第82話 知らせがなくても
翌朝、エレナが目を覚ましたとき、窓の外では細かな雨が降っていた。
屋根を打つほど強い雨ではなく、灰色の空から細い糸のように落ちてくる雨粒が、家の前の土をゆっくり濃い色へ変えている。風も弱いため窓を閉めていれば音はほとんど聞こえず、代わりに台所から薪の爆ぜる小さな音と、鍋の蓋が触れ合う音が届いていた。
エレナは寝台から起き上がり、窓辺へ近づいた。
東の方角は雨に霞んでいる。
警戒線から何かが聞こえた様子はなく、村もいつもどおり静かだった。
(雨ですね)
それだけを考えてから、エレナは着替えを始めた。
以前なら、雨を見た瞬間にレグルのことを考えていたかもしれない。
西へ向かう道も雨なのだろうか。荷車は進めるのだろうか。ラウゼンへ寄る予定に影響するのではないか。そもそも、本当に出発しているのだろうか。
気になることは今もある。
ただ、ルーデで雨が降っているからといって、何日も離れた場所まで同じ天候だとは限らない。それを考え続けても、今のエレナには何も確かめられなかった。
台所へ入ると、マーサが鍋の中を木匙でゆっくり混ぜていた。
「おはようございます」
「おはよう。雨だね」
「はい。今日は畑へ行く人も少なそうです」
「このくらいなら行く奴は行くさ。ガルドなんか、畑に用がなくても行きそうだしね」
その姿を想像すると、確かにありそうだった。
エレナは棚から器を出しながら窓を見た。
「雨が強くならなければ、少し外へ出ようと思います」
「どこへ?」
「まだ決めていません」
「最近そればっかりだね」
「いけませんか?」
「誰がそんなこと言った」
マーサは鍋から匙を上げ、味を確かめてから塩をほんの少し加えた。
「決めてないなら、決めてないまま飯を食えばいいさ。食い終わるころには行きたいところができてるかもしれないし、できなきゃ家にいればいい」
「はい」
エレナは素直に頷いた。
朝食は豆と刻んだ野菜を煮た温かいスープに、昨日のパンだった。窓の外に細い雨を眺めながら食べると、湯気の立つスープがいつもよりおいしく感じられる。
食事の途中で、マーサがふと尋ねた。
「今日はローデンのところへ行くのかい?」
エレナは匙を止めずに考えた。
「今は、行かなくてよいと思っています」
「昨日もそう言ってたね」
「はい。でも、昨日行かなかったから今日も行かない、と決めているわけではありません」
「なら、昼に行きたくなったら行けばいい」
「そうします」
レグルが出発する予定だった朝から、一日が過ぎた。
それでも新しい知らせは届いていない。
出発したという確認もなければ、出発できなかったという連絡もない。
ローデンのところへ行けば、何か届いている可能性はある。しかし昨日も、何か変われば知らせてくれると言われている。
(聞きに行くことが悪いわけではありません)
そこを間違えたくはなかった。
待つと決めたから、尋ねてはいけないのではない。自分が本当に聞きたいと思ったなら行けばいいし、今はそこまでではないから行かない。
エレナは残りのスープを口へ運んだ。
◇
朝食を終えたころには、雨がさらに細くなっていた。
エレナは水場へ行き、サナから預かっている石鹸を見た。昨日は朝に使わず、そのあとも結局使っていないため、一日を通して使用していない。
今日はどうするか。
少し考えてから、エレナは石鹸へ手を伸ばした。
「今日は使うのかい?」
後ろからマーサの声がした。
「はい。使いたいです」
「なら使いな」
水で手を濡らし、石鹸を軽く転がす。
泡は相変わらず多くないが、手のひらや指の間へ広げるには十分だった。しっかり水で流して布で拭いたあと、エレナは手の甲と指先を確かめる。
すぐに赤くなることも、痛みが出ることもなかった。
「今は大丈夫です」
