第8話 森の異変
翌朝、俺は自分の畑へ向かうより先に、オルド爺さんの家へ寄ることにした。昨日の昼、食事を喉へ詰まらせて一時は呼吸ができなくなった本人は、それでも「明日から鶏の世話は自分でする」と譲らなかったので、念のため体調を見ておきたかった。
家の前まで来ると、俺の心配など知らないと言わんばかりに、柵の向こうから鶏の鳴き声が聞こえてくる。その中心ではオルド爺さんが木桶を抱え、地面へ穀物を撒きながら、集まってくる鶏たちへ何やら楽しそうに話しかけていた。
「ほら、こっちにもあるぞ。昨日の分まで食っとけ」
「……本当にやってるし」
思わず漏らした俺の声に気づいたらしく、オルド爺さんが振り返る。昨日あれだけ苦しい思いをしたとは思えないほどいつも通りの顔だったが、元気そうだからといって確認を省くつもりはなかった。
「昨日からやると言っとっただろ」
「言ってたけどさ。せめて俺が来るまで待つとかないの?」
「餌の時間が遅れたら鶏が腹を空かす。それに、お前が遅い」
「朝飯をちゃんと食べてから来たんだから許してよ。村のみんなが食事抜くなって言うから守ってるのに、それで遅いって言われるの理不尽じゃない?」
オルド爺さんは鼻を鳴らしたものの、それ以上は文句を言わなかった。俺が近づくと空になった木桶を地面へ置き、こちらが聞く前から「咳は出とらん」と先回りして答える。
「熱っぽさは?」
「ない。胸も痛くないし、腹は昨日押されたところが少し痛むくらいだ」
「喉の違和感は残ってる?」
「ほとんどない。朝のパンも小さく切って食べたぞ」
少し得意そうに報告されて、俺は思わず笑った。昨日は食べ物を小さくする話をすると不満そうだったのに、実際に怖い思いをしたこともあって、本人なりに受け入れてくれたらしい。
「ちゃんとやったんだ」
「昨日あれだけ言われたらな」
「えらい」
「子供扱いするな」
「でも、また詰まらせられたら俺が怖いからさ」
昨日と同じように、今日もそこだけは誤魔化さなかった。オルド爺さんは一瞬だけ俺を見つめたあと、からかうでもなく小さく鼻を鳴らし、「俺ももう嫌だから気をつける」と答える。
「それで十分。鶏の世話は普通にできてるみたいだし、今日は一緒にやり方を教えてもらおうかな」
「餌やりくらい見れば分かるだろ」
「その『見れば分かる』で初心者に伝わると思わないでよ。俺、この世界の鶏の世話なんてしたことないんだから」
面倒そうな顔をしながらも、オルド爺さんは餌の保管場所や水桶の位置、それから穀物に何を混ぜるのかまで教えてくれた。毎回きっちり計量しているわけではなく、食べ残しや鶏の様子を見ながら量を変えるらしく、説明を聞いて初めて「見れば分かる」の中身が少し見えた気がする。
「だから見れば分かると言っただろ」
「説明されたから分かったんだよ。最初からそれ言ってくれればいいのに」
「面倒じゃ」
「教える側として最悪だなあ」
そんなやり取りをしながら水桶の方へ回った時、一羽の鶏が柵の端で妙に落ち着かない動きをしていることに気づいた。餌へ向かう他の鶏とは違い、その一羽だけが森のある東側へ身体を向け、何度も首を伸ばして周囲を窺っている。
「オルド爺さん、あの鶏っていつもあんな感じ?」
「ん?」
爺さんも視線を向け、しばらく様子を見たあとで眉を寄せた。
「いや。朝なら餌しか見とらん奴だ」
「何か気にしてるのかな。狐とか来た?」
「昨日の夜は何もなかったぞ」
俺は柵の外へ回り、柔らかい土へ視線を落とした。鶏小屋の周囲なら動物が近づけば跡が残りやすいと思ったが、最初に見た範囲ではそれらしいものがなく、少し東側へ回り込んだところで草の間に小さな窪みが見つかった。
「……これかな」
しゃがみ込んで確認すると、犬や狐に似た足跡がいくつか残っている。ただし俺の知っている形とは微妙に違い、四本の指に見える跡の後ろへ丸い肉球のような痕が続いていて、大きさも俺の手のひらより一回り小さい程度はあった。
「爺さん、これ分かる?」
呼びかけると、オルド爺さんがこちらへ歩いてくる。昨日の今日ということもあって反射的に「近づきすぎないでね」と言うと、「足跡を見るだけだろ」と呆れられたが、それでも少し離れた位置から覗いてもらった。
その表情が、すぐに変わる。
「森犬じゃないな」
「森犬って、この辺にいる野犬みたいなやつ?」
「ああ。あいつらはもっと細いし、こんな形はしとらん」
