第85話 それぞれの道を進む日
朝食の支度が始まるより少し前、エレナは窓から差し込む光で目を覚ました。昨日よりも空が明るく、開けていない窓の向こうからは、庭先で鳴く小鳥の声が聞こえている。寝台の中でしばらくその声に耳を傾けていると、台所から食器の触れ合う音が聞こえ、マーサがもう起きていることに気づいた。
昨日は、レグルが予定どおり出発し、西の荷場まで到着したという知らせが届いた。ラウゼンへ向かったかどうかは分からず、北梟工房についても新しい情報はない。それでも、出発したという一つの事実が確認できたことは、エレナにとって確かな喜びだった。
(今日は、どんな一日になるのでしょう)
そう考えてから、エレナは少し笑った。以前なら、何をするべきか決まっていない朝を落ち着かない気持ちで迎えていただろう。今は予定がないことを不安に思う日もあれば、何も決めずに過ごせることを嬉しく思う日もある。
今日は、どちらかといえば後者だった。
身支度を整えて台所へ向かうと、マーサが昨日の残りの芋を籠から取り出していた。
「おはようございます、マーサさん」
「おはよう。よく眠れたかい?」
「はい。昨日は少し考え事をしましたが、眠れなくなるほどではありませんでした」
「そりゃよかった。今日は芋を焼こうと思ってるんだけど、あんたはどうだい?」
「食べたいです。昨日の煮込みも美味しかったですが、焼いたものも好きです」
マーサは頷き、芋を一つエレナへ渡した。
「じゃあ、こいつを洗っておくれ。皮はそのままでいいから、泥だけ落としてね」
「分かりました」
水場へ向かい、芋の表面についた土を指先で落とす。昨日の雨で土が湿っていたためか、乾いた泥よりも簡単に洗い流せた。エレナは水を切った芋を台所へ運び、マーサが火の具合を確かめる横へ置いた。
「今日は、何かお手伝いできることがありますか?」
「今はこれで十分だよ。あとで洗濯物を干すけど、それは天気を見てからだね」
「では、そのときにまた聞きます」
「そうしな。朝から一日の仕事を全部決める必要もないんだから」
マーサは芋を焼き始めた。火に近づいた皮から香ばしい匂いが漂い、エレナは椅子へ腰を下ろしてその様子を眺める。
王都にいたころは、朝食が用意されるまでの時間に、こんなふうに台所で火を眺めることなどなかった。料理をする使用人たちの仕事を妨げないように、決められた時間に食堂へ向かうのが当然だったからだ。
あの生活にも、そこで働いていた人々の気遣いや努力があった。それを否定するつもりはない。ただ、自分で芋を洗い、焼ける匂いを待ちながら朝を過ごすことが、今のエレナには心地よかった。
「マーサさん」
「なんだい?」
「私は、こうして朝食を待つ時間も好きです」
マーサは火から目を離さずに答えた。
「そりゃいいことだね。待ってる間に腹も減るし、焼きすぎないように見張ってくれる奴がいると、あたしも助かる」
「では、見ています」
「焦げそうなら教えとくれ。自分で勝手に火から下ろすんじゃないよ」
「はい」
エレナは笑い、焼けていく芋へ視線を戻した。
◇
朝食のあと、エレナはマーサと一緒に洗濯物を干した。
空はよく晴れており、昨日まで湿っていた地面も、日の当たる場所から少しずつ乾いている。布を広げると風が通り抜け、洗ったばかりの布の匂いが庭先へ漂った。
マーサは大きな布を干し、エレナには比較的小さなものを任せた。以前なら、自分にも大きな布を扱えることを示そうとしたかもしれないが、今日は渡されたものを丁寧に干すことへ意識を向けた。
「これでよいでしょうか?」
「ああ。端が重なってないから乾きやすいね」
「よかったです」
最後の一枚を干したところで、道の向こうからベルが歩いてくるのが見えた。片手には小さな木箱を持っており、いつもの仕事着の袖を肘まで上げている。
「おはよう、マーサ。エレナもいるか」
「おはようございます、ベルさん」
「どうしたんだい?」
マーサが尋ねると、ベルは木箱を軽く持ち上げた。
「サナに頼まれた木枠を届けるところだ。石鹸を置く場所に使いたいらしい」
「石鹸のための木枠ですか?」
