第79話 届く前の約束
朝の空には、昨日の雨を残したような薄い雲が広がっていた。
夜のうちにもう一度だけ降ったらしく、マーサの家の前にある道には小さな水溜まりが残り、軒下の土もまだ濃い色をしている。それでも雨音はなく、開けた窓から入ってくる空気には、湿った土と草の匂いが混じっていた。
エレナは着替えを済ませると、窓辺から外を眺めた。
東から警戒線の音は聞こえない。
昨日も新しい反応はなかった。
雨のあとだから何か痕跡が残っているかもしれないと想像することはできるが、それは確認された事実ではない。自分で見に行く役目でもないため、エレナは東へ向かう理由を作らず、窓を閉めて食卓へ向かった。
「おはようございます」
「おはよう。よく寝られたかい?」
「はい」
マーサは朝食の準備をしていた。
エレナが手伝おうかと口にするより先に、マーサが棚を指す。
「そこの皿、二枚出してくれるかい?」
「はい」
頼まれた分だけを取り出し、食卓へ並べる。
鍋の中では野菜の入ったスープが湯気を立てていた。昨日ユウがガルドのところへ野菜を受け取りに行ったことを思い出し、エレナの口元がわずかに緩む。
「何だい?」
「何がですか?」
「皿見ながら笑ってたよ」
「皿を見ていたわけではありません」
「じゃあ何を考えてた」
隠すほどのことでもなかった。
「昨日、ユウさんがガルドさんのところへ野菜を受け取りに行っていたことを思い出しました」
「ああ、なるほどね」
マーサはそれ以上からかわず、スープをよそった。
エレナも席へ着く。
昨日、自分からユウの家へ行った。
そして、三軒目の家へ住めることになったら、最初に入る時には一緒に来てほしいと頼んだ。
思い出せば、今でも少し恥ずかしい。
けれど、言わなければよかったとは思わなかった。
(まだ何も決まっていないのに、あんな先のことをお願いしました)
以前なら、それだけで自分をたしなめていたかもしれない。
期待してはいけない。
叶うか分からないことを話してはいけない。
先のことを想像すれば、駄目だった時に傷つく。
そうやって、失望しないために期待そのものを小さくしようとしていただろう。
今は違う。
住めなかったら、その時に残念だと思えばよい。
住めるなら、ユウと一緒に最初の扉を開けたい。
どちらも、今の自分の気持ちだった。
◇
朝食を終えたあと、エレナは水場に置いてある石鹸へ目を向けた。
昨日まで、使ったあとに赤みや痒み、痛みは出ていない。
サナからは一日に一度まで、自分が使いたい日に使えばよいと言われている。
エレナは少し考えたあと、今日は手を伸ばさなかった。
「今日は使わないのかい?」
マーサが尋ねる。
「はい。今は使いたいと思わないので」
「何か変だった?」
「いいえ。何もありません」
「じゃあ、それでいい」
それだけで話は終わった。
昨日まで続けて使っていたからといって、今日も使わなければならないわけではない。サナから試用を頼まれていることも、毎日欠かさず使う義務には変わっていなかった。
エレナは石鹸へもう一度目を向けたが、罪悪感はなかった。
◇
午前中、エレナは『暮らしの小さな工夫』を読んで過ごした。
新しく開いた章には、木の道具を長く使うための手入れについて書かれている。濡れたまま放置しないこと、欠けや割れを見つけた時には用途によって使い続けるか修理するかを判断すること、表面を整える場合でも削りすぎればかえって形を崩すことがあることなど、ベルやユウとの会話を思い出す内容もあった。
知っている話と似ているからといって、すべて同じとは限らない。
エレナは途中で一度本を閉じ、食卓の端へ置いた。
「終わったのかい?」
「いいえ。今日はここまでです」
「まだ午前中だよ」
「午後に読みたくなれば、また読みます」
「そうかい」
マーサは縫い物を続ける。
エレナは窓の外を見た。
雲は朝より薄くなり、ところどころ青空が見えている。
外へ出たいような気もする。
けれど、どこへ行きたいのかはまだ分からない。
昨日のようにユウへ会いたいかと自分へ問いかけてみると、会えたら嬉しいと思う。しかし、今すぐ家へ向かいたいほどではなかった。