「あとでも見ときな」
「はい」
毎日使うことを目標にはしていない。
けれど、使いたい日に使って何も起きなかったという結果は、一つずつ残しておくことができる。
エレナはそのことを覚えておき、窓の外を見た。
雨はほとんど止んでいた。
「少し歩いてきます」
「滑るところは気をつけな」
「はい」
薄手の上着を羽織って外へ出ると、湿った土と草の匂いがいつもより濃かった。屋根から落ちる水滴が軒下で小さな窪みを作り、道の端には浅い水たまりがいくつかできている。
エレナは足元を見ながら、ゆっくり村の中央へ向かった。
◇
井戸の近くまで来たところで、ミレアが籠を抱えているのが見えた。
中には葉物の野菜が入っている。
「おはようございます、ミレアさん」
「あら、エレナ。おはよう」
ミレアは籠を抱え直した。
「マーサのところへ行くつもりだったのよ。昨日渡しそびれたから」
「その野菜を?」
「そう。雨が強くなる前にと思ったんだけど、もう止みそうね」
以前なら、エレナはすぐに「持ちます」と手を伸ばしていたかもしれない。
けれど前にミレアと話したとき、自分で持てるものを勝手に取り上げることは、必ずしも助けにはならないと知った。
「重くありませんか?」
「これくらいなら平気よ」
「では、持つのを手伝った方がよいですか?」
ミレアは少しだけ考えたあと、籠の中を見た。
「今日はお願いしようかしら。道が濡れてるでしょう。全部じゃなくて、半分だけ持ってもらえる?」
「はい」
前回とは違う答えだった。
エレナは一瞬だけ驚いたものの、すぐに頷いた。
ミレアは籠の中から葉物をいくつか取り出し、近くに置いていた小さな布袋へ移してくれた。
「これならどう?」
「持てます」
「じゃあお願い」
エレナは布袋を受け取った。
重さはそれほどない。
二人は並んでマーサの家の方へ歩き始めた。
「前は、自分で持てるって言ったのにね」
ミレアが笑う。
「今日は違うのですね」
「雨のあとで足元が悪いからね。籠が軽い方が歩きやすいでしょう?」
「はい」
「それに、今日は手伝ってもらいたい気分だったの」
その言葉に、エレナは少しだけ目を見開いた。
「気分でも、変わるのですか?」
「そりゃ変わるわよ。昨日いらなかったからって、今日もいらないとは限らないでしょう?」
ミレアは何でもないことのように言った。
「反対も同じ。昨日頼んだからって、今日も頼むとは限らないし」
「そうですね」
エレナは手にした袋を見た。
同じ人。
同じ野菜。
同じように運ぶ場面でも、前回と今日で答えは違う。
それで何もおかしくない。
「エレナは、手伝ってって言われるの嫌?」
「いいえ。今は手伝いたいです」
「じゃあちょうどいいわね」
「はい」
その簡単なやり取りが、妙に心地よかった。
◇
マーサの家へ戻り、野菜を渡したあと、ミレアは少しだけお茶を飲んでから帰っていった。
エレナもそのまま家に残ろうかと思ったが、雨は完全に止んでいる。
窓の外を見る。
ユウに会いたいかと自分へ問いかけてみると、答えはすぐに出た。
(会いたいです)
昨日も会った。
それでも今日会いたい。
その気持ちを、昨日より自然に受け取れるようになっていた。
「マーサさん」
「なんだい?」
「ユウさんのところへ行ってきます」
「そうかい」
「昨日も会いましたが」
「それがどうしたのさ」
「……いえ。何でもありません」
エレナは笑った。
「行ってきます」
「行っといで」
◇
ユウの家へ向かう途中、道の端に小さな水たまりが続いていた。
昨日ニコが走る速度を落とした場所を思い出し、エレナも滑らないよう歩幅を少し狭くする。
家が見えてきたところで、扉が開いた。
ユウが外へ出てくる。
片手には小さな布袋を持っていた。
「あ」
ほとんど同時に、二人が足を止めた。