「じゃあ何?」
「分からん」
この村で長く暮らし、森の動物も見慣れているオルド爺さんが分からないとなると、軽く見ない方がいい気がした。足跡そのものも一つではなく、よく見れば倒れた草が何本か続いていて、森の方から鶏小屋近くまで来たあと、何も取らずにまた戻っているように見える。
「鶏は減ってないんだよね?」
「一羽も減っとらんし、卵もいつも通りだ」
「夜に騒いだりもしてない?」
「俺は聞いてない」
何かがここまで来たのは確かでも、その目的までは分からない。餌を探していたのか、柵を確認して引き返したのか、それとも別の理由があるのか、勝手に決めつけるより先に村の人たちへ聞いた方がよさそうだった。
「今日は鶏小屋の周り、ちょっと気にしといて。俺、ローデンに話してくる」
「大げさじゃないか?」
「大げさだったらそれでいいよ。何もなかったって分かる方が楽だから」
オルド爺さんは少し不満そうだったものの、今回は素直に頷いてくれた。
◇
村の中央近くにあるローデンの家へ行くと、本人は外で荷車の車輪を調べていた。こちらに気づくなり「今度は何だ」と聞かれたので、最近の俺は何か問題を持ち込む人間として認識されつつあるらしい。
「オルド爺さんの鶏小屋の近くに変な足跡があった。爺さんも見たことないって」
「形は?」
足跡の大きさや指の数、それから複数が重なっているように見えたことを説明する。森から来て柵の手前まで近づき、また戻っているようだったと付け加えると、ローデンは荷車から手を離して少し考え込んだ。
「一匹だけか?」
「重なってるから正確には分からないけど、少なくとも二匹以上だと思う。昨日の道直しで東側に何か見た人いない?」
「俺は聞いていないが、薪や薬草を取りに浅いところまで入る者はいる。ベルたちにも声をかけてみるか」
「その方がいいと思う。何か最近変わったことがあれば知りたい」
俺一人で森へ入って確認するより、この土地を知る人の話を集める方が先だった。強い魔法を持っているからといって、足跡の読み方や森の変化まで分かるわけではない。
◇
一時間もしないうちに、村の中央へ何人かが集まった。ローデンとガルド爺さん、ベル爺さん、サナ婆さんに加え、森へよく薪を取りに行く五十代のドランとケルも呼ばれている。
「三日前だったな。東の森へ入った時、鹿が妙な動きをしてた」
ドランが腕を組みながら話し始める。
「普段なら人を見たら森の奥へ逃げるのに、その日は逆に奥からこっちへ走ってきた。親が二頭と子が一頭だったと思うが、かなり慌ててたぞ」
「何か追いかけてきてた?」
「姿までは見えなかった。ただ、少し後に奥で鳥がまとめて飛び立った」
隣にいたケルも思い出したように頷く。
「俺は昨日、森の縁で猪を見た。畑に入ってきたわけじゃないが、昼間にあそこまで出るのは珍しい」
「村へ寄ってきてるというより、森の奥から押し出されてる可能性もあるのかな」
俺が口にすると、ローデンがこちらを見る。
「奥に何かいると?」
「まだ分からない。でも、鹿も猪も普段と違う場所へ出てきてるなら、森の奥を避けたくなる理由がある可能性はあるよね」
「魔物かもしれんな」
ベル爺さんの言葉で、場の空気が少しだけ変わった。
この世界へ来てから魔物そのものは何度か見ているが、そのすべてが危険というわけではない。畑へ出る角の生えた兎や、夜に淡く光る虫のような存在まで魔物と呼ばれることがあるらしく、言葉だけでは危険度を判断できなかった。
「この辺って、強い魔物はよく出るの?」
俺が尋ねると、ローデンは首を横へ振る。
「滅多に出ない。この村が何十年も続いているのは、東の森が比較的穏やかだからだ。十年以上前に牙猪が一頭出たことがあるのと、森狼が数頭で現れるくらいだな」
「森狼って、さっきオルド爺さんが言ってた森犬とは別なんだよね?」
「ああ。森犬は普通の獣に近いが、森狼は魔物だ。足跡ももっと細長く、爪が深く残る」
なら、今朝見たものとは違う。知らない生き物が複数、村のすぐ近くまで来ているという事実だけが残った。
「一度、確認に行くか」
ガルド爺さんが当然のように言ったので、俺はすぐに首を横へ振る。
「爺さんは行かない」
「何でじゃ。俺は森のこと知っとるぞ」
「何がいるか分からないところに七十四歳連れていくの嫌なんだよ」
「まだ七十四じゃ!」
「昨日、七十九歳の爺さんが死にかけたばっかりなの!」
