第7話 できること
村の東側を通る道の補修は、朝から妙に賑やかだった。
数日前の雨で削られた部分へ土と小石を入れ、荷車の車輪が取られないよう踏み固めていく。俺なら茶色い魔導書を開いて《土成形》を使えば短時間で終わらせられる仕事だったが、ガルド爺さんたちから「最初から全部やるな」と念を押されていたため、今日は村人に混ざって普通に土を運んでいた。
「ユウ、そっちの籠も持ってけ!」
「今二つ持ってるんだけど!」
「若いんだから三つくらいいけるだろ!」
「俺を何だと思ってんの!」
声を上げながら振り返ると、ガルド爺さんは自分の籠を地面へ置いて笑っていた。七十四歳に若さを理由にこき使われるのも、この村ではすっかり普通になっている。
参加しているのは十人ほどだった。
ローデンが全体を見ながら土を入れる位置を決め、ベル爺さんは少し離れた場所で小石を選別している。マーサ婆ちゃんとサナ婆さんは最初こそ土を運んでいたものの、途中から昼食の準備へ回っていた。
村人全員で何かをする時、誰が何を担当するかを細かく決めることはあまりない。
腰が辛くなった人は座る。
重い物が持てる人が持つ。
料理が得意な人は飯を作る。
俺にできるところがあれば手伝う。
それで何となく回っている。
「ユウ兄ちゃん、これどこ?」
ベル爺さんの孫が、小石を両手いっぱいに抱えてやってきた。
「ローデンに聞いて。俺もどこまで入れるか分かってない」
「ユウ兄ちゃん、魔法使えるのに分かんないこと多いね」
「魔法で何でも分かるようになるわけじゃないんだよ」
「じゃあ俺と一緒じゃん」
「たぶん俺の方が分からないこと多いよ。この村のことなら特に」
少年はそれが面白かったのか笑いながらローデンのところへ走っていった。
俺は持っていた籠を道端へ下ろし、腰を伸ばす。
午前中だけで何往復したか分からない。
まだ動けるが、肩には少し疲れを感じる。
「休むか」
以前なら、もう少しだけやってからと思っていたかもしれない。
今は喉も乾いているし、一度止まることにした。
道端の木陰へ座り、水筒代わりに使っている革袋から水を飲む。
「お前、最近ちゃんと休むようになったな」
隣へ来たローデンが言った。
「褒められてる?」
「一応な。来たばかりの頃は、誰も急かしてないのに一人で動き続けてたからな」
「それ、前にも言われた」
「まだ時々やるぞ」
「直してる途中なんだよ」
簡単に消える癖ではない。
仕事中に休憩へ入っても、コールが鳴れば戻る。
誰かが困っていれば、自分の食事を後へ回す。
それを何年も続ければ、何も起きていない時間に座っていること自体へ罪悪感を持つようになる。
この村では、そんなことをしても誰も褒めない。
むしろマーサ婆ちゃんあたりに見つかれば、「座っときな」と怒られる。
「今日は最後、魔法使うんだろ?」
「人力で形作ってから、崩れそうなところだけ固める予定。全部固めると水が逃げなくなりそうだから」
「そこまで分かるようになったか」
「ガルド爺さんに三回くらい怒られたからね」
「覚え方はそれでいい」
「この村、教育が雑なんだよなあ」
ローデンと笑っていると、少し離れた場所からマーサ婆ちゃんの声がした。
「そろそろ食べるよ! 働いてるふりしてる連中も来な!」
「働いてるから!」
ガルド爺さんが真っ先に言い返す。
どう考えても一番休憩が多かった人の声だった。
◇
昼飯は、補修している道の脇に布を広げて食べることになった。
マーサ婆ちゃんたちが作った野菜の煮込みに、薄く切ったパン、それから豆と挽いた肉を混ぜて焼いたものが並ぶ。人数が多いので豪華というほどではないが、朝から身体を動かした後なら何でもうまそうに見えた。
「だから道直しの日は昼飯が豪華になるって言ったじゃろ」
ガルド爺さんが得意そうに言う。
「爺さん何も作ってないじゃん」
「土運んだ」
「途中からほとんど指示してたよね」
「経験者の指示には価値があるんじゃ」
「便利な言葉だなあ」
笑いながら器を受け取る。