「エレナさん」
「ユウさん」
昨日のすれ違いが頭をよぎった。
エレナが笑うと、ユウも同じことを思い出したらしく笑った。
「今日は会えた」
「はい。今日は途中で会えました」
「俺、今からマーサさんのところに行こうと思ってたんだ」
「私に会いに?」
「それもある」
ユウは布袋を少し持ち上げた。
「昨日ガルドさんからもらった野菜が少し余ってて。マーサさんなら使うかなと思って」
「昨日、ガルドさんから?」
「うん。俺が食べる分だけって言ったのに、最後にこれも持ってけって入れられた」
「ガルドさんらしいですね」
「断ったんだけど、『余ったら誰かにやれ』って」
エレナは袋を見た。
「では、今日は用事もあったのですね」
「うん。でも、エレナさんにも会えたらいいなとは思ってた」
胸の奥が温かくなる。
それでもエレナは、昨日のようにその気持ちだけへ長く留まることはしなかった。
「私も、ユウさんに会いに来ました」
「そっか」
「でも、先にマーサさんのところへ行きますか?」
「一緒に戻ることになるけど、いい?」
「私は構いません」
「じゃあ行こうか」
来た道を戻ることになる。
以前なら、せっかくここまで来たのだから家へ入らなければ損をしたように感じたかもしれない。けれど今日は、ユウと一緒に歩いて戻ることも悪くない。
二人は並んでマーサの家へ向かった。
◇
「そういえば、石鹸はどう?」
歩き始めて少ししたところで、ユウが尋ねた。
「今朝、一度使いました。今のところ何もありません」
「昨日は?」
「使いませんでした」
「使わない日もあるんだ」
「はい。サナさんも、それでよいと言っていました」
「そっか」
「別に作ったものは、少し固まり方が違うそうです。同じように作っても、火や混ぜ方、乾かし方で違いが出ることがあると話していました」
「じゃあ、エレナさんが使って平気だから、次のも絶対平気とは言えないんだ」
「はい」
ユウは少し考えた。
「そういうの、ちゃんと分けて考えてるのはいいね」
「ユウさんも、そう思いますか?」
「一人が大丈夫だったら全員大丈夫ってことにすると、あとで困るかもしれないし」
介護の仕事をしていたころも、似たようなことは何度もあった。
同じ食事でも飲み込みやすい人と難しい人がいる。同じ高さの椅子でも立ちやすい人と立ちにくい人がいて、同じ声のかけ方でも安心する人と急かされたように感じる人がいた。
誰かに合った方法が、別の誰かにもそのまま合うとは限らない。
けれどユウは、その話を長々と説明することはしなかった。
「サナさんなら、急に村中に配ったりはしなさそうだね」
「はい。まだ一人か二人、試す人を増やすかもしれないという程度でした」
「なら、そのくらいでいいんじゃないかな」
「私もそう思います」
エレナは少し間を置いてから続けた。
「今朝はミレアさんの野菜を半分持ちました」
「半分?」
「前に会ったときは、手伝いが必要か尋ねたら、自分で持てると言われました。でも今日は、足元が濡れているから半分だけ持ってほしいと頼まれたのです」
「日によって違ったんだ」
「はい。それに、今日は手伝ってもらいたい気分だったそうです」
ユウが笑う。
「気分って大事だね」
「よいのですか? そんな理由でも」
「いいんじゃない? 頼まれる方が嫌じゃなくて、危ないことでもないなら」
「私も、今日は手伝いたいと思いました」
「じゃあ、ちょうどよかったんだ」
ミレアと同じことを言われ、エレナはまた笑った。
◇
マーサの家へ戻ると、ユウが持ってきた袋の中には小ぶりな芋がいくつか入っていた。
「またガルドかい」
マーサは袋を覗き込み、呆れたような声を出した。
「俺はいらないって言ったんだけど」
「断り切れなかったんだろ」
「最後に荷物へ入れられた」