思ったより強い声が出てしまい、周囲が少し静かになった。ガルド爺さんも口を閉じたので、俺は一度息を吐いてから言葉を続ける。
「言い方きつかったのはごめん。でも、行くなら危険を減らしたい。森を知ってる人は必要だけど、全員で入る必要はないでしょ」
「なら俺が行く」
ドランが手を上げる。
「浅いところなら分かるし、ケルも一緒に来れば足跡を見られる」
「俺もかよ」
「お前の方がそういうの得意だろ」
ケルは嫌そうな顔をしたものの、本気で断る気はないらしい。
「ローデンは村に残った方がいいと思う。何かあった時、こっちをまとめる人がいなくなる方が困るから」
「俺もそのつもりだ」
結果として森へ入るのは、俺とドランとケルの三人になった。人数が少ない不安はあるものの、大勢で入れば足跡を消したり動物を余計に刺激したりする可能性もあるので、確認だけならこのくらいでいいだろう。
「戦いに行くわけじゃないからね。何か見つけても、できるだけ確認だけして戻る」
「追われたら?」
ケルの質問へ、俺は少し考えてから答えた。
「その時は俺が止める。ただし、最初から倒しに行くつもりでは動かない」
自分でも、王都の使者へ「戦う仕事にはしたくない」と言ったばかりなのを思い出していた。それでも村のすぐ近くへ危険が来ている可能性があるなら、何も知らないまま放置する方が落ち着かなかった。
◇
出発前、《魔導書庫》を呼び出して必要になりそうな魔導書を確認した。銀色の魔導書で村の東側へ簡易的な結界を張り直し、猪や小型魔物程度なら避けるよう強度を少し上げておく。
「これで何でも防げるわけじゃないから、過信はしないでね」
「お前でも分からないのか?」
ローデンが結界の向こうを見ながら聞く。
「大型の魔物に試したことないからね。できることと、確認できてることは分けた方がいいと思ってる」
森へ持っていく魔導書も選ぶ。白は怪我に備え、銀は防御、茶色は足場や拘束に使えそうで、緑は攻撃より押し返す用途に向いている。
赤い本については、最初から使わないと決めた。昨日の《火弾》で人の背丈ほどある岩が砕けたことを思えば、木々に囲まれた森で火属性を不用意に撃つのは危険すぎる。
「火は使わない。必要なら風か土を使う」
「昨日の穴を見た後だと、それがいいだろうな」
ローデンの言葉へ頷き、俺たちは村を出た。
◇
東の森へ足を踏み入れると、村から眺めていた時よりずっと暗く感じた。重なった枝葉が朝の光を遮り、地面には落ち葉と根が幾重にも重なっているため、慣れていない俺が先頭へ出れば転ぶか足跡を踏み潰すだけだろう。
「そこは踏むな。昨日の雨が残って柔らかくなってる」
先を歩くドランに言われ、俺は素直に足を止める。
「こういうの全然分からないな」
「森に慣れてないなら俺たちの後ろにいろ。戦う必要が出た時だけ前へ出ればいい」
「役割が分かりやすくて助かるよ」
俺に魔法があるからといって、全部を任されるわけではない。森の道は二人へ任せ、俺は周囲と二人の動きを見ながら進む方が安全だった。
村から百メートルほど進んだところで、ケルが足を止めて地面を指す。そこには今朝オルド爺さんの鶏小屋で見つけたものと同じ足跡があり、重なり方を見ながらケルが慎重に数を確認していった。
「三……いや、四だな。少なくとも四匹はいる」
「群れで動いてるってことか」
「たぶんな。ただ、ここだけ見ると同じくらいの大きさだ」
足跡は森の奥へ続いているものの、一直線には進んでいなかった。何度か木の根元を回り込んだり、同じ場所を往復したような跡があり、何かを探していたようにも見える。
「餌を探してるのかな」
「獣なら普通だろ」
「それなら鶏を取らなかったのは、柵があったから諦めたのかもしれないね」
あり得る話ではあるが、それだけでは鹿や猪の行動まで説明できない。まだ何も決めつけず、俺たちは足跡を追ってさらに奥へ進んだ。
しばらくすると、周囲の音が少なくなっていることに気づいた。虫の声は残っているものの、さっきまで聞こえていた鳥の鳴き声が明らかに減っており、大きな動物が動く気配もほとんど感じられない。
「普段からこの辺ってこんなに静かなの?」
声を抑えて聞くと、ドランが首を横へ振る。
「この時間なら鳥がもっと鳴いてるし、運がよければ鹿も見る。俺もさっきから気になってた」