(会いたいと思うことと、今から会いに行きたいことも、少し違うのですね)
昨日、自分で確かめたことに似ている。
その違いをわざわざ難しく考えず、エレナは椅子へ深く座り直した。
その時だった。
外から、やや急いだ足音が近づいてきた。
警戒線の音はしていない。
それでもエレナの身体はわずかに強張った。
戸を叩く音がする。
「マーサ、いるか?」
ローデンの声だった。
エレナは思わずマーサを見る。
マーサも針を止めたが、慌てる様子はない。
「いるよ。入んな」
戸が開き、ローデンが姿を見せた。
その手には、小さく折られた紙があった。
◇
「ラウゼンのことですか?」
エレナは、ローデンが椅子へ座るのを待ってから尋ねた。
「ああ」
ローデンは紙を食卓へ置いた。
「ただし、エルドからの返事じゃない」
「はい」
「北梟工房が見つかったという話でもない」
「分かりました」
先に分かっていないことを伝えてくれたのだと気づき、エレナは少しだけ肩の力を抜いた。
期待は消さない。
けれど、届いていない答えまで先に作らない。
「レグルさんですか?」
「そうだ」
ローデンは紙を開いた。
「本人が引き受けた」
エレナは息を止めかけた。
「では、ラウゼンへ?」
「そこはまだ少し違う」
ローデンがすぐに補う。
「レグルは明後日の朝、西へ出る予定だ。荷の受け渡しが予定どおり進めば、そのあと北へ折れてラウゼンへ寄れるらしい。ただ、途中で荷の予定が変わったり、道が悪かったりすれば寄らずに戻る可能性もある」
「では、ラウゼンへ行くこと自体はまだ確定ではない?」
「そうだ。ただ、本人は寄れたら北梟工房のことを聞いてくれると言ってる」
「工房が今もあるかどうかを?」
「まずはな。名前を知ってる者がいるかも含めてだ」
エレナは膝の上で重ねていた手へ、少しだけ力を込めた。
レグルという名前だけだった昨日より、一つ進んだ。
本人が依頼を引き受けた。
明後日の朝、西へ向かう予定もある。
しかし、まだラウゼンへ着くとは決まっていない。
北梟工房が見つかったわけでもない。
エルドへ繋がったわけでもない。
「手紙は、どうするのですか?」
「まだ持たせない」
「はい」
「ゼムとも話を合わせたらしいが、まず工房の確認だけでいいだろうってことになった。もし工房が残ってて、そこでエルドのことを知ってる者がいるなら、その次に何を頼むか考える」
「私も、その方がよいと思います」
エレナは頷いた。
「レグルさんは、私の名前をご存じですか?」
「知らない。三軒目の家の件も詳しくは話してない」
「では、北梟工房という古い名前を確認するだけ?」
「今のところはな」
それを聞いて安心した。
自分の身分や過去を、必要のない相手へ広げる理由はない。
まして、まだ北梟工房が存在するかすら分からない段階だ。
「戻ってくるのは、いつ頃でしょう?」
「分からん」
ローデンは即答した。
「ラウゼンへ寄れなきゃ早いかもしれんし、寄って別の荷まで受けりゃ遅くなる。天気でも変わる。だから何日って決めて待つのはやめとけ」
「はい」
「途中から別の人に言伝だけ戻す可能性もあるらしい」
「では、レグルさん本人が戻る前に何か分かることも?」
「あるかもしれん。ないかもしれん」
ローデンが肩をすくめる。
「そこまで含めて未定だ」
エレナは小さく笑った。
「分からないことが多いですね」
「人づてに遠くへ聞くってのは、だいたいそんなもんだ」
「でも、明後日に出る予定だということは分かりました」
「ああ。それと、頼みを引き受けたこともな」
「それで十分です」
十分という言葉が、自分でも自然に出た。
答えではない。
けれど、進んでいないわけでもない。
◇
「それで」
ローデンが少し声を変えた。
「一応、エレナに聞いときたいことがある」
「何でしょう?」
「もし北梟工房が見つかって、そこでエルドの居場所を知ってる者がいた場合だ」
エレナは姿勢を正す。
「次にどこまで聞いてほしい?」
「どこまで……」
「今すぐ決めなくてもいい」
ローデンは先にそう付け加えた。
