第80話 出発する朝
レグルが西へ向かう予定の日の朝、エレナはいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外はまだ完全には明るくなっておらず、薄い灰色の空の下で村の家々が静かに並んでいる。夜露を含んだ草は淡く光り、遠くから聞こえてくる鶏の声に混じって、誰かが井戸へ向かう足音が一度だけ聞こえた。
東の警戒線から、新しい音は聞こえない。
エレナは寝台の上で身体を起こし、しばらく窓を眺めた。
(今日でしたね)
レグルが西へ出発する予定だと聞いてから、二日が経った。
昨日はローデンから予定変更の知らせはなく、エレナ自身も確認へは行かなかった。本を読み、マーサと野菜を選り分け、午後には少しだけ村を歩いたものの、ユウとは会っていない。
会いたいと思わなかったわけではなかった。
けれど昨日は、その気持ちだけで家を出るほどではなく、ユウもマーサの家へは来なかった。
それでよかった。
一日会わなかったからといって、二人の間に何かが失われたようには感じなかった。
むしろ今朝になってみると、今日は顔を見たいという気持ちが昨日より少し強くなっている。
エレナは寝台から降りた。
◇
「早いね」
台所へ入ると、すでに起きていたマーサが鍋へ水を入れていた。
「目が覚めました」
「眠れなかったわけじゃない?」
「はい。よく眠れました」
エレナは棚から二人分の器を取り出す。
「今日だからかい?」
何の日なのかを言われなくても分かった。
「たぶん、少しは」
「出る予定なんだろ?」
「はい。ただ、予定が変わっていなければ、ですが」
「そこまで言えるなら大丈夫そうだね」
マーサが笑う。
エレナも小さく笑い返した。
今日レグルが出発する。
そう考えると胸が落ち着かない。
けれど、実際にはまだ確認していない。
昨夜の時点で変更の知らせがなかったというだけで、今朝予定どおり出たとは限らなかった。
「ローデンさんへ聞きに行こうと思います」
「朝飯のあと?」
「はい」
「なら食べな」
「もちろんです」
以前なら、答えを知りたいと思った瞬間に他のことが手につかなくなっていたかもしれない。
けれど、空腹のまま急いで聞きに行っても、レグルの馬車が速く進むわけではない。
エレナはマーサと一緒に朝食の支度をした。
今日の朝食は固めのパンと、昨日の残りの野菜を使った薄いスープだった。エレナはパンを少しだけスープへ浸して食べながら、窓の外が徐々に明るくなっていくのを眺める。
「石鹸は?」
食事を終えたあと、マーサが尋ねた。
水場には、サナから預かっている試用中の石鹸が置かれている。
昨日は使わなかった。
今朝の手にも、赤みや痒み、痛みはない。
「今日は使います」
「使いたい?」
「はい。外へ出る前に手を洗いたいので」
「じゃあ使いな」
エレナは水を使い、石鹸を手の中で軽く泡立てた。
泡立ちは強くない。
それも以前から変わらなかった。
手のひらと指の間を洗い、水で十分に流す。洗い終えてから手を見ても、すぐに分かる赤みはなかった。
「痛くないかい?」
「はい。痒みもありません」
「なら、またあとで見ときな」
「そうします」
使わなかった昨日と、使った今日。
どちらも自分で選んだ。
エレナは布で手を拭きながら、その違いを心地よく感じていた。
◇
朝食から少し時間を置いて、エレナはローデンの家へ向かった。
空はすでに明るくなっていたが、雲が多いため日差しは柔らかい。道には昨日までの雨の名残がわずかに残っているものの、荷車が通れないほどぬかるんではいなかった。
途中でガルドの畑の近くを通る。
以前、支柱を立てた豆が目に入った。
茎はさらに伸びている。
結び目の位置も、前に見た時とは少し違っていた。
「おう、エレナ!」
畑の奥からガルドが声をかけてきた。