森の中で音が少ないことは、安全ではなく何かを避けている兆候なのかもしれない。三人とも自然に歩く速度を落とし、足元と周囲を慎重に見るようになった。
さらに進んだところで、湿った獣臭とは別の、生臭い匂いが風に混じってくる。俺が足を止めると、ドランとケルも鼻を動かし、同じものに気づいた。
「死骸かもしれん」
「風は北東から来てるよね。真正面から行かない方がいいかな」
「回り込もう」
ドランの判断で横へ回り、匂いの元へ直接近づかないように進む。やがて木々の間が少し開けた場所へ出ると、倒木の向こうに鹿の死骸が横たわっているのが見えた。
腹部は大きく裂けていたが、ほとんど食べられていない。周囲には血が残り、その中へ今まで追ってきたものと同じ足跡が大量に重なっていた。
「これ、獣が食べた跡?」
俺には判断できず、ケルへ聞く。
「少しは食ってる。ただ、腹を裂いた割に残しすぎだな。普通ならもっと食う」
「殺すこと自体が目的だった可能性もある?」
「そこまでは分からん。ただ、足跡は増えてる」
ケルが周囲を見渡しながら数え直す。
「六か七はいるな。さっき見た四匹とは別の群れが混じったか、途中で合流したかだ」
確認するべきことは十分だった。村の近くへ来ている未知の生き物が複数いて、森の中では鹿が殺されている以上、これ以上奥へ追う必要はない。
「戻ろう。何がいるか確認するのが目的だったし、ここから先まで行く理由ないよ」
「俺も賛成だ」
三人で来た方向へ身体を向けた、その直後だった。
右側の茂みから低い唸り声が響く。俺は反射的に銀色の魔導書へ手をかけながら、ドランとケルへ小さな声で「動かないで」と伝えた。
葉が揺れ、やがて一頭の獣が姿を現す。犬に似た体つきではあるものの、肩の高さは俺の腰近くまであり、泥を塗ったような黒褐色の毛の間から黄色い目がこちらを睨んでいた。
「知ってる魔物?」
「知らん」
ドランの返事が硬い。
距離は十五メートルほどで、向こうもすぐには飛びかかってこなかった。低く唸りながらこちらを観察しており、その間にも左側や後方の茂みから別の葉が揺れる音が聞こえてくる。
「一匹じゃなさそうだね」
「囲まれてる」
ケルの言葉通りだった。すぐに目視できるだけでも三頭が別方向に現れ、さらに右側から二つの気配が動いている。
「走らないで。背中を向けたら追ってくるかもしれないから、まず位置を見る」
自分へ言い聞かせる意味も込めて伝える。急変対応の時と同じで、怖くても最初に状況を整理しなければ何をすればいいのか決められない。
「俺が前へ出る。二人は背後を見て、数が増えたら教えて」
「大丈夫なのか?」
「分からない。でも、最初の一撃くらいなら結界で止められると思う」
確実とは言えないが、何もないよりはいい。
銀色の魔導書を開き、三人を囲うように直径五メートルほどの《防壁》を展開する。大きくしすぎれば維持が難しくなるので、まずは敵の動きを確認するための盾として使うつもりだった。
正面の一頭が先に動いた。地面を蹴った瞬間から速度が一気に上がり、十数メートルの距離をほとんど迷わず詰め、そのまま結界へ身体ごとぶつかってくる。
鈍い衝撃とともに半透明の壁へ波紋が広がったものの、結界そのものは壊れない。続いて左と後ろから別の二頭がほぼ同時にぶつかり、それぞれ違う場所へ牙や前脚を当ててくる。
「正面と左と後ろで三匹見えてる!」
「右に二匹いるぞ!」
ケルとドランの声を聞きながら、俺は結界へ攻撃する様子を観察した。一度ぶつかった場所へ何度も同じ攻撃を重ねるのではなく、少し下がってから別の方向へ回り込み、異なる場所を噛んだり身体をぶつけたりしている。
「こいつら、結界の弱いところ探してるかもしれない」
「そんなに頭いいのか?」
「分からない。でも、適当に暴れてる動きには見えない」
こちらも一度試す。
緑の魔導書を開き、正面の一頭だけを狙って《風圧》を細く当てる。強さはかなり抑えたつもりだったが、それでも獣の身体は数メートル後ろへ転がり、木へぶつかる寸前で止まった。
「生きてるね。すぐ起き上がった」
「かなり頑丈だな」
「今のは弱めたから、それだけじゃ判断しきれないよ」
「昨日の火の話を聞いた後だと、お前の『弱めた』は信用しづらい」
「それは俺も同じ」
倒すことが目的ではないので、今ので十分だった。森の中で強い攻撃を使うより、押し返しながら村側へ抜ける方が安全だろう。
「前だけ押し返して道を作る。合図したら走らず早歩きで戻ろう。根に引っかかって転ぶ方が危ないから」