「ただ、工房が見つかってからまたこっちへ聞き直すと、それだけ往復が増える。だから、次に頼めそうなことを考えとくのは悪くない」
エレナは黙って考えた。
エルドの居場所が分かったら。
最初に浮かぶのは、三軒目の家を使ってよいか聞きたいという願いだった。
しかし、それを尋ねる前に確認しなければならないことがある。
「エルドさんご本人が、今も三軒目の家について決められる立場なのかを知りたいです」
ローデンが頷く。
「そうだな」
「ハルトさんがエルドさんへ家を残すつもりだったというお話は、まだ伝聞だけなのですよね?」
「ああ。正式な証文は見つかってない」
「でしたら、エルドさんの居場所だけ分かっても、すぐに『住んでよいですか』とは聞けないかもしれません」
「そうなる」
「もしエルドさんと連絡できるなら、まず家について現在どなたが判断できるのかを尋ねたいです」
「それを聞いた上で?」
「エルドさんご本人が判断できるのであれば、私はあの家に住みたいことを伝えたいです」
口にすると、胸が少し高鳴った。
もう何度も自分の中で確かめてきた願いだった。
「ただ、修理や掃除を勝手に始めたくはありません。住んでよいと分かってから、必要なことを確認したいです」
「分かった」
ローデンは紙の余白へ簡単に書き留める。
「今のところは、工房が見つかった場合の次の段階として、エルド本人への連絡方法と、家について誰が判断できるかを確認する。そこまでだな」
「はい」
「住みたいって話を伝えるのは、そのあと」
「お願いします」
エレナは一度頷いたあと、少し迷ってから続けた。
「それから、もう一つよいでしょうか」
「何だ?」
「もしエルドさんが見つかっても、急いで返事を求めないでください」
ローデンが顔を上げる。
「向こうにも事情があるかもしれないから?」
「はい。突然、何年も離れていた家について尋ねられることになるかもしれません。考える時間が必要なら、待ちたいです」
「分かった」
「私が早く住みたいと思っていることと、相手に早く決めてもらうことは、同じではありませんから」
その言葉を聞いたマーサが、食卓の向こうで小さく笑った。
「何ですか?」
「いや。ずいぶん待つのが上手くなったと思ってね」
「まだ、待っている間に何度も聞きたくなることはあります」
「聞いちゃいけないとは言ってないだろ」
「はい」
エレナも笑った。
◇
ローデンが帰ったあと、エレナは食卓に残っていた本へ手を置いた。
読みたい気持ちは消えていない。
けれど、その前に少し考えたい。
レグルが明後日に出発する。
予定どおりなら、西へ向かったあとラウゼンへ寄る可能性がある。
そこで北梟工房を尋ねる。
工房が見つからなければ、それで終わるわけではないかもしれない。名前を知る者がいれば、別の手がかりへ繋がる可能性もある。
けれど、それもまだ未来の話だ。
「ユウに話しに行くのかい?」
マーサが尋ねる。
エレナはすぐには答えなかった。
昨日、自分からユウへ頼んだことを思い出す。
新しい知らせが来ても、自分がすぐに会いに来なかったからといって、話したくないのだとは考えないでほしい。
ユウは了承してくれた。
だから、すぐに行く必要はない。
では、今の自分はどうしたいのか。
「話したいです」
「うん」
「それに、今日は会いに行きたいです」
「なら行けばいい」
「でも、その前に昼食を食べたいです」
マーサが吹き出した。
「そりゃ食べな」
「笑うところですか?」
「いや、あんたがちゃんと腹の減り具合まで予定に入れるようになったのが面白くてね」
「お腹が空いていますから」
「それは大事だ」
エレナも笑った。
知らせが届いた。
ユウへ話したい。
会いたい。
けれど、だからといって食事を後回しにして走っていく必要はない。
昼食を食べてからでも、話は消えなかった。
◇
食後、エレナはすぐには家を出なかった。
食器を片づけ、少し休み、窓から空を確認する。
雨の気配はなく、道も朝より乾いている。
「行ってきます」
「はいよ」
「夕方までには戻ると思います」
「思う、かい」
「ユウさんと話していて、もう少しいたくなるかもしれません」
「暗くなる前には帰りな」