「おはようございます」
「見てけ!」
何を、と聞かなくても、ガルドが豆を指していることは分かった。
エレナは畑の端まで近づいた。
「ベルさんに聞いたのですか?」
「聞いたぞ。ちっと緩めた!」
近くで見ると、以前より紐と茎の間に余裕がある。
「茎が太くなってきたから、このままじゃきつくなるかもしれんってな。まだ食い込んじゃいなかったが、今のうちに少しずらして緩めた」
「そうだったのですね」
「お前が分からんって言ったからベルに聞いた!」
「はい」
「正解だった!」
ガルドは豪快に笑った。
エレナも豆を眺める。
自分には判断できなかった。
だから、分からないと言った。
そのあとガルドがベルへ尋ね、必要な調整がされた。
自分が答えられなかったことは、何も困った結果を生んでいない。
「元気そうですね」
「おう! ただ、まだ伸びるからな。また見とく!」
「次も分からなければ、ベルさんへ聞くのですか?」
「そりゃ聞く! 分かるやつに聞いた方が早え!」
あまりにも当然のように言うので、エレナは笑ってしまった。
「何だ?」
「いえ。そうですね」
「そうだぞ?」
ガルドにとっては、それだけの話らしい。
エレナは挨拶をして畑を離れた。
◇
ローデンの家へ着くと、本人は外にいた。
木箱を一つ動かそうとしていたところらしく、エレナを見ると手を止める。
「おはようございます」
「おはよう。来ると思ってた」
「今日だからですか?」
「ああ」
ローデンは木箱を壁際へ置いた。
「先に言っとく。今朝の予定変更は聞いてない」
「では?」
「予定どおりなら、もう出てる頃だ」
エレナの胸が少し高鳴る。
「予定どおりなら、なのですね」
「そうだ」
ローデンは頷いた。
「ゼムから昨日の夕方に言伝が来てる。レグルは今朝、西へ出るつもりだと。そのあと変更があったって話は来てない」
「出発したことを見た人からの連絡は?」
「まだない」
「分かりました」
エレナは息を整えた。
出た、と断定することはできない。
けれど、少なくとも昨日夕方の時点では予定どおりだった。
「次に分かるのは、いつ頃でしょう?」
「分からん」
「ですよね」
「西の荷場で誰かが会って、こっちに戻る人間へ話を預けるかもしれんし、何も寄越さないままレグル本人が帰ってくるかもしれん。ラウゼンに寄れなきゃ、それを知らせるだけになるかもしれない」
「はい」
「今日の夕方に何か分かると思わない方がいいぞ」
「そこまでは思っていません」
「明日は?」
少しだけ答えに詰まる。
「……少し、思っていました」
「正直だな」
「でも、分からないのですよね」
「ああ」
ローデンは笑った。
「待つしかない」
「はい」
エレナも笑う。
「待ちます」
「また聞きたくなったら聞きに来い。ただ、俺も知らん時は知らんって言うからな」
「その時は、それを聞いて帰ります」
「それでいい」
エレナは礼を言い、ローデンの家を離れた。
◇
帰り道。
エレナは少しだけ足を止めた。
マーサの家へ戻る道と、ユウの家へ向かう道が分かれる場所だった。
今日は会いたい。
朝、目覚めた時からそう思っていた。
レグルのことも話したい。
ただし、新しい確定情報はそれほど多くない。
昨日夕方まで予定変更なし。
今朝出る予定だった。
現在、本当に出たかは未確認。
それだけだ。
(それでも、会いに行きたいです)
話す内容の量は、理由にならなかった。
エレナはユウの家へ続く道を選んだ。
◇
戸を叩く。
今日はすぐに返事があった。
「はい」
ユウの声がする。
少しして戸が開いた。
「エレナさん」
「おはようございます」
「おはよう。今日は会えたね」
昨日ではなく、その前に入れ違ったことを思い出し、エレナは笑った。
「はい。今日は会えました」
「どうぞ」
「今、一人でいたい時間ではありませんか?」