「こんな状況でも歩くのか」
「走って一人転んだら助ける人数が増えるでしょ」
二人が頷いたのを確認し、緑の魔導書で横長の《風壁》を前方へ広げる。攻撃というより強く押すことを意識すると、落ち葉と土が舞い上がり、前にいた魔物たちが一斉に数メートルほど下がった。
「今、戻るよ!」
ドランを先頭に、ケルが中央、俺が最後尾へ入る。移動する三人に合わせて《防壁》も動かしながら進むが、当然ながら魔物たちは簡単には諦めなかった。
背後から一頭が追いつき、結界へ飛びかかる。続いて二頭目、三頭目も距離を詰めてきたため、俺は後方へ広い範囲の風を当て、相手を傷つけるより近づけないことを優先した。
「あとどれくらいで村側へ抜ける?」
「まだ六百メートル近くある!」
ドランの答えに、俺は少し考える。
このまま村まで追わせれば、結界があるとはいえ危険をそのまま連れて帰ることになる。長時間移動しながら防御を続けるより、足場のいい場所で一度止めた方がましだった。
「前に少し開けた場所がある。そこで一回止まろう」
「ここで戦うのか?」
「追わせたまま村まで行く方が嫌だから。倒せるかじゃなくて、追ってこられない状態にする」
木々の間隔が広く、地面も比較的平らな場所まで進んだところで二人を大きな木の後ろへ移す。そこだけ銀色の魔導書で小さな防壁を作り、勝手に外へ出ないよう念を押した。
「俺は前で動きを見る。もし後ろへ回られたら声かけて」
「一人で全部やるなよ」
ドランに言われ、俺は一瞬だけ目を向ける。
「分かってる。見える範囲を俺が止めるだけだから、見えないところは二人に頼む」
それで役割を分ける。
魔物は間を置かずに追いついてきた。最初の一頭が正面から飛び込んできたため《風圧》で横へ流し、少し遅れて来た二頭目も同じように押し返す。
三頭目はその動きを見ていたのか、今度は身体を低くして地面すれすれを走ってきた。風が当たる位置を避けようとしているように見えたので、俺は緑から茶色の魔導書へ切り替える。
「同じ攻撃を避けようとしてるなら、別の方がいいね。《隆起》」
三頭目の少し手前だけ地面を持ち上げる。勢いのついた前脚が急な段差へ引っかかり、そのまま身体ごと転がった。
「やっぱり見て覚えてる」
単なる獣より明らかに対応が早い。
横から四頭目が接近した時は、気づいた時点で距離が五メートルほどしか残っていなかった。反射的に《防壁》を間へ出すと、長い牙が半透明の壁へ食い込み、唾液の飛ぶ口元が目の前まで迫る。
さすがに身体が強張った。
「離れろ!」
咄嗟に風を強めると、魔物の身体が横へ吹き飛び、木の幹へぶつかる。悲鳴に近い声を上げて倒れたため、やりすぎたかと思ったが、数秒後には前脚を動かして起き上がろうとしていた。
「強くしすぎたけど、生きてる……」
そう確認した瞬間、ドランの声が飛ぶ。
「ユウ、上だ!」
反射的に見上げると、太い枝の上に一頭いた。犬に似た体つきから木登りまでは想定していなかったが、幹へ爪を引っかけて上がったらしく、こちらを狙ってそのまま飛び降りてくる。
「木にも登るのかよ!」
銀色の魔導書を上へ向け、《防壁》を斜めに展開する。落下してきた魔物は結界へぶつかって弾かれ、地面へ転がった。
さらに正面から別の一頭が同時に飛び込んでくる。偶然とは考えづらいタイミングだった。
「連携してる……」
一頭が注意を上へ向けさせ、その間に別の一頭が正面から来る。
なら、長引かせる方が危険だ。
「倒すというより、動けなくするよ」
茶色の魔導書を開き、地面へ魔力を広げる。
見えている敵は六頭。
残り一頭がまだ分からない。
「ケル、見えてない奴いる?」
「右奥の木の陰! 一匹いる!」
「ありがとう。これで七匹全部見えた」
位置を頭へ入れたうえで、《土縛》を使う。
地面から土を盛り上げて脚を絡め取るつもりだったが、一回目で捕まったのは二頭だけだった。残りは土が動いた瞬間に跳び、予想以上の反応速度で避けている。
「地面が動いたら跳ぶんだね。だったら着地した方を狙う」
一回目と同じように土を盛り上げる。魔物がそれを見て跳んだ瞬間、今度は最初の隆起を囮にし、着地点へもう一度《土縛》を発動した。
着地した脚が柔らかくなった地面へ沈み、そのまま周囲の土が固まる。二頭、三頭と続けて足を取られ、最終的には四頭がその場から動けなくなった。