「それは守ります」
外へ出たエレナは、ゆっくりとユウの家へ向かった。
途中、ニコの虫道へ続く道が見えた。
少し気にはなる。
昨日はニコが来なかったため、雨上がりに虫を見つけたかどうかも知らない。
けれど、今日はそちらへ行きたいとは思わなかった。
エレナは道を曲がらず、そのまま進んだ。
◇
ユウの家の前まで来ると、戸は閉まっていた。
エレナは一度叩く。
返事がない。
もう一度、少しだけ強く叩いた。
それでも中から声は聞こえなかった。
「お留守でしょうか」
昨日なら、ユウは家にいた。
だからといって今日もいるとは限らない。
ベルのところへ行っているかもしれない。
オルドやガルドに呼ばれている可能性もある。
単に散歩していることだってある。
エレナは戸の前で少しだけ待った。
(会いたかったです)
残念だった。
その感情ははっきりしている。
けれど、だからといって探し回りたいかと考えると、そこまでは思わなかった。
急ぐ知らせではない。
ユウ自身に危険があるわけでもない。
「また来ればよいですね」
小さく呟き、エレナは戸から離れた。
帰るか。
別の場所へ行くか。
少し考えた末、今はマーサの家へ戻ろうと思った。
◇
その頃、ユウはベルの家の裏手にいた。
昨日まで手元に置いていた練習用の木片を持ち、ベルと二人で表面を見ている。
「ここ、前より引っかからなくなった」
ベルが指先で削った部分の近くをなぞる。
「でも、へこみは残ってる」
「残した」
「ならいい」
「直さなくていい?」
「何をもって直ったって言うんだ」
ベルは木片をユウへ返した。
「最初の形に戻したいなら無理だ。もう削った木は戻らん。使うものなら、使える形にする。練習なら、どこで削りすぎたか分かる方が次に役立つこともある」
「じゃあ、このままでもいいか」
「お前がもう削りたくないならな」
ユウは木片を見る。
へこみは残っている。
少し不格好だ。
けれど、以前のように見るたび「ここを消さなければ」とは思わなくなっていた。
「今日は、これ以上削らなくていいかな」
「なら持って帰れ」
「うん」
「次は?」
「まだ決めてない」
「椅子は?」
ユウは苦笑した。
「まだ」
「そうか」
ベルはそれ以上言わなかった。
昼寝用の椅子を作りたいと考えたことはある。
エレナにも話している。
けれど、思いついたことと、今すぐ始めることは同じではない。
ユウは木片を持ち直した。
「じゃあ帰るよ」
「おう」
ベルの家を出たところで、道の向こうからニコが走ってくるのが見えた。
「ユウ!」
「走ると滑るよ。昨日雨だったから」
言われたニコは少し速度を落とした。
「虫いた!」
「どこに?」
「板の近く!」
「また?」
「でも今日は石の反対!」
「同じ虫?」
「分かんない!」
「なら、黒い虫がいたってことだけか」
「うん!」
ニコは元気よく頷いた。
「じいちゃんにも言った!」
「じゃあ俺にも報告しに来た?」
「うん!」
「ありがとう」
ニコは満足したらしく、今度は家の方へ戻っていった。
ユウはその背中を見送りながら歩き始める。
途中でエレナの姿を探したわけではない。
ただ、マーサの家へ続く道が見えた時、ふと昨日の会話を思い出した。
三軒目の家に住めることになったら、最初に一緒に来てほしい。
あの言葉は、今日になっても嬉しかった。
(会いたいな)
そう思った。
家へ戻ってからにする理由も特にない。
ユウはそのままマーサの家へ向かった。
◇
エレナがマーサの家へ戻ってから、それほど時間は経っていなかった。
「おかえり。早かったね」
「ユウさんがお留守でした」
「あら」
「残念でした。でも、急ぐ話ではありませんから」
「探しに行かなかったのかい?」
「はい。どこにいらっしゃるか分かりませんし、探し回るほど急いで話したいわけでもありません」
エレナは外套を脱いだ。
「また会った時に話します」
「そうかい」
マーサが何か言いかけた時、戸が叩かれた。
二人で顔を見合わせる。
「はい」
エレナが返事をすると、外から聞き慣れた声がした。
「ユウです」
エレナは思わず立ち上がった。
