第83話 静かな音のあと
雨の翌朝、ルーデの空には久しぶりに青い色が戻っていた。
夜のうちに雲が流れたらしく、東の森の上には薄い雲が少し残っているだけで、家々の屋根には朝日が明るく落ちている。道の端には昨日の水たまりが残り、低い場所では土がまだ柔らかそうだったが、風には雨上がりの湿った匂いと一緒に、乾き始めた草の匂いも混じっていた。
エレナはマーサの家の前へ出ると、軒下で一度立ち止まった。
今日は石鹸をまだ使っていない。
昨日使ったあとも夜まで異常はなかったが、朝食の前に手を洗ったときには普通の水だけで十分だと思ったため、そのままにしていた。
(あとで使いたくなったら使いましょう)
それだけ決め、庭先へ目を向ける。
マーサは家の横で乾燥させていた草を確認していた。昨日は雨が吹き込まない場所へ移してあったため濡れてはいないようだが、束を一つずつ持ち上げては、指先で状態を確かめている。
「何か手伝いますか?」
エレナが尋ねると、マーサは草の束から顔を上げた。
「今はいいよ。こいつは触りすぎると葉が落ちるからね」
「分かりました」
「断られて残念かい?」
唐突な問いに、エレナは少し考えた。
「少しだけ」
「少しは残念なんだね」
「はい。でも、手伝わなくてよいなら、それでよいとも思っています」
マーサは満足したように頷き、また草へ視線を戻した。
「じゃあ、あんたはあんたのことをしな」
「そうします」
エレナは家へ戻ろうとして、ふと村の東へ顔を向けた。
何かが聞こえたわけではない。
ただ、昨日の雨を思い出しただけだった。
雨のあとには、森の近くに残っていた足跡や草の倒れ方が変わることがある。以前にも、雨のあとに分からなくなった痕跡や、逆に濡れた地面だからこそ見つかったものがあった。
けれど、それを理由に自分で東へ確かめに行くつもりはなかった。
警戒線を確認する者は別にいる。
自分が見に行けば安心できるとは限らず、かえって誰かに気を遣わせる可能性もある。
エレナは東から視線を外し、今度こそ家へ入ろうとした。
そのときだった。
遠くから、短い音が一度だけ聞こえた。
エレナの足が止まった。
高く鋭い音ではない。
聞き慣れ始めた警戒線の音だった。
長くは続かず、すぐに消える。
マーサも草の束から顔を上げていた。
「鳴ったね」
「はい」
エレナは東を見る。
胸の奥が少しだけ強く脈打ち始めた。
音がした。
それ以上のことは、まだ何も分からない。
(外側でしょうか)
そう考えた直後、エレナは自分で答えを止めた。
家から聞いただけでは、どの位置の警戒線が反応したのか確実には分からない。以前の音と似ているようにも感じるが、それだけで外側だと決めることはできなかった。
「見に行きますか?」
思わず口にしたあと、エレナは自分が誰に尋ねたのか分からなくなった。
マーサは草の束を元の場所へ戻した。
「あたしに聞いてるのかい?」
「……自分にも、だと思います」
「なら、自分で答えな」
マーサはそれ以上何も言わなかった。
エレナは東を見たまま考えた。
気になる。
何が警戒線へ触れたのか知りたい。
以前の獣に似たものなのか、ただの動物なのか、それとも風や雨の影響なのか。
しかし、知りたいことと、自分が確かめに行くべきことは同じではない。
「私は、行きません」
やがてエレナは言った。
「そうかい」
「でも、結果は知りたいです」
「それなら、見に行く奴が戻ってから聞けばいい」
「はい」
そう答えた直後、道の向こうから足音が聞こえた。
ドランだった。
森仕事に使う上着を着ており、東へ向かっている。エレナとマーサに気づくと、歩みを少し緩めた。
「今の、聞こえたか?」
「はい」
「俺は見てくる。ケルにも声かけるから、あんたらはいつもどおりでいい」
「お願いします」
エレナが答えると、ドランは短く頷いた。
彼はそのまま東へ向かっていく。
エレナは背中を見送ったが、追いかけなかった。
自分が知りたいからといって、調べる人の後ろについていく必要はない。
「家へ入ります」
「そうしな」
マーサの返事を聞き、エレナは扉を開けた。
◇
ユウが警戒線の音を聞いたのは、自宅で例の木片を手にしているときだった。
朝から削っていたわけではない。