エレナが興味を示すと、ベルは足を止めた。
「今まで使ってた台だと、置く場所によって風の通り方が違うらしくてな。全部同じように乾くとは限らんから、少し隙間を作った枠を試したいそうだ」
「硬さが違ってしまうことと関係があるのでしょうか」
「それを確かめるんだろう。俺は木枠を作っただけだから、石鹸のことはサナに聞いてくれ」
ベルは当然のように言った。
エレナは頷いた。道具を作った人が、その道具を使う仕事のすべてを知っているとは限らない。ベルは木材や加工に詳しく、サナは石鹸を作ることに詳しい。それぞれの知識が重なるところで、必要なものを作っているのだ。
「私もサナさんのところへ行ってみたいです」
「なら、一緒に来るか?」
ベルの誘いに、エレナはすぐ答えなかった。
洗濯は終わっている。マーサから別の仕事を頼まれているわけでもない。サナの石鹸については気になっていたし、木枠をどう使うのかも見てみたい。
「はい。行きたいです」
「マーサ、連れていくぞ」
「連れていくって、子どもじゃないんだから。エレナが行きたいなら行っておいで」
「はい。行ってきます」
エレナはマーサへ声をかけ、ベルと並んで歩き始めた。
◇
サナの家へ向かう道では、ベルが木枠について少し説明してくれた。
石鹸を直接平らな板へ置くと、下側に湿気が残りやすいことがある。そこで細い木を並べ、間に隙間を作った枠を試すのだという。ただし、木枠を使えば必ず均一に乾くと決まったわけではなく、サナが実際に置いて様子を見る必要がある。
「木の種類も関係するのですか?」
「することはある。ただ、今回は家にあった木で作ってる。まず使える形か確かめて、それから必要なら変えればいい」
「最初から完成したものを作るわけではないのですね」
「何にでも最初から正解があるわけじゃないからな。使ってみなきゃ分からんこともある」
ベルは歩きながら木箱を持ち直した。
「ユウの木片もそうだ。削ってみて、思ったより深く入ったなら、次は手の動かし方を変える。失敗した場所を全部消そうとするより、何が起きたか残しておいた方が役に立つ場合もある」
「ユウさんは、今はしばらく削らないそうです」
「ああ、聞いた」
「それでもよいのですか?」
「俺が決めることじゃない。削りたくなったら持ってくるだろうし、別のことを作りたくなったならそれでもいい」
ベルは少し笑った。
「ただ、椅子を作りたいなら、いつかは木を削らなきゃならんがな」
「そうですね」
エレナも笑った。
ユウが作りたいと言っていた昼寝用の椅子は、まだ材料を加工する段階にも進んでいない。けれど、作りたい気持ちがなくなったと聞いたわけではない。
いつか作るかもしれない。
作らないかもしれない。
今の段階で、どちらかへ決める必要はなかった。
サナの家へ着くと、庭先にいくつかの小さな器が並んでいた。石鹸を作るためのものらしく、サナは布で手を拭きながら二人を迎えた。
「ベル、ありがとう。もうできたの?」
「ああ。頼まれた寸法で作った。ただ、使ってみて合わなきゃ直すぞ」
「それで十分よ。最初から全部決められないもの」
サナは木箱を受け取り、中から枠を取り出した。
細い木が一定の間隔で並び、四隅はしっかり固定されている。見た目は単純だったが、石鹸を置く面が平らになりすぎないよう工夫されていた。
「これなら下にも風が通りそうね」
「置く場所によるぞ。壁にぴったりつけたら、そっちは風が抜けにくい」
「分かった。少し離して置く」
サナは庭先の日陰へ木枠を運んだ。
エレナも近くまで行ったが、石鹸や道具へ勝手に触れず、サナが置き場所を決める様子を眺めた。
「今日は石鹸を置くのですか?」
「まだよ。まず木枠がぐらつかないか見たいの。それから、今作っているものを置くかどうか決める」
「前に見せていただいた硬い石鹸は?」
「あれは別にしてあるわ」
サナは家の中へ戻り、布に包んだ小さな石鹸を持ってきた。
「私が一度使って、そのあともう一度だけ試したの。今のところ赤みも痒みもないけど、まだ他の人には渡してない」
「妹さんにもですか?」
「うん。今の柔らかい方は妹も使ってるけど、こっちはまだ私だけ。硬さが違うものを同じ結果として扱いたくないから」