その動きが少し速かったことに自分で気づいたが、座り直そうとは思わなかった。
戸を開ける。
「ユウさん」
「こんにちは」
「今、ユウさんの家へ行ってきたところです」
「え?」
ユウが目を瞬かせる。
「いなかった?」
「はい」
「ベルさんのところにいた」
「そうだったのですね」
「何かあった?」
「ラウゼンのことで新しい知らせがありました」
「じゃあ、俺に話しに来てくれた?」
「はい」
エレナは笑った。
「でも、お留守だったので帰ってきました」
「ごめん」
「どうして謝るのですか?」
「いや、せっかく来てくれたのに」
「ユウさんは、私が来ると約束したわけではありません」
エレナは戸を大きく開ける。
「それに、今来てくださいました」
「うん。俺も会いたくなったから」
胸の奥が、柔らかく熱くなる。
「入りますか?」
「いい?」
「はい。入ってほしいです」
◇
ユウが食卓へ座ると、マーサは二人分の水を置いた。
「入れ違ったんだってね」
「みたいです」
「エレナ、ちょっと残念そうに帰ってきたよ」
「マーサさん」
「本当だろ?」
「本当ですが」
ユウがエレナを見る。
「残念だった?」
「はい。会いたかったので」
隠す理由はなかった。
「でも、また会えばよいと思いました」
「そっか」
「ユウさんは?」
「俺も、帰る途中で会いたくなった」
「私が家へ来たことは知らなかったのに?」
「知らなかったよ」
ユウは少し笑う。
「だから、ちょうどよかったね」
「はい」
マーサは二人を見ていたが、何も言わず、自分の椅子へ戻った。
エレナは水を一口飲んでから、ローデンに聞いた内容を話し始めた。
◇
「レグルさんが、引き受けてくださったそうです」
「本当に?」
「はい。明後日の朝に西へ出る予定だそうです」
エレナは嬉しさに任せて先を急がず、分かっていることを順に説明した。
西へ向かう予定はある。
荷の受け渡しが順調なら、そのあと北へ折れてラウゼンへ寄れる可能性がある。
ただし、道や荷の都合で寄れないこともある。
ラウゼンへ着いた場合は、北梟工房が今も存在するか、名前を知る人がいるかを確認してもらう。
まだエルド本人を探すよう頼んではいない。
手紙も渡していない。
「じゃあ、本当に一段ずつだね」
ユウが言う。
「はい」
「明後日出る予定。でもラウゼンに行けるかはまだ分からない」
「そうです」
「行けたら工房を聞く。見つかったら、その次」
「はい」
エレナは頷いた。
「ローデンさんから、もし工房が見つかったら次に何を聞きたいかも尋ねられました」
「何て答えたの?」
「まず、エルドさんへ連絡できるかどうか。それから、三軒目の家について、現在誰が判断できるのかを確認してほしいとお願いしました」
「いきなり住んでいいか聞くんじゃなく?」
「はい。エルドさんご本人に決める権利があるのかも、まだ分かりませんから」
「そうだね」
「もしエルドさんが決められるのであれば、そのあとで住みたいことを伝えます」
ユウは静かに頷いた。
「それがよさそう」
「それと、返事を急がせないでほしいともお願いしました」
「エレナさんは早く住みたいのに?」
「早く住みたいです」
そこは否定しなかった。
「でも、私が早く知りたいからといって、エルドさんがすぐ決めなければならないわけではありません」
「うん」
「待つのは、たぶん落ち着かないと思います」
「そりゃそうだと思う」
「何度もローデンさんへ聞きたくなるかもしれません」
「聞けばいいんじゃない?」
「毎日ではなく?」
「毎日聞きたいなら、ローデンさんに毎日聞かれて嫌か聞いてみれば?」
エレナは思わず笑った。
「それでは、ローデンさんが困ると思います」
「じゃあ、会った時に聞くくらい?」
「そのくらいにします」
「それはエレナさんが決めればいいよ」
ユウも笑った。
◇
「そういえば」
ユウが持ってきた木片を食卓へ置いた。
「これ、ベルさんのところに持っていってた」
「今日は、見てもらったのですね」
「うん。削りすぎたところを無理に消さなくてもいいって」
エレナは木片を見る。
以前より表面は整っているが、へこみは残っている。