昨日ベルから返された木片を卓上に置き、今日は触るかどうか考えていただけだった。
深く削りすぎた跡は、まだ残っている。
表面は以前より滑らかになっているが、形としては不格好なままだ。
その木片へ手を伸ばしかけたところで、遠くから短い警戒音が届いた。
ユウは窓の外へ目を向けた。
「鳴ったか」
反射的に立ち上がりかけたが、そこで一度止まった。
警戒線が鳴ったからといって、自分が必ず最初に現場へ行かなければならないわけではない。
以前から実際の痕跡確認はケルやドランの方が得意で、ローデンも必要に応じて状況をまとめている。ユウの《魔導書庫》が役立つ場合はあるものの、警戒線が一度鳴っただけで魔法を使う必要があるとも限らなかった。
(でも、何かあれば呼ばれるか)
そう考え、いったん椅子へ座り直した。
木片へ再び目を落とす。
削りたいかと自分へ問いかけてみたが、今は警戒線の方が気になって集中できそうにない。
「今日はやめとくか」
木片を棚へ戻した。
削れないから失敗なのではなく、今は削りたくないだけだ。
ユウが外へ出ようと上着を取ったところで、扉を叩く音がした。
「ユウ、いるか?」
ローデンの声だった。
「いるよ」
扉を開けると、ローデンが立っている。
「悪い。東、来てもらえるか」
「何かあった?」
「まだ分からん。外側の線が一回だけ鳴った。ケルとドランが見てるが、雨のあとで地面が柔らかい。確認する人数を少し増やしたい」
「分かった」
頼まれたなら行く。
ユウは戸締まりをして、ローデンと並んで東へ向かった。
◇
エレナは家の中で『暮らしの小さな工夫』を開いていた。
けれど、同じ行を三度読んだところで、自分がほとんど内容を覚えていないことに気づいた。
「気になるなら、本はやめときな」
マーサが向かいから言う。
「読んでいるつもりでした」
「目だけ動いてたよ」
エレナは本を見下ろした。
たしかに今の自分は、読みたいから読んでいたのではない。
何かをしていなければ落ち着かないから、本を開いていただけだった。
「閉じます」
「そうしな」
栞を挟み、本を閉じる。
警戒線が鳴ってから、それほど時間は経っていない。
ドランはもう東へ着いただろうか。ケルも一緒なのだろうか。ローデンはどうしているのか。
そして、ユウは。
(ユウさんも行ったのでしょうか)
分からない。
家にいる可能性もある。
自分と同じように、誰かから結果を聞くまで待っている可能性もある。
気になるからといって、今からユウの家へ行って確認しようとは思わなかった。
その代わり、エレナは卓の上に両手を置いた。
「何もしないで待っていてもよいでしょうか」
「誰に許可を取ってるんだい?」
マーサが呆れたように言う。
「……マーサさんに、でしょうか」
「あたしは困らないよ」
「では、そうします」
エレナは窓の近くの椅子へ移った。
何か仕事を探さない。
本も読まない。
警戒線の方をずっと見張ることもしない。
ただ椅子へ座り、外の光を眺めた。
しばらくすると、道を歩く村人が一人見えた。警戒線の音を聞いたらしく東を気にしているが、向かってはいかない。
別の家からは、洗った布を干し始める人の姿が見える。
警戒線が鳴っても、村全体がすべての暮らしを止めるわけではない。
確認する者が確認している間、ほかの者は自分の生活を続ける。
(私は、待っていてよいのですね)
胸の奥に残る落ち着かなさは消えていない。
それでも、その落ち着かなさを消すためだけに何かを始めなくてもよかった。
◇
東の外側警戒線付近では、ケルがしゃがみ込んで濡れた地面を見ていた。
雨が上がってからそれほど時間が経っていないため、土は柔らかい。線の外側には草が生え、ところどころ雨粒がまだ葉先に残っている。
ドランは少し離れた場所から周囲を見回していた。
「こっちだ」
ケルが指した。
ユウとローデンが近づく。
地面には、小さな窪みが一つあった。
はっきりした足跡とは言いにくい。
雨で柔らかくなった土の一部が押されたようにも見えるが、形が崩れている。
「これが原因?」
ユウが尋ねる。
「分からん」
ケルは即答した。
「線が鳴った場所には近い。ただ、これだけで何かが踏んだとは言えない」
「獣っぽい?」
「それもまだ言えん。爪の跡も、蹄の割れも見えない。人の靴跡にも見えん」