残っていた三頭のうち一頭が、拘束された仲間を見て動きを止める。
低い唸り声を上げながらこちらを窺ったあと、三頭は示し合わせたように森の奥へ走り去った。
「追わないよ」
自分から先に言っておく。
「もちろんだ。俺たちも追う気はない」
ドランの返事を聞き、俺はようやく少し呼吸を深くした。
すぐには動かず、五分ほど周囲を確認する。森の音を俺は正確に聞き分けられないため、ドランとケルにも遠ざかったか確認してもらい、戻ってくる気配がないことを確かめてから防壁を弱めた。
残る問題は、足元を拘束している四頭だった。
「これ、どうする?」
ケルが聞く。
俺はすぐには答えられなかった。
危険な魔物だ。
村の近くまで来ている。
群れで人間を囲み、こちらの攻撃へ適応しながら連携して襲ってきた。
このまま放せば、また村へ来る可能性は高い。
「……逃がすのは危ないよね」
「俺がやる」
ドランが落ち着いた声で言った。
「こういうのは獣相手でも経験がある。お前が全部やる必要はない」
「でも、捕まえたの俺だし」
「だから何だ。捕まえるところまでお前がやったなら、後は俺ができる」
またその言葉だった。
全部やらなくていい。
できる人に任せていい。
俺は少しだけ黙ったあと、頷く。
「……じゃあ、お願い」
「ああ」
俺は少し離れた場所へ移動した。
無理に見ようとは思わなかった。
戦えることと、命を奪うことへ慣れなければならないことは別だと思っていた。
◇
村へ戻った頃には、昼をかなり過ぎていた。
入口近くではローデンたちが待っていて、こちらの姿を見つけるとガルド爺さんが真っ先に歩いてくる。普段なら何があったかを先に聞きそうな人なのに、今日は俺たち三人の身体を見回してから声を上げた。
「怪我はないか!」
「三人とも大丈夫。俺の服が枝で少し破れたくらい」
「それならいい。それで、何がいた?」
「俺たちの誰も知らない魔物が七匹いた。四匹は仕留めて、三匹は森の奥へ逃げた」
ローデンの表情が険しくなる。
「七匹もいたのか」
「見えたのは七匹だけ。全部だったかまでは分からない。それに犬みたいな見た目なのに木へ登るし、かなり頭がいい」
結界の違う場所を試すように攻撃していたこと、一度見た風を避けようとしたこと、上と正面から同時に攻撃してきたことまで説明する。周囲で聞いていた村人たちも、次第に軽い見物人の顔ではなくなっていった。
「鹿の死骸もあった。ほとんど食べてないのに腹だけ裂かれてて、周りに同じ足跡がたくさん残ってた」
「三匹はまだ森にいるんだな」
「うん。それに、本当に七匹だけだったか分からない。今日はもう東側の森へ誰も入らない方がいいと思う」
ローデンもすぐに頷いた。
「家畜もできるだけ村側へ寄せる。結界はどうする?」
「今より強くする。ただ、あれだけ頭いいなら結界だけに任せたくないから、夜の見張りも考えた方がいい」
「交代でやるか」
「一人はやめよう。何か来た時、一人だと助けを呼べない可能性があるから最低二人」
村は三十一人しかおらず、高齢者も多い。人数を考えれば負担が大きいので、俺は銀色の魔導書に警戒用の術式がないか探してみることも提案した。
「見つからなかったら俺も見張りに入るよ」
「お前は休め」
ガルド爺さんがすぐに言う。
「いや、今日実際に戦ったの俺だし、何か出た時に一番対応できるのも俺でしょ」
「だからこそ、一晩中立たせる気はない。お前が倒れたら明日どうする」
「一晩中じゃなくて交代ならいいでしょ」
言い返すと、マーサ婆ちゃんが横から口を挟む。
「それなら相談して決めな。結界張って、森にも入って、夜まで全部あんたがやるって言うなら止めるけど、必要なところだけなら誰も駄目とは言ってないよ」
全部やるなというだけで、何もするなと言われているわけではない。
「……分かった。見張りに入るなら交代で」
「それでいい」
ローデンが頷いた。
◇
午後は銀色の魔導書を開き、警戒に使えそうな術式を探すことになった。
防御や遮断、衝撃緩和、魔力への抵抗といった術式が並ぶ中に、《警戒線》というものを見つける。一定範囲へ薄い魔力の線を張り、ある程度以上の大きさのものが触れれば術者へ知らせる仕組みらしい。
「これなら使えそう」
「村全部を囲えるのか?」
ローデンに聞かれ、俺はページを見ながら首を横へ振る。
「できるかもしれないけど、いきなり広げすぎるのはやめとく。まず東側だけで試したい」