「大丈夫。入って」
エレナは家の中へ入る。
机の上には昨日ベルへ見せたという練習用の木片が置かれていた。
その隣には本が一冊ある。
「何をしていたのですか?」
「本読んでた」
「邪魔ではありませんか?」
「区切りのいいところまで読んだから平気」
「本当ですか?」
「本当」
ユウが笑う。
「会いたくない時は言うって約束したでしょ」
「はい」
それなら、何度も確認する必要はない。
エレナは椅子へ座った。
「ローデンさんのところへ行ってきました」
「レグルさん?」
「はい」
ユウも向かい側へ座る。
「どうだった?」
「昨日の夕方までは、今日の朝に出る予定のままだったそうです。そのあと予定変更の知らせはないそうですが、実際に出発したことを確認した連絡はまだありません」
「じゃあ、たぶん出てるかもしれないけど、確定ではない?」
「はい」
「ラウゼンに寄れるかも、まだ分からない」
「そのままです」
エレナは少し笑った。
「ほとんど何も変わっていないのですが、話したくて来ました」
「うん」
「迷惑ではありませんか?」
「全然」
ユウは少し考えたあと、机に肘をつかないよう腕を組んだ。
「むしろ、そのくらいの話でも来てくれる方が嬉しいかな」
「大きな知らせでなくても?」
「前にも言ったけど、俺もそういうの話したいし」
「普通のことを?」
「うん。ベルさんに木を見せたとか、オルドさんの鶏が普通に歩いてたとか」
「今日は何かありますか?」
「あるよ」
ユウは木片を指す。
「これ、もうしばらく削らないことにした」
「昨日は『今日は削らない』だったのでは?」
「そう。昨日の夜にもう一回見て、今朝も見たけど、今はこれでいいかなって」
「完成ですか?」
「完成っていうより、いったん終わり」
「違うのですか?」
「また削りたくなるかもしれないから」
エレナは少し考え、頷いた。
「終わりにしたあと、もう一度始めてもよいのですね」
「いいんじゃない?」
「それは便利です」
「便利?」
「終わったら二度と触ってはいけないと思わなくて済みます」
ユウが笑った。
「そういう意味なら便利かも」
◇
「椅子は、まだ作らないのですか?」
エレナが尋ねる。
「昼寝用の?」
「はい」
「まだかな」
「作りたくなくなりましたか?」
「いや、作りたいとは思ってる」
「でも、今ではない?」
「そんな感じ」
ユウは机の上の木片へ視線を落とした。
「前だったら、作りたいって言ったら早く始めなきゃって思ってたかもしれない」
「誰かに頼まれていなくても?」
「たぶん。言ったのにやってないって、自分で勝手に気にしてたと思う」
「私も似ています」
エレナは膝の上で指を組む。
「やりたいと言ったことを後からやらなくなると、嘘をついたような気持ちになることがあります」
「今も?」
「少しは。でも、以前より減りました」
「何か変わった?」
「昨日は石鹸を使わず、今日は使いました」
「それ?」
「はい」
ユウが少し意外そうな顔をしたので、エレナは続ける。
「一日に一度まで使ってよいと言われています。でも、昨日は使いたくなかったので使いませんでした。今日は外へ出る前に手を洗いたかったので使いました」
「何か出た?」
「今のところ、赤みも痒みも痛みもありません」
「そっか」
「昨日使わなかったからといって、試すのをやめたわけではありませんでした」
「うん」
「だから、椅子も今作らなくても、作りたいと思ったことまでなくならないのかなと」
ユウは少し黙った。
やがて、穏やかに笑う。
「そうかもね」
◇
しばらく話したあと、エレナは窓の外へ目を向けた。
雲の切れ間から日が差し始めている。
「今日は、どこかへ行く予定がありますか?」
「今のところないよ」
「では、このあと何を?」
「決めてない」
「私もです」
ユウはエレナを見る。
