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第84話 届いたのは途中の知らせ


 警戒線が一度だけ鳴った翌朝、エレナが最初に気づいたのは、東の森が静かなことではなく、マーサが台所でいつもより大きな鍋を使っていることだった。


 寝室から出ると、鍋から立ち上る湯気の向こうで、マーサが昨日もらった芋を切っている。ガルドからユウへ渡り、ユウが食べきれない分として持ってきた芋で、昨日はまだ別の野菜があったため使わなかったものだ。


「おはようございます」


「おはよう。ちょうどいいところに起きてきたね」


「何かしますか?」


「そこの芋、あと二つ洗っておくれ。今日は使うから」


「はい」


 昨日は使わなかったものを、今日は使う。


 エレナは籠に残っていた芋を二つ手に取り、水場へ運んだ。表面には乾いた土が残っており、水をかけると薄茶色の筋になって流れていく。


 水場の脇には、サナから預かっている石鹸も置かれていた。


 昨日の夕方に一度使い、夜まで赤みや痒み、痛みは出なかった。今日も使うかどうか一瞬考えたが、今は芋の泥を落とす方へ意識が向いている。


(あとで考えましょう)


 決めずに残し、芋だけを洗った。


 台所へ戻すと、マーサは切った芋を鍋へ入れた。


「昨日は使わなかったのに、今日は使うのですね」


「昨日は昨日だよ。先に食った方がいい野菜があったからね」


「今日は、この芋の方がよいのですか?」


「今日全部使うってわけでもない。昼にも回すかもしれないし、残れば明日でもいい」


 マーサは鍋を混ぜながら、エレナの方を見た。


「食べ物まで、その日に全部片づけなきゃ気が済まないのかい?」


「そこまでではありません」


「ならよし」


 エレナは笑い、器を並べた。


 窓の外では、昨日の雨の名残が少しずつ乾いていた。東の警戒線から新しい音は聞こえず、朝の村には鶏の鳴き声と、誰かが薪を割る乾いた音が響いている。


 昨日の一度きりの反応については、ユウから確認結果を聞いていた。


 外側だけが短く一度反応し、内側には反応がない。以前とは少し違う南寄りの位置で、近くに小さな窪みが一つあったものの、足跡かどうかさえ分からない。人の新しい足跡や明確な大型獣の痕跡、警戒線を越えた証拠も、確認した範囲では見つかっていない。


 原因は、今も分からない。


 それでも、朝になったからといってエレナが東へ見に行く理由はなかった。


「今日は何をするんだい?」


 マーサに尋ねられ、エレナは少し考えた。


「まだ決めていません。ただ、昨日より道が乾いているなら、少し歩きたいです」


「ローデンのところは?」


「……それも、まだ決めていません」


 レグルの出発予定日から、すでに何日かが過ぎている。


 昨日ローデンへ確認した時点では、出発したという知らせも、出発できなかったという知らせも届いていなかった。


 今日なら何か来ているかもしれない。


 そう思うと気にはなる。


 けれど、朝食より先に聞きに行かなければならないほどではなかった。


「まず、食べます」


「それがいいね」


 マーサは鍋から湯気の立つスープを器へよそった。


     ◇


 朝食のあと、エレナは石鹸を使わなかった。


 使いたくないというほどでもなかったが、使いたいとも思わなかったからだ。


 手を水で洗い、布で拭く。


 それだけで十分だった。


「行ってきます」


「どこへ?」


「まだ分かりません」


「そのまま迷子になるんじゃないよ」


「村の中でですか?」


「三十人そこそこの村でも、ぼんやりしてりゃ畑には落ちる」


「気をつけます」


 マーサに笑われながら外へ出た。


 昨日より道はかなり乾いていたが、家の陰や低い場所にはまだ湿った土が残っている。エレナはそこを避けながら、村の中央へ向かってゆっくり歩いた。


 ユウの家へ行くか。


 サナのところへ行くか。


 ガルドの豆を道から見るか。


 あるいはローデンへ、レグルについて新しい知らせがないか尋ねるか。


 どれも、今の自分が選んでもよいものだった。


(ローデンさんのところへ行ってみましょうか)