虫や葉が当たるたびに反応したら一晩中眠れなくなるので、ドランにも手伝ってもらって何度か強度を調整する。人間ほどの大きさなら確実に反応し、小動物や枝ではほとんど反応しない程度まで設定するのに、思ったより時間がかかった。
「便利な魔法だな」
「ちゃんと調整できればね。最初は風で枝が当たるだけでも反応したから、あのままだったら寝られなかったよ」
「今夜は眠れるのか?」
「何も来なければ」
「結局、見張りと変わらんじゃないか」
「寝ながらできるだけまだ楽でしょ」
ローデンに呆れられたものの、普通に外へ立ち続けるよりは負担が少ない。
夜の見回りは二人一組で回し、俺は最初の時間だけ一緒に歩いたあと、自宅へ戻って休むことになった。
◇
日が沈む前には、オルド爺さんの家へもう一度寄った。
昨日の経過を見る意味もあるが、今朝見つけた足跡が実際に危険な魔物のものだった以上、本人へ説明しておかなければならない。七匹確認し、そのうち三匹が逃げたと伝えると、オルド爺さんは真っ先に鶏小屋の方を見た。
「鶏を狙ってたのか」
「たぶんね。でも、今夜は東側の結界を強くしてあるし、見回りもするから爺さんは外に出ないで」
「何かあったら俺の鶏だぞ」
「鶏より爺さんの方が大事なんだから、見に行くのも駄目。昨日助かったばっかりなのに、今日魔物と戦うとか絶対やめてよ」
「戦わんわ」
「でも様子見には行きそうだから言ってる」
図星だったのか、少し黙られた。
「……分かった。今日は出ん」
「本当に頼むよ。それと今日の飯はちゃんと食べられた?」
「柔らかくして食った。むせてもない」
「ならよし」
オルド爺さんは呆れたように笑う。
「お前、森で魔物と戦ってきた日まで俺の飯の心配するのか」
「そっちも大事だからね」
それだけは変わらなかった。
◇
夜になり、最初の見回りを終えて自宅へ戻った。
銀色の魔導書で張った《警戒線》にはまだ反応がなく、森側にも昼間のような騒ぎはない。戸を閉めて椅子へ腰を下ろしたところで、ようやく身体の疲れが一気に表へ出てきた。
「……さすがに疲れたな」
朝はオルド爺さんの様子を見て、その後に足跡を見つけ、森へ入り、魔物と戦ってから結界と警戒線まで調整した。腕だけでなく頭の奥にも鈍い重さがあり、魔力を使い続けた影響もありそうだった。
今日は料理を頑張る気になれず、残っているパンと干し肉、それから昨日の煮込みを温めるだけにする。赤い魔導書を開こうとした時、森で火を使わなかった判断を思い返した。
もし最初から《火弾》を撃っていたら、魔物を倒せた可能性は高い。
その代わり、木へ燃え移ったかもしれない。
力が強ければ使えばいいというほど単純ではないのだろう。
「最初に見るの、大事なんだな」
今日の戦いでは、一頭へ風を当てて頑丈さを見た。結界へどう攻撃するかを見て、一度見た攻撃を避けようとすることにも気づき、土が動いた時に跳ぶと分かったから着地点へ次の魔法を置いた。
前の仕事でやっていたことと、不思議なくらい似ている。
立ち上がる時にどこへ力を入れるのか。
どちらの脚が弱いのか。
どんな姿勢でふらつくのか。
本人が何をできて、どこだけ支えれば安全なのか。
何でも最初から手を出すのではなく、まず見る。
試す。
結果を見て変える。
「まさか魔物相手でも使うとは思わなかったけど」
自分で少し笑った。
介護福祉士として身につけた観察の癖が、異世界の戦闘で役に立つなど考えたこともなかった。けれど、強すぎる力を持っているからこそ、何も見ずに大きな魔法を撃つよりはずっとましなのだろう。
煮込みを食べ終える頃には、身体の緊張も少し抜けていた。
「風呂……今日はやめてもいいかな」
口にしたものの、森の土で服も身体もかなり汚れている。結局は赤い魔導書で湯を沸かし、浴槽へ身体を沈めることにした。
温かい湯へ肩まで浸かり、ようやく目を閉じた、その時だった。
頭の奥へ小さな刺激が走る。
「……警戒線」
一気に眠気が消えた。
東側。
何かが触れた。
反射的に湯から立ち上がりかけるが、そこで一度動きを止める。
「落ち着け。まだ一回だけだ」
強い反応ではなく、連続もしていない。
裸のまま飛び出すわけにもいかない。
急いではいても身体を拭き、服を着てから《魔導書庫》を呼び出す。銀、緑、茶色の魔導書をすぐ使えるよう意識し、必要なら白も開ける状態にして外へ出た。
