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第81話 待つ日の予定



 朝食を終えたあと、エレナは食器を片づけながら、窓の向こうへ何度か目を向けていた。


 空には薄い雲が広がっているものの雨の気配はなく、村の道には朝の光がやわらかく落ちている。畑へ向かう者の姿もすでにあり、少し離れた場所からは鶏の鳴き声と、それに負けないくらい大きなガルドの声が聞こえてきていた。


「気になるなら、ローデンのところへ行ってくればいいだろうに」


 向かいで布巾を畳んでいたマーサに言われ、エレナは窓から視線を戻した。


「……気になっているのは、分かりますか?」


「そりゃ分かるさ。朝飯を食ってる間にも、あんたは三回くらい外を見てたからね」


「三回でしたか」


「数えちゃいないよ」


 マーサは平然と言いながら畳んだ布巾を棚へ戻したため、エレナは小さく笑った。


 昨日の夕方にローデンから聞いた話では、ラウゼンの近くを通るという荷運び人のレグルは、予定どおりなら今朝、西へ向けて出発することになっていた。ただし、それはあくまで昨日の時点での予定であり、荷の都合や道の状態、本人の事情によって変わる可能性がある。


 変更があったという知らせは届いていないが、だからといって予定どおり出発したと確認できたわけでもない。


(もう出発しているかもしれませんし、まだなのかもしれません)


 そのどちらなのかを考えても、エレナには確かめる術がなかった。


 そもそもレグルは、彼女のためだけにラウゼンへ向かうのではない。自分の荷仕事があり、その道程の中で都合がつけば北梟工房について尋ねてくれるというだけだ。ラウゼンへ着く日も、工房を探せるかどうかも、まだ決まってはいなかった。


「昨日、ローデンさんは、何か変われば知らせると言ってくださいました」


「なら、何も言ってこないなら今のところはそれまでだね」


「はい」


 そう答えてから、エレナはもう一度だけ窓の外を見た。


 以前なら、何も分からない状態で待つことはひどく落ち着かなかった。自分が動かなければならないような気がして、けれど何をすればいいのか分からず、それでも何かをしていなければ怠けているように感じてしまう。


 今も、気にならないわけではない。


 北梟工房が今もあるのか。エルドを知る者がいるのか。三軒目の家について、さらに先へ進める手がかりが残っているのか。


 どれも知りたかった。


 それでも、昨日の自分がすでに知りたいことを伝え、ローデンやゼムたちが自分のできる範囲でつないでくれている以上、今朝のエレナが同じことを尋ねに行っても、道が短くなるわけではない。


「今日は行きません」


 エレナがそう言うと、マーサは振り返った。


「ローデンのところへかい?」


「はい。行ってはいけないからではなくて、今はまだ行かなくてもよいと思ったからです。もし午後になって、本当に聞きたくなったら、そのときには聞きに行くかもしれません」


「それでいいんじゃないかね。朝決めたことを、夕方まで守らなきゃならない決まりもないんだから」


「……そうですね」


 朝の自分が午後の自分へ命令しなくてもよい。


 それは最近、少しずつ分かるようになってきたことだった。


 エレナは洗い終えた最後の皿を布の上へ置くと、流しの脇に置いてある小さな石鹸へ目を向けた。サナから預かっている試作品は何度か使ったことで角が少し丸くなっていたが、まだ十分な大きさが残っている。


 これまで使ったあとに、赤みや痒み、痛みが出たことはない。


「今日は使うのかい?」


 マーサが尋ねた。


 エレナは自分の手を見たあと、首を横へ振った。


「今は使いません。食器は別のものを使いましたし、手もそれほど汚れていませんから」


「そうかい」


 それだけで会話は終わった。


 使えるものが目の前にあっても、使わなければならないわけではない。試している途中だからといって、毎朝同じ時間に使い続ける必要もなく、サナ自身が「使いたいときだけでいい」と言っていた。


 エレナは石鹸を元の場所へ残し、外へ出る支度を始めた。


「今日はどこへ行くんだい?」


「まだ決めていません」


「またそれかい」


 呆れたようなマーサの声には、少しだけ笑いが混じっている。


「はい。またです」


 エレナも笑いながら答えた。


 目的を決めずに家を出ることにも、以前ほど落ち着かなさを覚えなくなっていた。


 外へ出ると、朝の空気にはまだ少し冷たさが残っていた。日差しの当たる道はすでに温まり始めているが、家々の影へ入ると肌に触れる空気が一段低く感じられる。


 エレナは西へ向かう道と、畑へ続く道の分かれ目で一度足を止めた。


(どちらへ行きたいでしょう)