「散歩する?」
エレナはすぐには答えなかった。
誘われたから行くのではなく、自分が今どうしたいのかを確かめる。
家の中で話し続けたい気持ちもある。
外へ出たい気持ちもある。
「歩きたいです」
「じゃあ行こうか」
「でも、行き先は決めたくありません」
「俺も別に決めなくていいよ」
二人は家を出た。
◇
村の中央を抜け、畑の間を歩く。
日差しは出てきたものの暑くはなく、雨を吸った土から湿った匂いが上がっていた。遠くではガルドが誰かと大きな声で話し、別の畑では年配の女性が籠へ葉物を入れている。
「今朝、ガルドさんの豆を見ました」
「紐?」
「ベルさんへ聞いて、少し緩めたそうです」
「ああ。昨日ベルさんが言ってた」
「ご存じだったのですか?」
「うん。俺が木を持っていった時に、ガルドさんが先に来てたから」
「そうだったのですね」
「茎が太くなってたから、少し位置も変えたって」
「ガルドさんは、私が分からないと言ったからベルさんへ聞いたと話していました」
「うん」
「それで正解だった、と」
「正解だったんじゃない?」
「はい」
エレナは道の先を見ながら笑った。
「分からないと答えたことで、こんなに安心するとは思いませんでした」
「前は違った?」
「質問されたら、何か答えなければならないと思っていました」
「知らなくても?」
「知らないと認める方が怖かったのです」
王都にいた頃、知らないと言えば教養不足だと思われる。
判断できないと言えば、公爵令嬢として頼りないと評価される。
妹なら知っているのに、と比べられる。
その記憶はまだ残っている。
「でも、ガルドさんは私が分からなくても、何も困っていませんでした」
「ベルさんに聞けばいいからね」
「はい」
「俺も豆の紐は分からないよ」
「ユウさんも?」
「ちゃんと見て判断しろって言われたらベルさんかガルドさんに聞く」
「では、私と同じですね」
「そのことについてはね」
エレナは少し嬉しくなった。
知らないことがある。
それだけで、誰かより劣っている証明にはならない。
◇
二人はそのまま歩き、気づけば三軒目の家が少し離れた場所に見える道へ出ていた。
エレナが先に気づく。
「あ」
「三軒目?」
「はい」
遠くから見るだけなら、以前と何も変わっていない。
古い屋根。
閉じた窓。
誰も暮らしていない庭。
まだエレナの家ではない。
「近くまで行く?」
ユウが尋ねた。
エレナは考えた。
見たい気持ちはある。
けれど、今日は中を確認する目的もなければ、窓を開ける許可もない。
「ここからでいいです」
「うん」
二人は道端で立ち止まった。
「レグルさんは、今頃どこでしょう」
「分からないなあ」
「まだ出ていないかもしれません」
「出てたら、村じゃないどこかを走ってるかも」
「西へ向かって?」
「予定どおりなら」
「荷を積んでいる途中かもしれません」
「休憩してるかもしれない」
「道が悪くて、予定より進んでいないかもしれません」
「逆に思ったより進んでるかも」
エレナは笑った。
「何も分かりませんね」
「分からないね」
「でも、以前よりは少し分かっています」
「うん」
「ラウゼンという町があります。北梟工房という名前があります。そこへ行く可能性のあるレグルさんがいます」
「それで、エルドさんがそこに繋がってるかもしれない」
「はい」
遠くの家を見つめる。
まだ何も確定していない。
それでも、エレナは以前よりあの家を近く感じていた。
◇
「ユウさん」
「うん?」
「もし、住めなかったら」
言葉にすると胸が少し痛んだ。
それでも、エレナは続ける。
「私は、きっとかなり残念だと思います」
「うん」
「泣くかもしれません」
「泣いていいんじゃない?」
「そうですね」
エレナは家から目を離さない。
「以前は、残念になるのが怖いから、期待しない方がよいと思っていました」