 今日は聞きたい。


 そう思った。


 昨日のように午後まで待ってから気持ちが変わるのを待つ必要もない。今日は朝の自分が知りたいと思っている。


 エレナがローデンの家へ続く道へ曲がろうとしたとき、向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。


 その人物がローデンだと分かり、エレナは足を止めた。


 ローデンもすぐに彼女へ気づく。


「ちょうどよかった」


 その言葉を聞いた瞬間、エレナの胸が少し強く鳴った。


「私のところへ?」


「ああ」


 ローデンは歩みを緩め、エレナの前まで来た。


「レグルのことで、知らせが来た」


 胸の奥にあった期待が、一気に大きくなる。


 けれどエレナは、すぐに「ラウゼンへ着いたのですか」とは尋ねなかった。


 何が届いたのかは、まだ聞いていない。


「聞いてもよいですか?」


「そのために来た」


 ローデンは周囲を一度見た。


「立ったままでも話せるが、どうする?」


 エレナも周囲を見る。


 道の端には昨日の雨で湿った場所が残っており、少し離れた畑では村人が作業を始めている。


「ここで大丈夫です」


「分かった」


 ローデンは頷いた。


「今朝、西から来た荷車が一台、村の近くを通った。ゼムのところから直接来たわけじゃない。だが、西の荷場でレグルを見た奴から話を聞いてる」


 エレナは息を整えた。


「では……レグルさんは、出発したのですね」


「ああ。そこは確認できた」


 数日前から予定としてしか知らなかったことが、初めて事実へ変わった。


 レグルは出発した。


 自分たちの頼みを受けたまま、西へ向かった。


「いつ、そこへ?」


「予定どおり出たらしい。ただ、雨で道が悪くて進みは遅かったそうだ。西の荷場へ着いたのも、最初の予定より少し遅れたらしい」


「お仕事の荷物は?」


「そこまでは細かく聞けてない。ただ、荷場へ着いたって話だから、まず自分の仕事を進めてるんだろう」


 ローデンはそこで一度区切った。


 エレナは続きを待った。


「ラウゼンへ向かったかどうかは、まだ分からん」


 その言葉に、期待が少しだけ形を変えた。


 落胆ではない。


 むしろ、今分かったことと分からないことの境界がはっきりした。


「荷場へ着いたところまでは分かっている。でも、そこから北へ曲がったかどうかは確認できていない、ということですか?」


「そういうことだ」


「荷物の受け渡しが遅れれば、寄れないかもしれないと聞いていました」


「ああ。だから、まだ『ラウゼンへ行った』とは思わない方がいい」


「はい」


 エレナは頷いた。


 北梟工房についての情報も、当然まだない。


 エルドについても。


 三軒目の家についても。


 それでも一つだけ、確かになった。


「……出発してくださったのですね」


「ああ」


 エレナの口元が、自然に緩んだ。


 頼みを聞いてもらえたことはすでに知っていた。


 けれど、実際にレグルが荷車を進め、西の荷場まで行ったと知ると、その事実には別の重さがあった。


「嬉しいか?」


 ローデンに尋ねられ、エレナは頷いた。


「はい。まだ何も分かっていないのに、少し嬉しいです」


「別にいいんじゃないか」


「ラウゼンへ行けると決まったわけではありません」


「分かってるならいい」


「北梟工房があるとも決まっていません」


「それもそうだな」


「エルドさんへつながるとも、三軒目の家に住めるとも決まっていません」


「そこまで並べると、せっかくの知らせまで暗くなるぞ」


 ローデンが苦笑した。


 エレナは一瞬きょとんとしてから、自分も笑った。


「すみません」


「謝ることじゃない。慎重なのは悪くないが、『出発したのが分かって嬉しい』なら、今日はそこだけ喜んでもいいだろ」


「……はい」


 未来まで確定させなくても、今届いた小さな進展だけを喜ぶことはできる。


「次の知らせは、いつ頃でしょう」


「分からん」


 ローデンは即答した。


「レグルが荷場から北へ行ったとしても、そこからラウゼンまでの道次第だ。寄らなかったなら、帰りに本人から聞くまで何も来ない可能性もある。別の荷運びが拾ってくれば早いかもしれんが、それも約束はできん」