 急いで答えを出さずに周囲を見ていると、畑の方から聞き覚えのある声が響いてきた。


「ベル! こっちだ、こっち!」


「そんな大声出さなくても聞こえてる」


 ガルドとベルだった。


 エレナは少し考えてから、そちらへ歩いていった。


 ガルドの畑では、以前支柱を添えられた豆が朝の風に葉を揺らしていた。茎は支柱に沿って伸びており、最初に見たころより明らかに太くなっている。


 その横でガルドがしゃがみ込み、ベルが結び目を指先で確かめていた。


「おはようございます」


「おう、エレナ! ちょうどいいところに来たな!」


「何がちょうどよいのでしょう」


「昨日お前さんが言ってたやつだ。ベルに見てもらってる」


 エレナが畑の縁まで近づくと、ベルは結び目から指を離した。


「締まっちゃいない。ただ、このまま太くなるなら少し余裕を増やしておいた方がいいな」


「やっぱり狭かったか?」


「今すぐ悪いって話じゃない。今は大丈夫だが、前に結んだときより茎が太くなった。それなら結び方の方も今の豆に合わせりゃいい」


 ベルはそう言うと、古い紐をすべて外してしまうのではなく、茎を傷つけないよう片側だけを緩めた。支柱との間隔を確かめながら結び直し、指が無理なく入る程度の余裕を残している。


 ガルドはその手元を覗き込んでいたが、やがて腕を組んだ。


「昨日のままでも今日すぐ折れるわけじゃなかったんだな」


「だからそう言ってるだろ。支えるのと縛りつけるのは違う。育ったなら、支え方も変える」


「最初からもっと緩くしとけばよかったんじゃないのか?」


「緩すぎりゃ支えにならん」


「面倒だな、豆ってのは」


「育つものはだいたいそんなもんだ」


 ベルの返事を聞いて、エレナは思わず豆の茎へ視線を落とした。


 以前は合っていたものが、今も同じように合うとは限らない。


 それは豆だけの話ではないように感じられたが、無理に自分のことへ結びつける必要もない気がした。


「昨日、私には分からないと答えてよかったのですね」


 エレナが言うと、ガルドが首を傾げた。


「何がだ?」


「この紐です。ガルドさんに聞かれたとき、私は前に見たときとの違いだけでは判断できませんでしたから」


「分からん奴に適当に答えられるよりいいだろ」


 ガルドはあっさり言ったあと、ベルの方を指さした。


「こいつなら分かると思ったから聞いただけだ。ベルが分からんなら、そのときはまた別の奴に聞く」


「お前は人を道具箱みたいに言うな」


「便利なんだから仕方ないだろ」


「自分で覚えろ」


 二人のやり取りにエレナが笑うと、ベルも呆れながら口元を少し緩めた。


 結び直された豆は、それまでと見た目が大きく変わったわけではない。支柱は同じ場所にあり、紐も同じものを使っている。ただ、茎との間にあった余裕が少し増えていた。


「これで終わりですか?」


 エレナが尋ねると、ベルは立ち上がりながら腰を伸ばした。


「今日のところはな。また育ったら見る。風で傾いたり、紐が傷んだりすりゃ、そのときも変える」


「一度直したら、もう見なくてよいわけではないのですね」


「畑のもんに『一度やったからずっと同じ』なんて方が少ないんじゃないか」


 ガルドが「まったくだ」と大きく頷いた。


 エレナはその言葉を覚えておこうと思ったが、覚えたからといって自分が豆の支柱を管理する必要はない。それもまた、今なら分かる。


 しばらく畑を眺めたあと、エレナは二人へ礼を告げて道へ戻った。


 そこでようやく、自分が次にどこへ行きたいのかを考える。


 ユウの家へ行きたい気持ちはあった。


 昨日も顔を見ている。それでも今日会いたいと思うこと自体は、もう否定しなくなっていた。ただ、会いたいと思ったからといって、必ず今すぐ向かわなければならないわけでもない。