「今は?」
「期待しています」
「そっか」
「住みたいです」
「うん」
「ユウさんと最初に入りたいです」
ユウは隣で少し黙った。
「俺も、一緒に入りたい」
エレナは彼を見る。
ユウも三軒目の家を見ていた。
「だから、住めなかったら俺も残念だと思う」
「ユウさんも?」
「うん。エレナさんの家のことだけど、俺も楽しみにしてるから」
胸の奥に、温かさと怖さが同時に広がる。
自分だけの期待ではなくなった。
けれど、それは重荷には感じなかった。
「では、駄目だったら一緒に残念がってくださいますか?」
「いいよ」
「それから?」
「それから?」
「そのあと、どうしましょう」
ユウは少し考えた。
「その時考えればいいんじゃない?」
エレナは思わず笑った。
「やはり、それなのですね」
「だって今考えても、何が駄目になるか分からないし」
「別の家を探すかもしれません」
「そうかも」
「マーサさんの家にもう少しいるかもしれません」
「うん」
「村を出たくなる可能性も、絶対にないとは言えません」
ユウの表情がわずかに変わった。
けれど、彼はすぐに否定しなかった。
「そうだね」
「寂しいですか?」
「今それを想像すると、寂しい」
エレナは胸の前で指を重ねた。
「私も、ユウさんが村を出ることを想像すると寂しいです」
「うん」
「でも、だから出てはいけないとは言いません」
「俺も」
ユウがエレナを見る。
「エレナさんがここにいてくれたら嬉しい。でも、いなきゃ駄目ってことにはしたくない」
「はい」
「今は?」
「今は、ここにいたいです」
エレナは迷わず答えた。
「三軒目の家に住みたいです。マーサさんとも一緒に食事をしたいです。サナさんの石鹸も気になりますし、ニコさんの虫もまだ何なのか分かりません」
「ガルドさんの豆も」
「はい。ベルさんの道具のお話も聞きたいです」
少し間を置く。
「それから、ユウさんにも会いたいです」
ユウの目がわずかに細くなった。
「俺も、エレナさんに会いたい」
その言葉だけで、今日ここへ来てよかったと思えた。
◇
二人は三軒目の家へ近づかず、別の道へ進んだ。
しばらくすると、前方からニコが歩いてくる。
今日は走っていなかった。
「エレナ! ユウ!」
「こんにちは」
「こんにちは」
ニコは二人の前で止まり、何かを言いたそうにする。
「虫ですか?」
エレナが尋ねると、ニコは首を横へ振った。
「今日はまだ見てない!」
「そうなのですね」
「でも板動かしたい!」
「昨日は動かしていませんでしたね」
「うん!」
「ベルさんに聞きましたか?」
「まだ!」
ニコは少し考える。
「じいちゃん今いるかな?」
「さっき家にいたよ」
ユウが答える。
「じゃあ聞く!」
ニコは走り出しかけたが、途中で足元を見て速度を落とした。
昨日の雨で滑ると言われたことを覚えていたらしい。
その姿を見て、ユウが小さく笑う。
「覚えてた」
「昨日、ユウさんが言ったのですか?」
「うん」
「ニコさんも、言われたことを全部そのまま守るのではなく、必要なところを覚えているのですね」
「走るなって言ったわけじゃないからね」
「滑りやすいと伝えただけ?」
「そう」
エレナはニコの背中を見る。
少し先で道が乾いてくると、ニコはまた速度を上げた。
「走っています」
「乾いてるからいいんじゃない?」
「はい」
◇
昼が近づき、二人は村の中央へ戻った。
「エレナさん、昼どうする?」
ユウが尋ねる。
昨日ではなく、その前に一緒に食べた昼食を思い出す。
今日はどうしたいか。
「マーサさんと食べたいです」
「そっか」
「ユウさんは?」
「家で食べるかな」
「一緒に食べたくないわけではありません」
「分かってるよ」
「今日はマーサさんと食べたいだけです」
「うん」
ユウの返事は変わらない。