「では、また待つのですね」


「そうなるな」


「分かりました」


 エレナはもう一度頷いた。


「教えてくださって、ありがとうございます」


「今度はちゃんと知らせがあったからな」


「昨日は『分からない』を教えていただきました」


「それまで数えるのか」


「私には必要でしたから」


 ローデンは少し笑った。


「まあいい。何か来たらまた知らせる」


「お願いします」


 エレナは頭を下げた。


 ローデンと別れて数歩歩いたところで、自然と足が止まった。


(ユウさんに話したいです)


 昨日の警戒線の結果を、ユウは自分から話したいと思って届けに来てくれた。


 今度はエレナが話したい。


 義務ではない。


 ユウにも知らせなければならない決まりなどない。


 それでも、レグルが実際に出発したと分かったことを、ユウと一緒に喜びたかった。


 エレナは進む方向を変えた。


     ◇


 ユウの家へ着くと、扉の向こうから小さな物音が聞こえた。


 今日はいる。


 そう分かっただけで、エレナの歩みが少し速くなった。


「ユウさん」


 扉を叩く。


 すぐに足音が近づき、扉が開いた。


「エレナさん。おはよう」


「おはようございます」


 ユウはエレナの顔を見て、少し首を傾げた。


「何かあった?」


「はい」


 エレナは答えたあと、自分の声が普段より少し弾んでいることに気づいた。


「よい知らせです。ただし、全部が分かったわけではありません」


「うん?」


「レグルさんが出発したことが確認できました」


 ユウの表情が変わった。


「本当に?」


「はい。今朝、西から来た荷車の方が、レグルさんを西の荷場で見た人から話を聞いていたそうです。予定どおり出発したことと、雨で少し遅れながらも西の荷場まで着いたことは確認できたと、ローデンさんから聞きました」