 少し迷った末、エレナはサナの家へ向かう道を選んだ。


 石鹸のことを話したいと思ったからだった。


     ◇


 サナは家の横に置いた木桶を洗っていた。


 エレナに気づくと、濡れた手を布で拭いながら近づいてくる。


「おはよう、エレナ。手、どう?」


 挨拶の直後にそこを聞くのがサナらしく、エレナは両手を見せた。


「今のところ、赤くなったり、痒くなったりはしていません。昨日も一度使いましたが、そのあとも変わりませんでした」


 サナはすぐに安心しきることはなく、手の甲と指の間を目で確認した。


「痛いところもなし?」


「ありません」


「ぴりぴりしたりは?」


「それもありません」


「じゃあ、今のところは大丈夫そうね。でも、まだ『誰が使っても大丈夫』とは言えないわ」


「はい」


 その答えをエレナはすでに理解していた。


 サナ自身と妹、それにエレナが使って問題が出ていない。それは安心できる材料ではあっても、村の全員に同じ結果が出る証明ではない。


「今日はもう使った?」


「いいえ。朝は使いたいと思わなかったので、使っていません」


 サナは一瞬だけ目を丸くしたあと、すぐに頷いた。


「それでいいわよ。試すって言っても、毎日絶対に使う約束じゃないもの」


「以前なら、試すと決めた以上は毎日同じように使わなければならないと思っていたかもしれません」


「それだと、石鹸を試してるんだか、石鹸に使われてるんだか分からなくなるわね」


 サナが笑ったため、エレナもつられて笑った。


「石鹸に使われる、ですか」


「毎朝起きたら『今日も私を使いなさい』って待ってるの。嫌じゃない?」


「少し怖いです」


「でしょう?」


 木桶の中には別の試作品らしい石鹸が二つ置かれていた。色はエレナが預かっているものと大きく変わらないが、片方は表面が少し粗く、もう片方は角がきれいに整っている。


 エレナが視線を向けると、サナもそれに気づいた。


「それは別の分。固まり方が少し違ったから、まだ人には渡してないの」


「同じように作っても違うのですか?」


「できるだけ同じにしてるけどね。火の具合とか、混ぜ方とか、乾かしてる場所でも少し変わるみたい。だから、エレナが使って平気だったものと、これがまったく同じだとは思わない方がいいかなって」


 サナは粗い方を指で軽く押したが、それ以上触らずに手を引いた。


「もう少し見てから考える。使えそうなら、次に試してもいいって人を一人か二人探すかもしれないけど、それもまだ決めてない」


「村のみなさんへ配るのではないのですね」


「まだ早いわよ。使えるかもしれないってところと、みんなに配って大丈夫ってところは別でしょう?」


「はい。私もそう思います」


 サナが急いでいないことに、エレナは不思議な安心を覚えた。


 何かがうまくいったからといって、すぐに大きくしなくてもいい。自分と妹、それからエレナで問題が起きていないという小さな結果を、小さな結果のまま受け取ることもできる。


「エレナの分も、使いたいときだけ使って。変だと思ったらそこでやめて、教えてくれればいいから」


「分かりました」


 サナと別れて道へ戻ったころには、朝の冷たさはかなり薄れていた。


 エレナは家へ戻ることも考えたが、今度はユウの顔が浮かんだ。


(会いたいです)


 今朝から何度か浮かんでいた気持ちを、今度はそのまま認めた。


 会いたいから、行く。


 理由はそれで十分だった。


     ◇


 ところが、ユウの家まで行ってみると、扉は閉まっていた。


 エレナは少し離れたところから家を眺めたあと、近づいて扉の前に立った。中から物音は聞こえず、裏手にも人の気配はない。


「ユウさん?」


 一度だけ声をかけてみたものの、返事はなかった。


 胸の奥に、ごく小さな残念さが生まれた。


 以前の自分なら、その感情に別の意味を探していたかもしれない。会えないことにがっかりするのは重すぎるのではないか、昨日も会ったのに今日も訪ねた自分は迷惑ではないかと、気持ちそのものを問い詰めていただろう。


 けれど今は、ただ会いたかったから、いなくて残念だった。それ以上の意味を急いでつける必要はない。


(どこかへ出かけているのでしょう)