ケルは立ち上がらず、少し横へ移動した。
「昨日の雨で土が緩んだだけかもしれんし、小さい動物が踏んで崩れたのかもしれん。線に触れたものと、これが同じとも限らん」
ユウは周囲を見た。
以前、獣らしい不完全な足跡が見つかった場所とは少し離れている。
「前に鳴った場所と同じ?」
ローデンが尋ねる。
「同じじゃない。今日はもう少し南だ」
ケルが答えた。
「だから前のやつが移動した、とか言うなよ」
「まだ言ってないだろ」
「言う前に止めた」
ドランが小さく笑った。
ユウも思わず口元を緩めたが、すぐに外側の草へ視線を戻す。
「ほかに跡は?」
「今のところない」
ドランが答える。
「俺は北側を少し見た。人の足跡らしいものはない。獣のは……小さいのならあるが、昨日より前か今朝かまでは分からん」
「線を越えた跡は?」
「見つけてない」
「内側は鳴ってない?」
ローデンが確認すると、ドランは頷いた。
「鳴ってない」
つまり、今分かっているのは外側の警戒線が一度だけ短く反応したことだけだった。
その近くに形の崩れた窪みが一つある。
それが何なのかは分からない。
人が来た証拠もない。
以前から確認されている獣と同じものが来た証拠もない。
線を越えた証拠もない。
ユウは警戒線そのものへ目を向けた。
「壊れてるところは?」
「見た範囲じゃない」
ローデンが線の状態を確かめながら答える。
「雨のあとだから、今日は線そのものも少し見ておく。反応が鈍くなったり、逆に変なところで鳴ったりするなら、その可能性も考えなきゃならん」
「誤反応の可能性もあるってこと?」
「可能性ならな。ただ、今それだと決める材料もない」
「了解」
ユウは頷いた。
分からないものを、分かる形へ急いで押し込まない。
以前の自分なら、原因を絞り込むために何か追加で試したくなっていたかもしれない。
けれど警戒線は、試験のために鳴らす道具ではない。
今は壊れていないかを確認し、見つかったものを記録しておけばいい。
「森の中までは追わないぞ」
ケルが言った。
「この程度で追う理由はない」
「そうだな」
ローデンも同意する。
「もう少し周りを見て、何もなければ戻る。ユウもそれでいい」
「分かった」
ユウは勝手に調査範囲を広げなかった。
◇
確認が終わったころには、日がかなり高くなっていた。
結果は増えなかった。
外側警戒線が一度だけ短く反応。
内側の反応なし。
反応位置は以前の場所とは異なり、今回はやや南寄り。
近くに形の崩れた小さな窪みが一つあるが、足跡かどうか不明。
人の新しい足跡は確認できない。
明確な大型獣の足跡も確認できない。
線を越えた痕跡なし。
警戒線に目立った損傷なし。
森へ入っての追跡はしない。
ローデンが見張り帳へ残す内容を確認すると、ケルが一つだけ言い直した。
「『大型獣の足跡なし』じゃなくて、『確認した範囲では明確な大型獣の足跡なし』にしとけ。見てない場所までないとは言えん」
「分かった」
ローデンが頷く。
ユウはそのやり取りを聞きながら、エレナのことを思い出した。
結果を知りたいだろう。
けれど、だからといって自分が真っ先に報告しなければならないわけではない。
ローデンから伝わるかもしれない。
エレナ自身が聞きに来るかもしれない。
(でも、俺は話したいかな)
そう思った。
義務だからではない。
警戒線の結果を知らせる役目を任されたからでもない。
自分がエレナへ話したい。
「ローデンさん」
「なんだ?」
「エレナさんに、俺から話してもいい?」
「構わん。ただし、分からんところを勝手に埋めるなよ」
「うん」
「前の獣と同じとか、雨のせいだとかも決まってない」
「分かってる」
ローデンは頷いた。
「ならいい」
◇
昼前、マーサの家の扉が叩かれた。
エレナは椅子から立ち上がった。
警戒線が鳴ってから、本を開くことも仕事を探すこともせず、しばらく窓辺で過ごしていた。途中でマーサとお茶を飲み、少しだけ話したものの、それ以外は何もしていない。
それでも、時間はちゃんと過ぎていた。
「はい」
扉を開ける。
ユウが立っていた。
靴の下には湿った土が少しついている。
それを見ただけで、エレナには彼が東へ行っていたのだろうと分かった。