村人たちは道沿いへ適当に散らばり、石や木箱を椅子代わりにして食べ始めた。
俺の右にはベル爺さん。
左には、この村に来てから何度か顔を合わせているオルド爺さんが座っていた。
オルド爺さんは七十九歳。
普段は村の南側で小さな畑と鶏を見ている。
口数はそれほど多くないが、会うたびに卵を持たせようとしてくる人だった。
「ユウ」
「何?」
「昨日の卵、食ったか」
「やっぱりあれオルド爺さんだったの?」
「俺以外に誰が置く」
「名前書いてないから分かんないって」
「見りゃ分かるだろ」
「卵で人を判別できるほど村人歴長くないよ」
オルド爺さんは少し笑い、手にしていた肉と豆の焼き物を齧った。
その横顔を何となく見ていて、俺は一瞬だけ眉を寄せた。
飲み込むのが少し遅い。
さっきから一口ごとに、首を僅かに前へ出している。
別にそれだけで異常とは限らない。
年齢を重ねれば飲み込みに時間がかかる人もいるし、歯の状態によって食べ方も変わる。
「オルド爺さん、それ硬い?」
「ん?」
「その焼いたやつ」
「少しな。歯が一本抜けてから噛みにくい」
「小さく切ろうか?」
「これくらい食える」
即答された。
本人が食べられると言うなら、いきなり取り上げる必要はない。
「じゃあ、急がないでね。飲み物もあるし」
「分かっとる」
俺は自分の食事へ戻った。
ただ、頭の片隅には残した。
以前の職場でも、食事中の様子はよく見ていた。
咀嚼。
飲み込み。
むせ。
姿勢。
口の中へ次々詰め込んでいないか。
疲れていないか。
普段と違うところがないか。
事故というのは、突然起きたように見えて、その前に小さな変化があることも多い。
だからといって、すべてを予測できるわけではない。
俺はそれも知っている。
「ユウ、食わんのか?」
ベル爺さんに聞かれ、俺は自分の手が止まっていたことへ気づいた。
「ああ、食べるよ」
「人の飯ばっかり見とるな。取られるぞ」
「取らないって」
笑ってパンを千切る。
その直後だった。
左側から、器の落ちる音がした。
乾いた音ではない。
中身の残った木の器が土へ落ち、煮込みがこぼれる鈍い音だった。
振り向く。
オルド爺さんが、口元へ手を当てている。
咳をしていない。
声もない。
目だけが大きく開いていた。
さっきまでの緩い空気が、一瞬で消えた。
「オルド爺さん」
俺はすぐに立ち上がった。
本人の前へ回る。
「喋れる?」
返事がない。
「息できる?」
首を振る。
両手が喉へ向かう。
完全に詰まっている。
「みんな少し離れて。ローデン、こっち来て」
自分でも驚くほど声が落ち着いていた。
周囲がざわつく。
「何があった?」
「喉に詰まった。オルド爺さん、立てる?」
立とうとする。
脚に力は入っている。
俺は身体を支えながら前傾させた。
「今から背中叩くよ」
肩甲骨の間へ強く叩打を入れる。
一度。
二度。
三度。
出ない。
オルド爺さんの顔色が変わり始めている。
「ユウ……」
「大丈夫、まだやるから」
誰へ言ったのか分からない。
本人か。
周囲か。
自分自身かもしれない。
もう一度強く叩く。
出ない。
時間を数えようとすると、逆に焦る。
呼吸ができない時間は長く感じる。
「ローデン、もし意識なくなったら支えるの手伝って。ガルド爺さんたちは下がって」
「分かった」
「何か持ってくるか?」
「今はいい。広くして」
水を飲ませようとした人がいたので止める。
「今は飲ませないで。詰まってるから」
オルド爺さんの膝が僅かに崩れる。
まずい。
俺は位置を変えた。
「ごめん、ちょっと苦しいけどやるよ」
背後へ回る。
腹部へ腕を回し、強く圧迫する。
一度。
出ない。
二度。
身体が大きく揺れる。
三度目。
口から小さな塊が飛び出した。
同時に、オルド爺さんが激しく咳き込んだ。
「……っ、げほっ……!」
音が出た。
空気が通っている。
「呼吸できる?」
咳き込みながら頷く。
「ゆっくりでいい。今は喋らなくていいから」
俺は身体を支え、地面へ座らせる。