エレナは頷いた。
「私が使っているものも、今のところ問題ありません。昨日の夕方に使って、夜まで異常はありませんでした」
「今日は?」
「まだ使っていません」
「そう。使いたくなったら一回まででいいわ。無理に毎日使わなくても、今までの記録がなくなるわけじゃないから」
「はい」
サナは硬い石鹸を包み直した。
「それに、私が使って何もなかったからって、誰にでも大丈夫とは限らないもの。妹に試してもらうかどうかも、もう少し考えるつもり」
「分かりました」
エレナは木枠へ視線を戻した。
「この木枠を使えば、次の石鹸は同じ硬さになるのでしょうか」
「そうなったら嬉しいけど、まだ分からないわ」
サナは少し困ったように笑った。
「乾かす場所だけじゃなくて、混ぜ方や置いておく時間も関係しているかもしれない。材料の量も毎回まったく同じにできているわけじゃないから、まず一つずつ確かめたいの」
「たくさんのことが関係しているのですね」
「そうなの。だから、今の石鹸が使えているからって、次に作ったものも同じだとは思わない方がいい」
サナは木枠の端を軽く押し、ぐらつかないことを確かめた。
「でも、少しずつ使いやすくなったらいいなとは思ってる」
その声には、焦りよりも楽しさが混じっていた。
エレナは、サナが石鹸を作ることを好きなのだと改めて感じた。安全を確かめるための慎重さと、もっとよいものを作ってみたいという気持ちは、互いに反するものではないのだろう。
「私も、楽しみです」
「ありがとう。でも、期待しすぎないでね」
「はい。今のものが使えるだけでも、嬉しいですから」
サナは笑い、木枠をもう一度眺めた。
◇
ベルと別れ、エレナが村の中央へ戻るころには、日が高くなっていた。
ローデンの家の前を通りかかったとき、エレナは一度だけ足を緩めた。
昨日はレグルについて知らせが届いた。
今日も何か来ているかもしれない。
しかし、家の前に人影はなく、荷車の音も聞こえない。
(昨日分かったばかりですものね)
エレナはそのまま歩き出した。
西の荷場からラウゼンまでは、道の状態によって時間がかかる。レグルが北へ向かったかどうかさえ分からないのだから、今日すぐに工房の情報が届くと期待する理由はなかった。
それでも、家の前を通ると少し気になる。
その気持ちを否定せず、エレナは歩き続けた。
道の向こうから、ユウが小さな籠を持って歩いてくるのが見えた。
「エレナさん」
「ユウさん。こんにちは」
「こんにちは。サナさんのところ?」
「はい。ベルさんが石鹸を置くための木枠を作ってくださったので、見せていただきました」
「木枠?」
ユウは興味を示した。
エレナは、石鹸の下へ風を通すためのものだと説明した。ただし、それで硬さが揃うと決まったわけではなく、サナが実際に使って確かめる必要があることも伝える。
「なるほど。乾かし方を変えてみるんだ」
「はい。でも、まだ次の石鹸を置くとは決めていないそうです」
「ベルさんも、使って合わなかったら直すって言ってた?」
「おっしゃっていました」
ユウは笑った。
「ベルさんらしいな」
エレナはユウの持つ籠へ目を向けた。
「ユウさんは、どちらへ?」
「ガルドさんのところ。昨日、豆の支柱を見たときに、別の畑の道具を少し運ぶって話になってさ。今日は時間があるから手伝おうかなと思って」
「頼まれたのですか?」
「いや。俺から聞いたら、軽いものなら持ってきてほしいって」
「では、今からお手伝いですね」
「うん。そんなに時間はかからないと思う」
ユウは少し迷ったようにエレナを見た。
「エレナさんは、今から何か予定ある?」
「まだありません」
「じゃあ、一緒に来る? もちろん、手伝わなくてもいいし、別のことしたいならそれでも」
エレナは考えた。
ガルドの畑へ行くことは、嫌ではない。
豆の様子も気になっている。
けれど、今はマーサの家へ戻って昼食の支度を少し手伝いたい気持ちもあった。
「今日は、マーサさんのところへ戻ります」
「そっか」
「でも、ユウさんと少しお話しできて嬉しかったです」