「ユウさん」
「ただいま……じゃないな。こんにちは」
言い間違えたユウに、エレナは少し笑った。
「こんにちは。東へ行っていたのですか?」
「うん。ローデンさんに呼ばれて」
「中へ入りますか?」
エレナはそう尋ねてから、すぐに言葉を付け足した。
「私は、入っていただきたいです」
ユウは一瞬だけ目を丸くした。
「じゃあ、お邪魔しようかな」
「はい」
エレナは扉を広く開けた。
マーサは卓の向こうから二人を見た。
「戻ったのかい」
「うん。大きなことはなかったよ。少なくとも、今確認できた範囲では」
「なら座って話しな。エレナが朝から気にしてたからね」
「マーサさん」
「気にしてたのは本当だろ」
「……はい」
否定できず、エレナはユウと一緒に卓へ座った。
ユウはすぐに結論だけを言わず、何が確認できたのかを順番に話した。
「鳴ったのは外側の警戒線だった。一回だけで、短い反応。内側は鳴ってない」
「はい」
「場所は、前に鳴ったところとは同じじゃない。今日は少し南側だった」
「では、以前のものとは違うのでしょうか」
「そこは分からない」
ユウはすぐに答えた。
「同じものが場所を変えたのかもしれないし、全然別かもしれない。そもそも今日は、何が線を鳴らしたのかも分かってない」
エレナは頷いた。
「何か跡はありましたか?」
「近くに、小さい窪みが一つあった。でも足跡かどうかも分からない。雨のあとで土が柔らかいから、崩れただけかもしれないし、小さい動物が踏んだのかもしれない。警戒線を鳴らしたものと、その窪みが関係あるかも分からない」
「人の足跡は?」
「確認した範囲では、新しい人の足跡は見つかってない」
「獣は?」
「はっきり大型の獣だって言える跡も、確認した範囲では見つかってない」
ユウが「確認した範囲では」と言い直したことに、エレナは気づいた。
「ケルさんに言われましたか?」
「分かる?」
「以前も、見ていないところまで『ない』とは言えないと話していましたから」
「正解。ローデンさんも書き方直されてた」
少しだけ空気が緩んだ。
エレナは胸元で重ねていた手の力を抜いた。
「警戒線は壊れていないのですか?」
「見た範囲では目立った壊れ方はしてない。ただ、雨のあとだから、線そのものの状態も少し見るって。誤反応だった可能性もなくはないけど、それもまだ決められない」
「森へは?」
「入ってない。追いかける理由がないって」
そこまで聞いて、エレナは息を吐いた。
安心した。
けれど、「何もなかった」と言い切れる結果ではない。
「ありがとうございます」
「俺が調べたっていうより、ケルさんとドランさんがほとんど見てくれたんだけどね」
「それでも、話しに来てくださったことへのお礼です」
ユウは少しだけ黙った。
「話したかったから来たんだ」
「はい」
「ローデンさんから聞くかもしれないとは思ったけど、それでも俺から話したかった」
エレナの表情が自然に柔らかくなった。
「嬉しいです」
「そっか」
「でも、もしユウさんが疲れていて、今日は話したくなかったなら、ローデンさんから聞いてもよかったと思います」
「うん」
「話したい時に来てくださる方が、私は嬉しいです」
「俺もその方がいいかな」
そこで会話が途切れた。
けれど、以前のように何かを言い足さなければならないとは思わなかった。
マーサが立ち上がり、湯を沸かし始める。
「昼までいるなら、茶くらい飲みな」
「ありがとう」
ユウが答える。
エレナは少し迷ってから、警戒線とは別のことを尋ねた。
「今日は、木を削りましたか?」
「削ってない」
「そうなのですか?」
「朝、削ろうかなと思って木を見てたところで警戒線が鳴った。そのあと気になって、今日はもう削る気分じゃなくなった」
「では、途中のままですね」
「うん。相変わらず途中」
「椅子も?」
「そっちは始まってもない」
ユウが笑う。
「いつになるんでしょうね」
「俺が聞きたい」
「でも、作ると言ったのはユウさんです」
「そうなんだよなあ」
マーサがお茶を持ってきながら鼻で笑った。
「作りたいならそのうち作るだろ。作りたくなくなったなら、椅子じゃないもんにすりゃいい」
「それもあり?」
「木に聞きな」
「木は答えないと思う」
「じゃあ自分で決めな」