「昔からそうだよ、あの男は」
マーサは芋を一つ手に取って状態を確かめた。
「悪くないね。もらっとくよ」
「使えます?」
「使えるさ。ただ、全部今日食う必要もない。二、三日は持つだろ」
「よかった」
ユウが安心したように言う。
エレナはその会話を聞きながら、昨日ユウがガルドから野菜を受け取ったことを思い出した。
必要な分以上は断る。
それでも相手が「余ったら誰かへ」と渡したものは、別の人へ回す。
村の中では、物も助けも一方向だけには流れていない。
「昼、食ってくかい?」
マーサが尋ねた。
ユウはすぐには答えず、エレナの方を見た。
「エレナさんは?」
「私はマーサさんと食べるつもりでした」
「俺がいても?」
「はい」
エレナは少し考えてから付け加えた。
「今日は三人で食べたいです」
「じゃあ、俺もそうしたい」
「決まりだね」
マーサは芋を棚へ置いた。
「ただし昼まではまだ少しある。あたしはやることがあるから、二人で勝手にしてな」
追い出されるような言い方だったが、本当に嫌がっているわけではないことは分かる。
ユウとエレナは顔を見合わせた。
「何します?」
エレナが尋ねる。
「何かしたい?」
「今は……」
エレナは少し考えた。
歩くのも悪くないが、外は雨上がりで道が濡れている。話したいこともあるものの、ずっと会話を続けたいわけでもなかった。
「本を読みたいです」
「じゃあ読めばいいんじゃない?」
「ユウさんは?」
「俺も何か読むかな」
その答えに、エレナは嬉しくなる。
一緒にいるからといって、同じことをしなくてもよい。
けれど今日は偶然、二人とも本を読みたいらしい。
「私の本は部屋にあります。取ってきますね」
「うん」
◇
エレナが持ってきたのは、ユウから借りている『暮らしの小さな工夫』だった。
以前、保存食について書かれたところまで読み、その先を少しだけ開いて止めていた。今日はそこから続きを読むことにする。
ユウはマーサの棚にあった古い物語を一冊借りた。
二人は同じ卓の向かい側ではなく、少しずらした位置へ座った。エレナは窓に近い椅子、ユウは壁側の椅子を使い、互いの本を覗き込まなくてもよい程度の距離を取る。
雨はまた少しだけ降り始めていた。
屋根に当たる細かな音が、静かな部屋の中へ一定の間隔で届く。
エレナが読んでいる箇所には、布や道具を長く使うための簡単な手入れについて書かれていた。濡れたまま放置しないこと、傷んだ場所を見つけたからといって必ずしもすぐ捨てる必要はないこと、直せる範囲と直せない範囲を見極めること。
すべてを覚えようとはしなかった。
気になったところで少し止まり、分からないところはそのままにする。
向かいでは、ユウがページをめくる音がときどき聞こえる。
会話はない。
それでも、一人で読んでいるときとは少し違った。
(ユウさんがいます)
その事実を確認しただけで、エレナはまた本へ視線を戻した。
しばらくすると、ユウが本を閉じる音がした。
エレナは顔を上げる。
「読み終わりましたか?」
「いや。今日はここまででいいかなって」
「まだ途中ですか?」
「うん」
ユウは本へ栞代わりの細い紙を挟んだ。
「エレナさんは?」
「もう少し読みたいです」
「じゃあ読んでていいよ」
「ユウさんは、退屈ではありませんか?」
「別に。外見てる」
ユウは椅子へ背を預け、窓の外へ視線を向けた。
エレナは数秒だけ彼を見ていた。
自分が読みたいから読み続ける。
ユウが先に読むのをやめたからといって、自分も本を閉じる必要はない。
「では、もう少し読みます」
「うん」
再び本へ目を落とした。
数ページ進んだところで、今度はエレナ自身が十分だと思った。
章の途中だったが、本を閉じる。
「終わり?」
ユウが尋ねた。
「今日はここまでです」
