第87話 北梟工房の看板
ラウゼンの町が見え始めたのは、レグルが北道の最後の坂を越えたころだった。
数日前の雨はすっかり上がっていたが、荷車の車輪にはまだ乾ききらない泥がこびりついている。道の状態を確かめながら進んできたため、予定していたよりも時間がかかったものの、馬に無理をさせずに町までたどり着くことができた。
坂の上から見下ろすラウゼンは、レグルが普段荷を運ぶ西の町よりも小さかった。低い石壁に囲まれた建物が並び、その間を通る道には荷車が二台ほどすれ違える幅がある。町の中央には小さな広場があり、そこからいくつかの通りが放射状に伸びていた。
遠くからでも分かるほど大きな工房の建物は見当たらない。
もっとも、レグルが探している北梟工房が、どの程度の規模なのかも分かっていなかった。
(まずは馬を休ませるか)
レグルは手綱を緩め、坂を下り始めた。
ルーデから預かったのは、北梟工房という名前について尋ねてほしいという、限られた頼みだけだった。工房の場所が分かればよいし、今も存在しているかどうかを知る者がいれば、それだけでも十分な情報になる。
誰かの行方を追うようには頼まれていない。
まして、家の権利に関する話を聞いているわけでもなかった。
レグルは荷車を進めながら、懐にしまった紙のことを思い出した。
名前を間違えないように、ゼムから教えられたとおりに書いてある。
『北梟工房』
ただそれだけの紙だった。
町の入口に着くと、荷車の出入りを見ていた年配の男が顔を上げた。レグルは軽く挨拶し、荷を降ろせる場所と馬を休ませられる場所がないか尋ねた。
「荷を売りに来たのか?」
「いや、通りがかりだ。少し用があって寄った」
「なら、広場の西側に共同の荷置き場がある。馬を預けるなら、その向かいの宿で聞くといい」
「助かる」
レグルは礼を言い、教えられた道へ進んだ。
広場には野菜を売る小さな露店が並び、通りの向こうでは鍛冶屋らしい建物から金属を打つ音が聞こえていた。荷車の通行はそれほど多くないが、人の出入りは思ったよりもある。
レグルは宿で馬を預け、荷車を置く場所を確保すると、まず自分の荷物と車輪の状態を確かめた。
頼まれ事をするために寄った町でも、自分の仕事に使う荷車を疎かにするわけにはいかない。
それが済んでから、ようやく広場へ戻った。
◇
最初に北梟工房について尋ねたのは、広場の端で木製の桶を売っていた男だった。
男はレグルが差し出した紙を覗き込み、しばらく考えてから首を傾げた。
「北梟工房? 聞いたことがあるような気もするが……今もあるかは知らんな」
「昔はあったのか?」
「さあな。俺がここへ来たのは十年ほど前だから、それより古い話なら分からん」
レグルは頷いた。
「この町で木工の工房が集まってる場所は?」
「東の通りだな。昔からの職人もいるから、そっちで聞けば分かるかもしれん」
「分かった。ありがとう」
男は紙を返し、桶を並べ直す作業へ戻った。
レグルは東の通りへ向かった。
通りには、木材を扱う店や小さな工房がいくつか並んでいた。開け放たれた扉の向こうから木を削る音が聞こえる建物もあれば、古い看板を掲げたまま閉まっている建物もある。
北梟工房という名前は、すぐには見つからなかった。
レグルは二軒目の工房で、作業をしていた職人へ声をかけた。
「仕事中に悪い。北梟工房って名前を知ってるか?」
職人は手を止め、額の汗を拭った。
「北梟? 昔の工房か?」
「それを知りたいんだ」
「名前は聞いたことがある。だが、今の工房じゃないと思うぞ」
レグルは少し身を乗り出した。
「場所は分かるか?」
「昔の木工組合の帳面に名前が残ってるかもしれん。俺より年上の職人なら知ってる奴もいるだろうが、今ここにいる者は若いからな」
「組合はどこだ?」
「この通りの奥だ。古い石造りの建物で、入口に木槌の印がある」
「助かった」
職人は再び作業へ戻り、レグルも通りを進んだ。
北梟工房という名前を知っている者が、少なくとも一人いた。
それだけでも、ルーデへ持ち帰る価値のある情報だった。
ただし、工房が今もあるとは限らない。
レグルは期待を膨らませすぎず、組合の建物へ向かった。
◇
木工組合の建物は、教えられたとおり通りの奥にあった。