ユウが困ったように笑い、エレナも笑った。
警戒線が鳴った朝だった。
それでも、そのあとの卓では椅子の話ができる。
そのことが、エレナには少し嬉しかった。
◇
昼食前にユウは帰った。
今日はマーサの家で食べるつもりではなかったらしく、自分の家に昨日の残りがあるという。
「一緒に食べますか?」
エレナは一度だけ尋ねた。
ユウは少し考えてから首を横へ振った。
「今日は家で食べるよ。食べないと残りが悪くなりそうだから」
「分かりました」
「また今度」
「はい。また今度」
断られても、胸の奥が沈むことはなかった。
一緒に食べたいと思って尋ねた。
ユウは今日は家で食べたいと答えた。
それだけのことだった。
扉の前で見送ると、ユウは少し歩いてから振り返った。
「エレナさん」
「はい?」
「東のこと、気になると思うけど、もしまた何かあったら必要な人が見るから」
「はい」
「……って、言わなくても分かってるか」
ユウが苦笑する。
エレナは少し考えた。
「分かっています。でも、言っていただけるのも嫌ではありません」
「そっか」
「ただし、私が自分で確かめに行こうとしていると決めつけられたら、少し嫌です」
「それは気をつける」
「お願いします」
エレナが笑うと、ユウも笑った。
今度こそ彼は自宅へ戻っていった。
◇
午後になっても、警戒線がもう一度鳴ることはなかった。
ローデンから追加の知らせも来ない。
エレナは昼食のあとで少しだけ本を読み、今度は内容がきちんと頭に入った。途中で読むのをやめて外へ出ると、道は朝より乾いている。
ガルドの畑の近くでは、例の豆が支柱に沿って立っていた。
エレナは畑へ入らず、道から眺めるだけにする。
昨日ベルが緩めた紐も、その位置にある。
見ただけでは何も問題があるようには思えないが、だからといって自分で触る必要はなかった。
「見るだけか?」
畑の向こうからガルドが声をかけてきた。
「はい。今日は見るだけです」
「なら見てけ」
「よいのですか?」
「見るくらい減るもんじゃない」
エレナは笑った。
「今朝、警戒線が鳴りましたね」
「ああ。聞こえた」
「ガルドさんは、見に行かなかったのですか?」
「俺が行って何すんだ」
あまりにも即答だった。
「畑のことなら俺が見りゃいい。森の跡ならケルたちが見た方が早い」
「気になりませんでしたか?」
「気にはなったぞ」
「それでも?」
「気になるのと、俺が行くのは別だろ」
ガルドは土の状態を確かめながら言った。
「こっちにはこっちで、雨のあとに見とくもんがあるからな」
エレナは豆を見る。
警戒線が鳴ったとき、ガルドは畑を放り出して東へ走らなかった。
だからといって、村の安全を気にしていないわけではない。
自分が見るべきものと、他の人へ任せるものが違うだけだった。
「今日は土が濡れていますね」
「昨日降ったからな。今は水やらんでいい」
「いつもと違うのですね」
「晴れた日と雨の次の日に同じだけ水やってどうする」
ガルドは笑った。
「豆だって毎日同じじゃねえよ」
また似たようなことを聞いた気がして、エレナも笑った。
◇
夕方、サナがマーサの家へやってきた。
手には布で包んだ小さなものを持っている。
「エレナ、いる?」
「はい」
エレナが出ると、サナはまず彼女の手を見た。
「今日、使った?」
「まだです」
「昨日は?」
「朝に一度使いました。夜まで何もありませんでした」
「乾いた感じは?」
「ありません」
「痒みも痛みも?」
「はい」
サナは頷いた。
「じゃあ、今の分はまだ続けて大丈夫そうね。使いたい日に一回までで」
「分かりました」
エレナはサナの手にある包みを見た。
「それは、新しい石鹸ですか?」
「うん。前に見せた固めの方」
サナは包みを少し開いた。
以前見たものより角がはっきりしており、表面も硬そうに見える。
「私が昨日、一回使ってみたの。今のところは何もない」
「では、これも大丈夫なのですか?」
「まだそうは言わない」
サナはすぐに首を横へ振った。
「一回使って何もなかっただけ。今日も使うかどうかは、あとで決める」
「妹さんは?」
「まだ使わせてない。私がもう少し見てから」
エレナは頷いた。
同じ材料を使っていても、固まり方が違うものは別に見る。