 村の中で暮らしている以上、ユウにもユウの一日がある。


 ベルのところかもしれないし、オルドの鶏を見に行ったのかもしれない。あるいは一人で歩きたい日なのかもしれない。


 エレナは扉の前で待つことも考えたが、今の自分はそこまでしたいわけではなかった。


「また来ます」


 本人のいない家へ小さく告げ、自分でも少しおかしくなって笑ってから、エレナは道を引き返した。


     ◇


 昼前にマーサの家へ戻ると、マーサは家の前で干していた布を取り込んでいた。


「おかえり」


「ただいま戻りました」


「サナのところには行けたかい?」


「はい。石鹸はまだ試している途中だそうです。別に作ったものは固まり方が少し違うので、まだ人には渡していないと話していました」


「そうかい。急がないなら、その方がいいだろ」


 エレナも布を一枚受け取り、二人で家の中へ運んだ。


 そこでマーサが、思い出したように言った。


「そういや、ユウが来たよ」


 エレナの足がわずかに止まった。


「ユウさんが?」


「ああ。あんたが出てから少ししてね」


「……何か、用事があったのでしょうか」


「さあね。あたしに用があるようには見えなかったけど」


 マーサは取り込んだ布を椅子の背へ置きながら、横目でエレナを見た。


「エレナはいるかって聞かれたから、出かけてるって答えた。そしたら、またあとで来るってさ」


 エレナはしばらく何も言えなかった。


 自分はユウの家へ行った。


 そのころユウも、自分を訪ねてここへ来ていたらしい。


 互いに会おうとしたのに、道のどこかですれ違った。


 残念なはずなのに、胸の内側にはそれとは違う温かさがゆっくりと広がっていった。


「……ユウさんも、私に会いに来てくださったのでしょうか」


「本人に聞きな」


「そうします」


 エレナは笑った。


 今すぐ探しに行きたい気持ちも少しだけあったが、マーサはすでに昼食の準備を始めている。自分も今日はここで食べたいと思っていた。


 ならば、まず昼食を食べればいい。


 ユウが「またあとで来る」と言ったのなら、その言葉を信じて待つこともできる。


     ◇


 昼食を終えたあと、エレナはマーサと一緒に取り込んだ布を畳んだ。


 外では風が少し強くなり、軒先に吊るされた乾燥中の草が揺れている。東の方から警戒線の音が響くことはなく、村ではいつもの午後が続いていた。


 布を畳み終えたところで、扉を叩く音がした。


「はい」


 エレナが立ち上がるより先に、マーサが笑った。


「今度はいるね」


 その一言で誰なのか分かってしまい、エレナは自分の頬が少し緩むのを感じながら扉へ向かった。


 開けた先にはユウが立っていた。


「こんにちは、エレナさん」


「こんにちは、ユウさん」


 顔を見た瞬間、朝から何度か感じていた「会いたい」が静かにほどけていく。


 ユウもわずかに笑った。


「今度は会えた」


「……今度は?」


「午前中に来たんだけど、出かけてるってマーサさんに聞いて」


「私も、ユウさんの家へ行きました」


「え?」


 ユウが目を瞬かせた。


「いらっしゃらなかったので、戻ってきました」


「俺、そのころこっちに来てたのかな」


「たぶん」


 二人で顔を見合わせていると、奥からマーサの声が飛んできた。


「同じ村の中で何やってんだか」


 からかうというより、単純に面白がっている声だった。


 ユウは少し困ったように笑い、エレナも笑った。


「ユウさんは、私に何かご用があったのですか?」


「用っていうほどじゃないんだけど……話したいことがあって」


 その言葉を聞いた瞬間、昨日交わした会話がエレナの中によみがえった。


 何か特別な報告だけではなく、うまくいったことや失敗したこと、何でもないことでも、話したいと思ったら話す。


 毎日の義務にはしない。


 それでも、話したい相手として思い浮かぶことは大切にしていい。


「私も、会いたくてユウさんの家へ行きました」


 エレナがそう告げると、ユウは一度だけ視線を下げた。すぐに戻ってきたその目には、隠しきれない嬉しさが浮かんでいる。


「……そっか」


「はい。でも、いらっしゃらなかったので残念でした」


「ごめん」


「謝らなくてよいです」


 エレナは首を横へ振った。


「ユウさんにも予定がありますから。それに、今は会えました」


「うん。俺も、来たときエレナさんがいなくてちょっと残念だった」


「ユウさんも?」


「会えると思って来たからね」


 胸の奥が、また温かくなった。


 会えなかった時間があったからこそ、その言葉が少しだけ嬉しく感じられる。


「それで、話したかったことは何ですか?」


「ベルさんに、あの木を見てもらった」


 ユウが言った。


 エレナはすぐに、何度か彼が削っていた練習用の木片を思い浮かべた。深く削りすぎた場所が残り、それを消そうとしてさらに削りすぎないよう、少しずつ形を整えていたものだ。