そのことに、エレナは安心する。
「では、ここで」
「うん。またね」
「また」
数歩進んでから、エレナは振り返った。
「ユウさん」
「何?」
「今日は会いに行ってよかったです」
ユウは少し笑った。
「俺も、いてよかった」
エレナも笑い返し、今度こそマーサの家へ向かった。
◇
「ただいま戻りました」
「おかえり」
マーサは昼食の準備をしていた。
「ユウと会ったかい?」
「はい」
「昼も食べてくるかと思ったよ」
「今日はマーサさんと食べたかったので帰ってきました」
「そりゃどうも」
「嬉しくありませんか?」
「嬉しいよ」
マーサは鍋をかき混ぜながら笑った。
「ユウと食べる日もあって、あたしと食べる日もある。それでいいだろ」
「はい」
エレナは手を洗う。
朝に石鹸を使ってから数時間が経っているが、赤みも痒みも痛みも出ていない。
「手、どうだい?」
「今も何もありません」
「じゃあサナに会ったら言っときな」
「はい」
「今から行く?」
エレナは首を横へ振る。
「今日は、あとで会ったら伝えます。わざわざ今すぐ行くほどではないと思います」
「分かった」
エレナは昼食の皿を運んだ。
◇
午後、ニコが再びやってきた。
今度はベルも一緒だった。
「板、動かすぞ!」
ニコが嬉しそうに言う。
「今からですか?」
「じいちゃんに聞いた!」
ベルは少し後ろから歩いてくる。
「板の下に虫がいるかもしれんからな。手を突っ込まず、端から棒で少し上げる」
「見るだけ?」
エレナが尋ねる。
「見るだけだ。何かいたら無理に捕まえん」
エレナは少し迷った。
見たい。
「私も行ってよいですか?」
「来たいなら来りゃいい」
ベルが答える。
「マーサさん」
「行っといで」
エレナは二人と一緒に虫道へ向かった。
◇
板は、これまでと同じ場所にあった。
近くには、以前から残っている普通の枝もある。
昨日ニコが黒い虫を見たという側を確認しても、今は何も見えない。
「触らないでくださいね」
「分かってる!」
ニコは少し離れた位置にしゃがむ。
ベルは細い棒を板の端へ差し込み、ゆっくり持ち上げた。
板の下には湿った土がある。
小さな草の根。
細かな石。
そして、ごく小さな虫が二匹ほど動いた。
「あ!」
ニコが声を上げる。
「黒いやつ?」
ベルが尋ねる。
ニコは身を乗り出しかけたが、板へ近づきすぎない位置で止まった。
「違う!」
「何が違う?」
「ちっちゃい!」
エレナも見る。
確かに小さい。
これまでニコが見たと話していた黒い虫がどの程度の大きさだったのか、エレナ自身は毎回確認しているわけではないため、同じものかどうかは判断できない。
「今日、板の下にいたのは小さい虫ですね」
「うん!」
「以前の黒い虫と同じかは?」
「違うと思う!」
「なぜですか?」
「もっと大きかった!」
「ニコさんが見た時には、ですね」
「うん!」
ベルは板を元の位置へ戻した。
「今日はこれで終わりだ」
「もっと見ないの?」
「何を見る」
「下!」
「もう見ただろ」
「横とか!」
「板を全部どかしたら、ここにいた虫の場所を変えるだろうが」
ニコは板を見る。
「じゃあ、戻す?」
「戻した」
「また来るかな?」
「知らん」
「明日見る!」
「見たきゃ見ろ。ただし板は毎日動かすな」
「なんで?」
「お前が虫を見たいのか、虫の家を毎日壊したいのか分からなくなる」
ニコは真剣に考え始めた。
エレナはその横顔を見て、少しだけ笑った。
◇
帰り道、エレナはベルへ尋ねた。
「豆の紐を緩めたそうですね」
「ああ」
「以前はちょうどよかったのに、今は変える必要があったのですか?」
「豆が育ったからな」
「支え方も変わる?」
「そりゃ変わる。細い時にちょうどいい紐が、太くなっても同じとは限らん」
ベルは歩きながら答える。