一度問題がなかったからといって、結果を急いで広げない。
「私が使っているものと、記録を混ぜない方がよいですね」
「そうして。エレナのは今の柔らかい方。こっちは別」
「分かりました」
サナは包みを閉じた。
「あと、石鹸の話とは別だけど、朝の音、大丈夫だった?」
「ユウさんから聞きました。外側が一度だけ鳴ったそうです。ただ、原因は分からないままだと」
「そっか。うちにもドランが帰りに声かけてくれた。森に入ったものは確認できてないって」
サナも必要以上に不安そうな様子はなかった。
ただし、「何もなかった」とも言わない。
村の中で、少しずつ同じ考え方が共有されているようにエレナには感じられた。
分からないことは、分からないまま扱う。
それでも必要な確認はする。
「今日は、石鹸を使おうと思います」
エレナが言った。
「今から?」
「はい。朝は使いたいと思いませんでしたが、今は使ってみたいです」
「なら一回だけね。何かあったらやめて」
「はい」
サナが帰ったあと、エレナは水場へ向かった。
現在使っている方の石鹸を手に取り、少量の水で泡立てる。
昨日とは違う時間。
それでも使い方は同じだった。
洗い流したあと、すぐに異常はない。
エレナは布で手を拭き、しばらく眺めてから石鹸を元の場所へ戻した。
◇
夜になっても、警戒線は静かなままだった。
石鹸を使った手にも赤みや痒み、痛みは出ていない。
エレナは自室の卓で記録を開いた。
最初に警戒線について書く。
『朝、東の警戒線が一度だけ短く反応。ユウさんから確認結果を聞いた。外側のみ。内側反応なし。以前の反応地点とは異なり、今回は少し南寄り。近くに小さな窪み一つ。ただし足跡かどうか不明。警戒線を鳴らしたものとの関係も不明。確認した範囲で新しい人の足跡なし。明確な大型獣の足跡なし。越えた痕跡なし。警戒線に目立った損傷なし。雨後の影響や誤反応の可能性も未確定。森への追跡なし。』
書き終えて読み返す。
「何が来た」とは書いていない。
「獣が南へ移動した」とも書いていない。
分かったことと、分からないことが混ざらないようにした。
次に石鹸を書く。
『夕方、現在預かっている石鹸を一度使用。夜まで赤み、痒み、痛み、刺激なし。サナさんの新しい固めの石鹸は、サナさん本人が昨日一度使用し、現時点で異常なし。ただし別の石鹸として管理。妹さんと私は未使用。』
その下へ、今日覚えておきたいことを少しだけ書き足した。
『警戒線が鳴ったとき、私は東へ行かなかった。気にならなかったからではない。気になっていたが、確認する人に任せた。ユウさんはローデンさんに頼まれてから行った。ガルドさんも気になっていたが、畑にいた。』
筆を止める。
今日、警戒線が鳴った。
それは普段とは違う出来事だった。
けれど村の全員が東へ集まったわけではない。
確認する人が行き、残った人はそれぞれの生活を続けていた。
ユウも最初から駆けつけたわけではなく、頼まれてから向かった。
そして帰ってきたあと、自分に話したいからと会いに来てくれた。
(誰かに任せることと、何も考えないことは違います)
エレナは新しい行へ筆を動かした。
『心配していても、全部を自分で確かめなくてよい。』
さらに少し考える。
『任せたあとで結果を聞きたいと思ってもよい。』
そこまで書いて、筆を置いた。
窓の外には夜の村がある。
東の森は暗く、そこに何がいるのかは今日も分からない。
西へ向かったはずのレグルについても、新しい知らせは届かなかった。
東にも、西にも、知らないことが残っている。
それでも、エレナが今いるのはその間にある小さな村だった。
明日になれば、また何か分かるかもしれない。
何も分からないかもしれない。
そのどちらであっても、朝になれば自分は起きて、食事をして、その日にしたいことを考えるのだろう。
エレナは記録を閉じ、灯りを少し落とした。
今日の警戒音は、答えを連れてきたわけではなかった。
ただ一度鳴り、確認され、分からないものを分からないまま残して静かになった。
それでも村は、何事もなかったことにしたわけではない。
必要なことだけを記録し、必要以上に追いかけず、またそれぞれの夜へ戻っている。
エレナも、その一人として寝台へ向かった。