ユウは籠を持ち直した。
「俺も。じゃあ、またね」
「はい。また」
二人はそこで別れた。
エレナは振り返らずに歩き始めたが、胸の奥には穏やかな温かさが残っていた。
今日は一緒に行かなかった。
それでも、会えて嬉しかったことは変わらない。
◇
ガルドの畑では、ユウが小さな道具を運び終えたところだった。
籠に入っていたのは、畑の端で使う木の杭と、短い縄だった。重いものではないが、ガルドが何度も往復するより、一度で運んだ方が楽だろうと考えて引き受けたものだ。
「助かったぞ、ユウ」
「これくらいならね」
「もっと持ってくるか?」
「いや、今日はこれで十分」
ユウが答えると、ガルドは笑った。
「前なら、もう少しやるって言いそうな顔してたのにな」
「そんな顔してた?」
「してたぞ。頼んでもいねえことまで探してた」
ユウは少し苦笑した。
以前の仕事では、目の前にやるべきことがあると、誰かが頼む前に手を出すことが多かった。必要な支援を見極めるつもりでいても、忙しさに追われるうちに、自分が先に動いた方が早いと考えることが増えていた。
その癖が、ルーデへ来てからすぐに消えたわけではない。
「今でも、気になることはあるよ」
「そりゃそうだろ」
「でも、ガルドさんが自分でやりたいことまで俺がやる必要はないから」
「分かってるじゃねえか」
ガルドは満足そうに頷いた。
そのあと、二人は例の豆の支柱を確認した。
ベルが調整した紐は、今も茎を強く締めつけていない。雨のあとで葉が少し重そうに見えたものの、支柱そのものは傾いておらず、すぐに手を加える必要はなさそうだった。
「また太くなったら、紐を見直すんだよね」
「ああ。ベルにも言われてる。今は触らんでいい」
「了解」
ユウは豆から手を離した。
ガルドは畑の向こうを眺め、ふと口を開いた。
「エレナは元気か?」
「元気だよ。さっき会った」
「三軒目の家の話はどうなった?」
「レグルさんが西の荷場まで着いたってところまでは分かった。でも、ラウゼンへ向かったかはまだ分からない」
「そうか」
ガルドはそれ以上、急かすようなことを言わなかった。
「住めるといいな」
「うん」
「だが、まだ決まってねえんだろ?」
「そう」
「なら、決まるまでは今のままだな」
ユウは頷いた。
エレナが三軒目の家へ住みたいと願っていることを、村の人々は少しずつ知っている。けれど、誰も勝手に住めることを前提に修理を始めたり、荷物を運び込んだりしていない。
そこには、エレナの願いを軽く扱わないという意味もあるのだろう。
「俺も、住めるといいなって思ってる」
ユウが言うと、ガルドはちらりと彼を見た。
「そうか」
「うん」
「なら、そう思ってりゃいい」
ガルドはそれだけ言い、畑の作業へ戻った。
ユウも長居はせず、籠を持って家へ向かった。
◇
昼食のあと、エレナは『暮らしの小さな工夫』を開いた。
今日は木の道具の手入れについて書かれた部分を少し読み返した。濡れた道具を放置しないことや、欠けた部分を無理に削りすぎないことなど、以前ユウから聞いた話と重なるところがある。
読み進めるうちに、ベルが作った木枠のことを思い出した。
木枠も、使ってみなければ分からない。
石鹸も、使ってみなければ分からない。
ただし、使う前に分かる危険もあるし、試す人を選ばなければならないこともある。
サナはその違いを丁寧に考えている。
(私も、何かを試すときには、誰が困るかを考えたいです)
エレナは本を閉じた。
今日はもう十分に読んだ気がした。
そのまま椅子へ座っていると、外からニコの声が聞こえた。
「エレナ、いるー?」
窓から顔を出すと、ニコが道の端に立っていた。
「いますよ。どうしましたか?」
「じいちゃんが、板は今日は動かさないって!」
「そうなのですね」
「でも、黒い虫がいたかもしれない!」
エレナは少し身を乗り出した。
「見たのですか?」
「ううん。草が動いた!」
「風ではありませんか?」
「風かもしれない!」
ニコは少し悔しそうに言った。
「だから、分かんない!」
エレナは笑った。
「では、今日は草が動いたことだけ分かったのですね」
「そう!」