「支えは、立たせるためのもんだ。縛るためのもんじゃない。育ったなら、育った分だけ見直す」
「一度決めた方法でも?」
「豆は一度決めた形のまま育たんだろ」
エレナは足元の道を見る。
その言葉は、豆だけの話だった。
ベルもそれ以上の意味を込めてはいないだろう。
けれど、エレナには少しだけ別のことにも聞こえた。
(私も、変わってよいのですね)
一度決めたから。
一度望んだから。
一度断ったから。
それだけで、ずっと同じでいる必要はない。
変わった自分に合わせて、選び直してよい。
◇
夕方になっても、ローデンから新しい知らせはなかった。
レグルが実際に出発したという確認も、まだ届いていない。
エレナは一度だけ、ローデンの家へ行こうかと考えた。
けれど、朝に聞いたばかりだ。
夕方に新しい連絡が来れば、必要ならローデンが知らせてくれるだろう。
聞きたい。
しかし、今すぐ聞かなければ落ち着かないほどではない。
エレナはマーサの家に残った。
サナとは夕方、道で偶然会った。
「手、どう?」
「今朝使いました。今のところ赤み、痒み、痛みはありません」
「昨日は?」
「使いませんでした」
「何か出たから?」
「いいえ。使いたくなかったからです」
サナはすぐに頷いた。
「それでいいよ」
「今日は使いました」
「それもいい」
「使った日と使わなかった日があっても、試用として問題ありませんか?」
「毎日絶対使ってくれって頼んでないからね。何回か使って何も出ないのは参考になるけど、無理して回数増やしたら意味が違うし」
「分かりました」
「あと、姉さんも今のところ何も出てない」
「では、もう安全ですか?」
「そこまでは言わない」
サナは即座に否定した。
「人数少ないし、同じ作り方でも固さにばらつきあるから。次の分を作るなら、そこをもう少し揃えたい」
「次を作る予定なのですか?」
「作りたいとは思ってる。でも、まだ決めてない」
エレナは笑った。
「それでよいと思います」
「何、その言い方」
「ユウさんがよく言うのです」
「へえ」
サナは少しだけ面白そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
◇
夜。
エレナは記録帳を開いた。
最初に石鹸について書く。
『朝、一度使用。数時間後、夕方まで赤み、痒み、痛み、刺激なし。昨日は使用なし。サナさんの姉も現在まで異常なしとのこと。安全確定ではない。サナさんは次に作る場合、固さのばらつきを減らしたいと考えているが、次回製作は未決定。』
続いて、ガルドの豆。
『茎が太くなったため、ベルさんの助言で紐を少し緩め、位置を調整した。以前の状態で食い込みは確認されていなかった。今後も成長に合わせて確認する。』
ニコの虫道についても書く。
『ベルさん立ち会いで板の端を棒で持ち上げて確認。板の下に小さな虫二匹ほど。ニコさんが以前見た黒い虫より小さいとの認識。同一か不明。板は元の位置へ戻した。毎日動かさない。以前からの枝はそのまま。』
警戒線については、新しい反応がないため、見張り帳へ書く内容はなかった。
そして、レグルについて。
『昨日夕方の時点で、今朝西へ出る予定に変更なし。その後の予定変更連絡なし。ただし、実際の出発を確認した情報はまだ届いていない。ラウゼンへ寄れるかも未確定。』
エレナは筆を止める。
今日一日、何度かレグルのことを考えた。
今どこにいるのだろう。
本当に出たのだろうか。
荷は予定どおりなのだろうか。
道は通れるのだろうか。
ラウゼンへ寄れるのだろうか。
北梟工房はあるのだろうか。
考えれば、いくらでも疑問は増える。
けれど、その間に朝食を食べた。
石鹸を使った。
ガルドの豆を見た。
ユウへ会いに行った。
一緒に歩いた。
マーサと昼食を食べた。
ニコとベルと板の下を見た。
サナとも話した。