「もう削らないのですか?」
「今日はね」
「明日は?」
「分からない」
「では、まだ完成ではない?」
ユウは少し考えた。
「完成って決めてもいい気もする」
「決めても?」
「これ、何かに使うものじゃなくて練習だから。失敗したところが残ってても、それで練習したことは分かるし」
「では、失敗を消すことが完成ではないのですね」
「たぶん」
エレナは木片を眺めた。
深く削られた跡は、確かに残っている。
けれど、それ以外の部分まで削り落として形を変えなければならないほど、その跡は悪いものなのだろうか。
「私も、これはこのままでよいと思います」
「エレナさんが?」
「はい。ただし、ユウさんが削りたいなら削ってよいとも思います」
「どっちでもいい?」
「ユウさんの木ですから」
「それはそうだ」
二人で笑った。
◇
少しして、マーサが立ち上がった。
「サナんとこ行ってくる」
「今からですか?」
「ああ。昨日もらった香草のことで聞きたいことがある」
「私も行きましょうか?」
「来たいのかい?」
エレナは考えた。
サナへ石鹸を今日は使っていないと話すことはできる。
けれど、今はユウともう少し話したかった。
「今日は、ここにいたいです」
「ならいな」
マーサはユウへ目を向ける。
「あたしがいなくても平気だね?」
「俺は大丈夫ですけど」
ユウがエレナを見る。
「エレナさんは?」
「私も大丈夫です」
「じゃあ行ってくる。そんなにかからないよ」
マーサは外套を羽織って出ていった。
戸が閉じる。
家の中が少し静かになった。
以前にも二人だけで過ごしたことはある。
ユウの家では、エレナが本を読み、ユウが眠ったことさえあった。
それでも、マーサの家で二人きりになると、少しだけ空気が違って感じられた。
エレナはその理由をうまく説明できなかった。
◇
「何かしますか?」
エレナが尋ねる。
「何かしたい?」
「今は、特に」
「俺も」
「では、話しますか?」
「話したいことある?」
「今は、ラウゼンのことを話したので満足しました」
「じゃあ話さなくてもいいか」
「はい」
二人は食卓を挟んだまま座っていた。
窓の外では、雨上がりの道を一人の村人が通っていく。
少し遠くから鶏の鳴き声が聞こえた。
ユウは木片を手に取ったものの、削る道具を持ってきてはいないため、表面を眺めるだけだった。
エレナは『暮らしの小さな工夫』を開く。
けれど、すぐには読み始めなかった。
「ユウさん」
「うん?」
「昨日、私がお願いしたことを覚えていますか?」
「三軒目の家?」
「はい」
「覚えてるよ」
「今日、少しだけ本当に近づいた気がしました」
「レグルさんが引き受けてくれたから?」
「はい。でも、まだとても遠いです」
「うん」
「それでも、昨日お願いしておいてよかったと思いました」
ユウは木片を食卓へ戻した。
「俺も」
「なぜですか?」
「俺も楽しみにできるから」
エレナは言葉を失った。
ユウは少し気恥ずかしそうに視線を窓へ向ける。
「住めるって決まったわけじゃないけど。もし決まったら、一緒に最初に行くんだなって思えるから」
「楽しみですか?」
「うん」
「私の家なのに?」
「エレナさんの家だからじゃない?」
その答えに、胸の奥が大きく動いた。
けれど、エレナはまだそれを恋という言葉へ結びつけなかった。
ただ、嬉しい。
自分が住みたいと思っている家を、ユウも楽しみにしてくれている。
自分の未来の中に、誰かが自分から入りたいと思ってくれている。
「私も、ユウさんと入るのが楽しみです」
「うん」
「まだ入れませんけれど」
「それは何回確認しても変わらないね」
「大事ですから」
「分かってる」
二人の間に笑いが生まれた。
◇
しばらくして、エレナは本を読み始めた。
ユウは木片を眺めたあと、それを食卓の端へ置く。
同じ場所にいる。
けれど、同じことをしてはいない。
時折エレナがページをめくる音と、外から聞こえる生活の音だけが部屋に入ってくる。
ユウは椅子へ背を預けた。
眠いわけではない。
何かをしなければならないとも思わない。
エレナがすぐ近くで本を読んでいることを、ただ心地よいと感じていた。