「板の下は見ていないのですか?」
「見てない。じいちゃんが、何度も動かすと虫が逃げるかもしれないって」
「そうですね。前に動かしたときも、小さな虫が二匹ほどいたそうですが、黒い虫と同じかどうかは分かりませんでしたから」
ニコは頷いた。
「また見たいけど、今日はやめとく」
「それでよいと思います」
「エレナは見に来る?」
エレナは少し考えた。
今日は本を読み終え、ほかに急いですることもない。
けれど、今は家の中で休みたい気持ちが強かった。
「今日は行きません」
「そっか!」
ニコは残念そうな顔をしたものの、すぐに笑った。
「じゃあ、また今度!」
「はい。また今度」
ニコは手を振り、ベルの家の方へ走っていった。
エレナはその背中を見送ってから、窓を閉めた。
断っても、次の機会がなくなるわけではない。
それが少しずつ当たり前になってきていることを、エレナは嬉しく思った。
◇
夕方、マーサは干していた洗濯物を取り込み始めた。
エレナも一緒に庭へ出て、朝に干した小さな布を外していく。風がよく通ったおかげで、布はほとんど乾いていた。
「今日はよく乾きましたね」
「ああ。明日も晴れるといいんだけどね」
「雨が続くと困りますか?」
「洗濯物も乾かないし、道も悪くなる。畑には雨が必要だけど、降りすぎても困るんだよ」
マーサは大きな布を畳みながら言った。
「何でも、ちょうどいいところってのは難しいね」
「そうですね」
エレナは布を畳み、籠へ重ねた。
ふと、西の空へ目を向ける。
夕日に照らされた雲が、遠くの山並みの上で淡い赤色に染まっていた。
レグルは今、どこにいるのだろう。
西の荷場で仕事を続けているのかもしれない。
北へ向かう道へ入れたのかもしれない。
あるいは、もう別の仕事のために移動している可能性もある。
エレナには分からない。
ただ、昨日届いた知らせによって、レグルが実際に出発したことだけは知っている。
「西が気になるかい?」
マーサが尋ねた。
「はい。でも、今日は聞きに行きませんでした」
「聞きたくなかったのかい?」
「気にはなりました。ただ、昨日知らせが届いたばかりですから、今日すぐに何か分かるとは限りません」
「そうだね」
「それに、今日はサナさんの木枠を見たり、ユウさんとお話ししたりしました」
「楽しかったかい?」
「はい」
エレナは頷いた。
「レグルさんのことを忘れていたわけではありません。でも、ほかのことも楽しかったです」
マーサは笑った。
「それでいいんだよ」
エレナは籠を持ち直し、マーサと一緒に家へ戻った。
◇
その夜、ユウは自宅の卓で木片を眺めていた。
今日も削っていない。
けれど、手に取ってみると、以前ほど失敗した部分ばかりが気にならなくなっている。
深く削った跡は残っている。
その周囲には、少しずつ手を動かした痕跡もある。
どちらも、自分が作ったものだった。
(これをどうするかは、まだ決めなくていいか)
ユウは木片を棚へ戻した。
昼寝用の椅子は、いつか作りたい。
ただし、今すぐ始めなければならない理由はない。
今日ガルドの畑で運んだ道具も、自分が持てる量だけだった。もっと手伝うことはできたかもしれないが、ガルドが望んでいない仕事まで探す必要はなかった。
エレナも、今日は一緒に畑へ行かなかった。
それでも、道で会えたときには嬉しそうに笑ってくれた。
ユウはその表情を思い出し、少しだけ口元を緩めた。
以前の自分なら、誰かと一緒にいる時間を増やすために、相手の予定へ合わせようとしていたかもしれない。相手が望んでいるかどうかを確かめる前に、何かしてあげられることを探していたかもしれない。
今は、エレナが自分の行きたい場所を選ぶことが嬉しい。
そして、その選択の中に時々自分が入っていることも、嬉しかった。
(明日も会えるかな)
そう思ったが、約束をしに行こうとはしなかった。
会いたくなったら、会いに行けばいい。
エレナが別のことをしたければ、それでもいい。
ユウは灯りを落とし、窓の外へ目を向けた。
村の夜は静かだった。
◇
同じころ、ラウゼンへ向かう北道では、レグルが小さな宿の厩で馬の様子を確かめていた。