待っているだけの日ではなかった。
エレナは新しい行へ筆を移す。
『今日はユウさんに会いたくて、私から会いに行った。昨日は会わなかった。会わない日があっても、次に会いたい気持ちはなくならなかった。』
さらに続ける。
『三軒目の家に住めなかったら、私はきっと残念だと思う。ユウさんも残念だと言ってくれた。駄目だった時は、その時に一緒に残念がって、そのあとを考えればよい。』
書いているうちに、少し笑ってしまう。
失敗した未来まで一緒に想像して、それでも以前より不安が小さい。
成功する保証をもらったからではない。
失敗したら人生が終わるわけではないと、少しずつ分かってきたからだった。
『今はルーデにいたい。三軒目の家に住みたい。マーサさんと食事をしたい。村の人たちと話したい。ユウさんにも会いたい。』
最後の一文を書いたあと、エレナは少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
消さない。
それも今の自分の気持ちだからだ。
◇
同じ頃。
ユウは自宅の机に置いた練習用の木片を見ていた。
ベルから返されたそれには、削りすぎたへこみが残っている。
今日も直したいとは思わなかった。
だから、道具には手を伸ばさない。
代わりに椅子へ座り、背を預ける。
昼寝用の椅子をいつか作りたい。
その気持ちは残っている。
ただ、まだ作らない。
それでいい。
今日エレナから聞いた言葉を思い出す。
『昨日使わなかったからといって、試すのをやめたわけではありませんでした』
ユウは少し笑った。
(俺も同じか)
やらない日があっても、やめたとは限らない。
会わない日があっても、会いたくなくなったとは限らない。
途中で止めても、必要ならまた始められる。
仕事をしていた頃の自分は、止まることを随分怖がっていた。
一度止まれば、そのまま全部駄目になるような気がしていた。
だから疲れても続けた。
終わらなくても続けた。
誰かが代われることまで抱えた。
今は、木片一つを机に置いたままにできる。
明日削るかもしれない。
一か月触らないかもしれない。
もう削らないかもしれない。
どれでもよかった。
そして、三軒目の家についても同じだった。
エレナが住めることになれば嬉しい。
一緒に最初の扉を開けたい。
住めなければ残念だ。
それでも、そこで全部が終わるわけではない。
(その時も、たぶん会いたいんだろうな)
そんな考えが浮かび、ユウは少しだけ目を細めた。
それ以上、名前をつけようとはしなかった。
◇
さらに西。
ルーデからは見えない街道を、一台の荷車が進んでいた。
御者台には男が一人座り、その後ろには布を掛けた木箱と袋が積まれている。前夜の雨で柔らかくなった道を避けるように、馬は乾いた轍を選びながらゆっくり歩いていた。
男は一度だけ空を見上げた。
「こりゃ、今日はあんまり進まんな」
誰に聞かせるでもなく呟き、手綱を軽く持ち直す。
荷台の端には、いつもの荷札とは別に、小さな紙片が挟まれていた。
そこに書かれているのは、一つの名前だけだった。
北梟工房。
男――レグルは、その紙を確認すると再び前を向いた。
まだラウゼンへ向かう道には入っていない。
まずは西の荷場へ行き、予定されている荷を渡さなければならない。その受け渡しが遅れれば、北へ折れる時間がなくなる可能性もある。
頼まれたからといって、自分の仕事を放り出すつもりはなかった。
ゼムも、それを求めてはいなかった。
「寄れりゃ聞く。それでいいんだろ」
馬の耳がわずかに動く。
レグルは笑い、急かすことなく荷車を進ませた。
ルーデでは、まだ誰も知らない。
少なくともその朝、レグルが予定どおり西へ向けて出発したことを。
そして彼自身も、まだ知らなかった。
北梟工房という古い名前が、ラウゼンで何へ繋がるのかを。