(こういう時間、増えたな)
会えば必ず何かを話すわけではない。
どこかへ行く必要もない。
手伝うことも、守ることも、教えることもなくてよい。
以前の自分なら、誰かと一緒にいる時ほど何かをしようとしていたかもしれない。
相手が困っていないか。
何か必要ではないか。
自分が動いた方がよいのではないか。
仕事では、それが必要な時も多かった。
けれど、今ここにいるエレナは困っていない。
本を読んでいる。
自分も困っていない。
なら、それでよかった。
◇
マーサが戻ってきたのは、それからしばらくしてからだった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「おかえりなさい」
二人の声がほとんど重なった。
マーサは戸口で一瞬だけ目を細める。
「ずいぶん静かだったね」
「私は本を読んでいました」
「俺は何もしてませんでした」
「そうかい」
マーサは外套を脱いだ。
以前なら、エレナが客と二人きりになっていることを少し気にしたかもしれない。
今は違う。
二人が無理に距離を縮めている様子もなければ、どちらかが相手を引き止めているわけでもない。
ユウはユウのまま座り、エレナは本を読んでいる。
それなのに、二人の間には他人同士だった頃にはなかった穏やかさがある。
(本人たちが名前をつけるまでは、あたしがつけることじゃないね)
マーサはそう思いながら、何も言わず水を飲んだ。
◇
やがてユウが立ち上がった。
「そろそろ帰るよ」
エレナは本から顔を上げる。
「はい」
少し寂しい。
けれど、今日は引き止めたいほどではない。
「来てくださってありがとうございました」
「俺が来たかったから」
「それでも、会えて嬉しかったです」
「俺も。エレナさんが来てたって聞いた時、入れ違ったのちょっと残念だったし」
「ユウさんも?」
「うん」
エレナは笑った。
「では、同じでしたね」
「そうだね」
戸口まで見送る。
「明後日、レグルさんが出発する予定です」
「うん」
「その日に何か分かるわけではありません」
「分かってる」
「でも、たぶん私は気にします」
「気にしていいんじゃない?」
「はい」
エレナは頷いた。
「気にしながら、別のこともします」
「それがいいと思う」
「ユウさん」
「何?」
「もし明日会いたくなったら、会いに行ってもよいですか?」
ユウは少し笑う。
「昨日も今日も、来ていいって言ってるよ」
「でも、毎日だと困る日もあるのでしょう?」
「あるかもしれない」
「明日がそうかもしれません」
「その時は言うよ」
「では、私も明日になってから決めます」
「うん。俺も会いたくなったら来る」
約束は、それだけだった。
明日必ず会う約束ではない。
会いたくなった時に、会いに行ってよい。
そして、相手が一人でいたければ断ってよい。
その余白があるからこそ、エレナは安心してユウを見送ることができた。
◇
夕方になっても、東の警戒線に新しい反応はなかった。
ローデンから追加の知らせもない。
レグルの出発予定は明後日の朝のまま。
予定が変わったという連絡もなかった。
ニコが夕方になって顔を出し、黒い虫を見たと話した。
「今日は板の近くにいたけど、昨日と反対!」
「同じ虫ですか?」
「分かんない!」
「板の下には?」
「入ってない!」
「そのあと、どちらへ?」
「草!」
「では、今日分かったのも、黒い虫が板の近くにいて、草へ入ったことですね」
「うん!」
「雨のあとだから来たと思いますか?」
「分かんない!」
ニコは少し考えたあと、付け足す。
「でも、雨だったから出たかもしれない!」
「それは、考えたことですね」
「うん!」
「見たことと分けておけば大丈夫です」
「じいちゃんにも言う!」
ニコは元気に帰っていった。
エレナはその背中を見送りながら、虫道についてもまだ答えを急ぐ必要はないのだと思った。
◇
夜。
エレナはいつものように記録帳を開いた。
石鹸については短く書く。
『今日は使用しなかった。昨日までの使用による赤み、痒み、痛み、刺激はなし。異常があったため休んだのではなく、今日は使いたいと思わなかったため使用しなかった。』
