからね。あんたがどうしたいかも知らない」
「はい」
「でも、妹さんを悪者にしないために、あんたまで悪者になる必要はないだろ」
少女の目の奥が熱くなった。
涙が落ちるほどではない。
けれど、しばらく豆へ手を伸ばせなかった。
「会いたいかい?」
マーサが静かに尋ねた。
少女はすぐには答えられなかった。
妹の顔を思い浮かべる。
最後に会ったのはいつだっただろう。
追放される日、妹はいなかった。
あの子は、自分が追放されたことを知っているのだろうか。
両親から、何と聞かされたのだろう。
「……分かりません」
少女は正直に答えた。
「会いたい気もします。でも、怖いです」
「なら今はそれでいいんじゃないかい」
「分からないままで?」
「会う予定もないんだろ?」
「はい」
「じゃあ、会うことになった時にまた考えな」
少女は少し笑った。
「マーサさんも、ユウさんと同じことを言いますね」
「逆だよ。あの子が私たちみたいなこと言うようになったんだ」
「そうなのですか?」
「村に来たばっかりの頃よりはね」
少女は意外に思った。
「ユウさんも変わったのですね」
「そりゃ変わるよ。生きてるんだから」
マーサは何でもないように言った。
少女はその言葉を、しばらく胸の中に置いておくことにした。
豆の作業を半分ずつ終えた頃、外から足音が近づいてきた。
ローデンだった。
「いるか?」
「いるよ」
マーサが答える。
少女の身体に、僅かな緊張が走った。
昨日話した法的な問題。
四日後の商人。
まだその日ではない。
そう分かっていても、ローデンが来ると少し身構えてしまう。
「どうしました?」
少女が尋ねると、ローデンは家へ上がらず、開いた戸口のところで立ち止まった。
「大した話じゃない」
そう前置きしてから、少女を見る。
「昨日来た近隣村の男が、明日の朝までこっちにいる」
「はい」
「お前のことを向こうの村で話す可能性はある」
少女の指が僅かに強張った。
マーサも黙ってローデンを見る。
「止めることはできますか?」
少女が尋ねる。
「口止めすることはできる」
「では」
「ただ、口止めしたら逆に何かあると思われる」
少女は息を止めた。
確かにそうだ。
小さな村へ見知らぬ若い女がいる。
それだけなら「誰か来ていた」で終わるかもしれない。
秘密にしろと言えば、秘密にする理由を考えられる。
「それに、俺たちもいつまでも完全に隠しておけるとは思ってない」
ローデンは落ち着いた声で続けた。
「四日後には商人も来る。村に人が出入りすれば、誰かがいることくらいは知られる」
「……はい」
「だから聞きに来た。昨日の男には、特に何も言わないままでいいか?」
少女はローデンを見る。
決めるのは自分だ。
そのことが、少し怖い。
「もし、その方が私のことを話したら」
「近隣村に、ルーデに若い女がいるらしいって話が出るかもしれない」
「王都まで?」
「すぐには行かないと思う。ただ、絶対とは言えん」
「そうですよね」
少女は手元の豆を見る。
隠れ続けることはできない。
自分がここにいる限り、誰かに見られる。
名前を言わなくても、存在までは消せない。
「……何も言わなくてよいと思います」
しばらく考えて、少女は答えた。
「口止めは、しないでください」
「いいのか?」
「怖いです」
少女はそれも隠さなかった。
「でも、私がここにいることまで、皆さんに秘密にしていただくのは違う気がします」
ローデンは黙って聞く。
「私が何者なのかは、まだ言いたくありません。でも……この村に一人の人間がいることまで、なかったことにしたくありません」
口にすると、胸が少し震えた。
自分がいる。
そのことを隠さなくていい。
公爵令嬢としてではなく。
元王太子の婚約者としてでもなく。
罪人としてでもない。
今は、ルーデ村にいる一人の人間として。
「分かった」
ローデンは短く答えた。
「じゃあそのままにする」
「はい」
「気が変わったら言え」
「変えてもよいのですか?」
「明日の朝まではな」
少女は少し笑った。
「分かりました」
ローデンはそれ以上何も言わず、マーサへ軽く手を上げて帰っていった。
少女はしばらく戸口を見つめていた。
「怖いかい?」
マーサが尋ねる。
「はい」
「後悔した?」
「まだ分かりません」
「なら、まだ分からないでいいさ」
少女は頷く。
昨日、知らない荷車の音だけで身体が固まった。
もし自分がここにいるという話が外へ広がれば、いつか王都へ届くかもしれない。
それが明日なのか、一月後なのか、もっと先なのかは分からない。
怖い。
それでも、存在そのものを隠してもらうことにも違和感があった。
「私、少しずつ欲張りになっているのでしょうか」
「何が?」
「ここにいたいと言って、隠れたくないとも思って」
「それのどこが欲張りなんだい?」
「以前なら、どちらかを諦めなければならないと思っていました」
「今は?」
「両方あってもよいのかもしれないと思っています」
ここにいたい。
怖い。
隠れたくない。
見つかるのは怖い。
妹に会いたいかもしれない。
会うのは怖い。
矛盾しているように見える感情を、どちらか一つへ決めなくてもいいのかもしれない。
少女は自分の胸へ手を当てた。
