第86話 頼まれていない仕事
朝のルーデには、木を打つ乾いた音が響いていた。
ユウが家の扉を開けると、少し離れた場所でベルが作業をしている姿が見えた。家の前に置かれた作業台には短い板が数枚並び、ベルはそのうちの一枚を手に取って、端の状態を確かめている。
空はよく晴れていた。数日前の雨で柔らかくなっていた道も、日当たりのよい場所はほとんど乾いており、朝の風には湿った土の匂いよりも草の匂いが強く混じっている。
ユウは扉の前で背伸びをしてから、ベルの作業へ目を向けた。
(何か作ってるのかな)
昨日はガルドの畑へ道具を運び、今日は特に予定を決めていなかった。自宅の棚には、途中まで削った練習用の木片が置かれているが、しばらく加工を休むと決めたことを変えるつもりはない。
それでも、ベルが何を作っているのかは気になった。
ユウは家の戸締まりを確かめ、道を渡った。
「おはよう、ベルさん。朝から仕事?」
ベルは顔を上げ、手に持っていた板を作業台へ置いた。
「おう、ユウ。昨日、サナに木枠を届けただろ。あれを作ったときに、使い道を決めてなかった板が残ってな」
「余った板?」
「そうだ。置いといても構わんが、ちょうどいい長さだから、何かに使えないか見てたところだ」
作業台の上には、長さの異なる板が四枚並んでいた。どれも大きな家具を作れるほどのものではないが、表面はある程度整えられており、端を削れば小さな道具に使えそうだった。
ユウは板の一本へ視線を落とした。
「これ、何にするか決まってる?」
「まだだ。サナの木枠をもう一つ作る必要があるかもしれんし、別のもんに使うかもしれん。だから今は切らずに見てる」
「なるほど」
ユウは頷いたが、すぐには次の言葉が出なかった。
板を見ているうちに、いくつかの使い道が頭へ浮かんだからだ。
小さな棚。
道具を掛けるための板。
洗った布を一時的に置く台。
どれも作れば誰かの役に立つかもしれない。
けれど、役に立つ可能性があることと、実際に誰かが必要としていることは違う。
「ベルさんは、何か困ってることある?」
ユウが尋ねると、ベルは眉を上げた。
「急にどうした?」
「いや、この板で何か作れたら便利かなと思って。でも、何を作るか決まってないなら、困ってることがあるのかなって」
ベルは少し考え、それから作業台へ腰を預けた。
「今すぐ困ってることはないな」
「そっか」
「それで、お前は何か作りたいのか?」
問い返され、ユウは言葉に詰まった。
誰かの役に立つものを作れたらいいとは思った。
けれど、自分が何を作りたいのかと聞かれると、すぐに答えられない。
「……まだ分からない」
「なら、今は決めなくていいだろ」
ベルは板を一本持ち上げ、木目に沿って指を滑らせた。
「使い道が決まってない木を、無理に何かへ変える必要はない。切っちまったら元の長さには戻らんからな」
ユウは思わず笑った。
「木片のときと同じこと言われてる気がする」
「同じようなことしてるからだろ」
「そうかな」
「お前、何か見ると使い道を探す癖があるな。別に悪いことじゃないが、使う相手がいないものまで作ったら、置き場所に困るぞ」
ベルは冗談めかして言ったが、ユウには少し思い当たるところがあった。
以前の仕事でも、目の前にある不便を見つけると、すぐ改善しようとしていた。もちろん必要な工夫もあったが、誰かが不便だと感じているかを確かめる前に、こちらで答えを用意してしまうこともあった。
(便利そうだから作る、だけじゃ駄目なこともあるか)
ユウは板から目を離した。
「じゃあ、今日は見てるだけにする」
「見てるだけなら構わん。ただし、俺の手元ばっかり見て転ぶなよ」
「そんなに近づかないって」
ベルが笑い、ユウもつられて笑った。
◇
そのころ、エレナはマーサの家で針仕事をしていた。
窓際の卓には、小さな布が二枚と、糸を巻いた木片が置かれている。今日は衣服の修繕ではなく、マーサが以前から使っていた布袋の口を補強する作業を教わっていた。
袋は何度も使われているらしく、布そのものはまだ丈夫だったが、口の部分だけ糸が緩んでいる。重いものを入れれば破れる可能性があるため、マーサはそこを縫い直そうとしていた。
「ここは、前の縫い目を全部ほどくのですか?」
エレナが尋ねると、マーサは袋を裏返して見せた。
「全部じゃなくていい。傷んでるところだけほどいて、まだしっかりしてる部分は残すんだよ」
「残した方がよいのですね」