「見せたのですね」


「うん。今朝、ベルさんのところへ行った。前より引っかかりは減ってるって。ただ、へこんだところは残ってるし、きれいな形になったわけじゃない」


「ベルさんは、何と?」


「『前なら消そうとして余計に削ってただろ』って」


 ユウは苦笑した。


「褒められたのか、昔の俺を注意されたのか分からなかった」


「両方ではないでしょうか」


「俺もそんな気がする」


 ユウはそう言ってから、少しだけ間を置いた。


「それを、エレナさんに話そうと思ったんだ」


 特別な出来事ではない。


 大きな成功でもなく、三軒目の家について新しい知らせが届いたわけでもない。東の警戒線に異変があったわけでもなく、村の何かを救ったという話でもない。


 ただ、ベルに木片を見せた。


 少しだけ以前と違うと言われた。


 それをユウは、エレナに話したいと思った。


「嬉しいです」


 エレナが答えると、ユウが首を傾げた。


「木が?」


「それも少しあります。でも、ユウさんが私に話そうと思ってくださったことが嬉しいです」


 ユウは何かを言おうとして、すぐには言葉が出なかったらしい。視線が少しだけ横へ逃げ、それからゆっくり戻ってくる。


「昨日、そういう話したからって、無理に来たわけじゃないよ」


「分かっています」


「話さなきゃって思ったわけでもなくて」


「はい」


「ベルさんに言われたあと、なんとなくエレナさんの顔が浮かんだから」


 その言葉を受け取った瞬間、エレナは自分の胸元へ手を置きそうになり、途中でやめた。


(私も同じでした)


 嬉しい知らせを聞いたとき、ユウの顔が見たいと思った。


 今日はただ会いたいと思って、彼の家へ向かった。


 そしてユウも、何かを話したいと思ったとき、自分の顔を思い浮かべてくれた。


「私も、今朝から何度かユウさんに会いたいと思っていました」


「何度か?」


「はい。一度ではありませんでした」


「……それは、なんか嬉しいな」


 ユウの頬がわずかに緩んだ。


「でも、最初はサナさんのところへ行きました」


「うん」


「そのあとユウさんの家へ行きました」


「それでいいんじゃない?」


 聞き慣れた言葉に、エレナは思わず笑った。


「また、それを言いましたね」


「言ったね」


「やはり、私はその言い方が好きです」


「……それ、急に言われると困るんだけど」


「なぜですか?」


「いや……なんでもない」


 ユウがわずかに顔を逸らしたため、エレナは不思議に思ったものの、それ以上は追及しなかった。


 代わりに、午前中に見た豆の話をした。


「ガルドさんの豆も、ベルさんに見てもらっていました。今すぐ悪いわけではないそうですが、茎が太くなったので紐を少し緩めていました」


「育ったから、支え方も変えたんだ」


「はい。前に合っていたものが、今も同じように合うとは限らないそうです」


「ベルさんらしいな」


「私が昨日、分からないと答えたことも間違いではなかったようです」


「分からないのに答える方が危ないこともあるしね」


「ガルドさんにも同じようなことを言われました」


 二人で話している間、マーサは少し離れたところで乾いた布を棚へ収めていた。


 エレナはユウが来たからといってマーサとの時間を捨てたわけではなく、ユウも家へ入ることを当然とは思っていない。扉の近くで立ったまま話していた二人を見て、マーサは最後の布をしまってから声をかけた。