ローデンが反対側へ回った。
「大丈夫なのか?」
「まだ見てる。オルド爺さん、息吸える?」
「……吸える……げほっ……」
声は出る。
唇の色も少し戻ってきている。
それでも俺は安心しきれなかった。
喉の違和感。
残った食べ物。
誤って気道へ入っている可能性。
腹部圧迫や背部叩打で傷めている可能性もある。
「胸痛くない? お腹は?」
「腹が……ちょっと痛い」
「さっき押したからね。息苦しさは?」
「もう……大丈夫じゃ」
「大丈夫って言うの早い」
普段なら笑いになる言葉だった。
今は誰も笑わなかった。
俺はオルド爺さんの手首へ触れる。
脈は速い。
当然だ。
俺自身の心臓も速い。
「白い本使うのか?」
ローデンが聞く。
「使う。でも、治癒魔法で全部済ませるつもりはない」
《魔導書庫》を呼び出す。
いつもなら村人の誰かが何かしら反応する。
今は誰も声を出さなかった。
白い魔導書を開く。
治癒。
俺が今まで使ったことのある中で、身体の損傷を和らげ、自然な回復を助ける術式を選ぶ。
病気の原因を勝手に消す魔法ではない。
詰まりが残っているかどうかを教えてくれる魔法でもない。
万能だと思う方が危険だ。
「《癒光》」
柔らかな白い光がオルド爺さんの胸元から腹部へ広がる。
苦しそうに強張っていた表情が、少し緩んだ。
「どう?」
「腹は……少しましになった」
「息は?」
「吸える。喉は変な感じするが」
「今日はもう固い物食べるのやめよう」
「まだ半分残っとる」
「駄目」
「もったいない」
「駄目」
今度は強く言った。
オルド爺さんが少し驚いたように俺を見る。
「今日は柔らかい物だけ。あと、しばらく俺か誰かが一緒にいる。咳が続いたり、熱が出たり、また息苦しくなったらすぐ言って」
「そこまでせんでも」
「する」
自分でも声が固くなっているのが分かった。
でも譲れない。
「白い魔法があるから絶対大丈夫ってわけじゃない。俺はこの世界の医者でもないし、分からないことは分からないから」
ローデンを見る。
「町に治療師とか医者みたいな人はいる?」
「街道沿いの町に治療院がある。馬なら数時間だ」
「今すぐ連れていくほどか?」
ガルド爺さんが聞く。
俺はオルド爺さんを見る。
意識ははっきりしている。
呼吸も落ち着いてきた。
会話もできる。
今すぐ命に関わる状態には見えない。
「今はすぐ動かさない。少し休んで様子を見る。ただ、何か変わったら町へ行ける準備はしておきたい」
「分かった。馬車なら出せる」
ローデンが答える。
「ありがとう」
周囲を見渡す。
十数人がこちらを見ていた。
さっきまで昼飯を食べて笑っていた人たちだ。
今は皆、緊張した顔をしている。
「もう食事戻っていいよ。人が多いとオルド爺さんも落ち着かないから」
「俺は残る」
ガルド爺さんが言う。
「俺も」
ベル爺さんも続く。
「そんなにいらない。ローデンと俺がいるから大丈夫」
「でもな」
「大丈夫。何かあったら呼ぶ」
そう言ってから、自分がいつものように「大丈夫」という言葉を使っていることへ気づいた。
本当に大丈夫かは分からない。
だから言い直す。
「今は落ち着いてる。だから二人で見られるよ」
その方が正確だった。
ガルド爺さんは少しだけ俺を見つめ、それから頷いた。
「分かった。何かあったらすぐ呼べ」
「うん」
人が少しずつ離れていく。
マーサ婆ちゃんだけはその場に残り、地面へ落ちた器や食べ物を黙って片づけ始めた。
◇
それから一時間ほど、オルド爺さんは木陰で休んだ。
最初の十分ほどは咳が残っていたが、少しずつ減った。水もいきなり大量には飲ませず、落ち着いてから本人が飲めることを確認し、少量ずつ口にしてもらった。
「もう家帰れるぞ」
「まだ」
「座っとるだけで退屈じゃ」
「退屈なくらいでいいよ」
「鶏の餌やらんと」
「誰かに頼む」
「俺がやる」
「今日は頼む」
オルド爺さんの眉間へ皺が寄る。
こういう人だ。
自分でできることは自分でやりたい。
その気持ちは分かる。