「途中じゃない?」
「途中です」
「そっか」
「はい」
エレナは閉じた本の表紙を撫でた。
「途中でも、今日はもう読みたくないと思いました」
「じゃあ、それでいいんじゃない?」
「また言いました」
「便利なんだよ、この言葉」
ユウが笑う。
「私も、少し便利だと思います」
◇
昼食には、朝の残りのスープへマーサが別の野菜を足し、薄く切ったパンを添えた。
ガルドから回ってきた芋は使わなかった。
「今日食べると思いました」
エレナが言うと、マーサは首を振った。
「まだ別の野菜があるからね。先にこっちを使う」
「もらったからといって、すぐ使う必要はないのですね」
「腐らせるほど置いとくのは駄目だけど、今日食わなきゃならない理由もないだろ」
ユウが笑った。
「今日はそういう話、多いね」
「どういう話ですか?」
「もらったからってすぐ使わなくていいとか、途中で本閉じてもいいとか、手伝ってほしい日といらない日があるとか」
エレナは匙を持ったまま考えた。
「本当ですね」
「別に合わせたわけじゃないんだけどね」
マーサが言う。
「暮らしてりゃ、毎日同じにはならないさ」
エレナはスープを口へ運んだ。
温かい。
窓の外では、再び雨が止み始めている。
「そういえば」
ユウが言った。
「レグルさんのこと、今日は聞きに行かなかったんだよね?」
「はい」
「今はどう?」
エレナは自分の気持ちを確かめる。
朝より気になっているだろうか。
少しは気になる。
けれど、今すぐ席を立ってローデンのところへ行きたいほどではなかった。
「まだ、待てます」
「そっか」
「でも、夕方になったら聞きたくなるかもしれません」
「そのとき行けばいいんじゃない?」
「はい」
マーサが二人を見比べる。
「あんたら、その言葉ばっかりだね」
「ユウさんがよく言うのです」
「エレナさんも最近言うよ」
「そうですか?」
「言う」
「似てきたんじゃないかい?」
マーサが何気なく言った。
エレナとユウの動きが、ほとんど同時に止まった。
「……似ていますか?」
エレナが尋ねる。
「全部じゃないよ。変なところまで一緒になる必要はないからね」
マーサは特に深い意味を持たせた様子もなく、自分のパンをスープへ浸した。
「ただ、前より二人とも『今どうしたいか』を口にするようになったとは思うよ」
エレナはユウを見る。
ユウもこちらを見ていた。
少しだけ気恥ずかしい。
けれど嫌ではなかった。
「ユウさんと同じになる必要はないと思います」
「うん。俺もエレナさんと全部同じじゃなくていいと思う」
「でも、似ているところが増えるのは……」
エレナは言葉を探した。
「少し、嬉しいです」
ユウの表情が柔らかくなる。
「俺もかな」
マーサは何も言わなかった。
ただ、口元だけが少し笑っていた。
◇
昼食のあと、ユウは自分の家へ戻った。
エレナは一緒に行かなかった。
会いたくて訪ね、途中で出会い、同じ家へ戻って、本を読み、昼食も食べた。
今日はそれで十分だと思ったからだった。
「またね」
家の前でユウが言う。
「はい。また」
「今日、ローデンさんのところ行く?」
「まだ分かりません」
「そっか」
「行ったら、次に会ったときに話すかもしれません」
「うん」
「でも、何も変わっていなければ、話さないかもしれません」
「それでもいいよ」
「ユウさんも、何かあったら話してください」
「話したくなったらね」
「はい」
それで別れた。
エレナはユウの背中が道の向こうへ離れていくのを少しだけ見送ってから、家の中へ戻った。
◇
午後は、マーサの手伝いを少しした。
干していた草の束を雨の当たらない場所へ移し、棚に置かれていた布を畳み直す。どちらもエレナがやらなければ困る仕事ではなかったが、今日は手を動かしたかった。