「立ち話するなら外で座ってきたらどうだい。あんたたち、すぐ終わりそうにないだろ」


「そんなに長く話していますか?」


 エレナが振り返ると、マーサは肩をすくめた。


「これから長くなりそうだって言ってんのさ」


 ユウとエレナは顔を見合わせた。


「どうしますか?」


 エレナが尋ねると、ユウはすぐには答えず、少し考えた。


「俺は、もう少し話したいかな」


「私もです」


「じゃあ、少し歩く?」


「はい」


 それは約束していた予定ではなく、互いの今の気持ちが同じだったから決まったことだった。


 マーサへ行ってくると告げ、二人は家の前から村の中央へ向かってゆっくり歩き始めた。


     ◇


 西へ続く道が見えるところまで来ると、エレナは自然にそちらへ目を向けた。


 レグルが予定どおりなら今朝出発することになっていた。


 けれど、今のエレナが知っているのはそこまでだ。


「気になる?」


 隣を歩いていたユウが尋ねた。


「はい。気になります」


 エレナは素直に答えた。


「でも、今朝はローデンさんへ聞きに行きませんでした。昨日の夕方から何か変わっていれば知らせてくださると言っていましたから」


「そっか」


「予定どおり出発したかもしれませんし、何かあってまだかもしれません。私は知りません」


「うん」


「前なら、その『知らない』を早くなくしたくて、何度も確かめに行っていたと思います」


 ユウは道の先を眺めながら、しばらく黙っていた。


「俺も似たようなことしてたな」


「お仕事のときですか?」


「仕事でも、それ以外でも。確認できることは全部確認した方がいいって思ってた。確認しないで何か起きたら、自分が悪い気がしてたから」


 その言葉には、かつての生活の重さがわずかに混じっていた。


 ユウは今では以前より穏やかに話せるようになっているが、それでも完全に遠い過去になったわけではないのだろう。


「今は違いますか?」


「全部は無理だって分かってきた。自分が確認した方がいいこともあるし、誰かに任せた方がいいこともあるし、確認しても結果が変わらないこともある」


「今朝の私は、最後のものだったのでしょうか」


「たぶんね。レグルさんが出たかどうかを朝一番で聞いても、エレナさんがラウゼンまで走って追いかけるわけじゃないし」


 想像してしまい、エレナは笑った。


「走りません」


「俺も止めると思う」


「それは、危ないからですか?」


「危ないのもあるけど……」


 ユウは少し考えたあと、困ったように笑った。


「何日も会えなくなるの、嫌だからかな」


 エレナの足がわずかに遅くなった。


 ユウも一歩先へ出てからそれに気づき、足を緩める。


「……すみません」


「なんで謝るの?」


「少し、嬉しくなってしまって」


 エレナは自分でも分かるほど頬が熱くなるのを感じていた。


「私も、ユウさんが何日もいなくなると、寂しいと思います」


 ユウはすぐには返事をしなかった。


 けれど、その沈黙は嫌なものではなかった。


 やがて彼は前を向き直り、エレナと歩幅を合わせた。


「じゃあ、今のところはどっちも村にいるから、それでいいか」


「はい。今は、それでよいと思います」


 西へ続く道は、二人の前から遠くへ伸びている。


 その先で何が起きているのか、エレナには分からない。


 レグルがもう荷車を進めているのか、それともまだ別の場所にいるのか。北梟工房が残っているのか、エルドへつながるものがあるのか、三軒目の家に住める日が来るのか。


 知らないことは、まだたくさんある。


 けれど、知らないものすべてを今日のうちに知る必要はなかった。


「三軒目の家に住めたら、ユウさんに最初に見せたいものがあります」


 エレナが言うと、ユウがこちらを見た。


「何?」


「まだ決めていません」


「決めてないの?」


「はい。住めると決まってから考えます」


 ユウは一瞬きょとんとしたあと、声を立てて笑った。


「それ、最初に見せたいものがあるって言わないんじゃない?」


「では、住めたら、最初に何かを見せたいです」


「ずいぶん曖昧になったな」


「今、決めなくてもよいのでしょう?」


「……そうだね」


 ユウはまだ笑っていた。


 エレナもつられて笑いながら、西の道から村の方へ視線を戻した。


 答えが届く前にも、豆は育つ。


 石鹸は少しずつ試され、ユウの木片は完全ではないまま少しだけ削られ、会いたい人とはときどきすれ違い、それでもあとから会うことができる。


 遠くへ向かったかもしれない誰かの仕事を待ちながら、自分たちはここで昼を食べ、話し、歩いている。


(待っている時間は、空白ではないのですね)


 それは以前にも気づいたことだった。


 けれど同じことを、今日の暮らしの中でもう一度確かめることには意味があるように思えた。


 分かったことを毎日証明し続ける必要はない。それでも、実際に暮らしているうちに、その考えが少しずつ自分のものになっていく。


「そろそろ戻りますか?」


 エレナが尋ねると、ユウは空を見上げた。


「俺はもう少し歩いてもいいけど、エレナさんは?」


 答えを合わせるためではなく、自分がどうしたいかを尋ねられている。


 エレナは村の道とマーサの家の方角を見比べてから、少しだけ考えた。


「今日は、もう少し歩きたいです」


「じゃあ、そうしようか」


「はい」


 二人は西の道へ出ることなく、村の中を回る小さな道へ曲がった。


 遠くの答えを追いかけるためではなく、今ここにいる自分たちが、もう少し一緒に歩きたいと思ったからだった。

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