石造りの壁は古く、入口の上には木槌を交差させた印が掲げられている。扉の脇には小さな掲示板があり、木材の取引に関する知らせや職人の募集らしい紙が貼られていた。
レグルが中へ入ると、受付の奥で帳面を整理していた女性が顔を上げた。
「何かご用でしょうか?」
「古い工房の名前を調べたい。北梟工房って知ってるか?」
女性は少し考えたあと、棚の方へ視線を向けた。
「北梟工房……今の登録名にはありませんね。昔のものなら、古い帳面に残っているかもしれません」
「見てもらえるか?」
「少しお待ちください。ただ、古い帳面は整理が十分ではないので、すぐに見つかるとは限りません」
「構わん。時間がかかるなら、あとで出直す」
女性は頷き、棚から数冊の帳面を取り出した。
レグルは受付の前で待ちながら、建物の中を見回した。
壁には古い道具が飾られており、木工に関する仕事の歴史が長いことを感じさせる。帳面の表紙には年号らしい数字が書かれていたが、レグルにはその順序をすぐに理解できなかった。
女性は何冊かの頁をめくり、やがて一冊の途中で手を止めた。
「……ありました」
レグルは顔を上げた。
「北梟工房か?」
「はい。こちらに名前が残っています。ただし、現在の登録ではありません」
女性は帳面を受付へ置き、指で一行を示した。
そこには確かに、北梟工房という文字があった。
「いつの記録だ?」
「古い登録です。最後に更新されたのは、かなり前ですね」
「今はもうないのか?」
「この帳面だけでは断定できません。登録を更新していない工房もありますし、名前を変えて続けている場合もあります」
女性は別の頁を確かめた。
「ただ、こちらに移転の届けが残っています」
レグルは眉を上げた。
「移転?」
「はい。町の東側にあった工房が、別の場所へ移ったと記されています。ただし、その後の記録はここでは確認できません」
「移った先は分かるか?」
女性は帳面を見つめた。
「古い地名が書かれていますが、今のどの場所に当たるかは、地図と照らさないと分かりません」
レグルはしばらく考えた。
北梟工房という名前は、確かにこの町の記録に残っていた。
だが、今も工房があるかどうかは分からない。
移転したことは記録されているものの、その先で続いていたかどうかも不明だ。
「その地名を教えてもらえるか?」
「構いません。ただし、現在の場所と一致するかは保証できませんよ」
「それでいい」
女性は紙へ古い地名を書き写した。
レグルは受け取り、懐の紙と一緒にしまった。
「ありがとう。助かった」
「もし現在の所在地を調べるのでしたら、古い地図を扱っている店か、町の東側に長く住んでいる方へ尋ねるとよいかもしれません」
「分かった」
レグルは礼を言い、組合の建物を出た。
外へ出ると、午後の日差しが通りへ差し込んでいた。
思っていたより時間がかかっている。
それでも、ここまで来た以上、もう少しだけ確かめてもよいだろう。
レグルは東の通りへ戻り、古い地名について知っている者を探すことにした。
◇
同じころ、ルーデではエレナがマーサの家の庭で布袋を手にしていた。
昨日縫い直した袋には乾いた豆が入っており、口の部分を軽く持ち上げても糸が緩む様子はない。マーサはそれを確かめると、満足そうに頷いた。
「ちゃんと使えるね」
「よかったです」
エレナは袋を卓へ置き、縫い目をもう一度眺めた。
完璧な仕上がりではない。
それでも、必要なところを直し、実際に使えるようになった。
そのことが嬉しかった。
「今日は何かするのかい?」
マーサが尋ねる。
「まだ決めていません。ただ、ユウさんに会えたら嬉しいです」
エレナは少し照れながら答えた。
マーサは驚いた様子もなく、庭の端へ視線を向けた。
「なら、行ってみたらどうだい」
「でも、ユウさんにも予定があるかもしれません」
「そりゃあるかもしれないね。だからって、会いに行っちゃいけないわけじゃないだろ」
エレナは少し考えた。
ユウが忙しければ、また別の日にすればよい。
会いたいと思うこと自体を、遠慮する必要はないのかもしれない。
「では、少し行ってみます」
「行っておいで」
エレナは布袋を片づけ、家を出た。
