第88話 閉ざされた工房に残るもの
ラウゼンの朝は、荷車の車輪が石畳を踏む音から始まった。
宿の二階にある小さな部屋で目を覚ましたレグルは、窓の外を確かめてから寝台を離れた。通りにはすでに荷を運ぶ男たちの姿があり、昨夜まで静かだった広場の方角からも、人々の話し声が聞こえてくる。
昨日、北梟工房の看板を見つけた。
古い木製の看板には、探していた名前が確かに残っていた。隣の建物にいた男の話では、工房は何年も前から閉まっており、今は管理をする人間が時折訪れるだけらしい。
それだけでも、頼まれたことへの答えにはなる。
北梟工房という名前は、単なる噂ではなかった。
ラウゼンに存在していた工房であり、今も建物と看板が残っている。
ただし、現在も仕事をしている工房ではないらしい。
レグルは顔を洗い、荷物をまとめながら考えた。
(さて、どうするか)
自分の仕事を考えれば、今日のうちにラウゼンを出る方が都合はよい。西の荷場へ戻るまでにも時間がかかるし、雨の影響が完全になくなったわけでもない。
けれど、昨日聞いた話には一つ気になることがあった。
工房を管理している人物がいるという話だ。
その人物が工房の昔のことを知っているなら、北梟工房がいつまで使われていたのか、今も何か別の場所で続いているのかを確認できるかもしれない。
もっとも、そこまで調べるよう頼まれたわけではない。
レグルは荷物を肩へ掛け、部屋を出た。
階下では宿の主人が朝食の支度をしていた。
「おはよう。よく眠れたか?」
「ああ。馬はどうだ?」
「朝の水はもう用意してある。餌も食ってるよ」
「助かる」
レグルは席へ着き、出された温かい粥を食べ始めた。
宿の主人は向かいの卓を拭きながら、何気なく尋ねた。
「昨日は用事が済んだのか?」
「探していた工房は見つかった。だが、もう閉まってるらしい」
「古い工房か?」
「北梟工房って名前だ」
主人は手を止めた。
「北梟工房……ああ、東の古い通りにある建物か」
「知ってるのか?」
「建物なら知ってる。昔から看板が残ってるからな。今は人が出入りするところをほとんど見ないが」
レグルは匙を置いた。
「管理してる人間がいるらしいんだが、誰か分かるか?」
主人は少し考えた。
「名前までは知らんな。ただ、あの辺りの建物のことなら、東通りの古道具屋が詳しいかもしれん。長く住んでる爺さんがやってる店だ」
「古道具屋?」
「ああ。古い工房の道具なんかも扱ってる。看板の持ち主を知ってるかどうかは分からんが、聞くだけなら損はないだろ」
レグルは頷いた。
今から東通りへ行っても、それほど時間はかからない。
昼前に戻れば、馬を休ませたうえで町を出ることもできる。
「少し寄ってみる」
「そうしな。ただ、あの爺さんは話が長いぞ」
「それは困るな」
レグルが苦笑すると、主人も笑った。
◇
東通りの古道具屋は、昨日訪れた北梟工房から少し離れた場所にあった。
店の前には古い椅子や木箱、使い込まれた道具が並べられている。扉の上には小さな木製の看板が掛かっていたが、店の名前は長年の風雨で薄くなっていた。
レグルが中へ入ると、奥から年配の男が顔を出した。
「いらっしゃい。何か探し物かね?」
「買い物じゃないんだが、少し聞きたいことがある」
「聞くだけなら銅貨はいらんよ」
男は冗談めかして笑った。
レグルは懐から紙を取り出し、北梟工房の名前を見せた。
「この工房について知ってるか?」
男は紙を受け取り、目を細めた。
「北梟工房か。懐かしい名前だな」
「昔のことを知ってるのか?」
「少しはな。わしが若いころには、まだ仕事をしていた工房だ」
レグルは男の言葉を待った。
男は紙を返し、店の奥にある椅子へ腰を下ろした。
「北梟工房は、昔は木製の道具を作っていた。家具も扱っていたが、大きなものより、細かな加工を得意にしていたと聞いている」
「今は閉まってるんだな?」
「ああ。何年も前からな」
「いつ閉まった?」
男は首を傾げた。
「正確な年までは覚えておらん。仕事が減って、職人も少なくなっていった。そのあと、看板だけ残ったようなものだ」
レグルは頷いた。
工房が閉まっていることは、昨日聞いた話と一致している。
ただし、今の話だけでは誰が最後まで働いていたのかは分からない。
「工房の人間は、今どこにいる?」
「それは知らん。昔の職人たちは、それぞれ別の場所へ行ったと聞いたことはあるが、誰がどこへ行ったかまでは覚えておらんよ」
男は少し考えた。
「ただ、建物を管理している人間がいるのは確かだ。何年か前に、屋根の傷んだところを直していたのを見たことがある」
「その人間の名前は?」
「名前は知らん。顔もはっきり覚えておらんが、若い男だったと思う」
レグルはその言葉を慎重に受け止めた。
若い男。
それだけでは、誰なのか分からない。
工房の元職人かもしれないし、所有者の親族かもしれない。
あるいは、単に修理を頼まれた職人だった可能性もある。