だから普段なら、俺も簡単には止めない。
「今日だけね」
俺は少し声を柔らかくした。
「明日まで何もするなとは言わない。でも、今はさっきまで息できなかったんだから、身体も疲れてる。鶏は逃げないし、餌やり一回誰かに頼んだからって、爺さんの仕事取られるわけじゃないよ」
オルド爺さんは黙った。
「……誰に頼む」
「俺でもいい」
「お前、鶏分かるのか」
「分かんない」
「駄目じゃないか」
「じゃあ詳しい人に教えてもらう」
横でローデンが笑った。
「俺がやる。子供の頃から見てる」
「なら、頼む」
オルド爺さんはようやく折れた。
「明日は俺がやるぞ」
「明日元気ならね」
「元気じゃ」
「今日もさっきまでそう言ってたでしょ」
また不満そうな顔をする。
その顔を見て、少しだけ安心した。
いつものオルド爺さんだ。
俺は呼吸の様子をもう一度確認し、それから立ち上がった。
「家まで歩けそう?」
「歩ける」
「ふらつきは?」
「ない」
「じゃあゆっくり行こう。途中で変だったらすぐ言って」
「お前は細かいな」
「そういう仕事してたから」
思わず答える。
オルド爺さんは歩きながら俺を見る。
「前の仕事か」
「うん」
「人が喉詰まらせることもあったのか」
「……あったよ」
何度もではない。
でも、食事を介助する仕事をしていれば、誤嚥や窒息は絶対に無関係ではいられない。
食形態を変える。
姿勢を整える。
一口量を見る。
飲み込みを待つ。
それでも事故が起こることはある。
俺はその怖さを知っていた。
「助かったのか?」
「助かった人もいた」
それ以上は言わなかった。
オルド爺さんも聞かなかった。
◇
オルド爺さんを家へ送り、ローデンと相談して昼からの道直しは一度中止することになった。
理由は単純だった。
皆が作業へ戻る気分ではなかったからだ。
急ぐ道でもない。
明日でもいい。
俺はそれに賛成した。
オルド爺さんの家には、ローデンが少し残ることになった。夕方にはガルド爺さんが交代で様子を見に行くと言い、マーサ婆ちゃんは柔らかい煮込みを作って持っていくらしい。
「ユウは?」
マーサ婆ちゃんに聞かれた。
「夕方もう一回見るよ。それまでは家にいる」
「そうしな」
俺は自宅へ戻った。
玄関を閉める。
靴を脱ぐ。
そこで、急に力が抜けた。
「……あ」
壁へ手をつく。
右手が震えていた。
さっきまで全然気づかなかった。
オルド爺さんの前では、何をするか考えていた。
呼吸。
意識。
詰まり。
次の手順。
周りへ何を頼むか。
それだけだった。
今はもう何もする必要がない。
その瞬間、身体が勝手に震え始めた。
「……怖かった」
声にすると、余計に実感が出た。
あと少し遅かったら。
出なかったら。
意識を失っていたら。
魔法が間に合わなかったら。
考えたくないのに、頭が勝手に先を想像する。
前の仕事でもそうだった。
緊急時には意外なくらい動ける。
転倒。
急変。
意識消失。
嘔吐。
発熱。
呼吸状態の変化。
その場ではやることを考える。
終わった後に、怖さが来る。
自分の判断が正しかったのか。
もっと早く気づけなかったのか。
別の方法があったのではないか。
何度も頭の中でやり直す。
俺は椅子へ座った。
手を握る。
開く。
また握る。
まだ少し震えている。
「助かったんだから……いいだろ」
自分へ言う。
でも、簡単には切り替わらない。
オルド爺さんが声を出せなかった時の顔が浮かぶ。
呼吸できるか聞いた時、首を振った。
あの瞬間。
身体の奥が冷たくなる。
「ユウ」
外から声がした。
いつもの大声ではない。
マーサ婆ちゃんだった。
「開いてるよ」
返事をすると、扉が開いた。
婆ちゃんは籠を持っている。
「どうしたの?」
「これ」
机へ置かれた籠には、昼に食べ損ねたパンと煮込みが入っていた。
「昼飯、ほとんど食ってなかっただろ」
「……見てたんだ」
「見りゃ分かるよ」
マーサ婆ちゃんは向かいへ座った。
俺は籠を見る。
「オルド爺さんのところ行かなくていいの?」