道には朝の光が差し込み、村の中央では何人かの住民が作業をしている。
ユウの家へ向かう途中、ガルドの畑の前を通ると、支柱に支えられた豆の葉が風に揺れていた。
紐はまだ緩みすぎても締まりすぎてもいないように見える。
エレナは道から少し眺め、それから歩き続けた。
ユウの家へ着くと、扉は閉まっていた。
エレナは軽く叩いた。
「ユウさん、いらっしゃいますか?」
少し待つと、中から足音が聞こえた。
扉が開き、ユウが顔を出す。
「エレナさん。おはよう」
「おはようございます」
ユウは少し驚いた様子だったが、すぐに笑った。
「どうしたの?」
「……会いたくなったので、来ました」
言ってから、エレナの頬が少し熱くなった。
けれど、目を逸らさずにユウを見る。
ユウは一瞬言葉を失ったように見えた。
それから、ゆっくり笑った。
「そっか。来てくれて嬉しい」
その言葉を聞いて、エレナの胸が温かくなった。
「今、お時間はありますか?」
「あるよ。ちょうど木片を見てたところ」
「削っていたのですか?」
「いや、まだ。今日は少し形を考えてただけ」
ユウは扉を開け、エレナを招いた。
「入る?」
「はい」
エレナは頷き、家の中へ入った。
◇
卓の上には、以前からユウが練習に使っている木片が置かれていた。
深く削った跡は残っているが、表面は少しずつ整えられている。エレナはそれを眺めながら、昨日ユウが話していたことを思い出した。
「何か作りたいものは決まりましたか?」
「まだ決まってない。でも、昨日ベルさんのところで余った板を見てから、少し考えてたんだ」
「どのようなものですか?」
「小さな台とか、物を置くための板とか。大きな椅子を作る前に、簡単なものから試すのもいいかなって」
ユウは木片を手に取った。
「ただ、今ある練習用の木片をそのまま何かにするかは迷ってる。削りすぎた跡もあるし、形を変えたら練習したところが分からなくなるから」
「では、別の木を使うのですか?」
「それも考えてる」
エレナは頷いた。
「ベルさんに相談してみるのもよいかもしれませんね」
「うん。もし本当に作りたくなったら、相談するつもり」
ユウは木片を卓へ戻した。
エレナは少し考えてから、口を開いた。
「ユウさんが作ったものを、いつか見てみたいです」
「まだ何も完成してないけどね」
「はい。でも、楽しみにしています」
ユウは少し照れたように笑った。
「じゃあ、何かできたら見せるよ」
「約束ですか?」
「うん。約束」
エレナは嬉しそうに頷いた。
それから二人は、最近の村の出来事について話した。
サナが新しい木枠を試そうとしていること。
ニコが黒い虫を探しているものの、まだ見つけられていないこと。
ガルドの豆が順調に育っていること。
どれも大きな事件ではない。
けれど、ユウと話していると、エレナはその一つ一つが楽しく感じられた。
やがて、エレナはふと窓の外へ目を向けた。
「レグルさんは、今どこにいるのでしょう」
ユウも窓の外を見た。
「分からないね。西の荷場まで着いたことは聞いたけど、そのあとどうしたかはまだ知らせがないから」
「ラウゼンへ向かってくださっているとよいのですが」
「うん。でも、仕事の都合もあるだろうし、無理はしてほしくないね」
「そうですね」
エレナは頷いた。
自分の願いのために、誰かが無理をする必要はない。
レグルが北梟工房を調べられなかったとしても、それは責めるべきことではない。
ただ、もし何か分かったなら、嬉しい。
その気持ちだけは変わらなかった。
◇
ラウゼンの東側には、古い建物が並ぶ一角があった。
レグルが組合で教えられた地名について尋ねながら歩いていくと、年配の職人がその場所を知っていた。
「その名前なら、昔はこの辺りをそう呼んでたな」
職人は通りの奥を指さした。
「今は別の名前になってるが、古い工房がいくつか残ってる。北梟工房を探してるなら、あの角を曲がった先を見てみろ」
「今もあるのか?」
「さあな。俺が若いころには、もう名前を聞くくらいだったからな」
レグルは礼を言い、教えられた道へ進んだ。
通りは少し狭くなり、古い石壁の建物が続いている。
いくつかの工房には新しい看板が掲げられていたが、閉まったままの建物もあった。