「そっか……ちゃんと出たんだ」


「はい」


「ラウゼンは?」


「まだ分かりません」


 エレナはそこを曖昧にしなかった。


「荷場から北へ向かったかどうかは確認できていないそうです。荷物の受け渡しが遅れれば寄れない可能性もありますから、北梟工房についても、まだ何も分かっていません」


「じゃあ、分かったのは出発して、西の荷場まで着いたところまでか」


「はい」


「でも、一個進んだね」


 ユウの言葉に、エレナは笑った。


「私もそう思いました」


 その笑顔を見たユウも、少し嬉しそうに笑った。


「よかったね」


「はい」


 たったそれだけの言葉なのに、胸の奥へやわらかく染み込んでくる。


「ローデンさんにも、まだ先は何も決まっていないのに嬉しいと言いました」


「いいんじゃない?」


「同じことを言われました」


「誰に?」


「ローデンさんにです。未来まで決まっていなくても、今日分かったことだけ喜んでよいだろう、と」


「ローデンさん、いいこと言うな」


「はい」


 ユウは扉の横へ少し体をずらした。


「入る?」


 エレナはすぐには答えず、自分の気持ちを確かめた。


 話したかったことはもう話した。


 それでも、もう少しユウと一緒にいたい。


「入りたいです」


「どうぞ」


 エレナは家の中へ入った。


     ◇


 ユウの卓の上には、例の木片が置かれていた。


 昨日は警戒線が鳴ったことで削る気分ではなくなり、そのままにしたと話していたものだ。


「今日は削っていたのですか?」


 エレナが尋ねると、ユウは首を横へ振った。


「まだ。出して見てただけ」


「削ろうと思って?」


「それも考えてたんだけど、今はもう少しこのままでもいいかなって」


「しばらく削らないと決めたのでは?」


「うん。だから、削らない」


 ユウは木片を手に取った。


「でも、見ちゃ駄目って決めたわけじゃないから」


「なるほど」


 エレナは木片を見る。


 以前より表面は整っているものの、深く削った部分は残っている。


「これを見ていると、椅子を作りたくなるのですか?」


「なる時もある。でも、今日はどっちかっていうと、失敗した跡が残ってても別にいいなって確認してた」


「確認?」


「前だったら、こういうの見ると直したくなってたから。仕事でも何でも、悪いところ見つけたらそのままにしておけないっていうか」


 ユウは指先で、深く削れた部分の少し手前をなぞった。


「でも、ベルさんに言われたみたいに、これを練習で使うなら、失敗した場所が残ってる方が分かりやすいこともあるんだよね」


「次に同じところを削りすぎないためですか?」


「そう。それに、直せないものを無理に元に戻そうとすると、もっと削ることになる」


 エレナはその言葉を聞きながら、木片へ視線を落とした。


 削ってしまった部分は戻らない。


 けれど、それを理由に木片そのものを捨てる必要もない。


「私も、戻せないものがあります」


 気づけば、そう口にしていた。


 ユウは木片からエレナへ視線を移した。


「王都のこと?」


「それもあります」


 エレナは少し考えた。


「婚約していた時間も、家族に認めてもらおうとしていた時間も、なかったことにはできません。私が妹と比べられるたびに苦しかったことも、自分から妹と距離を取ってしまったことも、全部を最初からやり直すことはできません」


 口にすると、胸の奥が少し重くなる。


 それでも、以前のように息が苦しくなるほどではなかった。


「……前は、元に戻れたらと思っていました」


 ユウは何も挟まずに聞いている。


「婚約破棄を取り消してもらえたら。お父様やお母様に認めてもらえたら。私が悪くなかったと分かってもらえたら。そうしたら、失ったものを元へ戻せるのではないかと思っていました」


「今は?」


 静かな問いだった。


 エレナは窓の外を見た。


 小さな村の道がある。


 王都の整えられた石畳とは違い、雨が降れば泥が残り、晴れれば土埃が立つ道だ。


「今は……戻らなくてもよいものがあると思っています」


 その言葉を口にすると、不思議なくらい胸の奥が静かだった。


「全部を取り戻さなくても、ここで新しく欲しいものを選べるのだと思います」


 ユウは少しだけ目を細めた。


「三軒目の家とか?」


「はい」


「石鹸とか」


「それは欲しいというより、試しています」


「そっか」


「でも、使えるものになったら嬉しいです」


 ユウが笑う。


 エレナも少し笑ってから続けた。


「マーサさんと食べるご飯も、サナさんと話すことも、ニコさんの虫の話も、ガルドさんの豆も、ベルさんに教えていただくことも……以前の生活にはありませんでした」


「うん」


「それから、ユウさんに会いたいと思うことも」


 言ってから、エレナの頬が少し熱くなった。


 けれど、言葉を引っ込めたいとは思わなかった。


 ユウもすぐには答えない。


 木片を持っていた手がわずかに止まり、それからゆっくり卓へ戻された。


「俺も、前の生活に戻りたいとは思わないかな」


「お仕事が嫌いだったからですか?」


「仕事そのものは、嫌いじゃなかった」


 ユウは以前にも話したことを、少し違う言葉で続けた。


「できなかったことができるようになった人を見るのは嬉しかったし、少し手伝えば自分でできる人に、全部やっちゃうのは違うって思ってた。そういうところは今も好きなんだと思う」


「では、何が嫌だったのですか?」


「終わらなかったことかな」


 ユウは窓の外へ視線を向けた。


「夜勤して、記録して、何かあれば報告して、委員会があって、後輩に教えて、家族に説明して、また夜勤して。誰かが休めば埋めて、人が足りなければ頑張って、それでも足りないと『もっとできるだろ』ってなる」


 エレナは黙って聞いた。


「一個終わっても、次がある。休んでても、何か忘れてないか考える。自分がやらなかったことで誰かが困ったら嫌だから、結局やる。そうしてるうちに、自分が何をしたいかより、何をしなきゃいけないかばっかりになった」