ちょうどローデンとドランがこちらへ向かってくる。
「ユウ!」
「東側で反応した。そっちも何かあった?」
「森側で音がした」
「分かった。一人では行かない。三人で見る」
自分からそう言うと、ローデンが一瞬こちらを見てから頷いた。
「ああ。それでいこう」
三人で東側へ向かう。
急いではいるものの、暗い道を全力で走ることはしない。ここで誰かが根につまずいて怪我をすれば、本来見なければならないものまで見られなくなる。
警戒線が反応した場所へ近づくと、村側から見える木の陰に黄色い目が一つ浮かんだ。
昼間の魔物だった。
一頭だけが、結界の向こう側からこちらを見ている。
「戻ってきたな」
ドランが低い声で言う。
俺は攻撃せずに相手を観察した。
右肩の毛が乱れている。
昼間、俺が風で飛ばして木へぶつけた個体と同じ可能性がある。
「昼のやつかな。傷の位置が似てる」
「一匹だけか?」
「分からないから、周りも見て」
俺たちは誰も前へ出ない。
魔物も結界へ飛び込んでこない。
森の暗がりへ他の目がないか確認するが、すぐには見つからなかった。
互いに動かないまま時間だけが過ぎる。
ほんの二、三分だったはずなのに、もっと長く感じた。
やがて魔物が一歩だけ後ろへ下がり、こちらの反応を見るように止まる。さらにもう一歩距離を取り、そのまま身を翻して森の奥へ消えた。
「追うか?」
ローデンに聞かれ、俺はすぐ首を横へ振った。
「追わない。夜の森は向こうの方が圧倒的に有利だし、村へ来ないなら今ここで危険を増やす理由はないよ」
「そうだな」
「警戒線はこのまま残して、明日の朝に足跡を確認しよう。それで仲間がいたのか、一匹だけだったのか少しは分かるかもしれない」
三人で森の暗がりをもう一度確認してから、村へ戻る。
昼間の七匹が森の異変そのものなのか、それとも彼らまで何かに追われて浅い場所へ出てきているのかは、まだ分からない。
鹿が奥から逃げてきたこと。
猪が森の縁へ出たこと。
ほとんど食べられていない死骸。
知らない魔物の群れ。
調べなければならないことは残っているが、今夜一度に全部を知る必要もない。
家々の明かりが見えたところで、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
この小さな村を守りたいと思う。
国だからでも、命令されたからでもない。
知っている人たちが暮らしているからだ。
七十四歳なのに自分を若いと言い張る爺さんがいて、八十一歳なのに八十だと言い張る婆ちゃんがいる。黙って卵を置いていく爺さんもいれば、魔法を見たがって俺の昼寝を邪魔する子供もいる。
それだけで、俺には十分だった。
◇
自宅へ戻ってからも《警戒線》は残したままにし、今度こそ風呂へ戻ることなく布団へ入った。身体は疲れているのに、目を閉じると昼間に見た黄色い目や、上から飛びかかってきた影が頭の中へ浮かんでくる。
怖くなかったわけではない。
七匹へ囲まれた時も、結界のすぐ向こうまで牙が迫った時も、自分が怪我をする可能性は普通に考えた。
ただ、昨日オルド爺さんが呼吸できなくなった時とは、少し種類の違う怖さだった。
魔物なら距離を取れる。
結界を使える。
攻撃される方向を見て、試して、対処できる。
人の身体は、時にそうはいかない。
「……どっちも嫌だけどな」
暗い部屋で小さく笑う。
英雄になる気はないし、魔物を倒して名を上げるつもりもない。それでも村の近くへ危険が来たなら、ここを自分の居場所だと思い始めた以上、何も知らないふりをすることもできなかった。
だから必要な時は動く。
ただし、一人で全部はやらない。
森を知る人には道を任せ、足跡を読める人には見てもらい、村に残る人には残ってもらう。俺は俺にできることをやり、それ以外はできる人へ頼めばいい。
今日、それで三人とも怪我なく帰ってこられた。
それなら十分だと思う。
今夜、《警戒線》がもう一度反応する可能性はある。その時は起きればいいし、何も起きなければそのまま眠ればいい。
明日のことは、明日の朝になってから考える。
そう決めると、ようやく身体の力が抜けていった。
森の異変はまだ終わっていない。
それでも今夜は、村にいる三十一人の誰も欠けていない。
俺は遠くからかすかに聞こえてくる家々の生活音を確かめるように耳を澄ませながら、少しずつ眠りの中へ沈んでいった。