「難しいですね」
「生きるのなんてそんなもんだよ」
マーサは再び豆を手に取った。
夕方になると、サナのところで切った石鹸のことを思い出した。
あれは今も少しずつ乾いている。
少女が見ていない間にも変わっている。
自分もそうなのだろうか。
自分では何もしていないと思う時間にも、何かが少しずつ変わっているのかもしれない。
その考えは、以前なら不安だっただろう。
今は、少しだけ安心できた。
夕食の後、ユウがマーサの家へ顔を出した。
手には小さな木の板を持っている。
「何ですか、それ」
少女が尋ねる。
「ベル爺さんから」
「ベルさん?」
「足、だいぶ治ったんでしょ?」
「はい」
「靴の中に入れてた当て物、そろそろ薄いのに替えていいんじゃないかって」
木板の上には、柔らかくした布と薄い革が置かれていた。
「わざわざ作ってくださったのですか?」
「余り物で作ったって」
「ベルさんらしいですね」
少女は受け取りながら笑った。
「明日試して、擦れるなら戻してって」
「分かりました」
「あと」
ユウは少し言いにくそうに頭を掻いた。
「鑿の話、覚えてるかって」
少女の顔が明るくなる。
「覚えています」
「足が治ったら教えるって言ってたやつ」
「はい」
「そろそろ短い時間ならいいってさ」
「本当ですか?」
「明日でもいいらしいけど」
少女はすぐに答えようとして、止まった。
明日。
サナの石鹸は五日後。
特に他の予定はない。
やってみたい。
「……明日の朝、足を確認してから決めてもよいですか?」
ユウが笑った。
「もちろん」
「では、そうします」
少女は自分でも少し誇らしく感じた。
楽しみなことができたからといって、今すぐ確定しなくてもいい。
明日の自分の身体に聞いてから決める。
それが自然に口から出た。
「ユウさん」
「ん?」
「今日、妹のことを少し話しました」
なぜそれを伝えたくなったのか、自分でも分からなかった。
ユウは驚いた様子を見せたが、何も聞かずに待った。
「マーサさんに」
「そっか」
「妹は……とても優秀な子です」
「うん」
「私は、ずっと比べられていました」
そこまで言うと、胸の奥がまた痛む。
けれど、少女は続けた。
「でも、妹が悪かったわけではありません」
「うん」
「それなのに、私は妹と距離を置きました」
ユウは少し考えてから尋ねた。
「それ、今答え出したい話?」
少女は目を瞬いた。
妹をどう思っているのか。
自分が悪かったのか。
会いたいのか。
許してほしいのか。
今決めなければならないのか。
「……いいえ」
少女は首を横へ振った。
「まだ、分かりません」
「じゃあ、分からないままでいいんじゃない?」
「マーサさんにも言われました」
「やっぱり」
「同じことを言うのですね」
「この村にいると移るんだよ」
「何がですか?」
「適当に明日考える癖」
「それは良い癖なのでしょうか」
「俺は好き」
ユウは笑った。
少女も笑う。
「私も」
口にしてから、少女は少し考えた。
「最近は、少し好きです」
「そっか」
「はい」
明日のことを明日考える。
以前なら無責任に聞こえただろう。
今は、今日を生きるための言葉に聞こえる。
ユウが帰った後、少女は客間へ戻った。
窓の外には、村の小さな灯りがいくつも見えている。
その一つ一つの家で、誰かが夕食を終え、片づけをし、眠る準備をしているのだろう。
少女は寝台へ腰を下ろし、今日のことを思い返した。
楽しみにしていた石鹸は、きちんと固まっていた。
一つ目は少し曲がった。
二つ目は少し上手くできた。
三つ目までやって、自分で止めた。
妹のことを少し話した。
自分が公爵家の娘だったことも、マーサへ伝わった。
近隣村の男に口止めしないことを、自分で決めた。
明日は、足の具合がよければベルに鑿を教わるかもしれない。
五日後には、また石鹸を見る。
そして、その前には商人が来る。
少女の胸が少し重くなった。
四日後だった予定は、もう二日ほど先まで近づいている。
商人が王都の話を持っているかもしれない。
自分の追放について、何か知っているかもしれない。
それを聞けば、今の静かな暮らしが変わる可能性もある。
怖かった。
少女はその恐怖を否定しなかった。
「……でも、今日は石鹸が固まりました」
小さく口にする。
王都のことが何も解決していなくても。
追放命令の扱いが分からなくても。
森の奥に何がいるか分からなくても。
今日、自分が待っていたものは、ちゃんと三日後にやってきた。
少女は横になり、布団を胸元まで引き上げた。
明日の朝、足が痛くなければベルのところへ行ってみよう。
痛ければ行かない。
それでも鑿は逃げないだろう。
ベルも、たぶん逃げない。
そんなことを考えると、少し可笑しくなった。
遠い未来のことは、まだ怖い。
けれど、明日や五日後のことなら、少しずつ楽しみにできる。
少女は目を閉じた。
三日前には液体だったものが、今日は石鹸の形になっていた。
まだ完成ではない。
少し柔らかく、乾かす時間も必要で、形が曲がったものまで混じっている。
それでも誰も、それを足りない石鹸とは呼ばなかった。
ただ、途中なのだと言った。
その言葉を胸の中へ置いたまま、少女は静かに眠りへ落ちていった。