「……苦しかったのですね」


「うん。でも、そのころは苦しいって認めるのも嫌だった」


「なぜですか?」


「俺より大変な人がいたから」


 ユウは苦笑した。


「利用者さんの方が大変だとか、子どもがいる職員の方が休めないとか、もっと長く働いてる人もいるとか。比べたら、自分はまだ大丈夫だって思おうとしてた」


 エレナはその言葉に、かつての自分を少し重ねた。


 妹の方が優秀だから。


 王太子の婚約者なのだから。


 公爵家の娘なのだから。


 自分より苦しい立場の者もいるのだから。


 そうやって、自分が苦しいと言う資格を探していた。


「苦しいことにも、比べる必要があったのですか?」


「今なら、なかったと思う」


「私もです」


 エレナは膝の上で手を重ねた。


「妹が優れていることと、私が傷ついていたことは、本当は別だったのだと思います」


「うん」


「妹が悪くなくても、私は苦しかった。それを言ってもよかったのかもしれません」


 まだ妹に会いたいかどうかは分からない。


 王都で自分の追放後に妹が何をしたのかについても、断片的な噂しか知らない。


 だから、今ここで妹との関係に答えを出すことはできなかった。


 それでも、自分の苦しさを妹の才能と競わせる必要はなかったのだと、少しずつ思えるようになっている。


「戻らなくていいものがあるって、そういうことかもね」


 ユウが言った。


「はい」


「でも、戻したいものが出てきたら?」


 エレナは考えた。


「そのとき考えます」


 ユウが笑った。


「それ、強いな」


「そうでしょうか」


「前よりずっと」


 強いと言われても、以前ほど「強くあり続けなければ」とは思わなかった。


「今日は強くても、明日は弱いかもしれません」


「それでもいいんじゃない?」


「はい」


 今度はエレナが先に笑った。


「そうだと思います」


     ◇


 ユウの家を出たあと、エレナはマーサの家へ戻る前に少しだけ遠回りした。


 途中、例の板の近くでニコを見つける。


 今日はしゃがみ込まず、少し離れたところから板を眺めていた。


「こんにちは、ニコさん」


「エレナ!」


「今日は虫がいましたか?」


「まだ見てない!」


「板は?」


「動かしてないよ。じいちゃんが毎日動かすなって言ったから」


 ニコは得意そうに胸を張った。


「昨日も動かしていませんでしたね」


「うん。今日も!」


「では、今日は何をするのですか?」


「ちょっと見るだけ」


「どのくらい?」


 ニコは空を見た。


「分かんない」


「飽きるまでですか?」


「たぶん!」


 エレナは笑った。


「それもよいと思います」


「エレナも見る?」


 誘われて、エレナは板を見た。


 今は虫の姿はない。


 昨日なら、レグルの知らせを待つ気持ちの方が強く、長くここにいる気にはならなかったかもしれない。


 今日は一つだけ知らせが届いた。


 だからというわけではないが、今は少しここにいたい。


「少しだけ、一緒に見てもよいですか?」


「いいよ!」


 二人は板から少し離れた場所に立った。


 ニコは何度か草の間を覗き込んだが、板へ手を伸ばすことはない。


「黒いやつ、どこ行ったんだろうな」


「分かりません」


「板の下じゃなかったのかな」


「それも分かりません」


「昨日の小さいやつは?」


「私は見ていません。ニコさんは、前に見た黒い虫より小さかったと言っていましたね」


「うん。全然ちっちゃかった」


「では、同じ虫だったかどうかも分かりませんね」


「分かんないことばっかりだな」


 ニコが不満そうに言った。


 エレナは少し考える。


「嫌ですか?」


「ちょっと」


「それでも見ますか?」


「見る」


「なぜでしょう」


 ニコは難しい顔をした。


「見たいから」


 答えは単純だった。


 エレナは笑った。


「それなら、十分ですね」


「エレナも見たいの?」


「今は、少しだけ」


「じゃあ一緒だ!」


「はい。今は一緒です」


 しばらく待ったが、黒い虫は現れなかった。


 ニコの方が先に飽きた。


「もういいや」


「帰りますか?」


「じいちゃんとこ行く」


「では、私はマーサさんのところへ戻ります」


 二人は板をそのままにして別れた。


 今日も虫について新しい答えはない。


 けれど、それで困ることもなかった。


     ◇


 昼食には、朝に使った芋の残りが入った煮込みが出た。