「残せるものまで壊す必要はないからね。ただ、糸が弱ってるところをそのままにすると、また同じところからほつれる」
マーサは針先で緩んだ部分を示した。
エレナはその位置を確かめ、慎重に糸をほどき始めた。
以前なら、古い縫い目が残っていることを気にして、すべて新しくした方が美しく仕上がるのではないかと考えていただろう。けれど、今目の前にあるのは飾るための袋ではなく、日々の暮らしで使うものだった。
必要なところを直し、また使えるようにする。
それが今日の目的だった。
「マーサさん、この袋には何を入れるのですか?」
「普段は乾かした豆だね。たまに別のものも入れるけど、重すぎるものは入れないよ」
「では、口の部分がしっかりしていないと困りますね」
「そういうことさ」
エレナは糸を通し、教わった位置から縫い始めた。
針を動かす速度は、以前より少し速くなっている。
ただし、速く縫えることと、きれいに仕上がることは同じではない。エレナは途中で手を止め、縫い目の間隔を確かめた。
「少し曲がってしまいました」
マーサが覗き込む。
「使う分には問題ないね。でも、気になるならここだけやり直してもいい」
「やり直したいです」
「なら、そうしな」
エレナは数針だけ糸を戻した。
失敗したことを叱られない。
やり直すかどうかを自分で決められる。
それだけのことが、今でも時々新鮮に感じられた。
王都にいたころは、失敗を見つけられること自体が怖かった。小さな不出来であっても、婚約者としての資質や公爵家の娘としての教育へ結びつけられることがあったからだ。
今、マーサは縫い目が曲がったことを責めない。
それどころか、使う分には問題ないと教えてくれたうえで、エレナが直したいなら直せばよいと言ってくれる。
(私は、きれいにしたいから直すのですね)
誰かに認められるためではない。
叱られないためでもない。
自分がそうしたいから、針を戻している。
エレナは糸を整え、もう一度ゆっくり縫い始めた。
◇
昼前、ユウはベルの家を離れ、村の中央へ向かっていた。
ベルの作業を少し見学したあと、特に手伝うこともなかったため、自宅へ戻るつもりだった。ところが、道の途中でオルドが小さな籠を抱えているのを見つけ、足を止めた。
「オルドさん、おはよう」
「おう、ユウか。今日はいい天気だな」
「うん。雨のあとだから、余計に気持ちいいね」
オルドは籠を持ち直した。
中には鶏の餌に使うものが入っているらしく、乾いた粒が布の隙間から少し見えている。
「鶏は元気?」
「ああ。前に少し足を気にしてたやつも、今は普通に歩いてる。今日はみんなよく食うぞ」
「それならよかった」
ユウは籠へ目を向けた。
それほど重そうには見えないが、オルドは高齢だ。
持とうかと声をかけること自体は悪くないだろう。
けれど、声をかける前に一つ考えた。
オルドは今、困っているようには見えない。
歩みはゆっくりだが、籠を安定して持っている。
それでも、本人が助けを望んでいる可能性はある。
「籠、持とうか?」
ユウが尋ねると、オルドは首を横へ振った。
「いや、今日はいい。これくらいなら持てる」
「分かった」
ユウはすぐに手を引いた。
オルドは少し笑った。
「前なら、断ってももう一回くらい聞いてきたかもしれんな」
「そうだった?」
「悪気がないのは分かってたがな。年寄りだからって、何でも持ってもらいたいわけじゃない」
ユウは少し恥ずかしくなった。
「ごめん」
「謝るほどじゃない。聞いてくれるのはありがたいんだ。ただ、断ったらそのままにしてくれる方が助かることもある」
「うん。気をつける」
オルドは籠を抱え直した。
「その代わり、困ったら頼むぞ」
「もちろん」
「なら、それでいい」
二人はそこで別れた。
ユウはオルドの背中を見送りながら、以前の自分について考えた。
介護の仕事をしていたころ、自立支援という言葉は何度も使っていた。
本人ができることは本人にしてもらう。
必要な部分だけ手伝う。
それが大切だと知っていた。
けれど、忙しい現場では、時間がかかることを理由に先回りしてしまうこともあった。相手のためだと思いながら、自分の都合で動いていたこともあったのだろう。
(分かってるつもりでも、できてないことはあったんだよな)
ユウは小さく息を吐いた。
ルーデへ来てから、何度も似たようなことを考えている。
ただ、今日は少し違った。