「ローデンがいる。私が行ったって三人で爺さんを眺めるだけになるだろ」
「それもそうか」
「だからあんたの方を見に来た」
俺は顔を上げる。
「俺?」
「手、震えてるじゃないか」
隠していたつもりはなかった。
でも、見られていた。
俺は右手を見る。
さっきよりはましになっている。
「ちょっとね」
「怖かったかい?」
「……うん」
格好をつける必要はないと思った。
「すごく怖かった」
マーサ婆ちゃんは黙って聞いている。
「俺、こういう時は動けるんだ。前の仕事でも急に具合悪くなる人とかいたから、まず何見ればいいとか、誰に何頼めばいいとか、身体が勝手に動くこともある」
自分の手を見る。
「でも終わると、いつも怖くなる」
「いつも?」
「前もそうだった。助かった時でも、もし駄目だったらって考える」
マーサ婆ちゃんは急かさない。
何も言わずに待っている。
「介護の仕事してたら、人が亡くなることもあったよ。年齢が高い人も多かったし、病気の人もいたから、それ自体は避けられないこともある」
言葉を選ぶ。
昔から何度も考えたことだった。
「でも俺、人が死ぬのに慣れたくないんだよ」
ようやく口から出た。
「仕事なんだから仕方ないとか、何人も見送ってきたから平気とか、そうなりたくなかった。亡くなったら悲しいし、危なかったら怖いままでいたい」
マーサ婆ちゃんの表情が少しだけ変わる。
「変かな」
「別に」
すぐに返ってきた。
「あんたが怖がったところでオルドが元気になるわけじゃないけど、怖いと思うなって言ったって無理だろ」
「まあ、そうなんだけど」
「それに、怖かったからちゃんと見てたんじゃないのかい」
俺は黙る。
「飯食ってる時だって、あんたはあの爺さんの飲み込み見てただろ」
「……分かった?」
「途中で『硬いか』って聞いてたじゃないか」
覚えていたらしい。
「でも止められなかった」
「何を?」
「詰まらせるの」
「本人が食えるって言ったんだろ」
「もっと小さくしとけばよかったかもしれない」
「嫌がったかもしれないよ」
「それでも――」
「あんた」
マーサ婆ちゃんが俺の言葉を止めた。
「何でも自分の責任にする癖、まだ残ってるね」
胸へ刺さった。
「……そう見える?」
「見えるよ。何年生きてると思ってんだい」
「八十一」
「八十だよ」
「誕生日忘れてるだけで八十一だから」
「今その話はいいんだよ」
少しだけ笑った。
それだけで、張っていたものが緩む。
「オルドは自分で食べた。あんたは気づいて助けた。今は息してる。それじゃ駄目なのかい」
「駄目じゃない」
「なら飯食べな」
「そこに繋がる?」
「腹減ってるとろくなこと考えないからね」
籠を押される。
俺はパンを一つ取った。
まだ少し温かい。
「ありがとう」
「食べ終わったら寝てもいいよ」
「昼寝したら夕方起きられないかも」
「起こしてやる」
「それは嫌だな」
「なら自分で起きな」
マーサ婆ちゃんが笑う。
俺も少しだけ笑った。
◇
夕方、オルド爺さんの家へ行くと、本人は椅子へ座っていた。
顔色は悪くない。
咳もほとんど出ていない。
マーサ婆ちゃんが作った柔らかい煮込みを、少しずつ食べていた。
「ユウ」
「どう?」
「もう何ともない」
「その言葉は信用半分にしとく」
「失礼なやつじゃ」
「息苦しくない?」
「ない」
「胸は?」
「痛くない」
「お腹は?」
「ちょっと押されたところが痛い」
「それはごめん」
「助けてもらったんだから謝るな」
言われて、少し黙る。
「……じゃあ、痛くして悪かった」
「同じじゃ」
オルド爺さんが笑う。
俺も笑った。
「明日の朝もう一回見るね」
「そこまでせんでもいい」
「見る」
「頑固じゃな」
「爺さんたちに言われたくない」
煮込みを見る。
具材はかなり柔らかく煮てある。
大きさも小さい。
「しばらく食べにくい物は小さくしてね」
「肉もか」
「噛みにくいなら。歯が抜けたって言ってたでしょ」
「そのうち慣れる」
「慣れるまで詰まらせられたら困るの」