 マーサはエレナが戻ると、レグルについて聞くより先に器を渡してきた。


「まず食いな」


「はい」


 エレナは席へ着いた。


 一口食べてから、今朝の知らせを話す。


「レグルさんは、予定どおり出発していたそうです」


 マーサの手が止まった。


「確認できたのかい?」


「はい。雨で少し遅れたそうですが、西の荷場まで着いたことは分かりました。ただ、そこからラウゼンへ向かったかどうかはまだ分かりません」


「そうかい」


「北梟工房についても、まだ何も分かっていません」


「でも、一個進んだじゃないか」


 ローデンとユウに続いて、マーサまで同じことを言った。


 エレナは思わず笑う。


「みなさん、同じことを言います」


「当たり前だろ。出たかどうかも分からなかったのが、出たって分かったんだから」


「はい」


「それで嬉しいなら、嬉しい顔して食いな」


「嬉しい顔をしていましたか?」


「朝よりしてるよ」


 エレナは自分の頬へ触れた。


「ユウさんにも話しました」


「そうだろうと思った」


「なぜですか?」


「顔見りゃ分かる」


「そんなに分かりやすいでしょうか」


「最近はね」


 マーサは煮込みを食べながら、少しだけ笑った。


「前は嬉しいことがあっても、先に『でも』を十個くらいつけてたからね」


 エレナは言葉に詰まった。


 たしかに今朝も、ローデンへ北梟工房もエルドも家もまだ分からないと並べてしまった。


「今も、少しつけています」


「少しならいいさ。先のことまで決まったみたいに喜ぶのも違うからね」


「はい」


「でも、嬉しいところまで消す必要はない」


 エレナは頷いた。


 出発した。


 西の荷場まで着いた。


 今日は、それだけを喜べる。


     ◇


 午後、村の東側ではケルとドランが警戒線の状態をもう一度確認していた。


 昨日一度だけ反応した地点に、新しい痕跡は増えていない。


 小さな窪みは乾き始め、輪郭がさらに崩れていた。


「消えるな」


 ドランが言う。


「ああ」


 ケルはしゃがみ込み、地面へ触れずに目だけで確認した。


「昨日のうちに見といて正解だった。ただ、見たからって正体が分かったわけじゃないがな」


「今日、新しい跡は?」


「今のところ見つからん」


「線は?」


「問題なし。少なくとも、昨日から壊れた場所はない」


 ドランは森の方へ視線を向けた。


 木々の奥は、昼でも暗い。


「追わないか」


「追わん」


 ケルの答えは早かった。


「新しい材料がないのに森へ入っても、見つけたいものを見つけた気になるだけだ」


「前の獣の跡を探したくなるけどな」


「探したいから探すなら、調査じゃなくなる」


 ドランは少し笑った。


「お前、たまにローデンより固いな」


「お前が柔らかすぎる」


 二人はそれ以上範囲を広げなかった。


 昨日の一度の反応は、昨日の一度の反応として記録に残っている。


 今日何も見つからなかったからといって、昨日の反応が無意味になるわけではない。


 同時に、昨日鳴ったからといって、今日も何かがいると決める理由にもならなかった。


     ◇


 夕方近く、エレナは水場で石鹸を手に取った。


 朝は使わなかった。


 今は、使ってみたいと思った。


 昨日も夕方に使ったため、同じ時間になったことへ一瞬気づいたが、「昨日と同じ時間だから今日も」という理由ではない。


 庭の土に少し触れ、手を洗いたいと思ったからだ。


 石鹸を濡らし、手のひらで軽く転がす。


 泡立ちはこれまでと変わらない。


 指の間まで洗い、水で十分に流した。


 すぐに痛みや刺激はない。


 エレナは布で手を拭き、しばらく状態を見てから家へ戻った。


「今日も使ったのかい?」


 マーサが尋ねる。


「はい。朝は使いませんでしたが、今は使いたかったので」


「そうかい」


「昨日と同じ夕方になりました」


「だから?」


「いえ。それだけです」


「ならそれだけにしときな」


「はい」


 何かが二度続いたからといって、それを決まりにしなくてもよい。


     ◇


 夜、エレナは記録を開いた。


 最初に書いたのはレグルのことだった。


『ローデンさんから新しい知らせ。レグルさんは予定どおり西へ出発していたことを確認。雨で進みは遅れたが、西の荷場まで到着したとの伝聞あり。ただし、そこからラウゼンへ向かったかどうかは未確認。北梟工房についての情報なし。エルドさんについての情報なし。三軒目の家の権利について新情報なし。』