以前なら、できていなかったことを思い出すと、自分を責める気持ちが先に立っていた。今は、次に同じ場面があったらどうするかを考えられる。
それだけでも、少し変わったのかもしれない。
◇
エレナが布袋を縫い終えたのは、昼食の少し前だった。
最後の糸を結び、余分な部分を切ると、袋の口は以前よりしっかりした形になっていた。縫い目は完全に揃っているわけではないが、使うには十分だとマーサが確認してくれた。
「できました」
「見せてごらん」
マーサは袋を受け取り、口の部分を軽く引っ張った。
「うん。これならしばらく使えるね」
「よかったです」
「最初に比べたら、ずいぶん手が落ち着いたじゃないか」
エレナは少し照れた。
「まだ曲がることもあります」
「そりゃあるだろ。何十年やってたって、たまには曲がるよ」
「マーサさんでもですか?」
「当たり前だよ。あたしを何だと思ってるんだい」
マーサは呆れたように言ったが、その目は笑っていた。
エレナも笑い、使い終えた針と糸を片づけた。
「この袋は、今日から使いますか?」
「そうだね。豆を入れ直しておこうか」
「私が入れてもよいですか?」
「いいよ。ただし、詰め込みすぎないようにね」
エレナは頷き、袋へ乾いた豆を移し始めた。
修繕したものが実際に使われる。
その光景を見られることが、思っていた以上に嬉しかった。
王都で学んだ刺繍は、完成したものを見せることが目的になる場合が多かった。もちろん、それにも意味はある。
けれど今は、自分が縫った袋へ豆が入り、明日からもマーサの暮らしの中で使われる。
そのことが、エレナには特別に感じられた。
◇
午後、ユウがマーサの家を訪ねた。
扉を叩くと、エレナが出てきた。
「ユウさん、こんにちは」
「こんにちは。今、大丈夫?」
「はい。ちょうど針仕事を終えたところです」
エレナは少し嬉しそうに笑った。
ユウもその表情を見て、自然に笑みを返した。
「何か作ってたの?」
「布袋の口を縫い直しました。マーサさんが豆を入れるために使っている袋です」
「へえ、見てもいい?」
「もちろんです」
エレナはユウを家の中へ招いた。
卓の上には、先ほど豆を入れ直した袋が置かれている。
ユウが手に取ると、エレナは少し緊張した様子で見守った。
「ここを縫ったんだね」
「はい。前の糸が緩んでいたところだけほどいて、縫い直しました」
「きれいになってる」
「途中で少し曲がってしまったので、そこだけやり直しました」
「そうなんだ」
ユウは袋の口を眺めた。
縫い目は細かく、布が引っ張られすぎないように整えられている。
「ちゃんと使えるものになってるのがいいね」
その言葉に、エレナの表情が明るくなった。
「私も、そう思いました」
マーサが台所から顔を出した。
「褒めるのはいいけど、袋を引っ張りすぎるんじゃないよ」
「そんなに引っ張ってないって」
「ユウは何でも確かめたがるからね」
ユウは苦笑し、袋を卓へ戻した。
「今日はベルさんのところでも似たようなこと言われたよ」
「何を?」
エレナが尋ねる。
「余った板を見て、何か作れないかなって考えてたんだけど、使う人が決まってないのに無理に作る必要はないって」
エレナは少し考えた。
「でも、作りたいものがあるなら、作ってもよいのではありませんか?」
「うん。そうなんだけど、俺の場合は誰かの役に立つものを探してただけだったから」
「ユウさん自身が作りたいものではなかったのですね」
「そういうことかな」
エレナは卓の上の袋を見た。
「私は、この袋を縫い直したかったです。マーサさんが使うものですが、私が直したいと思いました」
「うん」
「でも、マーサさんが自分で直したいと言っていたら、私は手を出さなかったと思います」
ユウは頷いた。
「それ、大事だよね」
「はい。今日は、私がやりたいことと、マーサさんが頼んでくださったことが同じでした」
エレナは少し笑った。
「だから、とても楽しかったです」
ユウはその言葉を聞きながら、朝からの出来事を思い返した。
ベルの余った板。
オルドの籠。
そして、エレナが縫い直した布袋。
どれも小さな出来事だった。
けれど、自分が何をしたいのか、相手が何を望んでいるのかを考えるきっかけになっている。
「俺も、何か自分が作りたいものを考えてみようかな」
ユウが言うと、エレナは少し首を傾げた。
「昼寝用の椅子ではないのですか?」
「それは作りたい。でも、まだ始める気分じゃないんだよね」
「では、別のものでもよいと思います」
「そうだね」