「その男が工房の持ち主なのか?」
「さあな。わしはそこまで聞いておらん」
古道具屋の主人は肩をすくめた。
「古い建物には、いろんな人間が関わるもんだ。鍵を持ってるからって、持ち主とは限らんしな」
「そうだな」
レグルは頷いた。
それ以上、確かな情報は得られそうになかった。
「ありがとう。助かった」
「もう行くのか?」
「ああ。仕事の途中で寄っただけだからな」
「そうか。なら、道中気をつけな」
レグルは礼を言い、店を出た。
朝の光が通りへ差し込み、古い建物の壁を照らしている。
北梟工房について、昨日より少しだけ多くのことが分かった。
昔は木製の道具を作っていたこと。
細かな加工を得意としていたこと。
仕事が減り、職人たちが別の場所へ移ったらしいこと。
何年か前に、建物の屋根を直していた人物がいたこと。
けれど、その人物が誰なのかは分からない。
レグルは懐の紙を確かめた。
ここまでで十分だろう。
自分にできる範囲のことは、確かめた。
あとは、ゼムへ伝えればよい。
◇
ルーデでは、エレナがサナの家を訪ねていた。
今日は石鹸を使うためではなく、以前ベルが作った木枠の様子を見せてもらうためだった。サナから特に呼ばれたわけではないが、前に見たときから気になっていたため、マーサに行き先を伝えて家を出た。
サナの家へ着くと、庭先には木枠が置かれていた。
その上には、まだ乾燥途中らしい石鹸がいくつか並んでいる。
「こんにちは、サナさん」
「あら、エレナ。こんにちは」
サナは作業台から顔を上げた。
「木枠を見に来たの?」
「はい。使ってみて、どうだったのか気になりまして」
「ちょうど様子を見ていたところよ。よかったら見ていって」
エレナは頷き、木枠の近くへ進んだ。
石鹸は一定の間隔を空けて並べられており、下側にも風が通るようになっている。以前の平らな台とは違い、石鹸が直接触れている部分は細い木の上だけだった。
「乾き方は変わりましたか?」
「まだはっきりとは言えないわ。下側に湿気が残りにくくなったようには見えるけど、置いている時間も違うから」
サナは石鹸を一つ持ち上げ、底の部分を見せた。
「ほら、ここ。前より乾いている気はするの。でも、別の日に作ったものと比べているから、木枠だけの効果かは分からない」
「では、もう少し様子を見るのですね」
「そういうこと。次は同じ日に作ったものを分けて置いてみようと思ってる」
エレナは感心した。
「同じ日に作ったものなら、比べやすいのですね」
「少なくとも、作った日が違うせいで変わった可能性は減らせるわ」
サナは笑った。
「でも、材料を混ぜるときに完全に同じ状態にできるわけじゃないから、そこも気をつけないとね」
エレナは頷いた。
サナの仕事は、ただ石鹸を作るだけではない。
作ったものが安全に使えるか、どのように変化するか、何を変えればよくなるかを、一つずつ確かめている。
その慎重さは、エレナにとって学ぶことの多いものだった。
「私が使っている石鹸は、今のところ問題ありません」
「そう。今日は使った?」
「まだです。昨日も使いませんでした」
「無理に毎日使う必要はないわ。肌の状態が変わったら教えてね」
「はい」
サナは頷き、木枠の上の石鹸を元の位置へ戻した。
「そういえば、エレナ。最近、ユウとはどう?」
突然の質問に、エレナは少し驚いた。
「ユウさん、ですか?」
「うん。よく一緒にいるでしょう?」
「はい。昨日もお会いしました」
サナは作業の手を止めず、穏やかに笑った。
「楽しそうね」
エレナは少し頬を赤らめた。
「……はい。ユウさんとお話しするのは、とても楽しいです」
「そう」
サナはそれ以上、踏み込んで尋ねなかった。
エレナは少し安心した。
王都では、誰かと親しく話しているだけで、その関係について周囲が勝手に意味を決めることがあった。婚約者としての立場もあり、誰とどの程度話すかを常に気にしていた。
けれど、サナはただ楽しそうだと言っただけだった。
エレナが答えたあとも、それ以上の説明を求めない。
その距離感が心地よかった。
◇
昼過ぎ、ユウはベルの作業場を訪ねていた。
昨日から考えていた小さな木工について、少し相談したかったからだ。
作業場では、ベルが木材の端を削っていた。
「ベルさん、少しいい?」
「おう。どうした?」
「昨日の余った板のことなんだけど」
ベルは手を止め、ユウを見た。
「何か作りたくなったか?」
「うん。まだはっきり決まってないけど、小さな台みたいなものを作ってみたいと思って」
「台?」
「物を置くための、簡単なやつ。大きな家具を作る前に、木を組み合わせる練習もしてみたい」
ベルは少し考えた。
「それなら、余った板でもできるかもしれんな。ただ、何を置く台なのか決めないと、寸法が決まらんぞ」
「そうだよね」
「家で使うのか?」
「たぶん」
ユウは少し迷った。
自宅には、物を置く場所が足りないわけではない。