ニコの虫についても、聞いた範囲だけを記す。
『ニコが黒い虫を確認。板の近く、昨日とは反対側とのこと。その後は草へ入った。同一個体か不明。雨との関係不明。私は現場を確認していない。』
そして、今日一番大きかった知らせを書く。
『レグルさんが北梟工房について尋ねる依頼を引き受けた。明後日の朝、西へ出発予定。荷の受け渡しが予定どおり進んだ場合、その後ラウゼンへ寄れる可能性がある。道、荷の都合によってはラウゼンへ寄らない可能性もある。ラウゼンへ行けた場合、まず北梟工房が現在も存在するか、名称を知る人がいるかを尋ねる。エルドさん本人の捜索はまだ依頼していない。手紙もまだ渡していない。』
続けて、ローデンへ伝えた希望を書く。
『北梟工房からエルドさんへ繋がった場合、まず連絡方法と、三軒目の家について現在誰が判断できるのかを確認してほしいとお願いした。エルドさん本人が判断できる場合、その後に私が住みたいことを伝える。返事を急がせないでほしいともお願いした。』
そこまで書いてから、エレナは筆を止めた。
レグルが引き受けた。
それだけでも嬉しい。
けれど、まだ出発していない。
ラウゼンへ着いていない。
工房を見つけていない。
エルドにも会っていない。
家の許可もない。
書き並べれば、先は長かった。
それでも、もう「何も分からない」状態ではない。
分かっていることと、分からないことが少しずつ増えている。
(分からないことまで増えるのは、不思議ですね)
以前なら、分からないことが増えるほど不安になっていた。
今は、それが調べるべき場所を知ることでもあると分かる。
エレナは次の行へ筆を移した。
『ユウさんへ知らせを話したくて家へ行ったが留守だった。少し残念だったので帰った。そのあと、ユウさんが私に会いたくなったと言ってマーサさんの家へ来た。お互い、相手が来ることを知らなかった。』
思い返すだけで、口元が緩む。
会いたくて行ったのに、会えなかった。
それは残念だった。
けれど、その一度で何かが失敗したわけではない。
探し回らなくても、あとで会えた。
『会いたいと思っても、いつも会えるとは限らない。会えなかったことは、拒まれたことと同じではない。予定が合わなければ、また会えばよい。』
そして、ユウとの会話を思い出す。
三軒目の家へ最初に一緒に入りたい。
昨日は自分からそう頼んだ。
今日はユウが、その未来を楽しみにできると言ってくれた。
エレナは少し迷ったあと、そのまま書いた。
『ユウさんも、私が三軒目の家に住めることになったら、一緒に最初に入ることを楽しみにしてくれている。私は、それがとても嬉しかった。』
恋だとは書かない。
まだ、自分の中でそこまで言葉にできていない。
けれど、特別ではないとも言えなくなっていた。
ユウと会えば嬉しい。
会えなければ残念だと思う。
自分の家へ最初に一緒に来てほしい。
ユウが自分の未来を楽しみにしてくれることが嬉しい。
その一つ一つを、今はそのまま持っていればよかった。
エレナは最後に、もう一行だけ書き加えた。
『まだ届いていない返事を待ちながら、届いた時にどうしたいかを考えてもよい。』
明後日、レグルが予定どおり出発するかもしれない。
その先でラウゼンへ行けるかもしれない。
北梟工房が見つかるかもしれない。
見つからないかもしれない。
どちらであっても、今夜の自分にできることはもうなかった。
記録帳を閉じると、エレナは灯りを少し落とした。
明日はまだ出発の日ではない。
だから、明日一日を「出発前の日」として待ち続ける必要もない。
本を読みたくなるかもしれない。
マーサを手伝いたくなるかもしれない。
ユウに会いたくなるかもしれない。
一人でいたくなるかもしれない。
そのどれになってもよかった。
(明日のことは、明日の私が決めます)
そして明後日、本当にレグルが旅立つなら、その時にまた少し期待すればよい。
エレナは寝台へ入り、静かに目を閉じた。
遠い町へ向かう予定が一つ決まった夜も、ルーデの時間はいつもと同じようにゆっくりと流れていた。