ユウは笑った。
「エレナさんは、何か作ってほしいものある?」
尋ねてから、ユウは少しだけ後悔した。
また相手のために作るものを探している。
エレナもそれに気づいたのか、少し笑った。
「ユウさんが作りたいものを考えるお話ではありませんでしたか?」
「……そうだった」
ユウが頭をかくと、エレナは楽しそうに笑った。
「でも、もし私が何かお願いしたくなったら、そのときは聞いてくださいますか?」
「もちろん」
「では、今はまだお願いしません」
「分かった」
二人は顔を見合わせ、また笑った。
◇
夕方、ユウは自宅へ戻った。
棚に置いた木片を手に取る。
今日は削らない。
その気持ちは変わっていなかった。
けれど、ベルの余った板を見たことや、エレナの布袋を見たことで、木を使って何かを作る楽しさについて少し考えるようになっていた。
誰かに頼まれたからではない。
役に立たなければならないからでもない。
自分が作りたいと思うものを、自分の時間で作る。
それは、以前の生活ではあまり考えなかったことだった。
(何か、簡単なものから作ってみるのもいいかもな)
ユウは木片を卓へ置き、しばらく眺めた。
ただし、今日すぐに削り始めるつもりはない。
今は、作りたいと思えたことだけで十分だった。
◇
そのころ、西の北道では、レグルが荷車を止めて車輪の状態を確かめていた。
昨夜泊まった宿を出てから、道は少しずつ乾き始めていた。雨でぬかるんでいた場所も、日当たりのよいところでは車輪が沈みにくくなっている。
ただし、坂道にはまだ柔らかい土が残っていた。
レグルは車輪の縁についた泥を落とし、軸の状態を確認した。
「もう少しだな」
独り言を呟き、馬の方へ目を向ける。
馬は落ち着いた様子で立っており、疲れが強く出ているようには見えない。
それでも、無理をさせるつもりはなかった。
北梟工房の名前を書いた紙は、今も懐に入っている。
ラウゼンへ着けば、まずその工房を知っている者がいるか尋ねるつもりだった。
見つからなければ、それまで。
見つかったとしても、頼まれた範囲を超えて誰かの行方を探すつもりはない。
レグルは手綱を握り直し、荷車をゆっくり進めた。
道の先には、まだ町の姿は見えない。
けれど、北へ続く道は確かに伸びていた。
◇
夜、エレナは今日の出来事を記録していた。
布袋の口を縫い直し、マーサが使える状態になったこと。
途中で縫い目が曲がったため、自分の判断で数針だけやり直したこと。
ユウがベルの余った板を見て、何かを作ろうと考えたものの、まだ使い道を決めていないこと。
そして、ユウ自身が作りたいものを考えてみたいと話していたこと。
エレナは筆を止め、少し考えた。
ユウは、誰かのために動くことを嫌っているわけではない。
今日もオルドへ籠を持とうかと尋ね、断られたらそのまま受け入れたと話していた。
誰かを助けたいと思う気持ちと、頼まれていないことまで引き受けることは違う。
それは、エレナ自身にも当てはまることだった。
(私も、誰かに認められるためだけに何かをするのではなく、自分がしたいと思うことを選びたいです)
エレナは新しい行へ筆を動かした。
『今日は、自分が直したいと思った布袋を縫い直した。マーサさんが使ってくださることも嬉しかった。』
少し考えてから、もう一行を書き足す。
『ユウさんにも、誰かのためだけではなく、ご自分が作りたいものを作ってほしいと思った。』
文字を見つめていると、自然に笑みが浮かんだ。
ユウがいつか昼寝用の椅子を作ったら、どんな形になるのだろう。
それとも、まったく別のものを作り始めるのだろうか。
今はまだ分からない。
けれど、その日が来たら見てみたいと思った。
エレナは記録を閉じ、窓の外へ目を向けた。
ルーデの夜は静かだった。
東の警戒線から新しい音は聞こえず、西からも新しい知らせは届いていない。
それでも、今日という一日は確かに進んでいた。
自分が縫い直した布袋は、明日からマーサの暮らしの中で使われる。
ユウは、自分が作りたいものについて考え始めている。
レグルがどこまで進んだのかは分からないが、昨日までに確認できた知らせは変わらず残っている。
エレナは灯りを落とし、寝台へ向かった。
誰かの役に立つことは、嬉しい。
けれど、それだけが自分の価値ではない。
誰かに頼まれたことをする日もあれば、自分がしたいことを選ぶ日もある。
そのどちらも、今のエレナにとって大切な一日の形だった。