西の荷場での仕事を終え、北へ曲がってから半日ほど進んだところで、日が傾き始めたため宿へ入った。雨の影響で道の一部がぬかるんでおり、思ったほど距離は稼げていない。
それでも、馬に無理をさせて夜道を進むつもりはなかった。
荷車の車輪も、今のところ大きな問題はない。
レグルは馬の背を軽く撫で、用意された水を飲ませた。
「明日はもう少し進めるといいがな」
馬が返事をするわけではない。
それでも、レグルは少し笑った。
宿の主人から聞いた話では、ここからラウゼンまではまだ距離がある。道が乾けば進みやすくなるが、途中には細い坂道もあり、荷車の状態によっては時間がかかるという。
レグルは懐から小さな紙を取り出した。
そこには、北梟工房という名前だけが書かれている。
この工房が今もあるのか。
あるとして、どこにあるのか。
誰に尋ねれば分かるのか。
レグル自身も、まだ何も知らない。
ただ、ラウゼンへ向かう道に入った以上、寄れるところまでは行ってみようと思っていた。
宿の主人が厩の入口から声をかけた。
「飯はどうする?」
「食う。馬を見たら行く」
「分かった。冷める前に来いよ」
「ああ」
レグルは紙をしまい、馬の状態をもう一度確かめた。
急いでいる誰かがいるのかもしれない。
けれど、その誰かの事情を詳しく知らないレグルにできるのは、自分の仕事を守りながら、無理のない範囲で頼まれたことを確かめることだけだった。
明日の道がどれほど乾いているかも、まだ分からない。
それでも、今夜はここで休む。
そう決めて、レグルは厩を出た。
◇
エレナは寝る前に、今日の出来事を記録していた。
サナが石鹸を乾かすための木枠をベルへ頼み、実際に作ってもらったこと。
その木枠を使えば必ず硬さが揃うと決まったわけではなく、これから様子を見る必要があること。
前に見せてもらった硬い石鹸については、サナ本人が二度試し、今のところ異常がないものの、妹やエレナはまだ使っていないこと。
そして、自分が預かっている現在の試作品は、今日は使わなかったこと。
エレナはそれぞれを混ぜずに書き分けた。
次に、三軒目の家についての記録を開く。
『本日、新しい知らせなし。レグルさんが西の荷場へ到着したことまでは確認済み。ラウゼンへ向かったかどうかは、引き続き不明。北梟工房、エルドさん、三軒目の家の権利について新情報なし。』
昨日の記録とほとんど変わらない。
それでも、昨日の知らせが消えたわけではない。
新しいことが分からない日にも、すでに分かったことは残っている。
エレナは筆を置き、今日の出来事を思い返した。
朝、マーサと芋を焼いた。
洗濯物を干した。
ベルと一緒にサナのところへ行き、木枠を見た。
ユウと道で会い、少し話した。
ニコに誘われたが、今日は虫を見に行かなかった。
夕方には洗濯物を取り込んだ。
特別な事件が起きたわけではない。
レグルから新しい知らせが届いたわけでもない。
けれど、今日という一日は確かに過ぎた。
(待っている間にも、私はいろいろなことを選んでいるのですね)
エレナは新しい行へ筆を動かした。
『今日は、知らせを待ちながら、別のことも楽しめた。』
少し考え、もう一行を書き足す。
『ユウさんとは短い時間しか会わなかったが、それでも嬉しかった。』
文字を見つめていると、頬が少し温かくなった。
以前なら、こうした気持ちを記録へ残すことにも迷いがあっただろう。
けれど、今は自分が嬉しかったことを、嬉しかったまま書いておきたい。
エレナは記録を閉じた。
窓の外には、静かなルーデの夜が広がっている。
東の警戒線から、新しい音は聞こえない。
西からも、新しい知らせは届いていない。
そのどちらも、すべてが解決したことを意味するわけではなかった。
ただ、今日の自分ができることは、もう十分に終わっている。
エレナは灯りを落とし、寝台へ向かった。
明日も、何かを知る日になるかもしれない。
何も新しく分からない日になるかもしれない。
それでも、今日と同じように、朝になれば自分の一日を始められる。
そのことを、今のエレナは自然に信じられるようになっていた。