卓も棚もある。
ただ、窓際に小さな台があれば、読みかけの本や木片を一時的に置けるかもしれない。
「窓際に置く、小さな台がいいかな」
「何を置く?」
「本とか、木片とか。重いものは置かないと思う」
ベルは頷いた。
「なら、まず置き場所を測ってこい。幅と高さが分からんと、作ってから入らないなんてことになる」
「分かった」
「それと、余った板を使うなら、木の長さに合わせて形を考える必要がある。無理に大きくしようとするなよ」
「うん」
ユウは少し嬉しくなった。
まだ何も作っていない。
けれど、自分が使いたいものを、自分のために作るという目的ができた。
それだけで、木工が少し違って見えた。
「ベルさん、ありがとう」
「礼は完成してからでいい。まず測ってこい」
ユウは笑い、作業場をあとにした。
◇
午後、エレナはマーサの家へ戻る途中でユウと出会った。
ユウは小さな木の棒を手にしており、何かを測るための道具らしかった。
「ユウさん、こんにちは」
「エレナさん。こんにちは」
「何を持っていらっしゃるのですか?」
「ベルさんに借りた測るための棒。家の窓際に置く台を作ろうと思って」
エレナは目を輝かせた。
「作りたいものが決まったのですね」
「うん。小さなものだけどね」
「素敵だと思います」
ユウは少し照れたように笑った。
「まだ作れるか分からないけど、まず置き場所を測ってみる」
「完成したら、見せてくださる約束でしたね」
「もちろん。ちゃんとできたら見せるよ」
エレナは嬉しそうに頷いた。
それから、少し考えて尋ねた。
「もし、途中でうまくいかなかったら?」
「そのときは、ベルさんに相談するかな。直せるなら直すし、難しかったら別の形にするかもしれない」
「それでも、見せていただけますか?」
ユウは少し驚いた。
「失敗したものでも?」
「はい。ユウさんが作ろうとしたものですから」
エレナは穏やかに笑った。
「完成していなくても、私は見てみたいです」
ユウはしばらくエレナを見つめた。
以前なら、誰かに見せるものは、きちんと完成していなければならないと思っていただろう。
途中で失敗したものを見せることは、どこか恥ずかしい。
けれど、エレナは失敗したものでも見たいと言ってくれた。
その言葉が、ユウには嬉しかった。
「……じゃあ、途中でも見せるよ」
「はい。楽しみにしています」
二人は笑い合った。
◇
ラウゼンでは、レグルが宿へ戻り、馬の様子を確かめていた。
古道具屋で聞いた話を整理すると、北梟工房について分かったことはそれほど多くない。
工房は確かに存在していた。
現在は閉まっている。
昔は木製の道具や家具を作っていた。
職人たちは別の場所へ移ったらしい。
建物を管理している人物がいるようだが、名前も所在も分からない。
それ以上のことは、今のレグルには確かめられなかった。
レグルは紙へ簡単に内容を書き留めた。
ゼムへ伝えるときに、曖昧な記憶だけで話すことを避けるためだった。
書き終えると、紙を折りたたんで懐へしまった。
馬は落ち着いており、荷車にも大きな問題はない。
午後のうちに町を出れば、次の宿場まで進めるだろう。
レグルは手綱を取り、宿の主人へ礼を言った。
「もう出るのか?」
「ああ。用事は済んだ」
「北梟工房のことは分かったか?」
「昔あったことは確かめられた。今は閉まってるらしい」
「そうか。なら、来た甲斐はあったな」
「そうだな」
レグルは頷いた。
探していた名前が見つかった。
それ以上のことは分からなかったが、何も分からないまま帰るよりはよい。
荷車がゆっくり動き始める。
レグルはラウゼンの町をあとにし、西の荷場へ戻る道へ向かった。
◇
夜、エレナは今日の出来事を記録していた。
サナの木枠が使われ始めていること。
石鹸の乾き方について、まだ結論は出ていないこと。
ユウが自分のために小さな台を作ろうと決めたこと。
そして、完成していなくても見せてもらえることになったこと。
エレナは筆を止め、少し笑った。
ユウが何かを作ろうとしている。
それは、誰かに頼まれた仕事ではない。
自分が使いたいと思ったものを、自分のために作る。
エレナは、その変化が嬉しかった。
(ユウさんが楽しそうにしていると、私も嬉しいです)
その気持ちを、今はまだ何と呼ぶのか分からない。
けれど、無理に名前をつける必要はないと思った。
エレナは記録へ最後の一行を書き足した。
『ユウさんが作る小さな台を、楽しみにしている。』
窓の外には、静かな夜が広がっていた。
西から新しい知らせは届いていない。
北梟工房が見つかったことも、レグルがラウゼンを出たことも、エレナはまだ知らない。
それでも、遠く離れた場所で確かめられた事実は、少しずつルーデへ近づいていた。
エレナは灯りを落とし、寝台へ向かった。
明日も、いつもどおりの朝が来る。
その朝に何が分かるのかは、まだ誰にも分からなかった。