そのあと、自室で本を開こうとしたものの、今度は読む気にならなかった。
窓の外を見る。
雨は上がっている。
時刻はまだ夕方には少し早い。
(聞きに行きたいでしょうか)
自分へ問いかける。
朝よりは、少し聞きたい。
ただし、「今すぐ答えを知らなければならない」という焦りではなかった。
もし何も届いていなければ、それを聞いて帰ればいい。
エレナは本を棚へ戻した。
「マーサさん」
「今度はどこだい?」
「ローデンさんのところへ行ってきます」
「聞きたくなったかい?」
「はい」
「なら行っといで」
朝とは違う答えになった。
それでも、朝の自分が間違っていたわけではない。
エレナは上着を羽織り、もう一度外へ出た。
◇
ローデンは家の裏で薪をまとめていた。
エレナを見ると、手を止めて立ち上がる。
「来たか」
「はい」
「レグルのことだろ」
「分かりますか?」
「今のあんたが俺のところへ来る理由なら、一番ありそうだからな」
ローデンは手についた木屑を払った。
「先に言うが、新しい知らせは来てない」
エレナは小さく息を吐いた。
残念ではある。
けれど、強い落胆ではなかった。
「出発したという確認も?」
「ない」
「出発できなかったという連絡も?」
「それもない」
「分かりました」
ローデンはエレナの顔を見た。
「もっと聞くか?」
「聞けることがありますか?」
「今のところはないな」
その答えに、エレナは少し笑った。
「では、今日はそれだけで大丈夫です」
「そうか」
「ありがとうございました」
「礼を言われるほどのことはしてないぞ。『分からん』って言っただけだ」
「それでも、私が今知りたかったことには答えていただきました」
ローデンは少しだけ眉を上げたあと、笑った。
「変わったな、あんた」
「そうでしょうか」
「最初のころなら、『分からん』って言われたら、もう一個くらい何か聞かなきゃって顔してた」
エレナはすぐには否定できなかった。
たしかにそうだったと思う。
「何かを聞けば、何かが進むと思っていたのかもしれません」
「聞かなきゃ進まんこともある」
「はい」
「でも、聞いてもまだ分からんこともある」
「今は、少し分かります」
ローデンは頷いた。
「なら、また何か来たら知らせる」
「お願いします」
エレナは頭を下げ、ローデンの家を離れた。
◇
帰り道で、ニコがしゃがみ込んでいるのが見えた。
場所は、例の板が置かれている近くだった。
エレナは少し離れたところで立ち止まる。
「ニコさん」
「あ、エレナ!」
「何かいましたか?」
「まだ分かんない!」
ニコは板へ手を伸ばしていなかった。
昨日ベルと一緒に板の下を確認し、小さな虫が二匹いたものの、それが以前から見ていた黒い虫と同じものかは分からなかった。ベルから毎日板を動かさないよう言われたことも、ニコは覚えているらしい。
「今日は板を動かしていないのですね」
「うん。じいちゃんに毎日やるなって言われたから」
「では、何を見ているのですか?」
「板の周り!」
ニコは地面を指した。
「黒いやつ、板の下にいるって決まったわけじゃないだろ?」
「はい」
「だから、出てくるかもしれない」
「待っているのですか?」
「うん。でも、もうちょっとしたら帰る」
「なぜですか?」
「腹減ったから」
エレナは思わず笑った。
「虫より、お腹の方が大事ですか?」
「今は!」
ニコは迷いなく答えた。
その言葉が妙に気に入った。
「今は、なのですね」
「明日は虫の方が大事かもしれない!」
「それも、明日にならないと分かりませんね」
「うん!」
ニコはもう少しだけ板の周囲を眺めたあと、立ち上がった。
「今日は出なかった!」
「今日、ニコさんが見ている間には、ですね」
「そう!」
以前なら「今日は出なかった」とそのまま記録していたかもしれない。