レグルは一軒ずつ看板を確かめながら歩いた。
そして、通りの奥で足を止めた。
古い木製の看板が、建物の入口の上に掛かっていた。
長い年月で色は薄れ、文字の一部は読みにくくなっている。
それでも、そこには確かに書かれていた。
『北梟工房』
レグルは懐から紙を取り出し、看板の文字と見比べた。
間違いない。
探していた名前だった。
ただし、建物の扉は閉まっている。
窓には薄い埃が積もり、人が出入りしている様子は見えなかった。
レグルはしばらく建物を眺めた。
工房が今も使われているのか。
誰かが住んでいるのか。
いつから閉まっているのか。
それはまだ分からない。
けれど、北梟工房という名前の建物が、この町に存在していたことは確認できた。
レグルは紙をしまい、扉の前へ近づいた。
軽く叩いてみる。
返事はない。
もう一度、少し間を置いて叩いた。
やはり返事はなかった。
レグルは扉から離れ、周囲を見回した。
隣の建物には人の気配がある。
まずはそこへ尋ねてみることにした。
◇
隣の建物から出てきたのは、白髪交じりの男性だった。
レグルが北梟工房について尋ねると、男性は古い看板へ目を向けた。
「ああ、あそこか」
「今も使ってるのか?」
「いや。もう何年も閉まってるよ」
レグルは頷いた。
「工房の人間は?」
「昔はいたが、今は誰もいない。建物を管理してる人間がたまに来るくらいだ」
「その人間は、工房のことを知ってるか?」
「多少は知ってるだろうな。ただ、今日は来てない」
男性はレグルを見た。
「何か用があるのか?」
「名前を知ってる者がいるか、確かめてほしいと頼まれただけだ。詳しい事情は聞いてない」
「そうか」
男性は少し考えた。
「それなら、北梟工房は確かにここにあった。今は閉まってる。それだけなら間違いない」
「助かる」
レグルは礼を言った。
頼まれた範囲で、確かな情報が得られた。
それ以上のことを無理に調べる必要はない。
ただ、建物を管理している人間がいるという話は、今後の手がかりになるかもしれなかった。
「管理してる人間の名前は分かるか?」
レグルが尋ねると、男性は少し首を傾げた。
「名前までは覚えてないな。町の外に住んでるって話だったと思うが、確かなことは言えん」
「分かった」
レグルは頷いた。
それ以上は尋ねなかった。
北梟工房は、確かに存在していた。
今は閉まっている。
管理している人物がいるらしいが、名前も所在も分からない。
その情報を、正確に持ち帰ればよい。
レグルはもう一度古い看板を見上げた。
長い年月を経た木の表面には、風雨でできた細かな傷が残っている。
それでも、名前だけはまだ読めた。
レグルは踵を返し、宿へ向かって歩き始めた。
◇
その夜、ルーデではエレナが記録を開いていた。
今日、ユウに会いに行ったこと。
会いたくなったから来たと、自分の気持ちをそのまま伝えられたこと。
ユウが嬉しいと言ってくれたこと。
そして、ユウがいつか何かを作ったら見せてもらう約束をしたこと。
エレナは一つずつ書き残した。
途中で筆を止め、少し考える。
以前の自分なら、会いたいという気持ちをそのまま伝えることはできなかったかもしれない。
相手に迷惑ではないか。
自分から会いに行くことは、はしたないと思われないか。
そうしたことを先に考えていただろう。
けれど、今日は会いたかった。
だから会いに行った。
ユウは嬉しいと言ってくれた。
それだけのことが、エレナには大切だった。
(私は、少しずつ変わっているのでしょうか)
エレナは窓の外へ目を向けた。
夜の村は静かだった。
西から新しい知らせは届いていない。
レグルがラウゼンへ向かったかどうかも、北梟工房が見つかったかどうかも、エレナには分からない。
それでも、今日の自分には嬉しいことがあった。
エレナは記録へ最後の一行を書き足した。
『今日は、会いたい人に会いに行けた。』
その文字を見つめ、静かに笑った。
遠く離れたラウゼンでは、レグルが北梟工房の看板を見つけていた。
その知らせがルーデへ届くまでには、まだ時間がかかる。
けれど、エレナの知らない場所で、三軒目の家へ続く道は、確かに一つ先へ進んでいた。