少し強く言うと、オルド爺さんが黙った。
「……怖かったか」
不意に聞かれた。
俺は誤魔化さなかった。
「怖かったよ」
「そうか」
「めちゃくちゃ怖かった」
オルド爺さんはしばらく俺を見て、それから視線を器へ落とした。
「俺も怖かった」
小さな声だった。
この人がそう言うとは思わなかった。
「息ができんって、あんなに怖いんだな」
「……うん」
「もう駄目かと思った」
俺は何も言わない。
安易に「大丈夫」とは言いたくなかった。
本人が感じた怖さまで消す必要もない。
「次から気をつける」
「それでいいよ」
「肉は小さく切る」
「うん」
「でも鶏は明日から俺がやる」
「そこは譲らないんだ」
「当たり前だ」
少し笑う。
こういう人なのだ。
危ないことがあったからといって、全部取り上げればいいわけではない。
できることは続ける。
変えた方がいいところだけ変える。
俺が前の仕事で覚えたことは、結局この村でも同じだった。
「じゃあ明日、鶏のところ一緒に行っていい?」
「なんでじゃ」
「俺も覚えたい」
「餌やりくらい簡単だぞ」
「俺、この世界の鶏に突かれたことあるから少し怖い」
「情けないのう」
「今日命助けた人に言われると腹立つな」
オルド爺さんが声を上げて笑った。
その笑い声を聞いた時、胸の奥に残っていた固いものがようやく少し解けた。
◇
家へ帰る頃には、空が赤く染まり始めていた。
道直しは途中のまま。
朝に運んだ土も、一部は脇へ積まれている。
以前の俺なら、今日中に少しでも進めようとしたかもしれない。
今はそんな気にならなかった。
「明日でいいか」
誰もいない道で呟く。
今日やるべきことは、もう十分やった。
自宅へ戻り、手を洗う。
夕飯を作ろうと思ったところで、昼にマーサ婆ちゃんが持ってきた煮込みがまだ残っていることへ気づいた。
温め直すだけでいい。
赤い魔導書を開く。
小さな火。
いつもの《微熱》。
鍋がゆっくり温まる。
白い魔導書も棚の中にある。
あれだけの治癒魔法を持っていても、今日最初に必要だったのは魔法ではなかった。
様子を見ること。
変化に気づくこと。
声をかけること。
呼吸ができているか確かめること。
周囲へ頼むこと。
俺が前の世界で何度もやってきた、小さな積み重ねだった。
介護の仕事を辞めたいと思ったことは何度もある。
もう二度とやりたくないと思った夜もあった。
それでも、あそこで身につけたものまで嫌いになる必要はないのだろう。
俺が誰かを支える時の癖。
本人ができることを奪わないこと。
普段との違いを見ること。
危ない時だけは迷わず手を出すこと。
全部、今の俺の一部になっている。
「……できることだけでいい」
鍋を混ぜながら呟く。
何でも救えるわけではない。
《魔導書庫》があっても同じだ。
分からないことは分からない。
助けられないことも、きっとある。
それでも、目の前でできることがあるならやる。
終わったら怖がってもいい。
手が震えてもいい。
それで次にまた必要な時、動けるなら十分なのかもしれない。
夕飯を食べ終え、外へ出る。
村はいつもと同じだった。
オルド爺さんの家には明かりがついている。
その向こうではガルド爺さんが誰かと話している。
子供の笑い声も聞こえる。
昼には、ほんの少しだけ、この景色から一人いなくなる可能性があった。
そう考えると胸が痛む。
でも、今はいる。
明日も鶏へ餌をやると言っていた。
俺はその事実だけを受け取ることにした。
世界中の人間を助けることなんてできない。
国中から求められる役割を背負う気もない。
王都からどれだけ力を評価されても、それは変わらない。
ただ、目の前で誰かが苦しんでいたら、たぶん俺は放っておけない。
それは英雄になりたいからではない。
介護福祉士だったからというだけでもない。
もっと単純だった。
人が死ぬことに、俺は慣れたくない。
だから怖いままでいい。
怖いまま、できることをする。
今のところ、それくらいが俺にはちょうどよかった。