けれど、ニコが見ていない時間に虫が出た可能性はある。見えなかったことと、存在しなかったことは同じではない。
「帰る!」
「気をつけてください。まだ道が濡れています」
「分かってる!」
ニコは走り出しかけ、数歩で速度を落とした。
エレナはその背中を見送り、自分もマーサの家へ戻った。
◇
夜。
エレナはいつものように記録を開いた。
まず石鹸について書く。
『朝、一度使用。夜まで赤み、痒み、痛み、刺激なし。昨日は使用なし。』
続いて、ミレアとのことを書こうとして、一度筆を止めた。
これは石鹸や三軒目の家のように、誰かへ報告するための記録ではない。
それでも、今の自分にとって覚えておきたいことだった。
『以前は手伝いを断ったミレアさんが、今日は半分だけ持ってほしいと頼んでくれた。同じ人でも、その日によって必要な助けは違う。昨日の答えが今日の答えとは限らない。』
次にニコの虫について書く。
『午後、ニコさんが板の周囲を観察。観察中には、以前話していた黒い虫は確認できなかった。板は動かしていない。「今日はいなかった」ではなく、「ニコさんが見ている間には確認できなかった」。』
そして最後に、レグルについて。
『午後、ローデンさんへ確認。新しい知らせなし。出発確認なし。出発できなかったとの連絡もなし。現時点では不明。』
そこまで書き、エレナは筆先を紙から離した。
何も進んでいないようにも見える。
昨日の時点でも、レグルは出発予定だった。
今日も、出発したかどうかすら確認できていない。
北梟工房についても、エルドについても、三軒目の家についても、新しい答えは一つもない。
それでも今日、エレナは朝にはローデンのところへ行かないと決め、午後には行きたいと思って尋ねに行った。
どちらも、自分で選んだ。
ミレアは前回断った手助けを、今日は頼んだ。
ユウとは互いに会おうとして道の途中で出会い、同じ部屋で別々の本を読み、片方が先に本を閉じても、もう片方は読み続けた。
ニコは虫を待ったが、お腹が空いたから帰った。
(何も決まらない日でも、選ぶことはたくさんあるのですね)
エレナは新しい行へ筆を移した。
『今日は新しい知らせがなかった。』
そこで終わらず、少し考えてから続きを書く。
『それでも、何もなかった日ではない。』
筆を置き、書いた文字を眺める。
遠くでは、レグルがどこにいるのか分からない。
けれど、自分が今日どこを歩き、誰と話し、何をしたかったのかは分かっている。
その違いだけで十分だった。
◇
同じ夜、ルーデから遠く離れた街道沿いでは、昼間の雨で濡れた荷車の車輪が、宿の軒下に止まっていた。
レグルは馬へ水と餌を与えたあと、荷台に掛けていた布を確かめていた。今日の道は予想以上にぬかるみ、予定していた距離までは進めていない。
それでも、西の荷場へ向かう道そのものから外れたわけではなかった。
「明日晴れりゃ、取り戻せるか」
誰に聞かせるでもなく呟きながら、レグルは荷台の端へ挟んでいた小さな紙片を確認した。
北梟工房。
その名は、まだ紙の上にあるだけだった。
ラウゼンへ寄れるかどうかも決まっておらず、そこで何を知ることになるのかは、レグル自身にも分からない。
だから彼は、その紙を元の場所へ戻した。
今夜やるべきことは、まだ見たこともない工房について考え続けることではない。馬を休ませ、自分も食事を取り、明日の道に備えることだった。
遠く離れたルーデで、エレナが「新しい知らせはなかった」と記録していることを、レグルは知らない。
エレナもまた、雨に遅らされながら荷車が確かに西へ進んでいることを知らなかった。
互いに知らないまま、それぞれの場所で一日が終わっていく。
そして三軒目の家へ続く細い糸だけは、まだ切れずに西へ伸びていた。