 最後まで書いてから、エレナは少し考えた。


 知らないことの方が多い。


 それでも、昨日までの記録とは違う。


『出発したことが分かって、嬉しかった。』


 その一文を、消さなかった。


 次に石鹸を書く。


『夕方、現在の試作品を一度使用。現時点で赤み、痒み、痛み、刺激なし。サナさんの固い別試作品とは混同しない。』


 警戒線については、新しい知らせを自分が直接聞いたわけではないため、昨日の記録へ勝手な追記はしなかった。


 ニコの虫についても、今日は観察中に見つからなかっただけで、それ以上は書く必要がないように思えた。


 最後に、今日ユウと話したことを思い返す。


 戻せないもの。


 戻さなくてもよいもの。


 過去に失ったものを、すべて元の形へ戻す必要はないのかもしれない。


 その考えは、まだ完全に自分の中へ馴染んだわけではない。


 王都のことを思えば痛む。


 家族を思えば、今も答えが出ない。


 妹のことを考えれば、会いたいのか会いたくないのかさえ決められない。


 それでも、三軒目の家に住みたい。


 ルーデにいたい。


 ユウに会いたい。


 その願いは、失ったものの代わりとして選んだわけではなかった。


(代わりではないのですね)


 エレナは筆を取った。


『なくしたものの空いた場所へ、別のものを詰めているのではない。』


 そこまで書いて、少し止まる。


『今の私が欲しいものを、新しく選んでいる。』


 文字を眺めていると、胸の奥がゆっくり温かくなった。


 そのころ、西のどこかでレグルが何をしているのか、エレナは知らない。


 ラウゼンへ向かうことができたのかもしれない。


 まだ荷場にいるのかもしれない。


 すでに寄ることを諦め、仕事を続けている可能性もある。


 分からない。


 けれど今日は、昨日まで分からなかった一つが分かった。


 それだけで十分に嬉しい日だった。


     ◇


 同じ日の夕方、西の荷場では、レグルが荷台の綱を締め直していた。


 予定していた荷の受け渡しは、雨の影響で半日近く遅れていた。


 相手側の荷車がぬかるみに取られ、到着が遅れたためだ。


 レグル自身も道中で時間を失っている。


 荷場の責任者が帳面を閉じながら、彼へ声をかけた。


「今日はここで泊まるか?」


「いや。北へ少し進む」


「ラウゼンか?」


「行けるところまでだ」


 レグルは短く答えた。


 荷の受け渡しが終わった以上、次の仕事までには少し余裕がある。


 十分な余裕とは言えない。


 だが、ラウゼンへ寄って戻ることが絶対に不可能なほどでもなかった。


「昨日の雨で北道も悪いぞ」


「知ってる」


「暗くなる前に宿まで入れよ」


「そのつもりだ」


 レグルは荷台の端へ挟んでいた小さな紙を取り出した。


 そこに書かれているのは、たった一つの名前だけだ。


『北梟工房』


 誰が待っているのかも知らない。


 何のためにその工房を探すのかも、詳しくは聞いていない。


 ゼムから頼まれたのは、もしラウゼンへ寄れるなら、その名前の工房が今もあるか、あるいは知っている者がいるかを尋ねることだけだった。


「行けるなら、行くか」


 レグルは紙をしまった。


 誰かの人生を背負うつもりはない。


 荷仕事を捨てるつもりもない。


 それでも、自分の道から少し北へ曲がるだけで確かめられるのなら、そのくらいはしてもよいと思った。


 馬の状態を確かめ、水を飲ませる。


 自分も簡単に腹へ入れてから、荷車へ乗り込んだ。


 車輪がゆっくり回り始める。


 西へ続いていた街道から、やがて道は二つに分かれた。


 一方はそのまま西へ。


 もう一方は、少し細くなりながら北へ伸びている。


 レグルは手綱をわずかに動かした。


 荷車は北へ向かう道へ入った。


 ルーデでは、エレナがまだ「ラウゼンへ向かったかどうかは分からない」と記録している。


 その認識は、彼女が今持っている情報として正しい。


 けれど、彼女の知らない場所では、三軒目の家へ続く細い糸が、ほんの少しだけ北へ曲がっていた。

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